EvilDetective

 ミクロの動揺
 運動神経は悪いほうではない。
 だが、両手に大量の菓子パンを抱えていたため、そしてその中に運悪く(?)評判のベーカリーの限定商品「イチゴクリームさくふわパン」が入っていた為、弥子はそれを放り出して手を突くことが出来なかった。

 よって。

「弥子!?」

 叶絵の目の前で、彼女は人ごみを走り抜ける、ふらつく自転車をよけようとして、盛大に転んだのである。

「だ、大丈」
「私のパンは!?さくふわパンは!?死守できた!?」
「・・・・・・。」

 アスファルトに膝を擦りつけた所為で、だくだくと血が流れているが、そんなことはお構い無しに、弥子は両腕で抱えていたペーかリーの紙袋を覗き込む。

「ああ・・・・よかった・・・・黄金のふわふわは健在だ・・・・。」

 はうー、と周囲に花を飛ばしそうな表情で呟く弥子に、「アンタの足は大丈夫じゃないわよ。」とげんなりした叶絵が突っ込んだ。

「え?」

 前向きに、べちゃりと倒れた所為で、カーディガンのお腹のところは黒くなっているし、ブラウスの袖も汚れている。両膝から血が出ていて、小石がくっついていた。
 ちょっと持っていて、と弥子は大事な大事な、死守したベーカリーの袋を「絶対揺らさないでね!」と念を押して叶絵にわたし、近くのガードレールに腰を下ろした。

「あちゃー・・・・掌もすりむいちゃったよ・・・・。」

 肩にかけていた鞄から、弥子は消毒液と大きな絆創膏をひょいっと取り出す。
 その、あまりに普通に、馴染んだ様子でそんなものを取り出す彼女に、叶絵がぎょっとしたように目を見張った。

「ちょっとあんた・・・・そんなもん持ち歩いてるわけ!?」
「脱脂綿もあるよ?」
「・・・・・・・・・。」
 持っていたペットボトルの中身は水で、それで傷を洗って、てきぱきと消毒を始める弥子に、叶絵は視線をはずせない。
「こんな、応急処置セットみたいなもんを持ち歩いてる女子高生なんて聞いたこと無いわよ・・・・。」

 これで終わり、と傷口に大きな絆創膏を張る弥子は、呟かれた言葉にからっと笑った。

「やー、何時何処で何が起きるか分からないからさぁ。」
「・・・・・事件に備えてってこと?」

 こんな細い腕に細い身体の持ち主だが、弥子は何故か世間に名の知れた探偵なんてことをやっている。
 しかも「名」がつく部類の探偵だ。

「んー・・・・まあ・・・・そうかな・・・・・。」
 感心し、そして弥子の関わってる世界が急に物騒に見えて、目に見えて心配する叶絵を前に、弥子は曖昧に笑った。

 実は事件の加害者から暴力を振るわれたことは一度もない。多少発砲されたり、突き飛ばされたり、手錠をかけられたこともあるが、彼らからの被害は意外なほど無かった。
 が、逆に。

(アイツからの暴力のほうが怪我の度合いが大きいんだよね・・・・。)

 打撲打ち身、知らぬうちの切り傷なんて日常茶飯事だ。
 筋を違えるのなんて、朝飯前過ぎて涙が出る。
「これで終わりっと。」
 さっさと応急処置セットを鞄に戻し、弥子はよ、っとガードレールから立ち上がった。
 まだ心配そうな眼差しを向ける叶絵に「でもめったにそんなことないし、備えあればなんとやらだよ。」と彼女はあっけらかんと笑って見せる。
「そうなの?・・・・危ないことしてるんじゃないの?」
 疑わしそうな、気遣うような叶絵の台詞に、弥子はちょっと目を見張ると「やだなぁ、心配性だよ、叶絵。」とひらひら手を振って見せた。
 彼女から差し出されたベーカリーの袋を、再び抱えなおす。そうすると、カーディガンの汚れが見えず、しばらく我慢して歩くか、と弥子は溜息をついた。
 すりむいた掌がちょっとひりひりするが、そんな事など、さくふわパンの良い香りの前に、全然気にならない。

「あんまり・・・無茶な事しないでよ?」
 再び並んで歩き出し、別れる際に叶絵に念を押された弥子は、「ありがとう。」となんでもない笑みを浮かべて、事務所に向かって歩を進めた。

 しばらく、一人で歩きながら弥子は茜色に染まる空を見上げる。
(でも・・・・怪我って言っても流血ものは少ないんだよなぁ・・)
 打ち身打撲きり傷裂傷、何でもありだが、骨折や縫ったり手術したりと、医者に掛かるような怪我はしていない。

(それなりにネウロも手加減してるってことかなぁ・・・・。)

 死なれたら困ると、居なくなられたら困ると、多少は思われているのだろうか。

 かんかん、と事務所の入っている雑居ビルの、簡素な階段を上がり、弥子はドアを開けた。

「おや、お帰りなさい、先生v」

 その瞬間、ひゅん、と何かがドアに向かって放たれ、弥子は全力でその場にしゃがみ込んだ。ばちいん、と壁に何かが激突し、弥子は、以前、この部屋で使用された凶器のワイヤーを見た。

「な、な、な」
「ち、惜しいな。」
「何がよ!!!」

 危うく胴体から首が転がり落ちるところだった。

「首だけのほうが持ち運びしやすいと思ってな。」
 例の仕掛けを再現したのだが・・・・ふむ、よけられたか。
 笑顔を見せる、助手とは名ばかりの魔人ネウロが手をひらひらと振る。
「持ち運びはしやすいけど、間違いなく何の役にも立たないと思うよ・・・・。」

 到着早々、命の危険に晒され、無駄に疲れた、と弥子は足を引きずり引きずり定位置のソファーに向かう。
 抱えたパンの袋をテーブルの上に置くと溜息が漏れた。

「しかし・・・・何時にもまして酷い有様だな。それは新しいファッションか何かか?だとしたら貴様のセンスを疑うな。」
 泥にまみれるのが貴様の趣味か?
「アンタにファッションセンスを言われたくな・・・・って、ごめんなさい、撤回します。」
 目の前に迫る得体の知れない、恐らく魔界の生物であろう物が、飛び出た目玉から血を流し、体の半分はありそうな口を開けるのを前に、とりあえず弥子は謝った。

「転んだのよ、学校帰りに。」
「ほう、変わった遊びだな。」
 地面を這うナメクジでも転べるのか。
「・・・・・何から突っ込んで良いのやら。」
 目を輝かせる魔人のたわごとを半眼でかわし、弥子は自分の着ているカーディガンの前をひっぱった。
「洗濯しなきゃ駄目だよね〜。」
 手間がかかるなぁ・・・。
 ぶつぶつ言いながら、弥子はカーディガンを脱ぐと流しの方に歩いていった。
 ざーざーとお湯を出し、タライに水を張りながら、「洗剤ってあったっけ?」と弥子はこの事務所の秘書を勤める「髪の毛」のあかねを振り返った。

 一応、事務所には生活に必要なものがそろっている。
 ネウロにとっては必要ないのかもしれないが、日常の大半をすごす弥子が、ちまちま買い集めたものだ。

 それらを管理してくれるのが、あかねである。
 この間も、トイレの電球が切れたと(何故分かったのか謎なのだが)教えてくれたのも彼女である。

 だが、振り返った先。
 彼女がいるパソコンの前に、ネウロが陣取り、なにやら相談事をしているようである。
 彼女は忙しくキーボードを叩いていた。

「・・・・・・・・・。」

 画面に顔を寄せたネウロが、何か言っている。

「・・・・・ま、いっか。後は家で洗えば。」

 零し、弥子はすすぐだけすすごう、と汚れを落とそうと躍起になった。

 秘書であるあかねに見せるネウロの顔は、ちゃんと信頼を置いている所為かどこか落ち着いた雰囲気が漂う。オトナっぽいとでも言うか。
 態度だって、弥子に対するものに比べると十二分に優しい。

 あんな風に頼られたことも無ければ、あんなふうな優しい顔を向けられたことはない。

(さっきは手加減されてるって思ったけど・・・・今日のあれは間違いなく全力で殺しに掛かってるわよね・・・・。)

 やっぱり、死んでしまっても別にどうってことはない存在、って思われてるのかなぁ、私。

(それならそれで別に構わないし・・・・ていうか、殺されそうになってるんだから、毎日律儀に来ることもないんだよね・・・・や・・・・でも来なかったら今度こそ、デリバリーしやすいサイズに加工されそうだし・・・・なに、この八方塞・・・・。)

 考えていると気がめいってくる。一体全体、この人外の生き物にとって、自分はどういう生き物なのか判断が付かなくなってくるのだ。

(綾さんは必要とされるときが来るって言ってたし・・・・実際そういうときもあったけど・・・だったら、それなりに優しくしてくれてもいいのに・・・・せめて・・・こう、奴隷から相棒くらいには・・・・って、いやいや私、いつからアイツに認められたくなってるわけ!?)
「おい。」
(考えろ・・・・考えるんだ、桂木弥子・・・・自分の人生を思い出せ!私は何になりたかったんだ!?)
「おい、ウジムシ。」
(・・・・・・・って、なりたいものが思いつかない!!!!どうしよう!?このままじゃ私、永遠に奴隷人生)
「聞こえんのか、この羽虫がっ!」

 その瞬間、びったーんと後ろに引き倒され「うわあああああ!?」と絶叫する弥子の上に、さっきまで洗っていたタライの泥水がぶちまけられる。

「つめたっ・・・・!!!!なに!?ちょ・・・ネウロ!?!?!?」
「さっきから呼んでいるのが分からんのか、ヒキガエル。」
 ほーら、びしょ濡れに濡れて、さぞかし歌いやすかろう。
「か、風邪引く・・・・!!一応今11月だしっ!!!」
 べしょべしょのまま起き上がって座り込み、「うあー」と情けない声を上げる弥子の目に、魔人のスーツの膝の辺りが見えた。
「立て。吾代が興味深い情報を送ってきたぞ。」
「・・・・・謎があるの?」
 タオルってどこだっけ・・・・。

 よろよろと立ち上がり「あかねちゃーん」と手を伸ばす弥子の首を魔人が引っつかんだ。

「く、くるし・・・・締まってる・・・・締まってる・・・!!!」
「謎がある可能性はある。早く行かないと鮮度がおちるからな。」

 首をつかんだまますたすたと事務所の奥に歩き、引き出しからタオルを取り出すとネウロががしがしと人外な力で弥子の頭を拭いだした。

「ぎゃーっ!!!!皮がむける!!!頭皮が死ぬからっ!!!ネウロ、後は自分で」
「先生がお風邪でも召したら大変です。これも助手の仕事ですよv」
「どこがっ!?」

 ば、とタオルを引ったくり、弥子はタオルを被ったまま、臨戦態勢でネウロを睨んだ。にたり、と嘲笑するような笑みを向けられる。

「膝、血が滲んでるぞ?カエル。」
「え?・・・・・・・・。」

 視線を落とし、はうー、と弥子が溜息を漏らした。
 散々だ。
 ああもう、本当に散々だ。

 これも全部目の前の助手にかかずらってる所為だ。

「・・・・・・私はとりあえず傷の手当をしてから行くから、ネウロは先に行ってて良いよ。」
「名探偵として作り上げた貴様が居なければ、迷宮入りの事件の捜査など出来んだろう。」

 のろのろとソファーに座る弥子に、ネウロが面白くなさそうな声で応じた。その面倒そうな物言いに、弥子は頬を膨らませ、斜めに自分を見下ろす尊大な態度のネウロをみやった。

「あんた、一応魔人でしょ?適当に入っていって捜査なんか、ぱーっと」
「出来ないから貴様を選んで傍に置いていると、最初に言わなかったか、ザル頭。」
「とうとう生き物じゃなくなったよ・・・・・。」
「貸せ。」
 鞄から消毒薬を取り出す弥子の、その手からそれを奪い、目を丸くする弥子の前で、片膝を突いた魔人が、ちゃっちゃと傷の手当てを始めるではないか。

 その様子に、弥子はぎょっとして固まった。身じろぎできないほど。

「この程度の傷など、数秒で完治できんのか貴様は。」
「・・・・マシンガンで打たれても平気なあんたとは違うのよ。」
「不便だな。もっと派手に進化して見せろ。」

 ワイヤーで首が落ちてもくっつけることが出来るくらいに。

「勘弁してください・・・・。」
「ほら、出来た。」
「・・・・・・・・。」

 ぺたり、と傷口に新しい絆創膏を張られ、弥子は変な気持ちで魔人を見上げた。片膝を突いて座り込む男は、座る弥子と同等くらいの目線だ。

 なんで手当てなんか。
 傷が増えても気にしないくせに。
 ううん、生死もあんまり気にしないくせに。

「なんだ?」
「い・・・・いえ・・・・妙に優しいから変な気に・・・・。」
「そうでもないぞ。絆創膏の裏に魔界」
「言わなくて良い!!!!怖くなるから言わなくて良い!!!!!!」

 慌てて剥がそうとする弥子の手を掴み、ネウロが立ち上がる。

「さ、謎を喰いに行くぞ。」
「え?ば、絆創膏は!?は、剥がすから、ちょっとま」
「はがれるわけなかろう。裏に居るのはあの魔」
「ぎゃああああああああ、あっかねちゃーん、別の絆創膏!!早く!!!!」
「だから、はがれないといっているだろう。なんせ、魔」
「いやああああああああああ!!!」
「心配するな。足が特化するだけだ。」
「だから、そんな進化は望まないの!普通の!女子高生はっ!!!!!」


 多少なりとも優しいと思った自分が馬鹿だったと、引きずられて事務所を出ながら弥子は思う。

 ただほんの少し・・・・ほんの少し魔人が弥子の両足に滲む血にミクロほど動揺したのは、当の本人であるネウロも知らない事実なのであった。


(2007/11/27)

designed by SPICA