Muw&Murrue
- 08 掠れた声
- まどろみの中、マリューはふと寂寥感を覚えて、手を伸ばした。
求める物が、そこにないような。幸せな夢から覚めてしまうような。
そんな切ない感触に慌ててシーツの上を探る。
ふわりと掌に触れる、人肌の感触。
自身を包む毛布の中が、二人分の体温でほっこりと暖かいのを確認して、マリューはそおっと目を開けた。
飛び込んでくるのは、キレイな鎖骨。それと、そこに走る白い傷跡。視線を上げると顎のラインが見えて、もぞ、と身体を動かせば、枕に頬を押し付け、マリューに腕を差し出している人物の寝顔が見えた。
薄暗い闇の中にあるのは、枕もとの小さな灯のオレンジの光だけ。
その横で明滅するデジタル時計は、まだ起き出すには早い時間を指し示していた。
まだ寝ていられる。
まだ彼の隣で。
まだこの柔らかな平和の中で、お互いの体温を分けていられる。
不意に滲んだ涙を隠す事無く、マリューはそっと丸めていた身体を伸ばして、目の前に居る男に寄り添った。腕が痺れてはいけないと、頭をずらしてシーツに押し付ける。
帰って来てくれた。
胸の裡を占めていく優しい感情に、マリューはそっと隣に眠る恋人の胸元にキスを落とした。
帰って来てくれたのだ。
彼が。
記憶が無くても、愛していけると、そう思っていた。でも、記憶が戻って、隣に戻ってきてくれた彼に感じたのは、ネオに抱いていた思いとは全然違う物だった。
ネオ・ロアノーク。
第三者から与えられた、偽りの記憶が生んだ、彼であり、彼でない人間。
確かに、マリューは彼を愛していた。ムウの記憶云々以前に。
だが、その想いが申し訳なくなるほど、記憶を取り戻した男に感じるのは、言葉に出来ないくらいの感情だった。
ムウ・ラ・フラガ。
自分の、世界で唯一、愛している人。
「・・・・・・・・・何してんの?」
きゅうっと抱きついて、自分の胸が彼に当たるのも気にせず、鼻先を埋めてキスをしていたマリューは、降って来たかすれた声に、どきりとする。
「跡でもつける気?」
寝起きの、酷くぼんやりした声の癖に、言っている事は意識がはっきりしているときと変わらない内容で、マリューはいくらかむっとした。
「貴方が迷子になったときのための、予防です。」
「予防?」
緩慢な動きで、ムウが腕を挙げ、身体を動かした。
隣に眠る彼女をぎゅうっと抱きなおす。柔らかい彼女の、細い首筋に、ムウの唇が触れた。背中に回された腕を感じながら、マリューが「そうです。」と小さな声で答える。
「貴方が、陽電子砲の前に飛び出して、行方不明になっても、ちゃあんと帰ってこれるように、です。」
遊ばないで。
最後に付け加えられた単語に、ムウは喉の奥で密やかに笑った。
「何さ、マリューさん。」
耳に触れる、甘やかに響く彼の声と吐息がくすぐったい。
「俺がマリューの側に居ない間に浮気でもしてると思ったの?」
くすくす笑われて、マリューは目の前にある、彼の肌に歯を立てた。
「痛いって。」
そのままちうちうするマリューの首に、ムウは唇を寄せる。
「あっ」
気付いたマリューが身を捩るのと同時に、意地悪な声が降って来た。
「何さ。自分だけ跡、つけようなんて、ずるいんじゃない?」
俺も付けたい。
きつく吸われる感触に、マリューが慌てて首を捻った。
「だ、駄目です!ムウ!」
その声の響きに、ぴたりとムウの動きが止まり、同じく腕の中に納まるマリューもひゅっと息を飲んだ。
一瞬で、二人の間をここ数ヶ月の記憶が通り過ぎる。
「そっか・・・・・。」
マリューを抱きしめたまま、ムウがぼそりと掠れた声で漏らした。
「俺、ムウなんだ・・・・・・・。」
微かに混ざる、寂しそうな色に、マリューは顔を上げると少しだけ体を離した。促されて、マリューの首筋から顔を離したムウが、真っ直ぐに恋人を見下ろす。
二人の絡まる視線が捕らえるのは、ムウでもマリューでもなく、確かに有った不思議な存在だった。
「ムウ、か。」
ぽつりと零された言葉にこもるものに、マリューは目を細めた。こつん、と彼が彼女の額に自身の額を押し付ける。
「ムウなのか・・・・・俺は。」
ムウの手が、マリューの頬を包み込む。ふうわりと、彼女が優しく笑った。
「そうよ。」
「・・・・・・・・そうか。」
忘れていた物が、たくさん胸に飛来し、思い出したくもない光景が溢れて、ムウはそっと目を閉じた。
傲慢な父親と、彼に踊らされた哀れな命。その命の哄笑と、堕ちかかった自分を助けた存在。
光をくれた人。
失ってしまったもの。
それらをひっくるめて、ようやく「自分自身」に戻れた気がして、ムウはマリューの頬にあてがっていた手を、彼女の髪の毛に添えた。そのまま、栗色の髪に絡めて抱き寄せる。
黙ってされるがまま、頭を抱きこまれ、マリューが目を伏せた。
すり、と胸元にすりよる彼女に、ムウは聞き取り辛い、小さく低い声で告げた。
「ネオのときは・・・・ムウはネオを許してくれるだろうかと思ったが。」
きゅうっと、マリューが強く抱きついてくる。
「いざ戻ってみると・・・・・あんまり変わんねぇのな。」
変わったことといえば、ただ、『間違っていた』記憶が消えたことくらいで、他は何も無かった。
何故自分がこの艦に対して違和感を得るのか、その答えが手に入っただけだったのだ。
それは、「ああ、そういえばそうだったな。」くらいの感慨で、衝撃を伴うことも無かった。
ふと、全てがしっくり来て、納得しただけなのだ。
「ムウに戻ったら・・・・・さ。世界が違って見えるのかと思ったけど。」
不意に腕を緩めて、ムウはいくらか困惑したような表情でマリューを見下ろした。
「そんなことは全然なくってさ。」
「・・・・・・・・・・・。」
「やっぱり、後悔してることは、後悔したままだし、その後悔の原因を作った時の事を思い出しても、やっぱりそれしか手段を選ぶ事が出来ないことに気づくんだ。」
ムウだったらどうしただろう。
そう思っていたはずなのに、いざ思い出しても、「ムウならこうしたのに」という特別変わった解答も出てこなくて、拍子抜けしたのだ。
「それは・・・・・・・。」
いくらか困ったように溜息を付くムウに、マリューが暖かい眼差しで彼を見た。
彼女の瞳の中心に居る自分に、ムウは目を細める。
「やっぱり、貴方は貴方でしかなくて、結局、どこまでいっても、選べる道は一つしかなかったって、事なのでしょう?」
「・・・・・・・・・・・・。」
くすっと笑うマリューに、ムウは「そうだな。」と小さく答えると真っ直ぐに彼女の瞳を見据えた。
そういえば、彼女の瞳に映る俺は、ネオでもムウでも一緒だなと、彼はぼんやり思った。
「君は・・・・・・。」
「ん?」
眠そうな声が、掠れて響く。シーツと毛布が擦れるような、衣擦れの音を立てて、ムウがマリューを包み込む。柔らかな彼女の頬に、自分の頬を寄せて、ムウは息を吐いた。
「いつでも、そんな風に俺を見てるよな・・・・・。」
「どうして?」
「俺が誰なのか・・・・揺らいでも仕方ないと思ったのは、君がどんな時でも俺を見てたから、なんだよな。」
もし、自分がそうだったらどうだろう。
マリューが記憶を失って、別人の名前を名乗って、自分を知らないと言い張ったら。
それでも俺は、彼女の本質だけを見詰める事が出来るだろうか。
彼女の仕草の向こうに、「マリュー」を垣間見る事はしないだろうか。
「俺の奥さんは偉大だな。」
くすっと笑って言われて、マリューの頬が真っ赤になる。
「お、おくさん!?」
声が裏返ってしまった。その様子に、ムウは忍び笑いをすると、「違うの?」と甘い声で訊ねた。
「ち・・・・・。」
掠れた小さな声が、もぞもぞと答える。
「違います・・・・・まだ・・・・・・。」
「まだ?」
「だって私、プロポーズされてないです。」
ごにょごにょと呟くマリューに、ムウは「そっか。」と小さく答えた。
「じゃあ、プロポーズしたら、奥さんになってくれる?」
「それはそう・・・・・・・。」
言いかけて、マリューは息を飲んだ。
「・・・・・・・・それがプロポーズですか?」
声に走る緊張に、ムウは「そう。」とあっさり答えた。
暫し二人の間に沈黙が落ちる。
「もっと気の利いた台詞は無いんですか?」
声に混ざる不満に、「ん?」と眉を上げて、ムウは抱き寄せていたマリューを離した。
むうっとにらみ上げる彼女の視線に、思わず吹き出す。片腕を突いて、ムウは横に身体を起こすと、うつ伏せになって見上げるマリューにそっと覆いかぶさった。
「結婚しよ。」
「・・・・・・・・・もっとロマンチックなのがいいです。」
「んー・・・・・・じゃあ、俺について来い。」
「どこがロマンチックなんですか!」
「俺の側に居て?」
「・・・・・私は側に居るだけは嫌です。」
「二人で幸せになろう。」
「具体案が欲しいわね。」
「家を買おう!」
思わず吹き出す。
「ぐ、具体的過ぎます。」
「毎朝君の手料理が食べたい。」
「お夕飯はいらないんですか?」
「訂正。・・・・・毎日、君の手料理が食べたい。」
「ダメ出しされた台詞はいや。」
「んー・・・・・・・じゃあ、ね。」
ムウがそっと彼女の耳を手で囲って唇を寄せる。
掠れた、密やかな、ひそひそ声が、二人の間の空気を震わせた。
「記憶喪失でも君を愛する奴なんか、俺くらいだからさ。俺にしておけよ。」
今ならオプションでネオも付いてきてお買い得だぜ?
「・・・・・・・・おいくら?」
上目遣いに見上げるマリューに、ムウは深いキスを落とした。
「今なら、全額マリュー・ラミアスでOK。」
吹き出して笑うマリューを、ムウは後ろから包むように抱きしめた。
「どうです?お客さま。今だけのご奉仕ですよ?」
買わなきゃ損々。
笑顔の台詞に、マリューは向き直って、のしかかる彼に腕を伸べた。
きゅうっと抱きつく。
「一生かけての分割払いでいいかしら?」
「マリュー・ラミアスの?」
「・・・・・・・・・マリュー・フラガの。」
掠れたマリューの、その声に。ムウが目を瞬いて、それから楽しそうな笑みを浮かべた。
「それはもちろん。」
ちう、とキスを落とす。
「十分すぎるよ。」
それっきり、二人の会話は途切れ、触れた温もりを溶け合わせるように、硬く硬く、抱き合うのだった。
(2006/12/30)
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