Muw&Murrue

 六花吹雪
 真っ白なゲレンデの隅に腰を下ろして、冬の冷たく、遠い青空を眺めていたマリューはそこに舞い上がった人の姿に眼を丸くした。
「え?」
 目で追うと、くるん、と斜めに回転したスキーヤーがゲレンデに下りて、そのまま凄いスピードで滑走していくのが見える。
 結構きつい傾斜に、コブだらけのコース。
 立ち上がり、マリューはそちらへと、片足に嵌っているスノーボードを蹴って向かった。

 ネットで囲われたそのコースには、急斜面を埋め尽くす、かなり深いコブと、前にせり出すように出来上がっているジャンプ台のような物があった。
 2コースあるそれの、手前側を、手を上げた一人が滑り降りてくる。
「・・・・・・・。」
 目を見張るような速度で、まるで波に乗るように上下しつつジャンプ台まで来ると、勢いもそのままに宙に飛び上がった。
 今度は特に回転もせず、後ろでスキーをクロスしたあと、前に両足を蹴り上げる。滞空中にそれだけこなし、降りた斜面をもう一度滑り降り、再び空に舞い上がると、先ほど見たような回転をする。
 ほーっという歓声が見ている側から上がり、マリューはもう少し下のほうに降りると、たまっている人の間にもぐりこんだ。
 ざわざわとさざめく人の声の中に、「エアー」だとか「スピードが」とかいう単語が飛び出してくる。
(エアー・・・・・っていう競技なのかしら?)
「あ、次、フラガさんじゃない?」
(フラガ?)
 隣に居た白いスキーウェアーに、金髪が良く映える女性が、隣の黒っぽいスキーウェアーの女の子とはしゃいだように話している。
 顔を上げると、ずっと高いところに、一人の人が現われて、おどけたようにストックを振るのが見えた。
 あっちこっちから、きゃあ、と声が上がり、マリューはぴんときた。
 この競技で、女性に一番人気のある選手なんだろうと。

 こんな競技知らないし、見たことも無かったマリューは、その「フラガ」という選手がどんな人か良く知らない。
「・・・・・・・・。」
 なんとなく値踏みするような気持ちで見守っていると、一気にその人が滑り出した。

(わっ・・・・・。)

 先ほどの比じゃないスピードで斜面を滑走してくる。跳ね上がる両膝に顎を打つのではないかと思うが、柔軟に衝撃を受け止め、流れに逆らわずに制していくのが、素人でも分かった。腰は全く引けておらず、むしろ挑戦的な滑り方に、マリューはどきりとした。
 なるほど。
 素直にカッコいい。
 そのまま、人がいう「エアー台」なるものに差し掛かった彼は、勢い良く空に舞い上がり、白い雪を蹴立てた。スピードが落ちていないせいか、高い。くるんと回転すると、そのまま綺麗に着地して、上体がぶれる事無く、ターンを決めていく。
(・・・・・・・・。)
 二回目も転ぶ事無く決めて、そのまま真っ直ぐ滑降し、勢いのままスキーを止めると雪煙が盛大に舞い上がった。

 嘆息が上がり、拍手が起こる。タイムを測っていたチームの人間が選手にそれを見せてなにやら告げるのを、その選手は嬉しそうに聞いていた。

 手を上げてストックを振り回すその人を、歓声を聞きながらしばらく見とれていたマリューは、はっと我に返った。
 冬の透明な日差しに、その人の金髪が光っている。
(これは・・・・女の子がきゃーきゃー言うわけだ・・・。)
 なんていう競技なんだろう。
 誰かに聞くわけにもいかず、マリューはこっそりその場を抜け出すと、レストハウスに向かってゆっくりと降りて行った。


「マリュー、何してたのよ〜。」
「あ、ごめん。」
 途中ではぐれた友達に、ゲレンデの隅で休んでいた、と説明し、そこでやっていた競技が何か聞いてみる。
「ああ、モーグル。」
「モーグル?」
「そ。コブだらけの斜面を滑ってタイム、ターン、エアーで得点を競う競技。」
「ふーん・・・・・。」
「いかに綺麗にターンを決められるか、っていうものらしいわよ。」
 お昼を済ませて再びゲレンデに出ようとするマリューは、休みに降りてくるボーダーを見やった。
「・・・・・・・・・ねえ。」
「何よ?」
「・・・・・・・・私、やっぱりスキーにする。」
「ええっ!?」
 それに、友人は目を見開いた。
「ちょっと、何言ってるのよ!今回アンタに紹介する人、スノボのコーチよ?」
「うーん・・・・・そうなんだけど・・・・・。」

 さっきの競技・・・・モーグルが、マリューにはカッコよく見えたのだ。
 ちょっとだけやってみたいかな、と思うくらい。

「駄目よ、マリュー。」
「え?」
 がし、と肩を押さえ、友人が狙っている人も、マリューのために紹介する人もスノボなんだからと念を押す。
「スキーなんて、もってのほかよ。」
「・・・・・・でも・・・・・。」
 私別に、デートのつもりでここに来たわけじゃないし・・・・・。

 マリューとしては、雪遊びがしたくて来たようなものだ。
「だーめだめ!アンタはいっつもそう言って好き勝手なことしてるから、男に逃げられるんでしょう!?」
「いや・・・・そういうわけじゃ・・・・。」
「とにかく今、来るから。ね?」
 そこで待ってて!

 ぼん、と肩を叩かれて、とっとと駐車場の方へ、今回のイベントのメインである男性二人を迎えに行ってしまう友人を、マリューは溜息をついて見送った。
「別に・・・・私は特にスノーボードがしたいって訳じゃないんだけど・・・・。」
 ぶつぶつそんな事を思っていると、不意に騒がしくなって、マリューは後ろを振り返った。
「だから、俺は大丈夫だって。」
「いーや、駄目だ!頭打ったろ!?」
「まあ・・・・・少しだけど・・・・。」
 背中を押された背の高い男がみえた。
「何かあったら、困るのはこっちなんだよ。」
 そのまんま、レストハウスに押し込まれようとして、不意に男の視線がマリューを捕らえた。
 ゴーグルをしていないが、その人が先ほどのモーグルをやっていた人だと、マリューは気付く。
「大人しくここで休んでろ!いいか、俺がいうまで外に出るな。」
「や、そうもいかないんだよね。」
 眉を吊り上げる関係者に、男は素早く脳内で計算をすると、突然マリューの肩を掴んで引き寄せた。
「!?」
 道を空けようとして、後ろに下がった彼女は、突然の事に目を丸くする。
「この子、俺の知り合いの知り合いの友達で。」
「はあ!?」
「え?」
「いや〜、スキー教えてやってくれって頼まれててさぁ。」
「えええっ!?」
「フラガ・・・。」
 じと、と半眼で睨まれるも、男はお構いなしにマリューの腕を掴んでぐいぐいと木造の階段を上がり、レストハウスの中に引きずり込んでいく。
「そーいうわけだから、俺、この後、この子の指導するから。」
「フラガ・・・・大人しく休」
「何?スキー初心者?わかったわかった、ちゃんと転び方から教えてあげるから。」
「見え透いた嘘を」
「あ、ほら呼んでる呼んでる、行った方が良いと思うケドなぁ。」
 マリューの肩を抱いたまま、強引に中に入ると、男はばいばいと関係者に手を振り、勢い良くドアを閉めた。

「なっ・・・・・・。」
 口をぱくぱくさせるマリューに、「ゴメン。」と男は素直に頭を下げた。
「あいつ追っ払わないと、いつまでもしつこくてさ。」
 絶対中まで入ってきて、スタッフルームで永遠とお説教するんだぜ。
「・・・・・・・・・。」
 ほう、と息を付いて、髪の毛をかきあげる。その仕草に見惚れているマリューを、空色の瞳が捉えた。
「・・・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・。」
 何?と問うように目を細められ、柔らかく微笑まれて、マリューははっとぶしつけに眺めていたのに気が付いた。
「あ・・・・・じゃあ、あの・・・・私はこれで・・・・・。」
 慌てて外に出ようとするマリューを、「待った!」と捕まえる。
「きゃあっ!?」
「もうちょっと一緒に居てもらわないと困るんだよね、俺としては。」
「え?」
 ちょいちょい、と窓の外指差されて、マリューはこっそり外を見る。仁王立ちした例の男の人が居て、マリューは思わず男を振り返った。
「な?」
 渋面で言われて、吹き出す。
「ここで君だけ出て行ったら、まずいの、俺。」
「みたいですね。」
 あ、でも、とマリューは急に心配そうな顔で男を見上げた。
「頭打ったって・・・・・。」
「ん?あ、へーきへーき。大した事無いし・・・・。」
「本当ですか?」
「・・・・・・・・。」
 かげる女の褐色の瞳に、思わず男は目を細めた。それから、にっこり笑う。
「ま、君が言うんなら少し休んでようかな・・・・・。」
「え?」
「お礼に何か驕ってあげる。」
「あ・・・・・でも・・・・・。」
 友達が・・・・・・。
「あ、彼氏?」
 ぐいぐい手を引いて、食堂へ連れて行こうとしていた男が、振り返って気まずそうに頭を掻いた。
「・・・・・・・。」
「そりゃ、悪かった。じゃあ、こっちから出て行けば」
「あのっ!」
「ん?」
 非常口を開けてやろうと考える男に、マリューがぱっと顔を上げた。
「あの・・・・・・・お、驕ってもらわなくてもいいです。」
「・・・・・・・・・・。」

 脳裏に、この人が、綺麗に斜面を降りてくる姿が鮮明に浮かび上がる。
 またとないチャンスだと、マリューは手袋をはめた手をぐっと握り締めた。

「あの・・・・・よかったら・・・・・本当にスキー、教えてもらえませんか?」
「へ?」
「あの・・・・・本当はスノーボードするつもりできて、レンタルしたんですけど・・・・貴方が滑ってるのみて、スキーってカッコいいななんて思って・・・・。」
 私もあんな風にコブ、滑ってみたくて。
 ぱっと顔を上げるマリューの胸には、本当にそんな事しかなかった。

 あんな風に滑ってみたい、ただそれだけ。

「や・・・・でも・・・・・。」
 彼氏とスノボするんじゃないの?
 男の台詞に、あはは、とマリューは困ったように笑った。
「あ・・・・居ないんです。」
「え?」
「友達に、スノボのコーチ紹介してやるって言われて・・・・なんていうか、そういう流れでスノボだったんですけど・・・・・」
 今は特に彼氏が欲しいわけじゃなくて、友達が狙ってる人が、そのコーチの友人で、2対2じゃなきゃ、ってことで連れて来られたようなものなんです、とマリューは初めて会ったばかりの人に、あっけらかんと話した。
「・・・・・・・友達に悪いんじゃないのか?」
「いいんです。きっと抜け出して、二人で滑ろうと計画してたんだろうし、私、紹介された人と二人でスノボしてるのもちょっと・・・・なんで。」
 すっぽかした方が、あとから電話番号とかメアドとか聞かれたりしないで済みますから。
「・・・・・・・・。」
 ふーん、と男はまじまじとマリューを見た。
(変な女・・・・・・。)

 恋人同士のイベントとしてではなくて、本当に雪遊びがしたい、なんて。

「じゃあ。」
 くすっと笑うと、男はマリューの手を取って奥のほうへと歩いて行く。
「フラガさん?」
 スタッフルームを覗くと、このレストハウスのオーナーが目を丸くした。
「非常口、借りるな。」
 あと、スキー一式。
「・・・・・ちゃんと返してくださいよ〜。」
「わかってるって。」
 こっち、と彼女を案内し、奥のスキー一式がレンタルできるほうへ案内する。
「あ・・・・・お金」
「いいって。」
 俺、顔なじみだし。
「でもあの・・・・・・。」

 名前が出ない。

(フラガ・・・・・さんでいいんだろうか・・・・・。)

 あれこれ見立ててやっていて、不意に男が振り返った。
「えーと・・・・・・・?」
「あ・・・・・・マリューです。マリュー・ラミアス。」
 名乗った彼女に、男はキレイな笑みを返した。
「マリューさんね。俺はムウ・ラ・フラガ。」
 宜しく。

 ああそうか。

 にっこり笑われて、マリューは悟った。

 さっきの女の子たちが騒いでいたのは、この人のすべりだけじゃなくて。

(カッコいいからなんだ・・・・・・・。)

 見詰めながら、ちょっとラッキーだな、とマリューはこっそり笑うのだった。









 ごめんね、やっぱりスキーにします。


 一行だけマリューから送られてきたメールに、友人は唖然と口を開け、レストハウスの前で凍り付いた。


「なあ、良かったのか?」
「え?」
 ぱちん、と携帯を閉じて、借りてきたスキー靴のまま立ち上がったマリューに、ムウはおずおずと尋ねた。
「あ、いいんです。どうせ人数合わせだし。」
「・・・・・・・はあ。」
 あとでこじれたりしない?
 そういわれて、マリューはあっさり笑って見せた。
「後の事は後の事です。」
 さ、行きましょ。
 にこにこにこ、と罪の無い笑顔を見せるマリューに、ムウはますます「変な女」という感覚を強める。

 普通友達の事を優先するんじゃないのだろうか・・・・・。

「大体、私騙されたんだし。」
「え?」
 スキーを履いて、リフトの方に歩き出す彼女が、よろけながらぽつりと零す。
「ゲレンデについてから言われたんです。男のひと紹介してやるーって。」
 そんな話なら来なかったのに。

 ああ、なるほど。彼女は彼女なりに腹を立ててるわけだ。

 微かに膨らんだ頬に、ムウは「変な女」の後に「可愛い女」を付けたした。

「きゃっ」
 バランスを崩して、後ろに倒れそうになるマリューをやんわりと抱きとめる。
「ありがとうございます。」
「大丈夫か?」
「はい。」
 楽しそうに緩やかな斜面を登っていき、二人はリフトに乗り込んだ。




「フラガさ〜ん!」
「体重移動してっ!」
「曲がりません〜〜〜〜っ!!」
「だから体重」
「きゃあっ!?」
 どしゃ、と雪の上に倒れこむマリューに、ムウは腹を抱えて笑った。
「フラガさんっ!!」
「ごめっ・・・・・お、おかし・・・・・。」
 あはははは、と遠慮なく笑いながらムウはゆるく彼女の側に滑り降りると、ぺしゃん、と尻餅を付いて自分を見上げるマリューに手を差し伸べた。
「何回言っても曲がれないのな、マリューさん。」
「フラガさんの教え方に問題があるんだと思いますっ!」
「そうか?」
 よっこいしょ、と立ち上がり、マリューはムウをにらんだ。
「体重移動、って言いますけど・・・・どうやったらいいのかさっぱりわからないわ。」
 ぶーっと膨れるマリューに、ムウは(やっぱり可愛いなぁ)なんてろくでもない事を思いながら説明する。
「だから左に曲がりたいときは、左足に重心を・・・・・そうだ。」
 すいーっと、少しだけ降りて、ムウは自分の手袋を斜面に置くと、そこから少し下がって手を上げた。
「あれ、拾ってみてーっ!」
 滑りながらーっ!
「え?」
 ぽつん、と置かれているムウのグラブに、マリューはゆっくりと降りていくとボーゲンのまま手袋を左手で拾おうと屈んだ。
「わっ!?」
 そのまま身体が傾いでゆっくりスキーがターンする。
「そ。それが体重移動。」
「・・・・・・・・なるほど。」
 ぎゅ、とムウの手袋を握り締めて、これなら出来そうと、返しながら笑顔を見せた。

「おー、上手いもんだなぁ〜。」

 緩やかに降りてくる彼女を、下のほうから眺めて、ムウは目を細めた。

 うーん、やっぱりキレイなお姉さんがスキーするの、いいよなぁ・・・・。

「あっ。」
 と、思った瞬間、べしゃ、と尻餅を付く。やれやれなんて思いながら、助け起こすのも楽しくて、いそいそと斜面を上がっていくと、上から降りてきたスキーヤー(男)が彼女に手を貸すのが見えた。
「・・・・・・・・。」
 頭を下げて、笑顔を見せる彼女が、結構な急斜面で再びよろけて、ぽすん、と助け起こした男の胸元に倒れこむ。
「・・・・・・・・・・。」

 なんというか・・・・面白くない。

 手を借りて、もう一度姿勢を立て直して、マリューはほうっと息を付きながらムウの方へと降りて行った。

「結構転ばなくなったと思いません?」
「そーだね。」
「?」
 ふと、自分を見上げてくるこの女は、特に自分の友人でもなければ知り合いでもなく、ましてや恋人ではない事を思い出す。
「・・・・・・・マリューさん、いつまでこっちに居るの?」
「え?」
 ゲレンデの端によって、ちょっと休憩、と告げたムウの後についてきたマリューは、「今日はここに泊まって、明日の夕方に帰ります。」と笑顔を見せた。
「ふーん・・・・・・。」
「あの・・・・・フラガさんは?」
「え?」
「やっぱり、モーグルの選手なんですか?」
 それに、慌ててムウは「違う違う。」と手を振った。
「俺は地元の人間で・・・・・下のほうでペンションやってる。」
「あ、そうなんですか?」
「うん。活性化目指してさ、ああいう大会開こうって、仲間集めて。一応俺も大会には出るし、モーグル好きだし。」
「主催なんですか?」
 それに、偉くもなんとも無いんだけどね、とムウは笑った。
「一応、あのレストハウスも俺達が経営してる。」
「すごいんですね。」
 目を丸くするマリューに、ムウは苦笑した。
「大した事じゃないよ。手、貸してくれる仲間がいるし。」
「・・・・・・・・・。」
 不意にマリューは、この人は自分の知り合いでもなければ友人でもなく、自分の日常とはかけ離れたところで生活している人だと思い知る。

 休日、という非日常に出会っただけの人なのだ。

「寒くない?」
「え?」
 良く見ると辺りはオレンジ色になって来ている。昼が終わろうとしていた。
「あ・・・・・もう、こんな時間、なんですね。」
 楽しかったからつい、なんて笑顔を見せる。それに、ムウもどこか痛いような気がするのを隠して笑う。
「ん。俺も楽しかった。」
 どちらともなく互いを見詰めて、あはは〜、と誤魔化すように笑った。
「じゃ。」
「うん。」
 そのままレストハウスに向かって滑りながら、マリューは自分の前を行くムウの背中に目を細めて、ウェアーの立っている襟に顎を埋める。
「寒っ・・・・・。」
 風が冷たく感じられて、マリューは吐き出した白い吐息を眺めた。
 ちょっと残念だな、なんて思いながら。



 借りっぱなしだったボードとスキーを返して、マリューはムウが買ってくれたココアのカップを受け取る。
「あの・・・・・。」
「ん?」
「・・・・・・わがままに付き合ってくださって、ありがとうございました。」
 ぺこ、と頭を下げると、ムウがいいって、とにっこり笑う。
「最近ボーダーばっかりでさ。スキーヤーが増えるのは俺としても嬉しいし。」
「・・・・・・・・。」
 温かいココアのカップを両手で持ったまま、マリューはそこにある液体を眺めて、言葉を捜す。
 でも、良い言葉を思いつかないうちに、全部飲んでしまった。
「あ〜・・・・・来月、モーグルの大会、やるからさ。」
 同じように買ったコーヒーを飲んでしまったムウが、思い切ったように告げた。
「よかったら来てくれな。」
「あ・・・・・はい。なるべく頑張ります。」
「あ、いや、いいよそんな・・・・・。」
「・・・・・・・。」

 ひょっとしたらこれで最後なのかもしれない。

(メールアドレスとか・・・・電話番号とか・・・・。)
 聞こうかな・・・・・。
「あ、それと良かったら友達と、ここに来てみて。」
 そうだ、と側にあった紙ナプキンの裏に自分のやっているペンションの名前と位置を書いてムウはマリューに渡した。
「あの・・・・。」
「あ、フツーにね、居酒屋みたいなのもやってるからさ。」

 ご飯の後にでも飲みに来て。

(もっと話してみたいし・・・・・。)
 そんな台詞を言わず、何でもなく笑って見せた。
「はい。じゃあ・・・・・あの出来たら行きますね。」
「・・・・・・・・。」
 なんか・・・・・ひょっとして軽く断られてる?

 社交辞令で言われたような台詞に、ムウが内心がっかりするが、マリューはそんな様子に気付かない。
 本当にさよならを告げて、レストハウスから出ると、夕焼けにゲレンデが金色だった。手を降って遠ざかっていくマリューを見送り、ムウははう、とやるせないため息を付いた。

 これで終り、にするには勿体無いよなぁ・・・・・。

 かといって、「彼氏が欲しくて来たわけじゃない」とあっさり言い切ったマリューに、あれこれアプローチするのも気が引けた。そんな心理の女性を落とせるとも思えないし。
 もう一度溜息を付いた時。
「フラガーっ!」
「げっ・・・・・。」
 昼間巻いたスタッフが目を怒らせてレストハウスから出てくるのに直面し、やっぱり最後にお説教を食らってしまうのだった。





「ちょ・・・・何よそれ!?」
 自分の泊まっているペンションに戻ってきたマリューを、待っていたのは友人の膨れっ面だった。
「だから、二人ともここに泊まってるの。」
「き、聞いてないわよ!」
「だって、言ったら日帰りする気だったでしょ。」
「・・・・・・・・・・。」
 例の、紹介してあげる、と言われた男性と、すっかり仲良くなって友人と良い感じになっている男性が、自分たちと同じところに泊まっていると聞かされて、マリューはふるふると肩を震わせた。
 これでは結局四人で来たようなものではないか。
「ねえ・・・・・私はそんなつもり無いって、言ったわよね?」
「言ったけど・・・・でもね。」
 すっごく良い人なのよ?と必死に友人はもう一人をマリューに薦める。それに、マリューがぴんときた。
「ちょっと・・・・・もしかして、私とその人くっつけて、自分は彼と一緒にどっちかの部屋に泊まりたいとか思ってない!?」
 眉を上げて詰め寄られて、友人は「ばれたか〜。」と軽い笑みを浮かべた。
 それにマリューは絶句する。
「ね、ね、良い人だからさ〜。」
「良い人ってだけで一晩一緒に居ろっていうの!?」
「そりゃ・・・・・そうだけど・・・・・。」
 唇を尖らせる友人が言うには、一緒にスノボでもすれば絶対に自分が落ちるような良い男なんだって、ということだ。
 だが、マリューとしてはこんな素っ頓狂な事を考える友人の方が理解出来ない。
「それなら、最初っからあなたと彼だけで来ればよかったじゃない!」
 正論を告げると、友人は「そんな風に誘えるまで仲良くなかったしぃ。」と語を濁す。

 わがままだ。絶対!暴挙だわっ!

「だからね?今すっごい良い雰囲気なの〜、私と彼。だから・・・・お願いっ!」

 冗談じゃない。

「・・・・・・分かったわ。」
 冷たい音が出そうな視線を友人に向けて、マリューは言い放った。
「どちらの部屋でも好きなほうに泊まれば良いでしょ?私は今日、ここには泊まらないからっ!」





「えと・・・・・・。」
 教えてもらった位置とペンションの名前を確認して、こじんまりとした建物の前に立った。煉瓦作りが基調のような、暖かい色をした所だ。階段を上がって、ドアを押し開けるとドアベルがからんからんとなり、奥からエプロンをした背の高い女性が現れた。
 キレイな黒髪である。
「あら?お客さん?」

 そうだ。フラガさんってば、あんなにカッコいいんだから彼女とか奥さんとかいても不思議じゃなかった。

 急に後悔が押し寄せてきて、マリューは息を飲む。
「お泊り?」
「あ、い、いえ・・・・あの」
「お客さんかい、アイシャ?」
 と、その彼女の腰を抱くようにして、一人の男が現れる。
 こちらもエプロンをしているが、山男と言った雰囲気が似合う人だった。
「どうなのかしら?」
 悪戯っぽい視線を向けられ、一体この二人はなんなんだろう、と考えていたマリューは「あの・・・。」と切り出した。
「フラガ・・・・・さん、に聞いて・・・・ここ居酒屋みたいなのもやってるって・・・・。」
 それに、ああ、と男の方が納得したように頷き、「へ〜。」とアイシャと呼ばれた女性がマリューの顔を覗き込む。
「ふーん。」
「・・・・・・あの?」
 困惑する彼女に、「どうぞ、いらっしゃいませ。」と笑顔を見せて、女はマリューの手を引くと奥へと案内した。
 短い廊下を抜けると、直ぐにホールに出る。食堂と、煉瓦の壁で仕切られているそこの、奥にあるカウンターにムウの姿を見つけて、マリューはほっと息をついた。
 それと同時に。
「・・・・・・・・・。」
 女性客三名と、額をつき合わせて話をしている姿に、どきりとする。数時間前まで、自分の側に居た人とは思えない、大人の男の笑顔を見せる彼に、ずきん、とどこかが痛くなる。
 動けずにホールの端っこに突っ立っていると、アイシャがぽんぽんとマリューの肩を叩いた。
「お腹すいてない?」
「え?」
 そういえば何も食べずに出てきてしまった。
「うち、ご飯も出すの。」
 にこにこ笑う女性に、じゃあとマリューが笑顔を返す。
「アンディのご飯は一流よ。」
 うきうきとマリューを食堂に案内して、マリューはそこからカウンターに立つムウが見えないことに気付いてほっと息を付いた。

 仕事の邪魔しちゃ悪いものね。

 このまま顔をあわせないで出て行こう。

 持って来てくれたメニューに、「食事時間じゃないのにスイマセン。」と誤って、マリューはパスタを注文した。






「フラガさんの〜好みのタイプってどんなの〜。」
「え〜・・・・・・そーだなぁ・・・・・君らみたいなのは結構好みかも。」
 や〜だ〜、嘘〜。

 適当な会話をしながら、小さいカウンターを挟んで女性客をあしらっているムウは、やっぱりこないか、と時計を見上げて溜息を付いた。グラスを女の子たちに出して、じゃれてくる彼女たちの相手をする。
 なんというか、こう言う風にマリューさんも懐いてくれれば良いのになぁ、などと思いながら。
(って、会って数時間の女に何を思ってるんだか・・・・・。)

 そういえば、友人とは上手く行ってるのだろうか。

 その辺の事を聞き忘れた、とムウはカウンターのテーブルを見詰めて考える。
 ひょっとしたらあの後、例の男を紹介されているのかもしれない。
(今は恋人要らない、って思っていても・・・・そのうちってこともあるんだよなぁ・・・・。)
 急にムウは背中がそわそわするのを感じた。
 そうだ。
 あれだけ美人なのだから、恋人を作ろうと思ったら直ぐだろう。
「・・・・・・・・・・。」
「ムウさん?」
「え、あ、そだ、ビールとか飲む?」
 飲みま〜す、と良い感じで楽しくなっている三人に笑顔を見せて、ムウはカウンターから出た。

 もし・・・・・彼氏とか連れてるのを見たら。

 ビールの入っているサーバーは、厨房の入り口にある。グラス片手にそこによったムウは、良い香りが厨房からするのに気付いた。
 見れば、自分の友人が皿を持って食堂に歩いて行く。
(なんだ?こんな時間にお客?)
 食事時間は終わっている。
 何気なく食堂の方を覗いて。
 皿を持ってきた男に笑顔を見せる女性客を発見し、ムウはその場に凍り付いた。

「あ、フラガさん、明日なんですけど」
「悪い、ちょっとゴメン、俺席外すね。」
 奥にあるスタッフルームに声をかけると、なんですか?と冬にアルバイトに来る茶色い髪の少年が顔を出した。
「お前、そこ頼むな。」
「ええっ!?僕未成年ですよ!?」
 目を瞬く少年の肩を、ムウはぽんぽんと叩く。
「謝礼、弾むから。」
 俺のチャンスを台無しにしないでくれ。
「はあ。」
「頼んだぞ、キラ〜。」
「あ・・・・・ったくもー。」
 少年にその場を任せて、ムウは大慌てで食堂へと駆け込んだ。



「マリューさん!?」
 美味しいです〜、なんて男に笑顔を見せていたマリューは、飛び込んできた人物に「あ。」と目を丸くした。
「何やってるのさ、こんな所で。」
 ずかずかと歩いてきて、彼女の向かいに座っている男に無言の圧力をかける。
「お前がナンパしてきたんだってなぁ、彼女。」
 アンディ、と呼ばれた男に言われて、ムウは眉を寄せた。
「そういう言い方・・・・・ああもう、そうだよ。だからお前はお客の相手して来いよ。」
 ほら、行った行った!
 強引に男を押し出し、やれやれ、と肩をすくめる彼が居なくなるのを見届けて、ムウはいそいそとマリューの前に腰を下ろした。
「来てくれたんだ。」
「・・・・・・・ええ。」
「なら、声掛けてくれれば良いのに。」
 ぶすっとして睨むと、「だって。」とマリューは苦笑した。
「なんか・・・・・楽しそうでしたから。」
「え?」
「カウンターで。」
 見られてたのか、とムウは罰が悪そうに頭を掻いた。
「いや・・・・・あれは一応客商売としてだな・・・・。」
 くすっと笑うマリューが、それほど気にしているのではないと見て取ったムウは、内心こっそり息を付く。

 良かった。一人の頬にキスしてたのは見られてなかったか。

「それより、マリューさんこそどうしたのさ。」
 友達は?
「え?」
 それに、マリューは目を瞬くと、困ったようにうつむいた。
「それが・・・・・・。」

 淡々と話された内容に、ムウは「あー、なるほどね。」と渋面で答えた。

「随分と強引なオトモダチで。」
「・・・・・・そこまでする人だとは思ってなかったわ。」
 肩をすくめる彼女に、「じゃあ、今夜どうするの?」と何気なく聞く。
「・・・・・・・・・・。」
「・・・・・・決まって無い、とか?」
「近くにホテル、ありますから、そっちに泊まろうかなって。」
「お金かかるだろ?」
 勿体無い、と力説する男に、マリューは「フラガさん。」と溜息混じりに呟く。
「だからって、私・・・・全然あったことも無い人と一緒には泊まれません。」
「そう・・・・・だけどさ・・・・・。」
「野宿なんかしたら死にますわよ?」
「分かってるよ。」
 あさっての方向をみるムウに、マリューは苦笑すると、自分の時計を見た。
「あ、でもほんと、そろそろ宿探さないと。」
「あの・・・・・・・さ、マリューさん。」
「はい。」
 立ち上がりかける彼女に、ムウはなるべくなんでもない振りを装って切り出した。
「よかったら・・・・・・。」
「?」
「俺の部屋・・・・・・貸すけど?」
「え?」

 彷徨っていた二人の視線がぶつかり、二人ともどきりとする。

「えー・・・・・・あの・・・。」
「あ、俺なら別にどこで寝ても構わないし。なんなら廊下でもなんでも。」
「だ、駄目です!そんな」
「じゃあ、一緒に寝てくれるの?」
「!?」
 ばっと真っ赤になるマリューに、ムウは心拍が物凄く上がるが、それを宥めすかして、笑う。
「でしょ?」
「あ・・・・・いえ、そうじゃなくて!私、ホテル行きますから。」
「駄目っ!それはっ!」
「な、なんで」
「それは、」

 言って大丈夫だろうか、と脳裏に言葉が過ぎるが、ムウは思い切って吐き出した。

「俺がまだ、マリューさんと一緒に居たいから。」
 一晩中でも。

「・・・・・・・・・・・。」

 言われた言葉に、マリューは真っ赤になって、騒ぐ心臓の音に困惑する。

「あ・・・・・嫌なら・・・・・仕方ないけど・・・・・。」
 語尾が掠れて、それに、マリューの胸が痛む。
「・・・・・・・・・。」
「って、俺、変だよな。ゴメン、忘れ」
「あの・・・・・・・・。」
「?」
「本当に・・・・・・いいんですか?」

 溢れたマリューの言葉が、翻らないうちにと、ムウは思いっきり頷くと、逃がさない、とばかりにマリューの手を掴むのだった。





 厨房とホールの間を抜けて、スタッフルームのドアを開ける。廊下が目の前に広がり、左手の階段を上がって、一番奥にムウの部屋があった。
 カーテンが引かれていないその部屋は、ようやく上ってきた月の光が入って青白かった。
 ぱっと電気をつけて、カーテンを閉める。
「あ、ゴメン、寒いよな。」
 ベッドと机、クローゼットしかないそこで、ベッドの上に放り投げてあったクッションを二つ、フローリングの上に置く。
 くすねてきた、と笑うムウの手にはワインが一本とグラスが二個。それと缶ビールがいくつか入った袋をマリューが持っていた。
「適当に座って。ああ、温かい方が良いよな。」
 窓際にある暖房の方にマリューを押しやり、彼女が持っていたコートを受け取ったムウが、それをクローゼットに仕舞うと、さり気なく隣に腰を下ろした。
「ほいじゃ、乾杯。」
「はい。」
 本日はご苦労様でした、と白ワインが注がれたグラスを、二人はかちん、と合わせた。


「あ、じゃあマリューさんはOLさんなんだ。」
「ええ。」
 色々取りとめも無い話を続けて、話題はマリューのことへと移っていく。
「・・・・・・・一つ訊いて良い?」
「どうぞ?」
「なんで彼氏、欲しくないの?」
「・・・・・・・・・。」
「だって、マリューさんかなり美人だし、スタイルいいし。」
「そんな事・・・・・。」
「ちょっと本気出したら、ころっと男、ひっかかるでしょ。」
 軽い物言いに、むっとマリューが眉を寄せた。
「そういうフラガさんだって、楽しそうでしたわよ?」
 女の子と、額つき合わせちゃって。
 指摘されて、ぐっとムウが言葉に詰まった。
「・・・・・・・まあ、確かに女の子っていいよね。」
 あっさり認めて、ムウは壁に背中を寄せると、うーん、と天井を仰いだ。
「なんていうかさ・・・・・同じ人間だけど、俺達男には無いもの沢山持ってるし。」
「・・・・・・・・・・。」
「見てると面白いし。」
「面白いって。」
 くすくす笑うマリューに、ムウは「変かな?」なんて呟いて笑う。
「・・・・・・・好きなんだよね。」
「・・・・・・・・え?」
 どきっとして彼の方を見ると、ムウの瞳が自分を真正面から捉えているのに気付いた。
「誰とは言わないけどさ。」
「・・・・・・・・・・・・。」

 あ、やばいかも。

「上手ですね、フラガさん。」
 次の瞬間、マリューはニッコリ笑うとムウから視線を逸らした。
「そうやって女の子、口説くんですか?」
 ばくばくする心臓を宥めて、彼女は早口に尋ねた。
「・・・・・・・・ま、そうかな。」
 視線を外されて、半ばがっかりしながら、ムウはグラスに口を付けた。
「私は・・・・・・・。」
「うん?」
「男の人って良く分からないです。」
「・・・・・男だって女のこと、わからないよ。」
 けどさ、分からないから一緒になりたいって思うのかもよ?
 サラッといわれて、「また、そうやって!」とマリューが頬を膨らませた。
「口説いてるんですか?」
「口説くでしょう、普通。」
「・・・・・・どうして?」
「だってマリューさん、明日には帰っちゃうんだろ?」

 そのセリフが、つきん、とマリューの胸に刺さった。

 そうだ。
 そうだった。

 この人は私の友達でも恋人でも無いんだった・・・・・。

 戻ってくる日常に、彼の姿は無く、ここにこなければ会えない人。
 電話もメールも手紙も無かったら、けっして自分の生活には絡んでこない人。

 そう思うと、なんだか今が幻のようで・・・・そして、その幻の登場人物のようにムウが見えて、マリューは不意に衝撃を受けた。

 そんなのは・・・・・嫌だ。

 こん、とお酒の入ったグラスをフローリングにおいて、彼女は真正面からムウを見た。
 空色の瞳が、柔らかくて優しい。
「フラガさん・・・・もてますよね?」
「え?」
「もてるはずです。カッコ良いし・・・・素敵だし・・・・スキーお上手だし、女の子の扱い方うまいし。」
「それ、褒めてる?」
 頷いて深呼吸すると、ひたっとムウを見詰める。
「だから・・・・・きっと私のことも多分・・・・通り過ぎてくオンナノヒトの一人だと思うんです。」
「・・・・・・・へ?」
 いくらか酔っ払っている頭で、でもマリューは言い切った。
「でも、私がフラガさんのこと、好きでいるのは・・・・自由ですよね?」
「・・・・・・・・・・・。」
 ぱ、とグラスを取って、くーっと飲み干すと、たん、とそれを床に置く。
「ずっとずっと、好きでいますから、遠くでも。」
「あ・・・・・・・・。」

 一気に摂取したアルコールが、徐々に身体を熱くしていく。ふわ、と揺れた視界に、呆気に取られるムウを見て、マリューは満足そうに笑った。

 手を差し出す。

「明日にはお別れですから・・・・・忘れてもらっても良いんです。でも、私は・・・・・多分、結構好きですから、フラガさんのこと。」

 にこお、と笑う女に、ムウは息を飲む。

(って、ひょっとして俺の方が口説かれてる!?)

 どきん、と心臓が跳ねて、ムウは手を伸ばすとしっかりと彼女の手を握った。その瞬間、電気が走ったような気がして、ムウはそのまま、ぐいっと勢い良く彼女を自分の方に引き寄せた。
「あ」
「マリューさん・・・・・・。」

 俺だって、マリューさんのこと、好きだよ、きっと。

 そう告げると、微かに彼女の身体が震えるのが分かった。

「他の男と一緒に、俺に会いに来たら、すっごくイヤだってくらいには・・・・好きだよ。」
「・・・・・・・・・・。」
 背中に、そっと手を回して、ムウはぎゅっとマリューを抱きしめてみた。すっぽりと腕の中に納まる感触が気持ち良い。ぎゅっとすると、尚更だった。
「マリューさん・・・・・・。」
 室内に沈黙が落ち、二人の鼓動だけが、空間を埋める。重なり合う二人の体温があまりにも気持ちがいいので、ずっと抱きしめ続けるが、やがてそれも我慢の限界で、キスの一つもしてやろうと、そっとムウが身体を離した。
「マリュー・・・・・・」

 と、その時。

「・・・・・・・・・。」
 いつの間にか、その暖かさと心地よさに、酔っ払ってムウの腕の中で気持ち良さそうに寝ているマリューを発見してしまった。
「あ・・・・・・・・。」

 そうだった。

 昼間、結構滑ったんだった・・・・・・。

(俺の馬鹿〜〜〜〜っ!)

 すやすやと寝息を立てるマリューを前に、ムウはがっくりと肩を落とした。
 疲れてる女にワイン三杯と、缶ビール二本も飲ませた事を激しく後悔する。

「・・・・・・・・・・・。」
 でもいいか。
 寝顔が見れただけでもラッキーかもね。
 酔っ払って寝てる女にどうこうする趣味は無いが、でも惜しいのでそっと抱き上げると、電気を消し、ムウは彼女をベッドの中に引きずり込んで真正面から抱きしめた。
 ふわり、とマリューの体温が肌全体に触れる。
「マリューさん。」
 ちゅ、と額に口付けを落として、ムウはそっとささやいた。
「マリューさん?」
「んう・・・・・・。」
「ねえねえ、マリューさん?」
「ん・・・・・・・。」
 寝ぼけているのか、ふぅん・・・と答える彼女に、調子に乗って続ける。
「なあ・・・・・俺の彼女になってくれない?」
「ぅん・・・・・・。」
「いいだろ?俺だけのマリューさんでいてよ。」
「んん・・・・・・。」
「なあ、マリューさん?マリューさんってば。」
 くすくす笑って、ムウはぎゅうっと彼女を抱き寄せて、ころっと寝返りを打った。
「・・・・・マリュー。」
「ん・・・・・・・。」
 髪の毛に、指をくぐらせる。そのまま、そうっとムウは彼女の唇に軽いキスを落とした。
「俺に、全部ちょうだいよ・・・・・。」


 暖かい布団の中で、まどろんだまま、マリューは無意識にムウのシャツをぎゅっと握り締めると、夢うつつにこくん、と一つ頷いたようだった。






「ん・・・・・・・。」
 ほっこりと暖かく、ぽか、と目を覚ましたマリューは混乱する。
「えと・・・・・・。」
 なかなか起動しない頭は、現状を把握してくれない。薄く闇が立ちこめ、泳がせた視線の先に、カーテンが見えた。
「・・・・・・・・・。」
 まだ夜は明けていない。暗さの残るそこを眺め、床に置かれているグラスと缶ビールを見つけて、はっとマリューはこわばった。
「あ・・・・・・・。」

 そうだ。ここ、フラガさんの部屋だ。

 いつの間にか眠ってしまっていたらしい。そういえば、なにか大胆な事を言ったような気がするが、思い出せない。
 とにかく、廊下で寝ているであろうムウを呼び込まなくちゃ。
 あわあわとベッドから降りようとして。
「?」
 不意にお腹の辺りから何かがずり落ちるのを感じ、マリューは横を向いたままの態勢で固まった。
「ん・・・・・・・。」
「!?」
 明らかに自分の声とは違う声が、後ろからする。腹から落ちて、背中の辺りにぶつかっていた手が、つ、と持ち上がり、ぐっとマリューの腰を抱きしめた。
「マリューさん、寒い・・・・。」
「!?!?」
 ずずず、ど抱き寄せられ、ぎゅっと胸元に抱きしめられる。
 その感触が酷く身体に馴染んでいて、マリューはかああっと耳まで真っ赤になった。
「ふ・・・・・・・。」
「ふ?」
「フラガ・・・・・さん・・・・・!?」
 ぎし、と固まっているマリューの声に、「うん。」と答えて、ムウは気持ち良さそうに彼女の首筋に鼻先を埋めた。
「まだ夜明け前だろ?」
「・・・・・・・・・。」
「もうちょっとこうしてよ・・・・・。」
「じゃなくて!」
「ん?」
「・・・・・・・・・・・・・。」
 ぱ、と両手に顔を埋めるマリューを上体を起こしてムウは眺めた。
「マリューさん?」
「あの・・・・・・わた・・・・・し・・・・・。」
「うん。」
 唇を軽く寄せると、耳が熱い。真っ赤になっているのが容易に想像できた。
「・・・・・・・・・・ふ・・・・・・フラガさん・・・・・と・・・・・・。」
 ごにょごにょと言葉を濁らせるマリューに、ムウはちょっとだけ意地の悪い笑顔を浮かべた。
「マリューさん、大胆だったよ?」
「!!!!!!」
「すっごく綺麗で・・・・・。」
 ちゅ、と首筋にキスをすると、くるっと腕の中で寝返りを打った彼女が、涙目でムウを見上げた。
「あの・・・・・あの・・・・っ・・・・・わ・・・・・私っ!私っ!!」
 そのあまりにも慌てた様子が可愛くて、ムウは我慢できなくなって吹き出した。
「え?」
「嘘。」
「う・・・・・!?」
「何もして無いよ。」
「!!!!!」
 視線で、うそでしょ!?と問いかけるマリューに、ムウはそっと額を押し当てると目を閉じた。
「嘘じゃないよ。指一本・・・・・・多分触れてない。」
「多分ってっ!」
 真っ赤になるマリューに、ムウは「服着てるでしょ、俺も君も。」とあっさり指摘し、マリューは慌てて全身に手を滑らせた。
「な?」
「・・・・・・・・・・。」
「涙ぐましい俺の努力の結晶だよ。」
 情けなく肩を落として見せると、スイマセン、とマリューが小さく呟いた。
「私・・・・・・・。」
「抱き寄せたら、そのまんま寝ちゃってさ。癪だからベッドに連れ込んじゃった。」
「フラガさんっ!」
「だって本当の事だし。」
「・・・・・・・・・・・。」
 俯き、布団を被るマリューに、ムウは小さく笑うと、ベッドを抜け出そうとした。
「あ・・・・・。」
 思わず、逃れていく温もりにすがるように手を伸ばす。
「あの・・・・・。」
 訴えかけるようなマリューの眼差しに、ムウは苦笑した。
「このまま寝られないでしょ?」
「・・・・・・・。」
「酔った勢いでも無い限り。」
 そっと手を伸ばして、ムウはマリューの頬に優しく触れた。
「俺も、起きちゃったらもう、何もしない自信無いし。」

 実のところ、ついうっかり触れたマリューの首筋の感触に、半分以上理性が吹っ飛びそうになっていた。

「でも・・・・・・。」
「廊下でも寝られるから。」
「駄目です!私が・・・・・。」
「女の子、廊下に寝かせるわけには行かないでしょうが。」
 窘められて、ぎゅっと上掛けを握り締める。
「それに。」
 ずいっと顔を突きつけて、ムウは哂って見せた。
「良く知りもしない男と、一晩一緒に・・・・なんて嫌だろ?」
「・・・・・・・今まで寝てましたから。」
「俺、理性なくしちゃうよ?」
「・・・・・・・・・・。」
「な?」
 すっと身体を離して、ムウはふわあ、と欠伸をすると大きく伸びをした。
「・・・・・・・・・・。」

 この人は、自分の知り合いでも友達でも恋人でもない。

 再び巡ってきた同じ考えに、ぶる、とマリューは首を振った。

(違うっ!そうじゃない!!)

 この人は自分の知り合いでも友達でも、ましてや恋人でもない。
 でもないけど、それがどうしたっていうんだ。

 知り合いじゃなきゃ手を繋いではいけないの?
 友達じゃなくちゃ、自分の事を話しちゃいけないの?

 恋人じゃなくちゃ、親しくしてはいけないの!?

(違う違う違う!)

 得たいが知れない。知り合ってからの時間が足りない。相手を良く知らない。
 そんな事は百も承知だけど。

 だけど。

 それだけで、今を逃したら触れることすら出来なくなるのを、捨てても良いの?

「フラガさんっ!」
「うわあっ!?」
 気付いたら、部屋から出て行こうと、ドアノブに手を掛けているムウに、吃驚するくらい大声で声を掛けていた。
「そ・・・・・・・。」

 だって。

 後悔はしない。

 今の気持ちは真っ直ぐだから。

「それでも・・・・・いいですっ」
「・・・・・・・・・・・へ?」

 間抜けな返事を返した男を、痛いくらい真剣なマリューの眼が射抜いた。

「・・・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・・・。」
 引き返せない強い思いが二人を繋いで引き寄せて。

「後悔、」
「しません!」
 言い切ったマリューに、ムウはふっと偉くカッコよく笑うと彼女の耳元に口を寄せた。

「――――なんて、させない。」

 そのまま、甘く優しく、蕩けるように口付け。

 強く強く抱き合い、温もりの一番奥の、深い所まで一緒に落ちて行くのだった。




※※※※




「マリューさん?」
 促されて目を開けて、マリューは目の前に居るムウに息を飲んだ。
「ふ・・・・・・フラガさん・・・・・・。」
 くすっと笑うと、男はちゅっとマリューの額に口付けを落とした。
「おはよ。」

 昨夜の記憶を引っ張り出して、かあっとマリューは赤くなった。

「お・・・・・・はよございます・・・・・。」

 切れ切れに呟かれた台詞に、ムウはくすぐったそうに笑うと、「良く眠れた?」なんて訪ねる。
 マリューは自分の身体に回されている腕と、その間にほっこりと漂う温もりに、自分が随分と安堵して眠っていたのに気付いた。
「は・・・・・・・い。」
 おずおずと視線を上げて、マリューはあの、と切り出した。
「あの・・・・私・・・・・いつ寝ちゃったんです?」
「ん?ん〜・・・・・・。」

 ムウはあれこれ思い出し、なにやら数えると、小さく笑った。

「内緒。」
「フラガさんっ!」
「とにかく、腹減ってない?」
「ええ!?」
「食堂、朝食の時間だしさ。」
 行こうよ?
 笑んで起き上がると、ムウはマリューの手を握って引き上げた。




 朝の光は眩しくて、一緒に朝ごはんを食べたマリューを、ムウは彼女のペンションまで送るよ、と申し出た。
「ん〜、今日も良い天気だなぁ〜。」
 空は昨日と変わらず快晴で、吐く息が凍っている。白と蒼と、朝の太陽の、透明な光が溢れる世界で、マリューは半歩前を歩くムウを、マフラーに埋もれたまま見上げた。
「なんかさ、散歩日和だよなぁ。」
「え?」
 不意に何かを悟ったのか、のんびりとムウが言うと、そっと探るように右手を彷徨わせる。
「・・・・・・・。」
 こつん、とぶつかったマリューの左手を、そっと掴んで握り締める。
「そう思わない?」
 ちらっと見上げると、ムウは相変わらず前を見たままで、でも、どこか照れているようにも見えて、マリューはくすぐったい気持ちを抱えたまま、きゅっとその手を握り返した。
「そうですね。」
「だろ?」
 雪を踏みしめる音しか、聞こえてこない。繋いだ手が暖かくて、マリューはマフラーに埋もれたまま泣きそうになった。

 素直に、放したくない。

「あの・・・・・フラガさん。」
 自分の泊まるペンションの前に付き、手を放さなくてはならなくなって、マリューは思わず顔を上げた。
「フラガさんっ・・・・・あの・・・・・。」

 その時、ドアが開いて、スキーウェア姿の友人が姿を現した。
「あー、マリューっ!!!」
「え?」
 彼女を認めて、友人がどかどかと階段を下りてきた。
「何やってたのよ、一晩中!」
 肩を怒らせる友人に、「何って・・・・・。」と繋がれている手を握り返した。
「・・・・・・・・こちらは?」
 改めてムウを見上げて、友人が固まった。

 そういえば面食いだったなと、マリューは頭の隅っこで思う。
 なるほど、固まるわけだ。

「あの・・・・・・。」
 何か言うより先に、男二人が降りて来て、マリューを見て眼を丸くする。
 あれが友人の恋人もどきと、その友達か。

 気まずい沈黙が落ちた。

「ねえ、マリュー。」
 不意に友人が沈黙を破る。
「何があったのかは訊かないけど・・・・・でも、とりあえず今日は一緒に滑ろう?最後だし。」
「・・・・・・・・・・。」
「あ、こっちが昨日から言ってたスノーボードの」
「待って。」
 とりあえず紹介してしまいたい友人の台詞を断ち切って、マリューはぐいっと顔を上げた。
「私・・・・・・今日も滑らないから。」
「・・・・・・・・は?」
 間抜けな返答をする友人を前に、マリューはぎゅっとムウの手を握り締めた。

(あ。)

 それに、ムウがぎゅっと握り返してくれるのが分かり、マリューはどきりとした。
 繋がっている部分から、気持ちが流れ込んでくる。

「わ・・・・・・私っ!」
 この人のこと、好きなんですっ!!!

 そんな台詞を。

「マリュー。」

 ぐいーっと彼女を抱き寄せた男が、自分の唇を、唇に押し当てて塞いだ。

「!?」

 唖然とする三人の前で、彼女の腰が砕けるまで口付けると、にっこりとムウが笑う。
「悪いんだけど。」
 真っ赤になって自分を見上げるマリューを抱きしめたまま、ムウは笑顔のまま告げた。
「マリューの事は俺が引き受けたからさ。」
「・・・・・・・・・・。」
「申し訳ないけど、三人で滑ってきて。」
「フラガさ」

 何かを言いかけたマリューの唇を再度塞いで、ムウは思う存分人前で口付けると、ほやっと自分を見上げる女に、柔らかい笑顔を見せた。

「だからさ、荷物、持っておいでよ?」
「・・・・・・・・・・・・。」
「時間まで、一緒に居よう。」

 それでさ。

 明日からのこと、考えようぜ?


 告げられて、マリューは嬉しそうに笑みを返すと、ぎゅっとムウの手を握り返した。







 メールするから。
 電話するから。
 会いに来るから。
 会いに行くから。

 必ず。約束するから。




「フラガさん!」
 ぱっと笑顔を見せ、バック一つでバスを降りたマリューが、迎えに来たムウに向かって駆け寄る。
「久しぶり。」
「ええ。」
 あれから三週間後。三連休を利用して、マリューがムウの元に来たのは、土曜日の早朝。まだ暗いそこで、金曜日の夜に深夜バスに乗ったのだと、笑顔を見せるマリューを、ムウは両手で引き寄せると、ぎゅーっと抱きしめた。
「フラガさんっ!」
 窘めるように言うが、訊いていない。
「・・・・・・・・おかえり。」
「え?」
 首筋に触れるムウの感触が暖かくて、うっとりしていたマリューは、その言葉に目を瞬いた。
 身体を離して、空色の瞳の中に自分が映りこむのを確認する。
「・・・・・・・・・。」
「おかえり、マリューさん。」

 くすっと一つ笑って。

「・・・・・・ただいま。」

 おかしそうに笑うマリューに、ムウは深く深く口付ける。

 二人だけの週末が、今から始まろうとしていた。




(2006/02/16)

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