Muw&Murrue

 野原の向こう
 結婚したばかりのキツネの奥さんの話を聞いて、アイボリー色の小さなウサギのマリューは、うきうきと自分の家に向かいました。
 彼女は街の外れにある、大きな森の中の、これまた大きな樫の木の根元に住んでいます。
 彼女は去年の冬までたった一人で暮らしていました。
 小さな木苺のついた、蔦を編んで作ったバスケットを売って暮らしていたのです。

 でも、今は違います。

 樫の木の根元に、一匹のオオカミが蹲っています。秋の木の葉のような金色の、大きくて立派なオオカミです。ウサギなんか、頭から一呑みにしてしまいそうな、オオカミです。
 彼は投げ出した前足の上に顎を乗せて寝ていました。
 春の香りが森一杯に立ち込める午後でした。
「ネオー。」
 不意にやってきた、風に混ざった良く知る香りと、かすかな声に、ネオと呼ばれたオオカミは弾かれたように起き上がりました。
 ちゃんと地面に座って、彼女のやってくる方向を今か今かと見詰めています。
「ただいま。」
 草むらの向こうから、水色の頭巾を被ったマリューが歩いてきました。おそろいのエプロンが吹いてきた優しい風にふわりと揺れます。
「おかえり。」
 精一杯なんでもない振りをして、自分を迎えるネオの尻尾が、嬉しそうに動いているのにマリューはくすくす笑います。
「心配しました?」
「全然。」
 嬉しそうにマリューの顔をなめるネオが、やっぱり自分が街に行くのを心配してるんだなと、彼女は気付きました。
 小さな手を伸ばしてマリューは、ぱふ、とネオの首に抱きつきました。
「心配なら一緒に来ればいいのに。」
「それはちょっと・・・・・。」
 歯切れの悪くなるネオに、困ったオオカミさん、と笑うと、マリューは自分の持っていたバスケットを開けてネオに見せました。
 甘い香がします。
「ラクスさんから頂いたの。」
 中には、雪のように真っ白で、艶やかな苺の乗った大きなケーキが入っていました。
「すっげ・・・・・・。」
「一緒に食べましょう。」
 笑って言うと、嬉しそうにネオがしっぽをぱたぱたと揺らしました。


 ネオとマリューはオオカミとウサギです。


 種族の違う二匹ですが、一緒に暮らしていましたし、お互いがお互いの事を本当に大事に思っています。

 二人の間には、いろんなことがありました。

 その中で、街に住む動物たちに内緒にしていることもあります。

 でも、これは内緒なので、ここではいいません。だってネオとマリューに怒られてしまいますから。

 とにかく、この風変わりな二匹は仲良しで、今も並んで木の根っこに腰掛け、白ウサギのラクスから貰ったケーキを仲良く食べています。
 舌に甘いケーキは、ネオの好物でした。このオオカミは変わっていて、甘い物が好きだったのです。
「あのね、ネオ。」
 春の日差しがうっとりするほど綺麗で、ぽかぽかと暖かいその中で、マリューはネオのおなかの辺りにもたれかかってつぶやきました。
「うん。」
 尻尾でふわっとマリューを包んだネオが前足についたクリームをなめています。ふさふさと目の前で揺れるネオの尻尾を、ちょんちょんと触りながら、マリューは「野原の向こうに何があるか知ってる?」とそっとネオに訊ねました。
「野原の向こう?」
「そう。この森の南西に、大きな大きな野原があるのは知ってるでしょう?」
 それに、ネオは「ああ。」と小さく頷きました。

 南からの風が良く通る、広い広い野原。
 見渡す限り草ばかりで、森も山も見えない野原。


 羊雲と、青空ばかりが広がる野原に、森の動物たちは少し恐れを抱いていました。

 果てが無いからです。

 どんなに鼻のいい動物が、その先に何があるのか嗅ごうとしても、溢れる花の甘い香に途切れてしまいます。
 どんなに目のいい動物が、その先に何があるのか探ろうとしても、飛び込んでくるのはキレイな緑と青ばかりで、目を回してしまいます。

 そして、唯一その上を飛んでいける鳥は、決まって方向感覚をなくして、ふらふらと戻ってくるのでした。

 どこまでも、どこまでも尽きない野原。

「流石の俺も、知らないな。」
 首をかしげて、お腹の辺りを見ると、うん、とマリューが頷きました。
「私も、知らないの。」
「それがどうかしたのか?」
「うん。」
 こっくりと頷くと、マリューはまた少しだけネオの尻尾を撫でました。
「その野原でね。キツネの旦那さんが見たんですって。」
「何を?」
「その野原を渡ってきた人間を。」

 それに、ネオが微かに嫌そうな顔をしました。そういう普通じゃないところからやってくる人間など胡散臭い奴に決まっているからです。

「で、その人間、どうしたんだ?」
 尻尾でふわふわとマリューを撫でながら、ネオは気の無い調子で聞きました。
「そのまま北の方に行ってしまったんですって。」
「ふ〜ん。」
「それでね、次の日に。」
「まだあるのか?」
 こっくりと頷くマリューに、ネオは目を見開きました。
「次の日に、その人が戻ってくるのに、旦那さんは鉢合わせたんですって。」
 それでね、人間の腰くらい有る高さの草を掻き分けていってしまったんですって。」
「・・・・・・・・・・。」
「それでね、また次の日に。」
「まだあるのか!?」
 またまた吃驚するネオに、マリューは苦く笑いながら続けました。
「ええ。またその人がやってきて、次の日に帰っていったんですって。」
 それがここ何日もずっと続いているの。
「・・・・・・・・・。」
 ネオはまじまじとマリューを見た後、しばらく黙り込みました。それに気付かず、マリューが興味津々といった眼差しを彼に送ります。
「ねえ、その人一体何者なのかしら。それからどうして行ったり来たりを繰り返しているのかしら。」
「さあね。」
「ネオ。」
 ふいっとそっぽを向いて、ネオはバスケットに顔を突っ込みました。中には白いケーキがまだ、半分以上残っています。
「あ、こらっ!」
「野原を行ったり来たりしてる奴なんかより、俺はこっちの方が気になる。」
 口をクリームだらけにして笑うネオを、マリューはもう、と耳をぴんと立ててにらみました。
「私にも半分ください!」

 でも、本当はネオもその人間が気になっていました。
 誰も、野原の入り口から先には進まないそこを越えてやってくる人間なんて、信用ならない上に、不気味です。
 そのうち自分たちに害を及ぼすようになっては困ります。
 ネオは自分のお腹の辺りで、自分の尻尾を抱きしめたまま昼寝をするマリューを、そっとなめました。

 彼女と自分は、本当に苦労をして、ようやく一緒になったのです。
 それを壊すような事は起きて欲しくありません。

 さあ、どうしようか。

 ネオは春の日差しの中でくわあ、とあくびをすると、そっとマリューの額に自分の鼻先を寄せました。
 そのまま一緒にまどろみながら、明日、一人でその野原に行ってみようと彼は心に決めるのでした。




 次の日、マリューがバスケットを売りに街に行くのを見送ってから、彼は木綿の布に、マリューが作って置いておいてくれたお昼ご飯のサンドイッチを包むと首から提げて出かけました。
 目指す野原まで結構あります。夕方までには帰ってきたいネオは、半分走るように歩き出しました。
 柔らかい春の土を踏み、ふわふわと目の前を横切っていくモンシロチョウを見送り、浮かれるような足取りで、ネオは快調に進んでいきます。
 途中喉が渇いて、小川で冷たい水を飲み、ふうふういいながら歩き続け、ネオはようやく森の端っこへとたどり着きました。


 目の前に丈の高い草が広がっています。それから永遠と続く空。のんびり流れていく雲が、昨日食べたケーキのようで、ネオはぐうっとお腹が鳴るのを聞きました。四つ有るサンドイッチのうち二つだけ食べ、ネオはそっと草むらに頭を突っ込んでみました。

 ざわざわ。ざわざわ。

 風に揺れる草の音だけがこだまします。次に鼻を空中でふんふんさせて見ます。

 何かの花の甘い香が鼻一杯に広がって、ネオは頭がぼんやりするのを感じました。

 いけないいけない、と彼は首を振ると、鋭い空色の瞳で草むらを睨みます。

 でも、目にまぶし新緑の緑のほか何も目に付きません。

 不思議な草原だな、とネオは思う反面、どうにも背中がざわざわするのを感じました。
 この野原は、ただ事ではないとネオの尻尾が感じるのです。

 すると、どこか近いところの草が掻き分けられる音がして、ネオは反射的に近くの森の、木の陰に隠れました。ネオの口ひげがびりびりしました。身を伏せて、尻尾をいかくするようにふうわりと揺らします。

 ざわざわ、ぱきぱき。

 草を踏む音と、小さな小枝を踏む音が間近に響き、やがてネオの見ている草むらから、一人の人間が現れました。
 かいだ事の無い香りが、ネオの鼻を差します。思わず顔をしかめた彼は、それでもその人物が何者なのかを見極めようと、我慢して人間を見ました。

 真っ赤なマントに、裾の膨らんだズボン、茶色のブーツに黄色のシャツを着た男でした。
 頭には平たい帽子を被っています。背中には、大きな麻で出来た布袋を背負っていました。
 香はその袋から漂ってくるようです。
 ただし、袋は空っぽで、ぺっしゃんこでした。
(何かが入っていた・・・・のか?)
 大股で歩いて行く男を見送り、ネオはその男が森の木立の向こうに消えるのを十分に待ってから、後を追い始めました。
 見えなくたって、オオカミのネオにはへっちゃらです。なにより、強烈な香りが男からしてくるのですから。




 その頃、籠を売り終えたマリューは、春の森の中をうきうきと歩いていました。
 日差しはぽかぽかと暖かく、吹きぬける風はとてもすがすがしいものです。うん、と伸び上がりマリューは森の中に咲いている、白い花をつんでみました。
 これを家の中に飾ったら、春の夢が見られるような気がします。
「あ、あっちにも。」
 こんどは桜色の花がさいています。
「わあ。」
 マリューは持っていた籠を置くと、夢中で駆け出しました。なんと、森の中にしては珍しく、色取り取りの花がたくさんたくさん咲いていたのです。

 こんなにキレイな花を飾ったら、きっとネオも喜んでくれる。

 そう思って、マリューは楽しそうに花を摘んでいきました。


 だから気付かなかったのです。
 彼女のいる花畑を、見詰めている人間が居る事を。


「あらあら、ずいぶんと可愛らしいウサギさんね。」
 黄色のたんぽぽを摘んだところで、そう声を掛けられ、マリューはびっくりして花を取り落としました。
 あっと思って顔を上げると、そこには腰まである黒髪をふわふわ揺らした、空色のマントの女の人が立っています。

 どうしよう。

 じり、とマリューはそこから後ずさりました。顎に指を当てた女の人が、じっとマリューを見詰めています。
 ふうん、と小さく女の人が溜息のような息をはき、マリューは彼女が身体を引くのを見た瞬間、くるっと背中を向けると駆け出しました。
 しかし、地面を蹴ったはずの足は、何も感じず、そのままずるずると後ろに引き寄せられていきます。
(魔法だわ!)
 その瞬間、マリューは悟りました。
 そうです。この女の人は魔女なのです。
「いいこいいこ。」
 人差し指でマリューを指差したまま、つい、と彼女は人差し指を空に向けました。ふわり、とマリューの身体が浮き上がります。そのまま、ぽすん、と魔女の腕の中にマリューは落ちてしまいました。

 さあ、大変です。
 マリューは掴まってしまいました。

「こっちにいらっしゃい。美味しいものをご馳走してあげるわ。」
 ぶるぶると震えるマリューの、赤茶色の瞳に、涙が溜まります。じたじたともがく彼女を片手でつまんで、魔女はころころ笑うとそのマントの中に彼女を閉じ込めてしまいました。

 ネオ。

 真っ暗なマントの中は、不思議な香りが立ち込めています。ぎゅっとマリューは目を閉じて、心の中で大好きな狼の名前を繰り返し叫びました。

 ネオ、ネオ。恐いよ・・・・・助けて・・・・・。



 助けて。



 ちくりとネオの尻尾に傷みが走りました。どきっとして彼は立ち止まります。背中がざわざわして、彼はぶるぶるっと身体を震わせると、空に鼻を向けました。
 ところが、何の匂いもしません。
(参ったな・・・・・。)
 強すぎる、例のマント男が振り撒いていた強烈な香りに、鼻が麻痺してしまったのです。

 胸騒ぎならぬ、尻尾騒ぎに、ネオはきょろっと辺りを見渡しました。
 鼻が利かないので、何が尻尾を緊張させているのかわかりません。ネオは必死に耳をそばだてますが、マリューほど良くないので、風のざわめきしか聞こえてきませんでした。
「・・・・・・・・・。」

 とにかく今は、追いかけている人間の正体を突き止めることが先です。

 ネオは思い切って尻尾騒ぎは無視をして、それでもなるべく大急ぎで男の後を追いました。
 慎重に木の間を縫って行き、なるべく小枝や枯葉を踏まないように考えて。風のように音も無く、ネオは走り続け、そして、一軒の小屋の前に辿り着きました。

 森の木々が開け、ちらちらと花びらのような太陽の光がこぼれる畑の真ん中に、赤い屋根の木の板で出来た家が立っていました。でも、その家はとても奇妙でした。屋根を突き破って、大きな木が顔を覗かせているのです。
 こんもりとした、緑の葉っぱが、さわさわと風に揺れています。春先の新緑とは全然違う、真夏の原色の、目に痛い緑に、ネオは目を細くしました。
 どうにもへんてこりんです。
 そして、ネオの鼻を苛んでいた強い香りは、ここで途切れていました。
 茂みの影から、ネオは畑とその奇妙な家を眺めました。畑は、春先に似つかわしくなく、やっぱり青々と葉が茂っています。
 そういえば、日差しもやけに暑いなと、ネオが顔をしかめました。
 と、その時です。
 木の生えた家のぴかぴかしたドアが開き、袋を担いだあの男が出てきました。
 日に焼けた大きな腕で、袋を支えています。ネオは息を呑みました。ぺっしゃんこだった袋が、ぱんぱんに膨らんでいたのです。
 家から出てきた男は、一回だけうん、と伸びをすると、この家の主と思しき赤毛の男に軽く手を上げました。それから畑に向かって手を振りかざすと、なにやら呟いています。
(魔法だ。)
 その瞬間、ネオは態勢を低くして男を睨みました。

 やっぱりです。
 この男は魔法使いなのです。

 ネオは魔法使いが嫌いでした。少し前に酷い目にあってから、知り合いの魔法使い以外、毛嫌いするようになっていたのです。

 魔法は危険なのです。
 知識も、宇宙の事も、世界の事も知らない人が、おいそれと使っていいものではないのです。
 それなのに、今、世界には魔法使いが溢れようとしていました。
 それを嘆いていた、とある国の王妃と王様を思い出しながら、ネオは男をにらみました。どうやら、男はこの畑の周りだけ、ずっと気温が高くあるように、魔法をかけたようです。

 季節を夏にする魔法。

 それも、ネオが大嫌いな魔法でした。

 ひとつ、がぶりとあの男の腕を噛んでやろうか。

 そう思いますが、まだ、あの男が何を考えているのか分かりません。ネオは油断無く身構えたまま、男がまた、森の奥へと歩いていくのを慎重に追い始めました。
 今日はこの男は、真っ直ぐ野原に帰るようです。
(一体あの家は何なんだ・・・・・・。)
 追いかけながら、ネオは家を振り返りました。不思議な家が、夏の太陽の下で赤い屋根をぴかぴかさせています。
「・・・・・・・・・・。」
 覚えておこう。
 そう心に決めて、ネオは辺りの空気を肺一杯に吸い込むのでした。




 しょんぼりと肩を落としたマリューが連れて来られたのは、どこかの家でした。
 マントから出され、魔女に首根っこをつかまれたマリューは、足をぷらぷらさせながら、その家に目を細めました。
 石造りの、小さな家です。煙突から煙が出ていました。
「さあ、お前はここに座ってて。」
 相手が魔女では勝ち目はありません。
 マリューは大人しく、石造りの家の、外壁の前に置かれた小さなベンチにちょこんと座りました。

 いい天気です。

 目の前に広がる丈高い草が、春の甘い風にそよいでいます。
 そして、その向こうには何にも見えません。

 世界は二色でした。

 若草色と、空の青だけ・・・・・・。

(ここはあの、野原だわ。)
 マリューは目を丸くしました。そうです。目の前に広がるのは、あの「果てが無い」と恐れられている野原でした。
「さあどうぞ。」
 呆気に取られていたマリューは、その声に顔を上げました。
 目尻を優しく和らげた、卵形のキレイな顔の魔女が、お皿に乗ったクッキーと、濃い琥珀色の飲み物をマリューの前に差しだしました。
 強い香りが、飲み物から漂っています。眉間が痛くなるような香りです。
「おいしいのよ?」
 魔女は自分のカップに入っているそれを飲んでいます。でも、マリューは用心のため、口をぎゅっとつぐんで、そこから目を逸らしました。
「食べないの?」
 魔女はいくらかがっかりしたように言うと、席を立ち、つぎつぎとお菓子をマリューの前に持ってきました。

 苺のキャンディ、アップルパイ、シフォンケーキにチョコレート。

 でもマリューはぎゅっと口をつぐんで、目の前一杯に、取り囲むようにに広がる野原を眺めるばかり。
「食べないとお腹がすいて死んじゃうよ?」
 魔女は肩をすくめて、大き目のケーキをフォークで刺すとマリューの口元に差しだしました。
「お食べ?」
 ふうわりと、いい匂いが鼻を掠めます。

 それでもマリューは、魔女の出すものは絶対食べないと、ぎゅっと目を閉じました。

「仕方ない。」
 頑固に食べようとしないマリューに、魔女はぽつりと呟くと、マリューの魔法を掛けました。
「!!!」
 勝手に口が開きます。
「食べなきゃダメでしょ?」


 ヤダ・・・・・っ!!


 喉に、琥珀色の液体が流れ込みました。舌に苦いそれに、マリューの閉じた目に涙が滲みました。
 強すぎる香りが鼻に抜けて、マリューは思わずむせました。
(何コレ・・・・・・。)
 むせ返りながら、マリューは頭がぽわんとなるのを感じました。身体がくるくるしてきます。

 ああ、私、目が回ってるんだ・・・・・・。

 ぽて、と横に倒れこみ、マリューはうっすらと目を開けました。すると、満面の笑みを浮かべた魔女が目に飛び込んできました。
「ね?美味しいでしょう?」

 でも、強すぎる飲み物の所為で、マリューは口を利く元気もありませんでした。


 ネオ・・・・・・。


 マリューは瞼の裏に思い浮かべた金色のオオカミに手を伸ばしながら、ふうっと意識をなくしてしまいました。




 魔法使いの後を追って、野原にやって来た時には、野原は金色に光り輝いていました。沈んで行く太陽を受けて、緑の葉っぱが、表面をちかりちかりと光らせています。その中を入っていく魔法使いは、一度だけネオの方を振り向きました。
 ネオの胸がどきりと強くなります。

 ばれたのだろうか・・・・・?

 魔法使いは片目がありませんでした。一つの目でじっとこちらを見ています。
 固唾をのんでその様子を眺めていると、やがて魔法使いは肩をすくめて野原の中に入っていきました。
 すっかり麻痺してしまった鼻のまま、ネオは隠れていたそばの茂みから飛び出すと草原に首を突っ込みました。


 眠くなるようなざわめきと、甘い花の香りが、ネオを包み込み、嫌な感触が背中を駆け抜けました。
 ぱっと後ろに飛ぶと、ネオは低く身を伏せて、茜色の夕焼けを睨みました。
 でも、渡ってくる風以外、ネオには何も感じられません。
「・・・・・・・・・・・。」
 もう夕暮が迫っています。

 散々考えた後、ネオは明日、この草原を探検しようと心に決めてたっと後ろを振り返り森の中を駆けて行きました。早くしないとマリューに心配をかけてしまいます。

 ネオは夢中で走りました。あの小さなアイボリー色のウサギは、あれで結構勇敢です。
 強くて気持ちがしっかりしたウサギです。

 でも、本当は誰よりも気持ちが優しくて、心配性なことをネオはよく知っていました。

 早く帰ってあげないと、マリューは耳をしょんぼりさせて暗い中でいつまでうろうろしているでしょう。

 ネオは走りに走りました。

 それに、彼の鼻はあまり利かなくなっていました。

 だから、なのです。


 彼が夢中で駆け抜けた暗い森に、ぽつんと小さく、マリューの籠が落ちていました。
 その側を、ネオは素通りしてしまったのです。

 結局ネオは、家に帰り着くまでマリューの異変に気付く事が出来なかったのです。




 月が沈み、星が消え、夜が朝を迎えました。

 ネオは春の柔らかい闇の中、ぴくりとも動かずに樫の木の根元に座って、草むらを眺めていました。
 時間が経つにつれて、ネオの鼻も元に戻っていき、それと同時にネオの不安は大きな風船のようにどんどんどんどん膨らんでいきました。

 一条の光が、森の木々の間を縫って、ぴかりとネオの目を射りました。

 ネオははっと立ち上がり、金色の毛並みをさざめかせて駆け出しました。

 朝の光に洗われて、ネオの鼻が元に戻りました。それと同時にはっきりとマリューの感触を掴んだのです。

 一睡もしなかったネオは、へとへとでしたが、それでも気持ちだけで走りました。そして、ぽつん、と落ちているマリューの籠を見つけたのです。


 びりびりと尻尾が震えました。

 喉がからからになり、どきどきする心臓を宥めながら、ネオは籠をくわえようと首をさげ、自分が昨日からサンドイッチを二個しか食べていなかったことに気付きました。
 それでもネオは、サンドイッチを食べず、籠をくわえました。
 マリューを探さなくては・・・・・。
 そこで、ふとネオはくわえた籠から、あの、嫌な香りがすることに気付きました。


 魔法使い・・・・・・。


 そう思った瞬間、ネオは軽やかに身を翻すと、あの、野原へと向かって走り出しました。




「ほう、ウサギを飼うことにしたのかい?
 石造りの家に帰ってきた魔法使いは、ベンチの上でくうくう寝ているウサギを見つけて、魔女にそういいました。
 魔女は怪しく笑うと「可愛いでしょ?」と涼やかに言いました。
「僕もさっき、草むらで金色のオオカミを見たよ。」
 あら、と魔女が眉をひそめます
「金色のオオカミなんて、不吉ね。見つけて敷物にしてしまえば良かったのに。」
「それなら、そこのウサギはマフラーにぴったりだと思うんだがね。」
 窓の外を見ながらいう魔法使いに、魔女は「だめよ。」と笑いました。
「あれは私のペットですもの。」
「物好きだな、君も。」

 そういって、魔法使いは持ってきた袋を床の上に降ろしました。袋をあけると、そこにはぎっしりと茶色くて硬い豆が入っていました。
「さあ、今日は一日かけて薬をつくらないと。」
 魔法使いは腕をまくり、魔女はスカートの裾を払って立ち上がりました。
 二人はその袋の中の豆を、不可解な機械の前に持って行きます。
 四角い箱の上に、ラッパの口を上に向けたような物が付いています。
 金色でぴかぴかし、二人の顔が良く映るその口に、魔法使いは袋の中身をさかさまにして空けました。
 魔女が、箱の横についている、オルゴールの取ってのようなものを回し始めました。



 マリューはぼんやりと目を明けました。太陽は相変わらず同じような位置にあり、そんなに時間が経っていない事に気付きました。
(随分眠っていたような気がするのに・・・・・・。)
 マリューの良い耳が、がりがりと何かを砕く音を捉えます。身体を起こそうとして、出来ません。まだ、手足が痺れたようになっているのです。

 周りを確かめるように、マリューは耳を澄ましました。

「あのペットを君はどうする気だい?」
 知らない声がします。
「魔女の間で、今はやっているのはね、小さなウサギのペットなの。」
 うふふふ、と笑う声がします。これはどうやら魔女のようです。
「小さなウサギを持って行くと、本物の金に、ルビーの目で出来たウサギに変えてくれるところがあるのよ。」

 マリューの身体から血の気が引きました。

「しかもそれでも生きているのだから、凄いでしょう?」

 かたかたとマリューの身体が震えます。

「ずっしりと重たい(なんせ、純金製なのですから、と魔女が付け加えます。)ウサギの、その紅玉の瞳を毎日覗き込むと若さをずっと保つことができるのよ。」

 跳ね上がる声に、マリューの心臓が飛び跳ねます。

 金?金で出来たウサギ?触っても冷たいウサギ?何も写さない瞳のウサギ?

 ああ、そんな物になってしまったら、ネオはきっと自分を抱きしめてはくれないでしょう。

 はらはらとマリューの目から涙がこぼれました。
 どうしたらいいのでしょうか。
 どうやったらここから逃げることが出来るのでしょうか。

 マリューはぼんやりする頭で一生懸命考えます。

(なんとか・・・・・・。)
 マリューは力を振り絞ります。と、前足が少しだけ動きました。マリューは懸命につめを立てて、ベンチを引っかくようにして身体を動かしました。
 ふうふう言いながら、どうにかこうにか、マリューはベンチの端までやってきました。
 一生懸命動いたので、暑く、喉が渇きます。
 ふと、マリューは天を仰ぎました。

 相変わらず真っ青で、太陽はきらきら光っています。そして、太陽は一ミリも動いていませんでした。

 変だ・・・・・・。

 身体を少しずつ動かしながら、マリューはぼんやり思います。
 だっておかしいのです。
 ずっと太陽が動かないなんて。
 マリューは渾身の力を込めて、ベンチの縁に爪を立てて、勢い良く身体を投げ出しました。

 衝撃が身体を貫きました。

 背中からマリューは地面に落ちたのです。

 さあ、ここからです。

 石造りの家のほうからは、何かを削る音が響いてきます。それが鳴り止んだ時、きっと魔法使いは魔女を連れて外に出るでしょう。
 そして、マリューが居ないことに気付くでしょう。

 早く早く。
 早くここから逃げ出さないと・・・・・・。




 不気味な野原です。

 一面青々とした草で覆われ、天には雲ひとつありません。太陽はきらきらと輝き、ネオの鼻先を甘い花の香りが刺します。
 一目散に野原に飛び込んだネオは、あっという間に方向感覚を失ってしまいました。

 どちらからきたのか。
 どちらにむかっているのか。

 それが全く分からないのです。

 走り続けて、お腹もすいて、目が回ります。忘れていた眠気も、心地よい風に呼び起こされます。
 足がふらついて、ネオは慌ててしゃんとしました。

 夢中で走った所為で、自分の位置が分かりません。

(どうしよう・・・・・・・。)
 息を整え、ネオはしゃがみ込みました。それから、ふと胸にマリューのことが浮かびました。


 マリューは昔、自分の事を助けるために、光を失ったことがありました。目が見えなくなったマリューは、それでもネオの事を見つけて、会いに来てくれたのです。


 ネオは目を閉じました。永遠に広がる、不気味な野原を閉めだします。

 そして、駆け出しました。

 ざわざわざわざわ。

 惑わすように、あざ笑うように草々が声を上げます。でもネオはただひたすらまっすぐ走りました。
 つぶった瞼の裏に、大事な大事なマリューを思い描いて。




 がりがり、がりがり。

 何かを削る音は、まだ続いています。マリューはどきどきしながら、一生懸命体を引きずります。身体の半分は草むらに入っています。でも、まだしっぽと後ろ足が開けた場所に残っています。

 がりがり、がりがり。

 削る音の合間に、魔法使いと魔女が歌うのが聞こえてきます。

 早く早く・・・・早く早く!

 息が上がり、苦しくて、マリューは歯を食いしばりました。そういえば、何も口にしていません。
 変なものを飲まされた以外、何も食べていません。

 微かに魔女の声が聞こえてきます。


 この苦くて甘い飲み物を

 たった一滴でも 飲めば ああ あなたは私のとりこ

 たった一滴でも 喉に通せば  ああ 君は僕のとりこ


(虜になんかならないわ・・・・・。)
 マリューはぎゅっと目を閉じて、のろのろ身体を引きずります。瞼の裏には、大好きなオオカミの姿を思い浮かべて。
(だって私は・・・・・・ネオが好きだもの)


 がりがり、がりが―――――


 ぷつりと、何かを削る音がやみました。

 魔女と魔法使いが作業を終えてしまったのです。

 マリューはまだ、左足が草むらに隠れていません。
 いいえ、もっと遠くに行かないと、こんな所にいては、またつかまるだけです。

 魔法使いと魔女が、何かを話しているのが聞こえます。この粉を瓶に詰めなくてはと、男が言っています。
 まだ、間に合うかも。

 しかし、マリューの思いは、ころころ笑う魔女の台詞に打ち砕かれました。

「その前に、私はウサギちゃんに薬を飲ませないとね。」

 マリューの血が凍ります。
 足はまだ、あと三センチほど出ています。
 身体は重く、言う事をきいてくれません。


 せっかくここまで来たのに・・・・・・・。


 諦めかけて、マリューの目に悔し涙が滲みました。意地でも零すもんかと、マリューはぎゅっと目を閉じ、そして、見たのです。


 真っ暗な瞼の闇の中を、真っ直ぐに走ってくる金色の塊を。


 ネオ・・・・・・・・。


「まあ、私のウサギちゃんったら、おいたして。」
 ぱっと喜びに目を開けたマリューは、次の瞬間、草むらから、ぬっと顔を出す、黒髪の美しい魔女を見ました。

 マリューの目が大きく見開かれ、涙が滲みました。

 魔女の形の良い爪が、マリューに向かって伸びてきます。

 もうだめです。一歩も動けません。

 ぎゅっとマリューは目を閉じて、そして、やっぱりそこを駆けて来るネオを見ました。
 ネオはどんどんどんどん近づいてきます。
 でも、目をあけると、近づいてくるのは、魔女の指です。
 マリューはもう一度目を閉じ、ネオが何か叫んでいるのを聞きました。



 走れ



 ネオは力の限り、喉も張り裂けんと叫びました。



 途端、マリューは目を瞑ったまま、駆け出しました。出来るかどうか不安でしたが、思ったよりも楽に、マリューは走れました。

 やってくるネオに向かって、物凄い勢いで、マリューは走ります。

 白い物が、マリューの頬を掠めました。はっと横をみると、真っ暗な中を、白い魔女の指が長く長く伸びて自分を追ってきます。
 けたけたと、笑い声がマリューの耳に飛び込んできて、彼女の足が速度を落としました。



 止まるな!



 ネオが叫びます。



 止まってはダメだ!掴まってしまう!!



 耳に痛い笑い声。頬を掠める爪の感触。マリューはただただ、まっすぐにネオを目指して走りました。息が上がり、喉が痛くなります。心臓が痛くて、涙が溢れました。

 でも、一向にネオには届きません。



 ダメだ、マリュー!!諦めるな!!



 だって、苦しいよ、ネオ・・・・・・。



 泣きそうな声で、マリューが言い、ダメだったらダメだと、ネオが怒ったように言いました。



 走らなきゃ、この野原は終わらない!!!俺は、金色のマリューになんか会いたくない!!!



 もうダメだ、という限界の一歩。その先の一歩を、ネオの言葉でマリューは踏み出しました。

 かっくん、と糸が切れたようにマリューの身体が崩れ、そして彼女はふっさりした何かに抱きしめられるのを感じました。

 何?


 荒い呼吸で顔を上げると、ネオが、泣き笑いのような顔でマリューを見ていました。
 すぐ側で。
 直ぐ近くで。


 茜色の夕日が、空一面に続き、そのなかで、ネオがオレンジの塊のようになっています。
「マリュー・・・・・・。」
 涙声でネオが呟き、しっかりとマリューを抱きしめました。

「私・・・・・・。」
「越えたんだよ、俺達。」
「え?」


 ざわざわと、風になる草の音に、マリューはのろのろと後ろを振り返りました。

 そこには、あの果ての無い野原が・・・・・・・。

「見てみろよ、マリュー。」
 疲れ果てたマリューを優しくくわえて、ネオは身体を反対方向に向けました。


 そこは切り立った崖でした。
 そして、その向こうには、夕日にちらちらと波間を光らせる海が・・・・・・。


「・・・・・・・・・・・・・。」
「この野原の先には、海があったんだ。」

 マリューを降ろして、ネオは後ろからふんわり抱え込みました。そのお腹に、マリューはもたれると、小さく小さく溜息を付きました。
「あの魔法使い・・・・・・。」
「うん。」
「薬がどうのと言っていたわ。」
「きっと、この海を渡ってくる商人に売ってるんだ。」
 そっと、ネオはマリューの口をなめました。かすかな苦味が、ネオの舌を刺します。
「飲まされたのか?」
 不安気に聞かれ、疲れてだるいものの、手足が動くことから、マリューはもう大丈夫と笑って見せました。
「お腹すいたね・・・・・・。」
「あ、そうだ。」
 ネオは首のところに結んであった包みを解いて、すっかりぺしゃんこになってしまったサンドイッチをマリューに差しだしました。
「一晩以上、何も食べて無いだろ?」
 差し出されたそれを齧りながら、マリューは一晩?と目を丸くしました。
「いいえ。ほんの数時間でしょう?」
 それに、何を言ってるんだと、ネオは尻尾をぱたりと動かしました。
「数時間なもんか。俺、マリューの帰りを待って、一晩家の前に居たんだぜ?」
 それに、マリューの方が目を丸くし、ネオは野原に流れる時間がおかしいのだと気付きました。
「きっと魔法使いと魔女が、野原を閉じ込めているのね。」
 サンドイッチを頬張り、もう一つに手を伸ばしたところで、マリューはふとネオを見ました。
「だから、目をつぶって走らないと抜けられないんだ。」
 時間に掴まっちまうから。
「ネオ。」
「うん?」
 優しい空色の瞳に、マリューは済まなさそうに残りのサンドイッチを差しだしました。
「ネオも食べてないのでしょう?」
「・・・・・・・・・・・・。」
「食べて。」

 ぺっしゃんこのサンドイッチを、ネオは嬉しそうに頬張りました。

 それから二人は、見つけた茂みの中で丸まって眠りました。すっかり疲れ切っていた二人は、お昼までぐうぐう寝ると、浜に下りて、貝を拾って食べました。
「あ・・・・・・。」
 大きな牡蠣を手にしたマリューが、ネオに向かって叫びます。
「帆船が・・・・・・。」
 入り江に、いっそうの船が入ってきます。派手な黄色い船です。そして、そこに向かって浜を降りてくる人が見えました。
 そう。
 魔法使いと魔女です。

 彼らは、手押し車を押していました。そこには、真っ黒な瓶が沢山詰まっています。
「行こう。」
 鼻を掠める強い香りに顔をしかめ、ネオはマリューを背中に乗せて軽々と砂を蹴りました。
「今のうちに帰ろう。」
「ええ。」
 崖の坂を登り、野原の前に立ちます。魔法使いも魔女も居ない野原からは、あの嫌な感じはしません。
 とん、と地面を蹴って、ネオは走り出しました。

 春の風は気持ちよく、朝の空は透明です。

 広い広い野原を、マリューとネオは駆けていきます。

 まっすぐにまっすぐに、家を目指して。

 あんなに辛くて苦しかった野原は、あっというまに後ろに飛び去り、ネオは風のようにもとの森へと駆け込みました。

 やっと、二人は家に帰ることが出来ました。




 数日後、マリューはキツネの奥さんから面白い話を聞きました。
 ある日、キツネの旦那さんは、野原から飛び出してくる金色の太陽を見たという話です。
 それに、マリューは「不思議な話しもあるのですね。」とにっこり笑いました。

 ネオは時々、あのへんてこりんな家を探してよく森の中を歩くのですが、二度とそこへ辿り着くことが出来ませんでした。

「あそこも何か違うところなんだな。」
 ネオはそう言って、不安そうにするマリューを抱きしめました。
「だからもう、野原に行かない限り、大丈夫だよ。」

 そんな、たった一度だけ普通の野原に戻ったそこは、今でもやっぱり不気味です。
 不気味にどこまでも広がっています。


 その先に、何があるのか。



 時々。
 本当に時々。

 マリューはオレンジ色の塊のようになっていたネオを思い出し、ほんの少しだけ、あの崖と夕日を懐かしく思うのでした。





















一周年記念企画作品・パラレル系ヨイコの劇場

(2005/12/30)

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