Muw&Murrue
- 09 赤く染まった目許
- 声を殺して泣いている。
そんな彼女を、ネオはどこかで見た気がしていた。
だから、かもしれない。
展望デッキで一人佇む彼女を見つけたとき、胸の奥が不意に痛んだのは。
「泣いてるのか?」
思わず背後から声を掛けると、びく、と背中が震えるのが、デッキ内を照らす月明かりにぼんやりと浮かび上がった。
そのまま、彼女が涙を拭うだけの時間を与えるように、ゆっくりと近づいていく。
「ロアノーク一佐。」
ごしごしと急いで目許を拭い、振り返った彼女が、酷く綺麗に笑う。
透明な笑顔、というのはこういうことかと、ネオは心の隅でぼんやりと思った。
「ま、泣きたい時もあるよな。」
気丈にも笑顔を見せるマリューを前に、ネオは何でもない調子で言うと、手摺に手を置いて酷く明るいオーブの夜空を見上げた。
作業用の足場が、空を幾何学模様に切り取り、パズルのピースのようなその一片に、ぽかりと白い満月が浮かんでいた。
星々もいくらか見えるが、煌々と輝く月の前に、すっかり霞んでしまっている。
「で、何で泣いてんの?」
綺麗な満月を見上げたまま、ネオが不躾とも取れそうなほど、軽い調子でマリューに問うた。
それに、彼女は怒るでもなく目を見張ると、「さあ。」とだけ零した。
ネオの隣に立って、同じように夜空を見上げる。
暫く二人は、肩の触れ合う距離で、空に浮かぶ丸い天体を観測した。
彼女が泣いているのは分かった。
でも、それを慰める言葉を持たないネオは、不器用な言葉しか彼女に発する事が出来ない。
それでも、苦しいはずなのに自分を受け入れてくれたマリューに、何か気の利いた事を言いたくて、月を見上げたまま、ネオは言葉をひねり出そうとする。
そんな微妙な沈黙を破ったのは、マリューの震える溜息だった。
「この歳になっても・・・・・・。」
ぽつり、ともれた言葉に、ネオがそっと彼女を見る。
白々と、軍港を染め上げる清らかな光の中で、マリューが目を細めるようにして、まん丸な月を見上げている。
その目許が、いくらか赤く、涙に濡れて光っているのにネオはどきりとした。
きらきらした光が彩る赤が、情欲的だ。
「泣き方が分からなくて。」
くすん、と鼻をすすり上げるマリューに、ネオははっと視線を目元から引き剥がした。
真正面から、彼女を見たのでなくて良かったと、こっそり心の中で思う。
そんな事になっていたら、きっと心の奥底に潜んでいる何かが、瓦解して、彼女に手を出してしまうに決まっているから。
「駄目ですね。」
苦笑し、目を伏せるマリューの横顔を、まじまじと見た後、ネオが空の満月を見上げた。
「ま・・・・・・・あれだ。」
「・・・・・・・・・・・。」
「とにかく、涙が出ればいいんじゃないのか?」
「え?」
こちらを向くマリューに、視線を合わせず、ネオは遠い目をした。
「俺は涙すら、零れなかったから。」
「・・・・・・・・・・・・・・。」
歪んだ笑みが、ネオの口元を漂い、マリューは苦しそうに眉を寄せた。
そういえば。
ムウが泣いているのを、私は見たことが無かった。
もちろん、ネオが泣いているのも。
悲しそうな笑顔や、つらそうな顔は確かに知っているのに。
「泣きたいの?」
そっと手が触れて、ネオは弾かれたように背筋を正す。はっと視線をやれば、赤く染まった目尻に、長い睫毛を涙に濡らして光らせる女が、ただただ一心に自分を見詰めているのに出会う。
どきりとして、ネオは軽く身を引いた。
「いや・・・・・・そういうわけじゃ・・・・・ねぇけど。」
歯切れの悪いネオを見上げて、マリューはふっと目元を和ませる。
「じゃあ、どうして涙が零れなかった事を気にするの?」
「・・・・・・・・・・・・。」
アウルが散って。ステラが散って。スティングが散って。
ネオは確かに悲しかった。彼等に何もしてやれなかった自分が悔しくて、中途半端で腹が立った。
せめて、ミネルバだけでも沈めてやりさえすれば・・・・・何かが変わったのかと、人知れず、アークエンジェルの壁を殴ったこともある。
あれは、泣きたいということだったのだろうか。
泣けないから、代わりに血が滲むほど唇を噛み締めて、骨が砕けんばかりに装甲を殴ったのだろうか。
泣きたかったから?
「・・・・・・・・そうかもな。」
ぽつりと零れた肯定の言葉に、マリューが、くすん、と鼻を鳴らして手を伸ばす。
痛そうに顔を歪めるネオを、彼女は両腕で抱き締めた。
「・・・・・・・・・・・・。」
「涙が出ないのは辛いわね。」
広い胸に顔を埋めて、彼女が手を上げる。ぽんぽんとあやすように背中を叩かれて、ネオは目を伏せた。
「そうだな。」
「泣ければいいのに、って思うこともあるわよね。」
「ああ。」
「でも・・・・・泣けないのよね?」
顔を上げたマリューが、眉を寄せて、困ったように笑った。
「こんな所まで、来てしまったから。」
こんな所。
ふと振り返った先に、たくさんの焔が上がっていて、そこをかいくぐるたびに、涙を使い果たしたような気がする。
一生分の涙を。
「泣くのが・・・・・馬鹿らしいとも思ってしまってるのよね。私たちは。」
「・・・・・・・・・・・・・。」
泣いて喚いても何にもならない。
昔は、泣けば誰かが居てくれたかもしれない。
小さな子が、自分の我を通そうと泣き喚くように。
「でも・・・・泣いても手に入らないって、知ってしまっている。」
淡々と告げられる言葉に、「そうだな。」とムウは乾いた返事をした。
そうだ。
泣いても、自分の罪は消えないし、アウルやスティングやステラが帰って来るわけでもない。
泣くのは、無意味だ。
「でも、貴方は言うのね。」
頭が動き、いつの間に彼女の腰を抱いていたネオが、視線を下げる。
見上げる彼女が、ふうわりと微笑んだ。
「とにかく涙が出ればいい、って。」
「・・・・・・・・・・・・・。」
そっとマリューが手を上げて、ネオの頬に両手を添える。促すように、彼女の親指が、つと、目尻を撫でた。
「涙が出るのには、きっと意味があるのよ。悲しくて悲しくて、仕方ない心が、身体を動かすの。」
でも、上手く泣けないから。
震えるような声でいい、それからマリューはじいっと空色の瞳を覗き込んだ。
「ねえ、ネオ。」
「ん?」
「貴方のおかげで、私は泣けるようになったわ。」
「・・・・・・・・・・・。」
「ああ、ちょっと違うかな?」
小首を傾げて、彼女はイタヅラっぽく笑う。
「貴方の所為で、泣いてしまうの。」
ネオの事で、マリューは泣きそうになる。
彼に居て嬉しくて、彼が傷ついて悲しくて、彼に傷つけられて苦しくて。
「貴方は?」
褐色の、暖かな瞳に捕らわれる。
「誰の所為で、泣いてしまうの?」
俺・・・・・は?
ふと胸を過ぎったそれに、ネオは小さく苦笑すると、見上げる細っこい女を、ぎゅっとした。
心の奥が暖かくなり、ネオは目を伏せる。
「俺は・・・・・・・君の隣なら、泣ける気がする。」
囁いた言葉に、ネオははっきりと確信した。
そうだ。
今まで泣けなかったのは。
彼女が居なかったからではないのだろうか、と。
「泣いても何も変わらないなんて、嘘よ。」
抱擁を返しながら、マリューが小さく言う。
「少なくとも・・・・・・大事な人に、私が悲しんでいる事実は伝えられるわ。」
そうしたら、きっとどこかで何かが変わる。
痛みを伴った、愛する人の涙に、気付いた者がいれば、きっと。
小さく、ネオが笑った。
「俺・・・・・今度から美人さんの前で泣くようにするよ。」
笑みを含んだ台詞に、マリューはそっと目を伏せた。
「私も・・・・・・。」
再び長い睫毛を濡らしながら、マリューがふうっと全身から力を抜いて呟く。
「貴方の前で、泣くようにするわ・・・・・。」
月の光が、煌々と降ってくる。透明で、温度のないその光の中で、二人は悲しみを分け合うように、しっかりと抱き合う。
今度、泣く時は。
この人の腕の中で。
そうお互いに、確かめ合うように、強く強く。
(2006/12/30)
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