Muw&Murrue

 満月ポトフ 03
 冷静に考えるのなら、、このままこの家に泊まるなど、危険極まりない事である。得体の知れない男と、一晩一緒に居るなど、身の安全を考えるなら、できっこない話だ。
 だが、それと同時に彼女の中の記者としてのプライドが首を擡げる。

 このままここで、おめおめと引き下がってなるものか。

 居間のソファーに腰をおろし、新聞に目を通しているネオに、マリューは丁寧にコーヒーを淹れると持って行った。
「どうぞ。」
「ん。ありがとう。」
 顔を上げた彼がカップを受け取る。ソファーの横に置かれた新聞に、マリューは何気なく目をやって、彼がアークエンジェル紙ではなく、エターナル紙に目を通しているのに気付いた。
「ん、おいし。」
 顔を上げて微笑むネオが、マリューが新聞を凝視しているのに気付いた。
「どうかした?」
「え?あ・・・・・。」
 別に誤魔化す事も無い。
「いつもはアークエンジェル紙ですのに、今日はエターナルですから・・・・。」
 どうなされたのかと。
 気になった事を素直に吐き出すと、「ああ、」とネオはいささか照れたように笑った。
「これ。」
「あ・・・・・・・。」
 トップ記事には、本日が舞台の初公演である、ということで、ラクス・クラインの綺麗で愛らしい笑みが載っていた。
「実は彼女のファンでね。」
「え?」
「なんていうか・・・・魅せる演技が凄くて。去年かな?初めて見た舞台からずっと好きなんだよ。」
 へえ。
 どことなくちくりとした物を胸の奥に感じながら、しかしマリューは笑顔を見せた。
「こういう雰囲気の方がお好きなんですか?」
「ん?・・・・・んー・・・・。」
 ごくん、とコーヒーを飲んで、ネオは「そうかもなぁ。」と天井を見上げた。
「何ていうか・・・・・女性らしさの中にも、こう、凛とした部分がある人が好きかな。」
「・・・・・・・恋焦がれるようなタイプですか?ロアノークさんって。」

 マリューの脳裏に、先ほど読んだ彼の文面を思い出す。
 欲して止まないと願う、心。

「多分ね。」
 俯く彼女に、ネオの柔らかな視線がそそがれる。だが、マリューはまるで気付かなかった。




 マリューが泊まるように言われた部屋は、居間の隣にある小さな部屋だった。使用人のための部屋だったが、今は使っていないのだと彼は話す。
 洗ったシーツと毛布を渡しながら、ネオは「なんだかすまないな。」と苦く笑った。
「いえ・・・・・・。」
「でも、君を帰すわけにも行かないし。」
 時刻は午後10時を過ぎている。魔キ、と呼ばれることも度々なこの街の夜は不気味だ。
 排水口の水蒸気が作るかすんだ闇に、実体の無い物が映るという。
「今は、おかしな事件が頻発してますものね。」
 探るように言えば、「そうだね。」とネオが神妙な顔をした。
「どんな奴かは知らないが・・・・・早く捕まってもらいたいものだ。」

 貴方がそれを言うの?

 そう、詰め寄りたい衝動に駆られる。マリューは思わず顔を背けた。
「じゃあ、また明日。」
「・・・・・はい。」
 顔を俯けたまま、マリューはぺこりと頭を下げた。
「おやすみなさい。」
「ん。おやすみ。」

 軋んだ音を立てて、ネオが廊下を遠ざかっていく。手に持つ蝋燭の灯を見送り、マリューは部屋に入るとベッドの上に腰を下ろした。

 それから、気合を入れるように両方の頬を叩く。

 彼が、これから何をするのか。二階で何が起こるのか。マリューはそれを突き止めるつもりなのである。

 カーテンの引かれた暗い部屋。じわりじわりと静寂と闇が、自分の内側に忍び込んでくる。月は出ているのだろうが、時たま流れる雲に、それは飲まれて、カーテンを照らしたり照らさなかったりする。
 明滅する空。
 遠くで鳴く、犬の寂しげな遠吠えに耳を傾けつつ、マリューは辛抱強くベッドに腰掛けて、ひたすら待った。

 夜中に、二階に上がってみようと考えている彼女の、長い夜が始まった。





 馬車の手配が出来ていない!?

 そう大声で叫ぶダコスタの声が、劇場から出て、止まっているはずの馬車が無いことに「あらまあ。」と首を傾げていたラクスの耳に届いた。
 手配を指示されていたのは、劇場の小姓。彼は帽子を握り締めたまま、ひたすらダコスタに頭を下げていた。
「そんな事言われても・・・・こちらは、この劇団の主演女優を歩いて帰らせるわけには行かないんですよ!」
 ささやかな打ち上げの後、時刻は0時をまわっていた。
「ダコスタさん。」
 尚も詰め寄るダコスタの肩に手を置いて、ラクスはやんわり笑った。
「そんな風に、そちらのお方を責めても、何にもなりませんわ。」
「・・・・しかし・・・・。」
 言葉を濁すダコスタが振り返る。彼に、ラクスはふわりと笑うと、今にも泣きそうな歳若い男にそっと声を掛けた。
「わたくしなら大丈夫ですわ。ですから、そうお気を落とさないで下さいな?」
「でも・・・・・。」
 涙目で見上げてくる彼に、ラクスはしっかりとうなづく。
「次の公演の時は宜しくお願いいたしますわ。」
 ダコスタさん。
 振り返るラクスを、唖然として眺めていた赤髪の青年に、ラクスは張りのある声で告げる。
「クライン邸までは戻れませんが、近くに知り合いの家がありますの。」
 今夜はそちらに泊めていただきますわ。
 街の中心よりわずかに離れた場所にある劇場と、反対方向にある自分の家よりも、はるかにカガリたちの下宿の方が近い。
 それに、今日はキラが居る。
 渋る顔のダコスタに、ラクスはキラを連れて来てくださいな、と頼んだ。




 私は恋をする。
 たった一人の、至高の星に。歌を愛し、人々に愛される、たった一つの星。
 手を伸ばしても届かない。地上に繋がれる事を約束された私には、その愛らしい彼女の元へと飛ぶための翼すら持ち得ない。
 神よ。
 何故私に、彼女に恋焦がれてしまう心を持たせたのか。
 この心さえなければ。

 ならば私は、悪魔と取引をしよう。

 この心を代償に、彼女を奪うための翼を願おう。

 黒く、漆黒の闇を切り抜いた、欲望という名の翼。その翼を打ち振るい、私は彼女を汚すために飛ぼう。

 その白き肌を腕に抱く事が出来るのならば、全てを投げ出しても構わない。

 己の全てを悪




 かちり、と針の合わさる音を聞き、ネオは書き綴っていた文章から顔を上げた。机の上に置かれていた銀色の懐中時計が、蝋燭の揺らめく炎を受けて鈍く光っている。
(時間か・・・・・・。)
 持っていたペンをインク壷に戻し、男は静かに立ち上がる。

 全く。厄介な事この上ない。

 ふと、積みあがった書類の上に無造作に置かれている新聞に目をやった。
 そこには、歌姫の美しい顔が映っている。

「ラクス・クライン・・・・・・・・。」
 すっと目を細めて、その彼女の写真を見やると、ネオは静かに側の洋服掛けからコートと帽子を取ると部屋を出た。

 さてさて。何が起きるのやら。

 不敵な笑みを帽子の下に隠し、ネオは足音すら立てず、するりと階段を下りて行った。





 はっとマリューが顔を上げる。いささか意識が飛んでいたらしく、時刻が良く分からない。それでも彼女は、奇跡的に、ドアの掛け金が外される音を耳にした。
 玄関に近い場所を与えられた事が効を奏した。
 極力足音を立てないように、彼女はカーテンの側に寄ると細めに開けて外を見る。

 青い闇が占める世界の上空に、くっきりと月が浮かんでいる。それに照らされた石畳の道路に、誰かがこつん、と降り立った。

 玄関の左側にある窓から覗くマリューには、降り立った人物は良く見えない。だが、背の高い影が、くっきりと道路に刻まれているのが見えた。

 シルクハットの形と、風にふわりと膨らむマント。

「・・・・・・・・・・・・・。」
 ぞく、とマリューの背中があわ立った。もっと良く見ようと、なりふり構わず窓を開け、そこでマリューは吹き込んできた、春にしては冷たい風に一瞬目を閉じる。
 次に目を開けた時、彼女の視界には、道路に降り立った人は愚か、あの細長い影すら映らなかった。
「えっ!?」
 四方を見渡すが、風の無い青い夜が辺りを満たすだけだ。
「どこに・・・・・・っ!?」

 吸血鬼。

 そんな単語がマリューの胸を叩き、彼女は身を翻して窓から離れると、手元の蜀台に明かりを灯し、夢中で階段を上がった。二階のドアを力いっぱい叩く。だが反応は無い。
「ロアノークさん!?」
 ノブに手を掛けると、ドアは再びあっさり開く。
 中に、人は居ない。
「っ・・・・・・。」
 駆け寄ったデスクの上に、書き散らされた書類を見つけて、マリューの背中を戦慄が走る。

「これは・・・・・・っ!?」

 そこにあったのは、「私」と「女性」の記述。淡々と述べられる想いの矛先は、間違いなく、あの、ラクス・クラインである。


(ラクスさんっ!!!!!)


 悲鳴のように強い思いが胸を焼き、彼女は無我夢中で階段を駆け下りると青い闇が占める街中へと飛び出した。
 目指す先は、彼女が今日、初演した劇場である。





「こうやって、公に歩けるなんて、嬉しいですわ。」
 二人でデートなんて、なかなか出来ませんもの。
 月の細い灯の下、キラはそう言って笑う彼女の横を、カンテラを持って歩いている。彼女は桜色のフードを被っている所為で、周りが良く見えない。
 舞台の上では信じられないほどの集中力と、演技力を見せる彼女は普段、かなりのおっちょこちょいだった。
 彼女がお茶を入れようとして、手を火傷した数を、キラは数えるのを諦めていた。
 そんな彼女の、ほっそりした手を握り締め、キラは極力足元を照らすようにして、寝静まった街を歩いて行く。
「でも・・・・・良かったの?」
 フードで見えない彼女を覗き込み、キラが心配そうに眉を寄せた。
「その・・・・・家に帰らないで・・・・。」
 お父さん、心配しない?
 そっと訊ねるキラに、ラクスはきゅ、と握り締める手に力を込めた。
「平気です。それに・・・・・・。」
 キラとの事をまだお認めにならない父上にはいい薬ですわ。
「・・・・・・・そうかな〜。」
 弱ったように頭を掻く恋人に、ラクスはそっと寄り添った。
「わたくしは、貴方と一緒に居るためなら、クラインなど捨てても構いません。」
「・・・・・・・そうしなくても良いように、僕も努力するから。」
 手を離し、キラはそっと両手でラクスの肩を掴んだ。
「キラ・・・・・・・。」
「ちゃんと・・・・・何の力も無いけど・・・・護ってみせるから。」
「・・・・・・・・・・。」
 微かに涙の滲んだ瞳で、彼女はキラを見詰めると、はにかんだように笑って一つ頷いた。
「ラクス・・・・・・。」
「キラ・・・・・・・。」

 二人の影が、夜の道路で重なろうとしたその時。

「っ!?」

 派手な金属音が夜の闇に響いた。はっと顔を上げラクスは、する、と自分から離れるキラを見た。
「キラ!」
 彼は足早に直ぐ先の十字路へと歩いて行く。
「ラクスはそこに居て!」
「・・・・・・・・。」
 両手を握り締める彼女を見やり、大丈夫だから、と笑って見せると、キラは右の角を曲がり、灯を翳す。
 雲間に隠れていた月が現れ、道路を照らす。
 そこには何も無い。
 取って返し、ラクスが不安気に自分を観ているのを確認すると、左の角を調べる。

 そこにあった、ブリキのバケツがひっくり返っていた。

(これの音か・・・・・・。)

 ほっと胸を撫で下ろしたその時。キラは自分の名を呼ぶ、切羽詰った声を聞いた。

「ラクス!?!?」




 それは浪々と夜の闇に響いた。
(ラクスさん!?)
 キラの名を叫んだ、彼女の声をマリューはしっかり聞き届ける。2ブロックくらい先だろうか。
 一気に走り、彼女は複雑に入り組んだ道路を、左に折れる。空から降る星と月の灯だけを頼りに、声のしたほうを目指した。

 その時、マリューは視界の端に求めていたものを捕らえて立ちすくんだ。

 両脇を煉瓦作りの古いアパートに囲まれた、割かし大きい通りに、一人の男が立っていた。
 彼は真っ直ぐに自分を見ていた。その眼にある冷たい光に、彼女の足がすくむ。

 いつもの柔らかい、春めいた蒼とは違う、アイスブルー。

 貫かれて、凍り付いたように動けない彼女に、ネオが酷くゆっくりと近づいてきた。
 刻まれる靴音に、煽られる恐怖。
「何故、君が?」
 二人の距離は、約二メートルほどだろうか。静かに告げられた台詞に、マリューはかっと体の奥に炎が宿るのを感じた。

 何故・・・・・だと?

「そういう貴方こそ、何をなさってるのかしら?」
 目尻に力を込めて睨みつけると、抑揚の無い声が答える。
「・・・・・・・知りたいのか?」
 こつん、と彼の靴が石畳を蹴り、乾いた音が耳を穿つ。びく、と震えるマリューに、ネオはうっすらと微笑んだ。
「引き返せ。」
「・・・・・・・・どこへ?」
「・・・・・・・戻れる場所までだ。」
 すっと目を細めて、ネオはマリューを見据えた。

 戻れる場所?
 それはドコを指している?

「君は・・・・・あるべき場所へ戻れ。」
「・・・・・・・・・・。」
「君が居るのはこんな真夜中の路地裏じゃないはずだ。」
 断定するような言い方が気に入らず、マリューが声を張る。
「ではどこだと貴方は仰るのかしら!?」
「アークエンジェル社。」

 きっぱりと告げられた台詞に、マリューの目が大きくなる。その様子に、思わずネオが吹き出した。

「なっ・・・・・・。」
「気付かないとでもお思いか?」
「・・・・・・・・・・。」
「何をかぎまわっていたのか知らんが、これ以上は深入りするな。」
 男は静かに、でも侵し難い力を込めてマリューに告げる。
「・・・・・何を・・・・一方的にっ・・・・・!?」

 自分には自分のプライドが在る。

 トマト男爵という奇妙な噂から始まった物語が、一つの事件へと集約している。
 それを、新聞記者の端くれである自分が、恐怖に負けて投げ出すと!?

「ふざけないで。貴方のしたことは・・・・・分かってるつもりよ!」
 すっと、彼の瞳に悲しげな光が過ぎり、ぎくっとマリューの背中が強張る。
「深入りし続けると?」
 恐ろしく静かな声で言われ、マリューは躊躇えば気持ちが挫けると、勢い良くうなづいた。
「それが私の仕事だから。」
「手を引け。」
「嫌よ。」
「・・・・・・。」

 距離を詰めたネオが、彼女の頬に触れた。睨む彼女に、ネオは表情の無い顔のまま、ゆっくりと告げた。

「死んでも構わないと、そういうのか?」



 その瞬間、闇を劈いて呼子の音が響いた。はっとマリューが音のした方に顔を向ける。恐らく、ラクスの事を警官が発見したのだろう。
 咄嗟にネオのマントを掴もうとして、マリューの手が空を切った。
「ネオ・ロアノーク!?」
 月が照らす路地に、既に彼の姿は無い。
 ぎり、とマリューは奥歯を噛み締めた。

 何故あんな甘い事を考えたのだろう。
 現場を押さえてからにしようと。
 その所為で、ラクスが襲われた。

 あの時、彼の留守中に警官を呼んでいたら!

 激しい後悔がマリューの胸を焼く。

 自分がネオを怪しいと思っている事は、これで彼にばれてしまった。今から警官を率いてネオの家にいっても、彼は証拠品の全てを隠滅してしまうだろう。

 犯行現場を押さえなければならないことに、以前変わりは無い。

(くそっ・・・・・・!!)

 何故もっと彼を疑わなかった。
 もっと疑っていれば、ラクスは襲われずに済んだ。
 もっと早くに。何故、疑わなかった。
 疑っていれば。

 彼をもっと疑えば―――――――


 ずきりと、マリューの胸が痛み、不意に目の奥が痛くなる。
 じわりと、視界が滲み、唐突にマリューは知る。




 疑いたくなんか無かった自分を。




 自分に見せてくれた青い、柔らかい瞳や、その見惚れてしまいそうな笑み。
 優しい言葉。少し抜けてる仕草・・・・・・・。


 それを、嘘偽りだと思いたくなかったのだ。


「どうしてっ・・・・・・・。」
 振り絞るように告げて、マリューは両手を白くなるまで握り締めて、その場に立ち尽くす。

 複雑な感情の波が、マリューの身体を焼き、心を侵し、彼女はただそこから動く事が出来なかった。






 鍋の前に立つネオに、アウルは溜息を吐いた。
「自分の利益のためだったんじゃないのかよ。」
 ぼそりと呟かれた言葉に、ネオは「ああ。」と乾いた声で答えた。
「利益のためだよ。」
「・・・・・・・なら、なんでそんなに真っ暗いオーラ出してるんだよ・・・・。」
「煩いよ。」
 振り返らないネオの機嫌は、すこぶる悪い。溜息を吐いて、アウルが席を立った。
「で、どうすんの?」
「どうもこうもないよ。元を断つだけだ。」
 マジで!?とアウルが目を大きくしてネオの背中を見た。
「言いなりになるのかよ!」
 それに、ネオがむっとしたようにアウルを見た。
「言いなりじゃない。俺としても放ってはおけんと思っただけだ。」
「・・・・・・あの女は?」
「・・・・・・元から、捨てるほど多く持ってたわけじゃないしな。」
 ストーブから鍋を下ろして、彼は調理台にそれを置く。アウルが持ってきた瓶にそれを詰めながら、ネオは溜息を吐いた。
「それに・・・・これがロアノークの定めだ。」
「いいのかよ・・・・・・。」
 瓶を受け取り、アウルがおずおずと顔を上げた。
「別に、他の街でもやっていけるさ。」
「・・・・・・・女一人、『消し』ちまえば話は楽だと思うケド?」
 それに、ネオは首を振った。
「そうはいかない。」
 それから真っ直ぐにアウルを見る。
「あの女の事は、これで終りだ。」
 きっぱり言い切ったネオに、内心ほっとしながら、でもどこか割り切れないものを抱えたアウルが「分かったよ。」と頷き、瓶を持って部屋を出た。

「ったく、馬鹿なんだからな、ネオってさ〜。」
 階段を下り、屋台のストッパーをはずし、アウルは渋面でそれを引き出した。

 今日で、あの場所での商売も終わりかな、なんて思いながら。






 満ちては欠ける虚ろな満月。
 姿とともに、照る思いも変わる満月。

 今宵、その新円を描く満月の元で、静かに何かが起きようとしていた。








 ラクスの怪我は大した事は無かった。側に居たキラが、彼女に覆い被さる影に攻撃を加えたのだという。側にあった石を投げる、という方法だったが、確かにそれは彼女に被さる影の、腕の辺りにぶつかったのだという。
 顔は見なかったが、手口は間違いなく、他の3件と同じで、マリューは唇を噛んだ。

 三人の記述の有った、ネオの書類。

(今度こそ・・・・・・っ。)

 現場を押さえるつもりで、青白く光る満月の下、マリューは彼の家を見張っていた。
 警官に話しても良かったのだが、それだと、捕まったネオと話をする機会が持てそうに無い。

 今一度、マリューは彼と話したかった。彼が何を思い、何をしたくてこのような事をし始めたのか。
 胸の中にある、「疑いたくない」という気持ち。これを完全に胸の中から消してしまう為に。

 どんなに彼が残虐非道なのか。それを知ることが出来れば・・・・・・。

 遠くで、午前零時を告げる鐘が、響く。
 10まで数えた所で、数日前と同じ格好をしたネオが出てくるのが見えた。

 さえざえと輝く月の元に、彼の影が細く長く伸びる。
 黒いマントを閃かせて、彼はゆっくりと通りを西に向けて歩いて行く。月を背にする彼の後を、マリューは注意深く追い始めた。

 今度こそ・・・・・。

 今度こそ、彼の本当の姿を暴き立ててやる!

 襲われた彼女たちのためにも。そして・・・・自分自身のためにも。


 一定の距離を保って歩くマリューは、彼が真っ直ぐに歩いて行く路地の影に身を潜める。物陰から彼の行方を追い、不意に左に折れ曲がるのを確認すると、走り出そうとした。


 その彼女を、後ろから伸びてきた腕が絡め取った。


「!?」
 振り返るより先に、マリューは首筋に冷たいものを感じた。

 吸血鬼!?

「んぅっ!?」
 わきの下から伸ばされた手が、彼女の口を塞ぐ。必死に身を捩る彼女は、突き刺さる何かを細い首筋に感じる。


 いやっ・・・・・・・・!?


 激しい嫌悪感が身体を満たすより先に、急速に意識が遠のき、マリューは自分を支える、得たいの知れない腕の中に、不本意にも崩れ落ちた。
「っ・・・・・・・。」
 落ちる瞼が、マントの端から覗いた、この人物の腕を捉える。


(こいつが・・・・・・・。)


 そこには、キラがつけたと思われる、石がぶつかった痣が、くっきりと残っていた。

 そこで、マリューの意識は、暗がりの中を落ちて行った。







 ゆっくりと、意識が覚醒してくる。
 マリューは霞む視界の端に、ぼんやりと揺らめく灯火を見た。
(灯・・・・・・・?)
 ここはどこだ・・・・・・?

 そこで、はっと気付く。
 そうだ。
 自分は例の事件の犯人に襲われたんだった。

 なら、ここは病院か・・・・・・?

 そんな期待は、眼に映ったものによって打ち砕かれる。

「え・・・・・?」
 マリューが見たのは、ほの暗い灯火に映し出された影が揺らめく石作りの床だった。
 顔を上げると、真正面に扉と、椅子が見えた。
(何・・・・・!?)
 出口へと向かおうとして、彼女は自分の身体が動かない事に気付いた。はっとして、自由の利く首を回して確認すると、自分の両腕は広げられて、しっかりと固定されていた。それと同時に、両足は閉じられて、縛り付けられている。
「なっ・・・・・・・。」
 胸からお腹へと掛けて、がんじがらめに縛られているのを確認し、ようやくマリューは気付いた。

 自分が、何かの柱に括りつけられている事に。


 ざあ、と頭から血の気が引き、マリューの掌に、じっとりと冷たい汗が滲んでくる。

「ようやくお目覚めのようですね。」
 なんとか戒めから逃れようと、腕に力を込めていると、聞いたことのある声がした。
 はっと視線を前に向けると、開いたドアの先から、蝋燭を手にした男が一人、ゆっくりと入ってくるのが見えた。

 その顔に、マリューは見覚えがあった。

「あなたは・・・・・・・・。」

 紫の髪が特徴的な、その男がすっと目を細める。唇の端に閃く赤い舌に、マリューはぞっとした。

「お久しぶりです、マリュー・ラミアスさん?」

 そこには、つい何週か前に、彼女がインタビューをした、ユウナ・ロマが立っていた。

「何故・・・・・・これはっ!?」
「ああ、どうぞ楽にしてください。」
 くすくす笑いながら、ユウナは少し胸を張るとゆっくりと彼女に近づいてきた。
「あなた・・・・・どうしてここに?」
 困惑しながら訊ねれば、彼はおかしそうに目を細めた。
「どうしてって・・・・・こう言うことですけど?」
 胸元に手を這わせ、それから細くて白い彼女の首に手を当てる。彼の指先が、忘れていた傷口に触れて、びくりとマリューは身体を振るわせた。
「な・・・・・・・。」
「これ、痛いでしょう?」
 誰につけられたんです?
 目に宿る狂喜にも似た色に、マリューの背筋が凍った。
「・・・・・・・・まさ・・・・か・・・・・。」
「色々試したんですけどね。」
 その笑みを深め、男は唐突に話をはじめる。ぎり、と傷口に詰めを立てられて、小さな悲鳴がマリューの喉から零れ落ちた。
 それすらも楽しむように顔を歪め、ユウナは手を滑らせて、マリューの頬に指を這わせる。思わず逸らした視線をおかしそうに男は見詰めた。
「野菜・・・・魚・・・・・肉・・・・・色々な料理・・・・最高の食材に、手間!時間!・・・・・だが、どれも食べ飽きた。」
 背筋が凍りつくような笑みを、目の前で見せられ、マリューが目を見開いた。
「どれもどれもどれも。」
 男は歌い上げるように続ける。
「僕の舌には合わなくなってきた・・・・・・・。」

 そこで、思ったんですよ。

 長い舌を閃かせ、男はマリューのあごに舌を這わせた。


「この世にある、ありとあらゆる物を食べるヒトはどんな味がするのかと。」



 あっさり告げられた台詞に、マリューの身体が震えた。
「なっ・・・・・・・・。」
「最初の小娘はあんまり美味しくなかったなぁ・・・・・。」
 うっすらと笑う男の歯には、特注したのだろうか、銀色のナイフのような物が二本、ついている。
「血の味をいろいろ確かめてみたんですけどね?」
 ラクス・クラインがまあまあ美味しかったんですが、途中で邪魔が入って。
「・・・・・・・・・・・・・。」
 眉を寄せる彼女に、笑みを浮かべたまま、男は続ける。
「そこに来て、貴女ですよ。」
 見かけによらず、随分素晴らしい身体をなさってるようですし?
 身体をまさぐる手に身を捩る。くすくす笑ったまま、彼は続け、ぐ、と彼女の顎を掴み上げた。
「そろそろ血だけっていうのにも、飽きてきましたからね。」
 言葉が出ない。人一人射殺せるんでは無いかと思うほどの眼差しを向けると、不意に男が彼女の首筋に噛みついた。
「―――――――っ!!!!」
 先ほどとは比べ物にならないくらいの激痛が走り、マリューの喉から、声にならない悲鳴が上がる。生温かい物が勢い良く零れ落ち、首筋を熱く染めていく。
「ああ、大人しくしててください?」
 口の端を真っ赤な血に染めた男が、薄ら笑いを浮かべて彼女を見た。
 涙の浮かぶ目尻に、舌を這わせる。
「その肌も肉も何もかも、全部僕が味わって差し上げますから。」
 そのためにもまず、貴女から血の全てを奪ってしまわないと。

 命の危機に、胃が逆流する。耐え切れない吐き気と嫌悪感。それから行き場のない怒りと恐怖が彼女の身体を焼き尽くす。手を、足をばたつかせ、痛みから逃れるように首を振る彼女を、しかし男は放さない。

「失血死っていうのは、眠くなるだけですからね・・・・・・。」
 視界が霞み、マリューの頬を涙がこぼれた。それが、ユウナの頬に降り注いで、男は愉悦に歪んだ笑みを見せた。
「お休みなさい、マリュー・ラミアスさん?」


 いやっ・・・・・・いやあああああっ!!!



 その瞬間、二人の居る部屋の天井が裂けた。


「なっ!?」
「・・・・・・・・・。」

 ばらばらと木片が降り注ぎ、煉瓦と屋根瓦が崩れて落ちてくる。もうもうと舞い上がる土ぼこりが、青く澄んだ月光の中に浮き上がった。

「踏み込んじゃならない領域に踏み込むとは、アンタ、随分業がすぎるってんじゃないの!?」
 威勢の良い啖呵とともに、誰かが屋根から飛び下りてくる。マリューはそれを良く見ようとするが、霞んだ視界には、上手く映ってくれない。
 耳が拾う音も遠い。

(貧血・・・のせい・・・で・・・・・・)

「お、お前はっ!?」
 咄嗟にマリューから離れたユウナが、床にしゃがむ少年に目を見張った。
「名乗る名前なんかもっちゃいねぇってば!」

 刹那、ユウナは壁際まで吹っ飛ばされた。
 押しつぶされたカエルのようなうめき声を上げ、何が起きたのか目を白黒させる。
 ふ、と床に着地した少年が、かがめていた身体を起こす。
 腹部に痛みを感じ、物凄い勢いで床を蹴った少年に体当たりされたのだと気付いた瞬間、打ち付けた背中と腹をさする彼は、怒りに滲んだ目を上げた。

 その目が、降り注ぐ月明かりの中に立つものを確認する。

 両腕を組んで自分を見下ろす少年と、それから。

「!?」

 上からふうわりと、月光の中、丸く切り取られた天井から降りてきた、黒いマントとシルクハットの男を。

「貴様っ・・・・・!?」
「俺の出番、無いんじゃないのか?」
 ユウナを無視し、少年の横に降り立った男は、へたり込むユウナを一瞥して呆れたように言う。
 それに、少年が肩をすくめた。
「久しぶりでさ。力入れちまった。」
 わりぃわりぃ、なんて笑う少年に、男がやれやれと溜息を吐いた。
「き・・・・・貴様ら・・・・・な、な、何者だっ!?」
 驚愕に目を見開く男に、彼は視線を転じると、酷薄に哂った。
「さあ?何者かな。」
 揶揄するような台詞に、ユウナの頭に血が上る。顔を歪める男を、斜めに見た後、黒いマントの男はゆっくりと彼に近づいた。
「はじめまして、ユウナ・ロマ殿。」
 ニッコリと笑うが、その笑みは冷徹さを凝縮したようなものだった。
「だが非常に残念だ。このような形であなたにお会いする事になるとは。」
 大仰に肩をすくめる男から、発せられる棘のようなオーラに、これ以上下がれないのに、じり、とユウナが後退する。
「・・・・・・・我々の事を真似し、我が名を汚そうとなさるとは。そのような行為の代償として、もちろん、それ相応の覚悟がおありなのですよね?」
 ユウナ・ロマ殿?
「は・・・・・・・・?」
 へたり込み、間抜けな顔をする男に、彼はにっと笑った。
「おや?もしかして・・・・・そのようなお覚悟をお持ちで無いと?」
「ふ・・・・・ふざけるな!?な・・・・名前!?貴様の・・・・名前など知らん!し、知るもんかっ!?」
 立ち上がり、攻撃を仕掛けようと身構えたユウナは、しかし、拳を固めるより先に自分の喉を締め上げられてしまった。
「ぐっ・・・・・・うっ!?」
 壁に押し付けられた彼が見たのは、ぞっとするほど冷たい、金髪の男の、鋭い眼差し。
「ま、男のは全然好みじゃないのだがな。」
「なっ・・・・・・・・!?」
「我が名を汚すものは万死に値する。」

 次の瞬間、男は首に鋭い痛みを感じて悲鳴を上げた。
 男の口から、不気味に伸びた長くとがった歯が、ユウナの首筋に突き刺さる。

「わっ・・・・わあああああっ!?」
 絶叫を止めるように、男の手が上がり、ユウナの口を押さえる。
「大人しくしててもらおうか?」
 恐怖に引きつった彼の目に、射抜くように鋭い視線を送る、金髪の男の、真っ青な瞳が映った。
 そこに浮かぶ笑んだような色に、ユウナは恐怖した。
「た・・・・・助け・・・・助けて・・・・・。」
「無理な相談で。」
 弱々しい悲鳴が、再び噛み付いた男の仕草に狭い室内に響いた。

(!?)
 遠くにそれを聞いたマリューが、はっとする。だが、彼女の霞んだ視界はぼやけた黒い塊と、床に沈みこんだ人影を捉えるだけだ。
(なに・・・・・・・。)
 遠くに響いていた悲鳴が、尾を引いて遠くなる。こちらを振り返った人物の姿が、ぼんやりと月明かりに浮かび、金色の何かが、室内に満ちる青い光を弾くのが見えた。
(・・・・・誰っ・・・・・・)
 冷たく凍えた指先を、必死に動かし、戒めから逃れようとする彼女の上に、不意に近寄った黒い影が覆いかぶさった。
「っ!?」
「黙って。」
 遠くで、柔らかい声が促す。冷たくなった頬に、乾いた手が触れて、愛しそうに撫でる。
「ごめん。」
 小さなささやきに、不意に急にマリューは胸の奥が暖かくなるのを感じた。
「っ・・・・・・・。」
 柔らかく、暖かい物が首筋に触れる。それは遠慮がちにマリューの傷跡を這い、優しく塞ぐ。


 キス・・・・・・・・・?


 ちゅ、という音がし、じんわりと暖かい物が、傷口を包んでいく。それと同時に、酷く重く冷たかった体が熱を取り戻し、軽くなっていくのを、マリューは感じた。


(気持ちい・・・・・・・・。)


 自然と重くなる瞼を、重力に引かれるままにして、マリューはゆっくりと目を閉じた。






 彼女の戒めを解いた少年が、崩れ落ちる彼女を抱きしめ、まだ首筋に口付けたままの男を見上げた。
「いーかげん、放せよ。」
「ん?」
 言われて、男は名残惜しそうに彼女の首筋から唇を離した。

 白い彼女の肌に、残っていたはずの二つの刺し傷は、綺麗に消えていた。顔色が元に戻っているのを確認して、ほっと男は息をついた。
「・・・・・・・で、どうすんの?血まで分けちゃって。」
 ここに置いていくのか?
 胡散臭げに男を見上げる少年に、愛しそうに彼女の髪の毛を払っていた男が、生真面目に告げた。

「それなんだが・・・・・・・やっぱり俺、捨てられないわ。」

 それに、少年が呆れたように目を丸くし、悲鳴のように叫んだ。

「んたこったろうと思ったよっ!!!!」








「マリューさん!」
 目を開けたマリューに、ネオはほっと息をついた。
「あ・・・・・・・・。」
 視線が泳ぎ、彼女が慌てて身体を起こそうとする。とたん、くらっと身体が傾ぎ、それをネオが慌てて抱き寄せた。
「っ・・・・・・・。」
「大丈夫か?」
 きゅ、と抱きしめられて、まだぼんやりした頭のまま、マリューが顔を上げた。
「私・・・・・・・。」
 彼の腕の下から見えるのは、風に揺れる真っ白なカーテンと白い壁。それから嗅ぎなれない薬臭い香りが辺りに漂っていて、自分が病院にいるのだと、マリューは気付いた。

 でも何故?

(えーと・・・・・昨日私は・・・・・・・。)

 ネオの後を追って・・・・・それから・・・・・・。

「私っ!?」
 ぼんやりした瞳に光が宿り、がし、とネオの胸元を掴む。
「私っ・・・・・・何・・・・・なんで・・・・・。」

 思い出した。
 路地裏に潜んでネオを尾行していて、突然襲われたのだ。

「え!?どうして・・・・ここ!」
「落ち着いて。」
 その彼女を再び抱きしめて、背中をぽんぽんとあやすように叩くと、ネオはテーブルの上から新聞を取った。
「ほら。」
「あ・・・・・・・。」



 猟奇的犯行の数々 犯人逮捕 食への飽くなき追求への悲壮な結果



 たっぷり一分はその文字を繰り返し読み、それから、恐る恐る彼女はネオを見上げた。
「・・・・・・・・・・・。」
 何から言って良いのか、言葉を捜すマリューに、ネオは苦笑すると素直に頭を下げた。
「ごめん。君を巻き込みたくなくて、あんな嘘を付いて・・・・結果、君が襲われて・・・・。」
 申し訳ない。
 彼女を抱き寄せて、強く抱きしめる。
「・・・・・・・・嘘・・・・・?だって、あなた・・・・・・・!?」
 ラクス・クラインが襲われた現場に居たじゃない!
 そう告げる彼女の頬に手を当てて、ネオは苦く笑った。
「実は俺、駆け出しの小説家なんだ。」
「・・・・・・・・・え?」

 ネオは困ったように頭を掻くと、事情を話し始めた。

「小さな出版社で・・・・・あんまり名前も知れてないんだけどさ。一応探偵物を書いてたりするんだよ。」
「・・・・・・・・・・。」
「で、結構実際にあった未解決事件なんか、脚色して使ってるんだけど、今回締め切り間際に、こんな事件が起きただろ?」
 夢中でネタになるんじゃないかって調べたんだよ。
「警察に知り合いも居るし、今回の犯人がどんな奴なのか、色々想像して書き散らしてたんだけど、なかなか固まらなくて。それで、知り合いに頼んで捜査に協力させてもらったんだ。」
 実際、警察は次に狙われるのはラクス・クラインじゃないだろうかと、当たりをつけていたそうだ。
 ミリアリアのときとは違って、やけに早く呼び子が鳴ったのを思い出し、マリューははっとする。
「最初から・・・・・張ってたというの?」
「まあね。」
「・・・・・・・・・・・・。」
「で、捜査中にマリューさんに見つかって・・・・・君が俺の身辺を探ってるのは知ってたし、これ以上巻き込んじゃ悪いと思って・・・・・。」
 けど、結果的にはこんな目に合わせてしまって、すまなかった。
 誠意を見せて謝るネオに、みるみるうちにマリューの顔が赤くなる。
「じゃ・・・・じゃあ、あの書類はっ!?」
「ああ、小説に使おうと思って、犯人の心理を少しね。」
「わ、私の名前は!?」
「女探偵っていうのも良いかと思ってさ。最初は被害者にマリューさんを使おうかと思ったんだけど、思った以上に素敵だったから、つい。」

 だから死亡に訂正線が入っていたのだ。

 死亡する役割ではなく、主人公に据える為に。

「・・・・・・・・・・・・・。」
「マリューさん?」
「トマト・・・・・・・。」
 自分の勘違いを必死で保護するように、マリューが勢い良くネオを見上げた。
「なんでトマトばっかりなの!?」
「ああ、あれは・・・・・・。」
 照れたようにネオが笑う。
「実家がトマト農園でさ。小説家じゃ食っていけないだろう、って両親が定期的に送ってくるんだよ・・・・・・。」

 がっくりと布団の上にへたり込む彼女を、慌ててネオが支える。

「ごめ・・・・・その・・・・そんなに名が売れてないから、小説家だって言いたくなかったし、それに・・・・・マリューさん、新聞社の人だから、もしかしたら使ってもらえるかなとか、そんな打算も合って・・・・。」
 良い募るネオのシャツを、マリューはぎゅっと握り締めた。いつもは真っ白な彼の袖口が少し汚れていて、マリューの胸がずきりと痛む。
 顔を上げると、ネオはいくらか眠そうなまなざしをしていた。
「・・・・・・・・・ずっと、付いていてくださったんですか?」
 掠れた彼女の言葉に、ネオは詰めていた息を吐くと、困ったように笑う。
「ああ。」
「・・・・・・・・・・・どうして?」
「・・・・・・・・・訊かれるとは、思わなかったな。」
 くすっと笑うと、ネオは彼女を両腕の中に閉じ込める。
「前に言わなかったっけ?俺が欲しいのは恋人でも奥さんでもなくて、料理上手なお手伝いさんだって。」
「・・・・・・酷い人。」
 笑み浮かべて、マリューはネオの体にしっかりと抱きついた。


 疑わなくて良かった。

 心の底から、彼を疑わなくて。

 本当に良かった・・・・・・。






「じゃあ、これからどうするんです?」
 ネオの帰った後、部屋にやって来たのは、ノイマンだった。ミリアリアから持たされたケーキを持っている。
「それが・・・・・・。」
 マリューは小さく笑うと、もらったケーキをフォークに刺す。
「私、今住んでいる下宿を追い出されちゃって。」
「え?」
「行くところ無いんなら、家に来ませんかって。」
 くすくす笑うマリューに、ノイマンは呆れたように目を瞬いた。
「惚れちゃったんですか?ラミアスさん。」
 溜め息混じりに言うと、マリューが慌てたように反論する。
「ち、違うわよ!ただ・・・・その・・・彼を疑って悪かったなって、そんな気持ちも込めて、次の下宿が決まるまで、料理とかお洗濯とかしようかなとか」
「ふーん・・・・・・。」
 窓の外を見て、春は恋の季節ですからね、なんていうノイマンに、マリューは「もう!」とほほを膨らませる。
「それで。」
 ぶつぶつ言いながらケーキをぱくつくマリューを見て、ノイマンはサザーランドから預かってきた原稿用紙を差し出した。
「何?」
「潜入調査の記事をまとめて来い、だそうです。」
 思わずむせた。
「プライベートはプライベート、仕事は仕事ですよ、ラミアスさん?」
 それに、マリューは眉尻を下げ、「はいはい」と溜息混じりに答え、ふと、昨夜の出来事を思い出す。
 捕まったのがユウナ・ロマだと知り、相当まわりは驚いたとノイマンは語った。
 彼はどこかの廃屋で、自分の持っていた銀色の、とがった入れ歯のようなものを首に付きたてて、倒れていたのだという。 
 うわごとで何かを繰り返す彼を、病院へと運び、押し入った彼の部屋には、今までの事件の被害者の血の味やその他が事細かに記されたノートが応酬された。
 彼は大量の失血をしたが、命に別状は無い。元気になったら、事情聴取をされるだろう。
 そして現在、警察では全力で、匿名で警察に廃屋に怪しい男が居る、と通報してきた人物をさがしているのだと、彼は興奮気味に話してくれた。

 だが、マリューはそれらの事実に、それほど驚かなかった。

 むしろ、どこか納得さえしたのだ。それと同時に胸を掠める、切れ切れの映像。

 月光と、冷たく、首筋に当たる物と、とがった牙と・・・・・。

「でもよかったですね、ラミアスさん。」
「え?」
 うんうん唸っているマリューにノイマンがのんびり告げる。
「トマト男爵の話と、今回の事件が繋がるんなら、きっと凄い面白い連載が出来ると思いますよ?」
「え?」
「それに、首に傷をおってまで、真相を付きとめようとした姿勢とか後輩に・・・・・。」
 そう言って、マリューの首筋に目をやったノイマンが、ぽかんと口を開けた。
「?」
 どうしたの?と問うマリューに、ノイマンは無言で側の引き出しから鏡を取り出した。
「マリューさん・・・・その・・・・・どんな風に『襲われ』たんです?」
「え?」
 鏡を手に、自分の首筋に目をやって。
「!?!?!?!?!!?」
「あ、ひょっとして、ロアノークさんに襲われたんですか?」
「ち、ち、ちが・・・・・って、なにこれーっ!?!?!?!」
 耳まで真っ赤になるマリューの首筋には、二つの刺し傷ではなく。
「ま、面白い記事が書ければそれでいいですけどね、アークエンジェルとしては。」

 しっかりと赤く、キスマークが残っているのだった。

「だから、違うの、ノイマン君!本当に襲われたんだから!!」
「えー・・・・・誰にです?」







「恋だね。」
「そういうなよ。」
 楽しそうに、マリューの為にあけた、使用人の部屋を掃除するネオに、アウルは心底呆れたように溜息を付く。
「ったく・・・・・・いーのかよ?あの人、普通の人間だぜ?」
「んー。」
 それに、ばふばふ、と羽枕を叩いて膨らませていたネオが笑いながら振り返る。
「いーって。大体俺、ロアノークは捨てるつもりだしさ。」
 行く行くは、ムウ・ラ・フラガの名前の方が通るようになるはずだし。
「売れない小説家のペンネームが?」
「煩いよ。」

 よし、と腰に手を当てて、ネオは一つ頷く。

「なあ、一個訊くけどさ。」
 お昼の鐘が鳴り、キッチンへと消えるネオの背中に、アウルが叫んだ。
「あの女の血、うまかった?」
 それに、ひょいっと顔をだしたネオはにっこりと笑った。
「だからって、手ぇ出すなよ?」
 それに、アウルがべーっと舌を出した。
「残念!俺はアンタとは違って、トマトばっかりの飢えた吸血鬼じゃないんでね!」
 そう言って、アウルは側にあったトマトを、ネオに向かって放るのだった。


 霞んだ空に、太陽が輝く春の午後。
 静かなこのホラーハウスに、もう一人の住人が引っ越してくるのは、もう少し後の話である。



(2006/04/14)

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