Muw&Murrue

 02 キスが足りない
「・・・・・・・・・・・・・・。」
 イカサマでもされたのだろうか。唇を引き結び、目の前にあるカードをテーブルに放り投げ、マリュー・ラミアスは恨めしそうに自分の婚約者を見上げた。
 たまには遠出でもしようよ、と金髪碧眼の男に誘われて、フラガ家が所蔵する湖畔の別荘へとやって来たのだ。
 お目付け役で有能な秘書のナタルを屋敷に留守番として置いてきて、彼女とゆっくり過ごそうとそう思っていたムウは大層ご機嫌で、カードに負けたマリューを見詰めている。
「どーかしましたか?マリューさん?」

 トランクの底からカードを取り出して、ゲームを持ち掛けたのはマリューの方だ。

 ただ二人で、別荘の前にあるテラスで、お茶を飲みながら鳥の声だけ聞いて遊べればいいなぁ、というそれだけの気分で誘ったのに、この妙に勘が鋭く、笑顔と陰謀と策略と智謀が渦巻く社交界を生き抜いている主人は別の事を提案してきた。

 カードゲームに負けた方が、勝った方の言い分を、この別荘にいる間中聞く、という提案だ。

 カードはほとんどやったこと無いマリューは、それはどう考えてもムウに歩が有ると言い張った。
 それに対して、じゃあ、五戦中、二勝でマリューさんの勝ちにしてあげる、といわれて、恐る恐る始めてみたのだ。

 初戦はもちろん惨敗。続く二戦目もとられ、肝を冷やした次の勝負で、マリューが勝った。次を取れば勝ちだったのに。

「ほいじゃ、俺のいう事聞いてもらおうかなぁ?」
 濃いグレーのベストに、白いシャツの襟を解禁にして、すっかり寛いでいる旦那様を、マリューが恨めしげに見上げた。
 渡る初夏の風が、木々をざわめかせ、普段は心地よく眠くなるそれが、マリューには不穏な嵐の前触れのような、不吉なものにしか聞こえなかった。
「それで・・・・・なんですか?」
 思わず、背もたれの細工が豪奢な、白い椅子を引き気味に、マリューが訊ねる。
 うーん、とテラスの屋根を見上げるような仕草をしてから、「じゃあねぇ。」とムウが底抜けに明るい笑顔を見せた。
「とりあえず、膝に乗って欲しいかな?」
「・・・・・・・・・・・膝?」
「そー。膝。」
 ぽんぽん、と膝の上を叩かれて、オマケに手まで広げてくる、フラガ財閥の若き頭首に、マリューは眩暈がした。
「何〜?マリューさん、約束破る気?」
「・・・・・・・・そ・・・・ういうわけじゃ・・・・・ありません・・・・・けど・・・・・。」
 恐る恐る立ち上がると、彼女の白いドレスの裾が、ふわりと広がった。軽い生地で出来たそれは、ワンピースで、遠くから見ると、ウエディングドレスのように見える。青いリボンが、背中で編み上げられて、首元で可愛く蝶結びになっているのを、ムウは間近で見詰めて小さく笑った。
「解いていい?」
「駄目に決まってます!!」
 赤くなって言い返し、ちょこん、とムウの膝の上に腰を下ろした彼女の手を、ムウはゆっくりと取った。
 白い手袋の上から、そっとキスを落とす。それから、背筋を伸ばしてあまり体重を掛けないように硬くなっている彼女の身体を、ゆっくりと自分自身の方に向くように促した。
 真っ青な瞳に捕らえられそうになって、マリューは思わず目を逸らす。
 そんな彼女に構わず、ムウは「マリューさん、可愛い。」と低い声で彼女の耳元に囁いた。
「・・・・・・・・ありがとうございます。」
 いまだ姿勢を正したままの彼女を、両腕で抱きこむ。バランスを崩しそうになりながら、でも己の身体を固くしたままのマリューのその手を、ムウは強引に取った。
「こっちに回した方が楽でしょ?」
 自分の首に回すように促す。
「ね?」
 それでも身体を密着させるのに抵抗があるのか、マリューはムウの肩に両手を置いたまま、居心地悪そうに身を捩った。
「は・・・・恥かしいわ。」
 彼女の腰を支え、俯くマリューを下から覗き込む。
「何で?」
「だ、だって・・・・・・誰かに見られたらっ」
「だあいじょうぶ。ナタルは屋敷だし、使いの者もそんなに連れてきて無いだろ?」
 気ぃ、利かせて皆今は母屋に戻ってるし。
 ね?と笑うムウに、何が「ね?」なんだ、とマリューは益々ほほを赤くしてうつむいた。
「駄目だってば、マリュー。」
 低い声が咎め、びくん、と彼女が顔を上げた。真っ直ぐに見詰める瞳に鼓動が一つ跳ね上がる。
「勝負に勝ったのは俺なんだから。」
「あ・・・・あれはっ・・・・・。」
「俺のお願いまだまだあるんだけど?」
「これで終りじゃないんですか!?」
 思わず目を見開くと、ムウは意地の悪い笑顔を浮かべた。
「あったり前でしょ。」

 そんな・・・・・・。

 思わず情け無い顔をするマリューの頬を、ムウが両手で包み込んだ。
「じゃ、次のお願い。」
「・・・・・・・・・・・。」
 ひたと見詰める眼差し。それからどうにかして逃れたいと願いながら、マリューは視線を引き剥がせない。

 そもそも。
 自分はこの人に絡め取られてしまったのだ。

 見も心も何もかも。

 そして、元は自分が仕えていた相手なのだから、逆らえるはずも無く。

「キスして?」
 嬉々として言われた台詞に、マリューは首まで真っ赤になった。

「え?」
 聞き間違い?ともう一度問い返すと、ムウが目の前で心底嬉しそうに笑う。
「だから、キス。」
 してくれないか?
「・・・・・・・・・・・・・・。」
「あれ?旦那様のお願い、聞けないわけ?」
 にやっと笑って切り札を出され、マリューはぎゅっとムウの肩を掴む手に力を込めた。
「き、キスですわね。」
 そうだ。
 別にたいしたこと無い。
 キスなんか、毎夜毎夜してるじゃないか。

 と、自分で思い返し、「毎夜」の下りでますます赤くなる。そんなマリューに、ムウが気付かないわけが無く。
「あれ?マリューさん、キス何か毎晩してるのに、今更なんで赤くなるわけ?」
 毎晩に力が入っている。
「し、知りませんっ!」
 可愛らしく怒鳴り返す彼女に、「え〜。」とムウはからかうような笑みを浮かべた。
「知らないわけ無いじゃん。俺と毎晩一緒に寝てるのに。」
「い、一々言わないでくださいっ!」
「赤くなるって事は、該当する事実に気づいてるって事だよな?」
 何想像したわけ?
 逃れようにも、腰を掴まれて、身を捩っても、ムウは強引に身体を寄せてくる。
「マリューさん、真っ赤だねぇ。」
 嫌がるように喉を逸らして、そっぽを向けば、すかさず首筋にキスが飛んできて、マリューは思いっきりムウをにらんだ。
 だが、相手は頓着せず、逆に綺麗過ぎる笑みを返してくる。
「んもう!どうしてそういう風にイヂワルするんですか!?」
 声を張り上げても。
「そういうマリューさんが可愛いから。」
 相手には通じない。

 げっそりするしかなくて、マリューは深いため息を漏らした。
 こうなっては、キスをするまで解放してもらえそうに無い。

「キスすればいいんですか?」
 いくらか投げやりに言われて、ムウが憤慨したように声を荒げた。
「んだよー。負けたのはマリューだろ?何なら別の命令でもいいんだぜ?ここで真昼間っから堂々とや」
「キスしますから!!!いえ、させてくださいっ!!」
 叫んで、マリューはそっとムウに顔を寄せた。

 まあ、キス、という指示だけで、どこへのキス、とは言われていない。

 木々の葉の間から降ってくる木漏れ日が、目を閉じたムウの顔に揺れる影を作る。時折吹く風が、ふわりと彼の前髪を撫で、マリューはそっと目を閉じると、額にキスを落とした。
 ちゅ、という軽い音と共に落とされた口付けに、ムウは目を開けて、至極真面目な顔でマリューを見た。
「・・・・・・・・次。」

 ・・・・・・・・次!?次だと!?!?

 ぽかんとするマリューに、ムウは「まずはオデコ。」と指折り数えている。
 それに、マリューが慌てた。

「ちょ・・・・・え?次って何ですか?次って!」
「だから、次だよ。」
「ええ!?」

 あわあわするマリューをぎゅっと抱き寄せて、ムウは彼女の髪の毛を酷く優しくすいた。

「一回で終わるわけ無いでしょ?」
 まだまだ足りないよ?
「・・・・・・・・・・・・・・。」
 笑顔を貼り付けて、自分を見詰めるムウの、その下に眠っている物を垣間見たような気がして、マリューは悔しそうに唇を噛んだ。

 知っていたはずじゃないか。
 旦那様の生きる世界は、笑顔の裏にどす黒い計略をめぐらせている世界だって。
 そんな世界でトップを行くムウに、自分がかなうわけが無いのだ。
 今回は、それを読み間違えた、マリューの負けだ。

「キス・・・・・・して?」
 にこにこ笑う・・・・・むしろ哂うムウを前に、マリューはぎゅっと目を閉じると、どこでもいいから、とちう、とキスをする。そんな様子に、数秒早く気付いたムウが、そっと彼女の唇に自分のを重ねた。
 ちゅ、と音を立てて離れるそれを、追いかける。捕らえ、びっくりするマリューの後ろ頭に手を添えて、抱え込んだ。

「んっ・・・・・・んぅー!?」

 何度も何度も何度も何度も。
 噛み付かれて、口腔を攻められて。舌を絡めとられ、吸い上げられ。
 しがみ付き、相手のことしか頭になくなった頃、ようやくムウが唇を離した。

 真っ赤になった目尻と頬。涙目で睨まれる。

「ムウっ!!」
「んー。」
 自分の唇をちろっと舐めて、ムウはマリューの頬にキスをする。
「全然足りない。」
「ええっ!?ちょ・・・・・んっ・・・・こ、ら・・・旦那さ・・・・・んんっ」

 膝の上に乗せた女に好き勝手にキスをして、マリューがくったりと力なく胸元にもたれかかるのに、ムウは熱い吐息をこぼした。

「あー・・・・・なんか、ベッドでしたくなって来た。」
「・・・・・・・・・。」

 まだ、昼間でしょうが!?とか、使用人たちはどうするんですか!?とか、色んな反論が脳裏をぐるぐるするが、キスで溶かされた脳内が、上手くそれを処理できない。
 ぎゅっとシャツを掴む感触に、ムウはそれを肯定と受け取った。
「じゃあ。」
 彼女を抱き上げる。
「足りないキスは、夕飯までの間に・・・・・・。」
 ほう、と溜息をつく彼女を抱き上げて、むき出しの、細い肩にキスを送る。それから、ムウはひょいっと後ろを振り返った。
「つーわけだから、晩飯の頃、呼んで?」

 木陰で、三時の紅茶をどうしようか、聞きそびれていた、お供についてきたキラは、その問にびくり、と身を強張らせた後、後ろを振り返るムウに、両手で丸サインをだして、そそくさと離れから離れて、母屋へと向うのだった。

「って・・・・・今のは何?」
「んー、なんでもないなんでもない。」


 お目付け役が居ないと本当に楽しいなぁ。


 捕まえた彼女を寝室へと連行しながら、ムウは心の底からそう思うのだった。







(2006/12/30)

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