新説西遊記
- 右手が掠めたその先を
長すぎる時を生きた所為で、もう心が求める物が分からなくなっている。
釈迦如来と共に、静かに世界の在り方を眺め、万物の流転をその目に収め、そして、何にも心を砕かず、宇宙の真理を追い求める事が出来たなら。
釈迦の弟子として、それが正しいのだと思うのだけれど。
(いつからでしょうね・・・・・)
出来る事があるのに、しないのが苦しくなったのは。
それも修行が足りないからだと言われそうだが、目の前に有る哀しみを、金蝉子はどうしても放ってなどおけないのだ。
師匠である釈迦如来の元に居る時は、師匠が望む様にありたいと願う気持ちが作用して、哀しみは僅かばかり遠のくのに、何故か金蝉子は地上に出掛ける事を選ぶのだった。
地上におりれば、嫌でも「仙」としての自分を自覚しなくてはならなくなる。
そこに生きる人と、自分は全く違うのだと知るからだ。
そして、違うからこそ、しなくてはならない事が有るのではないかと、ざわりと胸に焦りが生じる。
その焦りを、金蝉子は忘れたいのか、覚えていたいのか。その二つの感情の間で揺れるのが、最近の日課になってきていた。
「・・・・・・・・・・風が出てきたな」
「え?」
ぼうっと膝を抱えるようにして木の根元に座りこみ、葉ずれの音を聞いていた金蝉子は、隣で本を読んでいた男の発した言葉に意識を呼び戻した。
ふわり、と彼女の栗色の髪が風になびく。隣を見れば、書物に目を落としたままの男が目に飛び込んできた。
心地よい時間。
己の身を包み込む様なその空気と、彼の持つ気配が好きで、金蝉子はたびたびこうしてここに降りてくる。
隣に居る存在が、どういう存在なのか、知っていての行動だ。
恐らく向こうも知っている。でも、何も言わないのは、彼もまたやっぱり、この時間を気に入っているからなのだと、金蝉子は勝手に思っていた。
「そうですね」
はたはたと、彼女の羽織っている薄紅の領巾が風に煽られる。髪に差した金の簪がしゃらしゃらと音をたて、靡く毛先を、金蝉子は手で押さえた。
ぱらぱらと、彼の持つ書物が音を立ててまくれ上がる。
ぱたん、とそれを閉じて、男が自分たちの上に、庇の様に張り出している木の枝を見上げた。
木漏れ日が二人の上にちらちらと細かな光を落としていた。
「お前の暮らす場所には雨が降らないと言うが」
「はい」
「風は?」
真紅の瞳を細めて、風に揺れる木の葉を見詰める男の台詞に、金蝉子は一寸目を瞬くと「凪いではいますが、心地よいものが吹きます」と答えた。
「貴方の暮らす場所は?」
雨の問答と同じように問いかければ、男は「全く無いな」と低い声で答えた。
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「風、か」
ぽつりと零し、男はゆっくりと目を閉じ、体重を木の幹に掛けた。本の上に置かれていた手から、微かに力が抜ける。
隣に座る金蝉子も、同じように幹に背を預け、身体から力を抜く。
目を閉じると、風が巻き起こす音が、辺り一杯に満ちていた。
「時は巡り、季節は移ろう。だからこそ、愛しくて儚い」
「そうですね」
「変わらないものに縋りつくのは、愚かだと・・・・・」
言葉が途切れ、金蝉子は目を開けた。隣を見れば、珍しく苦い物をにじませた表情の男が居た。
「・・・・・・・・・・・・・・・」
変わらないものに縋りつく。
変化を恐れる。
そうかもしれないと、金蝉子は長く生きた時間を振り返った。
天界も冥界も、持てる力の資質は違えども、認識に差はない。
己が生きて得た物を、壊されたくない。
自分達からすれば、ほんの瞬きの間しか生きない人間と違い、仙も妖仙も恐ろしく長い時を生きる。
何かにこだわり、変化を嫌うのは、安寧に長い時を生きる上で、持ちうる願いだと金蝉子は風に揺れる草花を見詰めながら思った。
全てを捨てて、得たいと思う物が、長い長い時の果てに風化して行く。
欲求が薄れ、今を漫然と生きることしか出来なくなる。
持てる時間が短いなら、そんな悠長な事をしては居られないだろう。
「移ろう季節と言うのは、美しいですね」
そっと目を伏せて告げれば、脱力した彼の手が目に付いた。長く、綺麗な指先。ほんの少し動かせば、触れる事の出来る距離。
でも、触ればきっと、二律背反する力に負けて、火傷の様な傷を負う。
「変わらない事を、真の意味で喜べるのは、絶えず変化する地上に生きる者でしょうね」
「・・・・・・・・・・そうかもしれぬな」
深い響きの声に、金蝉子は胸が熱くなるのを感じる。じわりじわりと、身体を満たしていくのは、幸福。
こんな風な会話など、天上の世界ではまず出来ない。
そんな変化の無い楽園に生きる我らこそが至上、と謳うのが彼らだからだ。
変わらない事に、安寧を求めるなど下らないと、そんな危険思想を受け入れてくれるものなど、いやしない。
彼、以外に。
「私も変われるのでしょうか」
だから、かもしれない。
そんな台詞が、零れるように金蝉子の口から落ちた。隣の存在が、ふわりとこちらを見遣るのを感じる。
「変わりたいのか?」
何故、と訊かれるかと思ったのに、響いてきたのは、そんな質問で、金蝉子は少し驚きながら、彼の指先をじっと見つめた。
「はい」
素直に、彼女は頷いた。幼子がするように、こっくりと。
「・・・・・・・・・・・・・・・」
どうしてそう思う様になったのか。
(欲しいものが出来たから・・・・・でしょうか)
仙として長い長い時を生きてきて、金蝉子は特に望む物など無かった。子供のころから釈迦如来の元で修業をし、欲求などという感情とはどこか遠い所で生活をしてきた。
例え何が起ころうと。何をしようと。世界は巡り、宇宙は静かに有り続ける。
万物流転。
それは永劫変わらない事で、それに関わりを持った所で、なんにもなりはしない。
その中に有りながら、金蝉子は見つけてしまったのだ。
変わりたいと、願う原因を。
「世界は変化に富んでいる」
「え?」
彼の指先が、ふと動き、金蝉子の目の前に差し出される。見せられた掌。視線を上げれば、その紅の瞳と目が有った。
金色の焔が揺れている。
「どんなものも、変化し、変わっていく。生きるモノ全て、だ」
だから、お前も変わりたいと願うほどに、変わったのだろう。
「・・・・・・・・・・・・・・・」
すとん、と心に落ちてくる言葉に、金蝉子はその、透明な瞳を大きく見開いた。桜色の唇が、驚いたように息を飲む。
「変わらぬものなどない」
静かに告げられ、その掌がゆっくりと握られる。大切なものを握りこむ様なその拳。それに、金蝉子がゆっくりと右手を持ち上げた。
ふと、男の気配が動く。構わず、彼女はそっとその握りしめられた拳に触れた。
ぱしり、と指先を掠めるように、弾けるような痛みが走る。だが、それは一瞬で、痛みは呆気なく散っていった。
「貴方も、ですか?」
顔を上げ、まっすぐに男を見詰める。
金蝉子のその表情に、男はふっと目許を和らげた。
「何も変わりはしないのだと・・・・・そう思っていたのに、お前にこんな事を言うくらいには、私も変わったのかもしれないな」
(あ・・・・・)
ふわっと微笑まれ、金蝉子の胸が強く脈打つ。とくん、と心地よい音を立てて弾む。
今初めて、金蝉子ははっきりと、どうしたらいいのかと、途方にくれそうな感情を覚えた。
どうしたらいいのか。
どうしたら、この気持ちが昇華されるのか。
哀しくて、痛い。幸せで、辛い。
「・・・・・風が、吹けばいいですね」
「・・・・・そうだな」
一陣の風が、吹けば。
何かを変える事が出来るだろうか。変われるだろうか。
彼に触れて、彼に感じる愛しいという気持ちを、堂々と告げられるように。
ゆるやかに、その手を離し、金蝉子はほんの少しだけ、座る位置を変え、彼に寄りそう。
決して混じり合えない、ほんの少しの距離を開けて。
吹く風に、目を閉じる。
変化に富んだ地上の世界は、変化を嫌う世界に長く身を置く二人にとって、許されがたく、なのに生きとし生けるものが持つ事を許される感情をもたらした。
(2011/02/18)
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