新説西遊記

 強請った物は甘い甘い口付け






「玄奘じゃない!」
「はい?」
 村にある、小さな青果店で林檎を吟味していた玄奘は、唐突に背後から掛けられた声に振り返る。
 そこには、村から出て都で働いている友達が、眩しいくらいに着飾って立っていた。



「三蔵法師の活躍で、ようやく治安も安定してきたし、旦那さまの商売も軌道に乗ってきて、ようやく余裕が出てきたからこうして里帰りしてるのよ」
 にこにこ笑う少女は、とある商家の侍女として働いている。右も左も判らない、絢爛豪華なお屋敷での生活は目の覚める様な事ばかりだったと、飯屋の縁台に腰を下ろした彼女はうっとりと呟く。
 大変な事ばかりだったのではないだろうか、と心配げに彼女を見詰めていた玄奘は、それが杞憂だと知る。
「良い所、みたいですね」
 ふふっと小さく笑う玄奘に、少女は「まーね」と肩をすくめる。
「奥様も旦那さまもとっても良い人だし、若様も利発でお元気で」
 にっこり笑って遠い空を見上げる彼女の横顔は、しかし、今ある幸せに喜んでいる以上に何か含みが有るようだった。
「?」
 薄らと目許が赤い。見詰めていると、彼女はきゅっと目を瞑り、それからゆっくりと玄奘を見遣った。
「私ね、そこで出会った人と、今度祝言を上げるんだ」
「え!?」
 びっくりして目を見開くと、「今回の里帰りはね、家への報告も兼ねてるの」と彼女ははにかむ様に笑った。

 その笑顔が酷く眩しく見えて、玄奘の胸がどきりと鳴る。

 幸せです、と一杯に描かれている様なその表情に、玄奘はよく判らない、寂しさの様な哀しさのような、羨ましさの様な、そんな感情を抱いて、持っていた湯呑をぎゅっと握りしめた。

「良かったですね」
 心からの台詞なのに、何故か変な感じがして、玄奘は言葉に詰まる。
「ありがとう」
 ふわりと笑う彼女は、ついで響いた名を呼ぶ声に振り返る。一人の青年が彼女を呼んでいた。
「祝言は彼の実家がある都でやるんだけどよかったら・・・・・」
 ちらとこちらを見遣る彼女の気遣いに、玄奘はふるふると首を振った。
「私はここから祝福するわ」
 子供達を置いて行けないもの。
 ちょっと眉を下げて笑う玄奘に、彼女はふと真顔になった。
「もしかしてまだ、寺院で働いてるの?」
「ええ」
「そう・・・・・」
 ちょっと頬に手を当てて、彼女は瞳を曇らせた。
「言いたくないけど玄奘・・・・・」
「うん?」
「・・・・・・・・・・そのまま寺院で働いてても、素敵な恋も結婚も出来ないと思うわよ?」
「・・・・・・・・・・・・・・・」

 手にしていた湯呑の中身をごっくんと飲み干す玄奘に、彼女はちらと青年を見た後、詰め寄る。

「確かにここは私の故郷だし、良い村だと思うケド・・・・・圧倒的に若い人、少ないじゃない」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
 全くいないわけでは、と濁すように告げる玄奘に、彼女は更に詰め寄る。
「それにしても、都とは違うのよ?」
 私をみてよ、と彼女は己の着ている衣を良く見せるようにふわりと一回転する。
「これ、今年の流行なの」
「へー」
 目を見開き、まじまじと彼女を見つめる玄奘に、女は頭を抱えた。
「へー、じゃないわよ!・・・・・・・・・・玄奘、貴女、こんな場所に一生いたら折角の花も枯れてしまうわよ?」
「・・・・・・・・・・・・・・・」

 そんなことありません、と再び困った様な蚊の鳴く様な声で告げる。
「ここにはここの・・・・・その良さが有りますし、幸せだってありますから」
「でも、お洒落したり、男の人と沢山付き合ったり、人生色々経験しとかないと損よ?」
「・・・・・・・・・・・・・・・」

 うろ〜っと視線を泳がせる玄奘に、更に女が何か言おうとする。それよりも先に、青年がもう一度彼女の名を呼ぶから、諦めたように彼女は肩をすくめた。

「概ね良い人なんだけど、独占欲が強すぎるのがうっとおしいのよね」
 好きにさせてくれれば良いのに、と溜息交じりに告げる彼女に、玄奘は困った様な笑みを返すのだった。





「げんじょーせんせー、なんかへんだね?」
「変だね。箒握ってぼーっとたってるね」
「疲れてるのかな?」
「わかんね」
「誰か聞いてこいよ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 籠いっぱいの林檎と野菜、それから卵に鶏を一羽。それだけの買い物から帰ってきた玄奘は、続いて掃除の仕事をこなしている。
 だが、三歩進んで立ち止まり、箒を握りしめてぼうっと何かを考え込む、を永遠と繰り返している。
 その為に、境内に溜まっている土埃は一向に綺麗にならない。

 少し離れた場所で地面に棒で絵を描いていた子供たちは、その玄奘の様子に首を傾げ、つぶらな瞳を後ろに向ける。
 その視線の先にある回廊では、だるそうに寝そべった悟空が、その真っ直ぐな眼差しを渋面で見かえしていた。

「げんじょーせんせー、なんかへんだね?」
「変だね」
「へん!ぜったいへん!」
「ぜったいなにかあったんだよね?」
「ねー」
「あのな・・・・・」

 わらわらと悟空の元に近寄った彼らが、非難するような眼差しで彼を見上げる。口をとがらせる様子に、彼は溜息を吐いた。

「俺は別に玄奘を困らせてなんかねぇぞ?」
「ほんとー?」
「げんじょーせんせがためいきつくのはごくうのせいだよ」
「悟空が悪い事がおおいよな!」
「だから、俺は何もしてねぇって」

 いいや、悟空が悪い!あやまって!はやく!!

 囃したてられ、「本当になんもしてねぇって」と彼は身体を起こした。そのまま床に座り込み、がしがしと頭を掻く。
 悟空の目から見ても、玄奘は明らかにおかしかった。
 子供たちの言う事はあながち間違っていない。
 この平平凡凡な生活において、玄奘が落ち込んだり、悲しそうな顔をしたり、逆にはしゃいだり喜んだりするのは、大抵悟空が関わっている。

 つまりは、悟空が関わらない事で一喜一憂することは、玄奘にとって非常に珍しいと言う事だ。

(まーた、なにぐるぐる考え込んでんだか・・・・・)
 はやくはやく、とせっつかれ「わーったわーった」と投げやりに答えた悟空が、やる気のない足取りで玄奘へと近寄った。




(・・・・・・・・・・・・・・・)
 この村は良い村だけど、幸せにはなれない。
 沢山の男の人と付き合って、綺麗なものを着て、人生経験積まなくちゃ面白くない。

 人差し指を立てて、諭すように告げた彼女が着ていた衣は、大変美しく、仄かに香った花の香りや、飴細工の様な簪も、彼女に似合っていて、花のように綺麗だった。

 それに、今度祝言を上げて、都で生活するのだと言う。

「羨ましいんでしょうか・・・・・」
「何がだ?」
「!?」
 考え事に没頭しすぎて、周りが見えなくなっていた。思わず声に出してしまった疑問に、自分では無い声が答える。
 ばっと顔を上げれば、呆れた様な表情の悟空が玄奘を見下ろしていた。
「あ・・・・・いえあの・・・・・」
 慌てて箒を握りしめる玄奘を、悟空がじーっと見詰める。少し首を傾げて、真剣に覗きこむ彼の、その薄紅の瞳に、玄奘の心臓がどくん、と音を立てた。

 若い人がいないわけじゃない。

(確かに村にも青年団は在りますし・・・・・私と同じくらいの年代の方はそこそこ居ます)
 ただ、寺院が村の外れに有り、この近所には居ないと言うだけで。
(それにそれに・・・・・)

 恋愛も結婚も出来ない事も無い。

 今ここに、一番大切な人が居るのだから。

(でも・・・・・これは恋、なんでしょうか・・・・・)

 じっと見詰めてくる薄紅の瞳に感じるのは「安堵」。彼が傍に居ることで得られるのは、「安心感」。
 手を伸ばして、その温度を確かめると心が満たされていく。

 表裏一体。
 以心伝心。
 一心同体。

 なんというか、恋人というよりも、家族に近い感じがしてしまっている。

(それが・・・・・不満?)
「!?」
 その瞬間、かあっと玄奘の頬が赤くなり、いぶかしむ様に彼女を覗きこんでいた悟空はぎょっとする。
「おい?」
 そのまま両頬に手を当てる玄奘の手から、箒が滑り落ち、乾いた音を立てた。
「な、ナンデモアリマセン」
「・・・・・・・・・・なんで片言なんだよ」
「し、知りません!知りませんから!!!」
「はい?」
 ぶんぶんと首を振り、玄奘は悟空から距離を取るように後ずさる。
 訳が判らず、思わず手を伸ばせば、それが彼女の頬を抑える手に触れる前に、くしゃりと顔が歪んだ。
「え?」
 泣きだす一歩手前、と言う感じのその表情に、悟空が固まる。その隙を付いて、脱兎のごとく玄奘が走り出した。
「玄奘!?」
 思わず声を荒げれば「何でもありません!!!」と妙に切羽詰まった声が答え、彼は唖然とした。

 一体全体何だって言うんだ。

 伸ばした手もそのままに、ひきっと口元を引きつらせる悟空の元に、子供たちがまろび寄ってくる。
 口々に「悟空の馬鹿」だの「あほ」だと言いながら。

「なにやってんだよ、ごくうー」
「せんせい、おこっていちゃったろ!?」
「なにしてんのー」
「早くあやまれよー」
「そうそう。玄奘を苛めるなんて、可哀そうじゃないか」
「・・・・・・・・・・・・・・・」

 悟空を罵倒(?)する台詞の一つに、これっぽっちも可愛らしくない響きを見出して、悟空は軋んだ音を立てて振り返った。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「やあ」
 足元に子供達を引きつれた青年が一人、にこにこと笑っている。
 ひらりひらりと、純白の羽が風に舞っい、認めたくない人間の、愉しそうな笑顔を前に、悟空はがっくりと肩を落とした。
「だから、事前連絡必須だって言わなかったか?俺・・・・・」





 不満なんてあり得ない。
 ようやく悟空と手を取り合えて、離れる必要も心配も無くなって。これほど嬉しい事はないと言うのに、自分は一体何が不満だと言うのか。

 寺の裏手の森の中。木の根もとに腰を下ろした玄奘が情けなく肩を落としている。

 昼間、買い物に出た村で出会った友達の、はにかむ様な笑顔に感じたのは「羨望」だった。

(何を望むって言うんですか、これ以上!)
 ふるふると首を振り、弱ったように、彼女はその立てた膝に顔を埋めた。
 目を閉じて、仕舞いこんである感情を引っ張り出してみる。


 古い記憶と共に蘇ってくるのは、とてつもない哀しみと、後悔。そして、望んでも望んでも絶対に手に入らないと諦めにも似た気持ちだった。

 五百年という時を経て・・・・・そして、長い旅路の先にやっと見つけ出した、大切な人。
 誰よりも信頼している人。

(あ・・・・・)

 溢れてくる幸福感に、玄奘はほっと肩から力を抜いた。
 そう、それでいい。
 その感情が在るだけで、心から満たされる。

「ほら、不満なんかどこにもないじゃないですか」
 くすりと小さく笑い、ゆっくりと顔を上げる。
「君は何かに不満を感じていたのかい?」
「ええ、まあ・・・・・そうですね」
 でも、大した事じゃないと気付きました。
「本当に?」
「ええ、ほんとう・・・・・って!?」
 独り言に返事がある。その異様さにようやく気付いた玄奘が勢いよく振り返れば、そこには、記憶と寸分違わない笑みを浮かべた仙人さまが、座りこんだ玄奘を可笑しそうに見下ろしていた。
「じっ・・・・・二郎真君!?」
 玄奘の声が裏返る。
 あわあわと後ずさるように、草むらに手を付いて距離を取る玄奘に、二郎真君は楽しそうに目を細めた。
「君が脱兎のごとく逃げ出すから、悟空が硬直してたよ?」
「見てらしたんですか?」
「うん、まあ、ね」
 くすりと口元に漂う笑み。底がしれない気がして、玄奘は引きつった笑みを返した。
「ご、悟空は?」
「後から来るんじゃないかな」
 ちらりと後ろを振り返った二郎真君は、「ねえ、玄奘」とそれはそれは慈愛に満ちた微笑みで玄奘を見やり、腰を落とす。ただし、その目は笑っていない。哂っている。
 とてつもなく、嫌な予感がする。
「な、んでしょうか・・・・・」
 ごくりと唾を飲み込んで、伺う様に上目遣いで見上げれば、破天荒な仙人様はふふ、と吐息を零した。
「君は、今の悟空が不満なの?」
「とんでもないです!」
 力一杯唱える。
 先程確認した、溢れてくるような、日だまりの様な幸福感は疑いようもない。
 共に、これから先の時間を過ごして行ける事に、一体どんな不満が有ると言うのか。
 挑む様な玄奘の眼差しに、おや、と二郎真君は眉を上げ、それからすっと目を細める。何を言われるのかと身構えていると、「君は欲がないねぇ」と呆れたような溜息を返された。
「え・・・・・」
「人間は煩悩の固まりだ。いくらでも欲求があるというのに、君は仙人でもないのに、殊勝だねぇ」
「・・・・・・・・・・はあ」
「ま、確かに。今となっては仙人の方が欲求に忠実かもしれないから、ま、こういうのも変かもしれないね」
 苦笑する二郎真君に、玄奘は再び「はあ」と曖昧な相槌を打った。

 一体何を言いたいのだろうか。

 目を瞬く玄奘の頬に、二郎真君はそっと手を伸ばす。咎める間もなく、そのひんやりと冷たくすべらかな指先が、彼女の頬に触れる。

「けれどね、玄奘。君達人間は生きる時間が私達と比べて少ない」
「・・・・・・・・・・」
 するっと滑る指先が、玄奘の顎を捕える。くっと持ち上げられ、目の前に真君の光りをたたえた瞳が迫った。

 宝玉の様な瞳。
 悟空のそれも綺麗だと思うが、二郎真君のはまた、それとは違った色味が有った。
 思わず引き込まれる。

「今ある幸せの、それ以上を望む事が許されると思うんだけど?」

 今ある以上の幸せ?

「でも・・・・・」
 それを望むのはおこがましくないのだろうか。

 そんな台詞が喉を突いて出そうになった瞬間、ぱっと二郎真君が手を離した。それと同時に、「玄奘!」という鋭い声が飛んだ。

「あ」
 はっと横を見れば、がさがさと茂みを掻きわけて悟空が近づいてくる。
(怒って・・・・・ますよ・・・・・ね?)
 薄紅の瞳に、不機嫌そうな色がありありと浮かんでいる。引き結んだ唇が苦々しい溜息を零し、悟空はひらりと離れた二郎真君を睨みながら、玄奘の手首を掴んで引きあげた。
「痛っ」
「玄奘に変な事吹き込んでねぇだろうな、楊漸」
 苦々々しい顔で二郎真君を睨みつける悟空に、彼は「まさか」とぱっと両手を上げて見せた。
「なにもしてないよ、まだ」
「・・・・・・・・・・・・・・・」

 にこにこ笑う二郎真君に、悟空は頭痛を覚える。久方ぶりの頭痛だ。

「お前の八つ当たり方法はめんどくせぇんだよ・・・・・」
「そんなの、当然じゃないか」
 肩をすくめる仙人様に、悟空は空を仰ぐ。
「おい、木叉!聞こえてんだろ!?コイツを回収しに来い!!もしくは降臨を未然に防げ!!!」
「あはははは、無駄無駄。多分今頃、私の処理した書類の間違いを訂正してる最中だから、ね」
 聞こえてても相手出来ないと思うよ。
「木叉様・・・・・」
 悟空に抱えられたまま、玄奘はほろりとする。絶対にわざとだ。わざと間違えてるに決まっている。
 ちっと舌打ちする悟空が、肩を抱いている玄奘の顔を覗きこむ。

(あ・・・・・)

 先ほどと同じような伺う様な彼の視線。どきん、と心臓が跳ねあがり、玄奘は思わず視線を逸らした。
 その様子に、二郎真君が吹き出し、なんで視線を逸らされるのか判らない悟空が渋面で彼を見遣った。

「ねえ、玄奘。君は私に言ったよね?自分は金蝉子じゃないって」
「楊漸?」
 悟空が抱きこむのと反対側に近づき、大地に視線を落とす玄奘の髪に手を伸ばす。ぴりっと悟空の空気が凍るのを感じるが、二郎真君は構わずに彼女の瞳を覗きこんだ。
「だから、別に望んでも良いんだと思うけど?」
 ていうか、私にこれを言わせる君達も、大概改めて欲しいよねぇ。

 ふーっと溜息を零す二郎真君に、悟空も玄奘も思わず目を瞬いた。

「今、すっごく気色悪い発言を聞いた気がするんだが・・・・・気の所為か?」
「いえ・・・・・違うと思います」
「本当に失礼だね、君達」

 やれやれと肩をすくめ、それから二郎真君はひらりとその手を持ち上げる。

「あんまりほのぼのされても、こっちとしても邪魔のし甲斐が無いからね。もう少し、一喜一憂しても良いじゃないかと思っただけだよ」
 もう少し・・・・・ささやかな波乱に富んだ、普通の人間らしくしてもらわないとねぇ。

「どういう意味だ、楊漸」
 眉間にしわを寄せ、呆れたように告げる悟空に、「今日は応援だけに留めておくよ」とだけ告げて、二郎真君はふっと姿を消した。
 ひらりひらりと羽が舞う。

「・・・・・・・・・・・・・・・」
 ぼうっと、二郎真君が言った事を考える。その玄奘に、悟空は溜息を吐くと、ぐいっとその手首を引っ張った。
「で、お前、なんで急に逃げ出したんだ?」
「え?」
 手を引かれ、意識を取り戻した玄奘は、悟空に促されるように寺に向かって歩きながら、かあっと頬を熱くした。
「別に何でもありません」
 思わずそう誤魔化すと、呆れた様な溜息を返された。
「何でもない奴が逃げ出すかよ」
「ほ、ホントです!別に何も・・・・・ただその・・・・・」
「ただその?」
「あの・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・」

 これ以上を望むなんて贅沢だ。

 そう、思ってけじめを付けたつもりなのに。

(真君の所為です・・・・・)

 再び、「物足りない」と、「羨ましい」の二つの感情が溢れてくる。
 悟空と自分は、お互いにお互いを判り合って、手を取って歩いて行ける位置に居る。
 でも、それだけでは嫌なのだ。

 もっともっと、愛して欲しい。
 もっともっと・・・・・傍に居て欲しい。

 一等大切なものを、「世界」の為に切り捨てた金蝉子。
 彼女は一等大切なものだけを愛する事を良しとしなかった。

 でも、自分はどうだろう。

 今ここに居るのは、ただの玄奘で、目の前に居るのはただの悟空だ。

 単なる、人間。

 使命も運命も関係ない。世界だって、今あるここが全てだ。
 それならば。

「・・・・・・・・・・・・・・・玄奘?」
 寺の境内まであと少し、と言う所で、玄奘は悟空の上着を掴んだ。そのままぎゅっと引っ張る。つんのめった悟空が、驚いて振り返ると、ぎゅっと唇を噛んだ女が、頬と目許を染めてこちらを見上げていた。
「あの・・・・・ですね、悟空・・・・・」
「あ?」
「その・・・・・」
 思わず俯いてしまう。さらと零れた髪の間から紅に染まった耳朶を認め、男は一寸目を見張った。
「・・・・・・・・・・してください」
 消え入りそうな声が、囁きを落とす。だが、本当に小さな声だったので、ざわめいた木々の音にまぎれて上手く聞き取れない。
「んだって?」
 顔を寄せて訊き返せば、ぱっと顔を上げた玄奘が急いで辺りを見渡し、掴んでいる悟空の服を更に引っ張った。
 しゃがめ、ということか、と玄奘につられて草むらに座りこめば、彼女は今にも泣き出しそうな、情けない顔で口を手で囲う。内緒話でもする様なそれに、悟空が耳を寄せれば。


「―――――――」
「!」

 小声で言われた台詞に、ぎょっとする悟空。それを余所に、玄奘は口をへの字にして、俯いている。首まで赤くなっている彼女に、悟空は思わず視線を逸らした。
 そのまま、がしがしと頭を掻くと、小さく笑みを漏らす。
「ったく・・・・・何を言い出すかと思えば、んなことかよ」
 ひそっと耳元で囁かれ、玄奘は「だって」と掠れた声で反論した。
「・・・・・・・・・・なんとなく・・・・・その・・・・・えと・・・・・」
「甘えたくなった?」
 さらっと耳元の髪を撫でられて、玄奘は咄嗟に否定しそうになる口をつぐんだ。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・はい」
 極力素直に頷くと、悟空の空気が柔らかくなるのを感じる。
 そっと目を上げれば、彼が優しく自分を見下ろしていた。

 何も言わなくても判り合える。
 隣に居る事が当たり前。

 表裏一体。
 以心伝心。
 一心同体。

 でも、それだけじゃ物足りない。

「げんじょー」
 甘い声が名前を呼び、その大きな手が、彼女の頬に触れる。乾いた掌。ほんの少しかさついた指先。そこにあるのは、まぎれもない彼の体温。
 促すように、動かされて、玄奘はゆっくりと顎を上げた。

 強請ったのは自分だ。

「はい」
 瞳が絡み合う。
 音が遠くなる。

 今、一杯にここに有るのは、たった一人。

「・・・・・・・・・・目、閉じろ」



 低い声に促され、玄奘はそっと目を閉じた。それと同時に、温かな腕に包まれて、ひそやかな吐息を唇に感じる。

 世界が塗りつぶされる。
 甘く甘く。
 たった二人に彩られる。

 唇に触れた温度が、徐々に熱くなり、繰り返されるそれが、深く深く、むさぼるようになっていく。

「ん」
 玄奘の吐息が甘くなり、抱く悟空の腕に力が籠る。
 くるくると、世界が回る。
「玄奘」
 口付の合間に落とされたのは、自分の名前。

 甘い甘い響きの、たった一人の名前。

 世界の為に、一等大切なものを切り捨てた。
 今は、一等大切なもののために、世界を切り捨てよう。

「愛してます」

 物足りなかったのは、二人だけの世界。
 他の誰も邪魔できない、二人だけの世界。

 金蝉子と閻魔王が諦めた世界。


「バーカ」
 荒くなる吐息に混ぜて、悟空は口付の雨を降らせながら、口の端を上げて笑った。

「俺の方が、愛してるよ」


















 玄奘、甘えたくなるの巻(笑)

(2011/02/28)

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