Muw&Murrue

 満月ポトフ 02
 勤め始めて、三日。
「これでよしっと。」
 廊下にモップをかけて、腕をまくっていたのを下ろす。開け放した居間のドアの奥、暖炉の上に置いてある、金細工が施された時計は、11時30分を指していた。
 知らず、自分の頭上を見上げる仕草をし、彼女はほう、と溜息を吐く。
 自分の雇い主はまだ、部屋で寝ているようである。
「・・・・・・・・・・・・。」
 春の日差しはさんさんと、南の通りに面した居間の窓から差し込んでくる。そこにあるテーブルの上には、ネオの文字で、「朝食はなくていいから。」と書かれたメモと、アークエンジェル社の新聞、それから冷めてしまったホットドックが乗っていた。
 メモ以外、玄関のドアの下のほうに置かれていた物だ。多分、マリューが来る前にあの少年が来て、玄関の前に置いて行ったのだろう。

 三日、ここで働いているが、朝食を作った事は一度も無い。

(そんなに遅くまで起きてるのかしら・・・・・・。)
 蝋燭代や、ランプの油だって結構な値段がするのに、とマリューはモップの柄に顎を乗せたまましばし思案した。

 そういえば、彼は一体何で収入を得ているのだろう。

「メモメモ・・・・・・。」
 長いスカートのポケットから彼女は自分の手帳を取り出すと、日付とともにメモを取る。
 そこには、この三日で調べた家の間取りと調度品、それから彼女が働く上で疑問に思ったことなどが書かれていた。
(あと調べていないのは二階だけか・・・・・。)
 マリューはネオから、この家の玄関の鍵だけ渡されていた。一度、そっと階段を上って二階に上がったのだが、廊下の窓にはカーテンが引かれ、廊下を挟んで向かい合わせになっていたドアの、二つとも鍵が掛かっていた。

 どちらかは、ネオの寝室だろう。もう一つは、恐らく応接室か何かだろマリューは当たりをつけていた。

 その、どちらにも鍵が掛かっている。

「・・・・・・・・・・・。」
 一体何者だろう。

 階段の下の物入れに、モップとバケツを押し込み、彼女はキッチンへと向かう。丁度良い感じに熱くなっている料理用ストーブに薬缶をかけてお湯を沸かし、マリューは、床の煉瓦の上に、無造作に置かれている鍋を知らずに見た。
 真鍮の、細長い丸い鍋。
 ホテルの調理場で見るような、金褐色のそれの蓋を、彼女はまた開けて見た。

 あの少年が量り売りしてるのかと、そう思ったから。

 だが、中身は減っているだけで、増えているようには見えない。

(トマトソースで生計を立ててるわけじゃないのかしら・・・・・。)
 これは一度、素知らぬふりを装って、あの少年に話を聞くべきだろうか。
「おはよう。」
「きゃああっ!?」
 と、唐突に背後から声を掛けられて、マリューは小さく悲鳴を上げると勢い良く振り返った。
「お・・・・・・・おはようございます。」
「って、もう昼か。」
 ふわあああああ、と欠伸をし、無精ひげの男はむにゅむにゅと何かを言う。
「朝ごはんは要らないと書かれていたので・・・・・・。」
「ん〜、昼ごはん、くれるかな?あ、それとお茶をいっぱい。」
 まだ半分くらいしか沸いていない薬缶を持ち上げて、ネオはうーん、なんて眠そうにしながら洗面台へと歩いて行く。

(び・・・・・・・・・。)

 後姿が、浴室のあるそこに消えると、マリューは洗い場の煉瓦を力いっぱい掴んでいた手を解いた。

(びっくりした・・・・・・・。)

 ばくばくする心臓を押さえて、マリューは思わずその場に脱力したように立ち尽くす。
「・・・・・・・・・・・・。」
 はー、はー、と呼吸を整えながら、彼女は胡散臭げに洗面所を見やる。

 三日、彼のところで働くようになって気付いた事がある。

 それは、全くといって良いほど、彼から『気配』を感じないのだ。
 最初は自分がなれない仕事に没頭している所為だと思っていたが、さっきまで二階に居ると思っていたのに、いつの間にか自分の真後ろに立っていることがしょっちゅうある。
 廊下に消えたと思ったら、いきなり隣の部屋から現れたり、とか。

(・・・・・・・・・・・・・只者じゃないわね。)
 どきどきする心臓を押さえつつ、マリューが無言で洗面所を睨んでいると、神妙な顔をしたネオがひょいっと顔を出した。
「マリューさん。」
「あ、はい。」
「ゴメン、間違って顎、きっちゃった。」

 白いクリームに血が滲んでる。

「何やってるんですか〜〜〜!!!」
 慌てて居間に取って返しながら、マリューは溜息をつく。なのに、どこか抜けてるのよね、あの人、と。



 間抜けに白い傷テープを顎に張った男が、マリューの作った煮トマトを口にほうりながら、「今日はこれで終り?」と隣に立って給仕をするマリューに告げた。
「はい。」
「そ。」
 口を拭う男のコップに水を注ぐ。ありがとう、と笑う彼がマリューを見たまま告げた。
「最近物騒だからさ。一人で夕方に帰らせるの、悪いなって思ってたんだよ。」
「そんなに遅くまで仕事、してませんよ?」
「そう?夕方くらいまで居ない?」

 実際、ここ三日、マリューが帰路につくのは、日が傾きだしてからだった。

 出来る限り、この家の中の事を知りたかったし、出来る限り、彼の素性を掴みたかったのだ。

「勝手が分からなくて。」
 ここで「でももう慣れましたから。」などといってしまっては、長居は出来ない。マリューは慎重に言葉を選びながらネオに告げた。
「それに、手があった方が、ロアノークさんもお仕事に専念できるでしょう?」

 さり気なく仕事の事を振って見る。
 が。

「けど・・・・・君にこんな目には有って欲しくないからな、俺は。」

 彼は、テーブルの上に置いてあった新聞を取ると、マリューに差し出した。



 またまた犠牲者 狙われる若い女性達



「・・・・・・・・・。」
 ミリアリアたちが追っている事件だ。

 この事件の第一被害者、フレイ・アルスターが襲われてから三日もあけずに、似た手口の事件が起きた。
 幸い、二人とも軽傷だが、心に深い傷を負っている。

 苦い物を噛み締めるような彼女の表情に、ネオは微かに目を見張る。
 普通のお嬢さんなら、震え上がるか、気味が悪いと嫌悪するような仕草をするはずである。
 だが目の前の女性はどこか、不敵で事件への敵意を表すかのような色の炎を、ちらとだけ瞳の中に宿らせたのだ。

「被害者は二人とも同じ手口で襲われている。」
 それを気にしながら、ネオはゆっくりと口にする。
「後ろから突然抱きつかれて」
「首筋に何か硬い物を押し付けられた。」

 被害者の左の首筋には、鋭利な物で刺されたような跡が二つ、くっきりと残っていたという。

 引き取ったマリューの台詞に頷き、ネオは柔らかく煮込んであるトマトを口に運ぶと、マリューを見上げた。

「どちらもその直後に倒れて、犯人は見ていない。」
 金品が取られるようなこともないし、暴行を受けた形跡も無い、というのが不思議な点であった。

 目的が、分からない。

「ラミアスさんはどう思う?」
 軽く笑んで訊けば、「そうですね。」と彼女は新聞に目をやったまま考え込んだ。

 ミリアリアたちも、動機が分からずに苦労しているようだ。
 何が目的なのか、イマイチ分からない。

「襲われた二人の特徴といえば、そうですね・・・・若い女性、って事かしらね・・・。」
 金目当てなら、銀行があるビジネス街の紳士を襲うはずだ。でもそうではないということは。
「そこから考えるなら、おかしな性癖を持った男が・・・・・・・・。」
 そこで、はた、とマリューは言葉を切った。ネオの空色の瞳が、興味深そうに自分を捉えているのに気付いたからだ。

 いけない。ついつい地が出てしまった。

「とか思いますけど、でもあの・・・・・私、そういうのってよく判らないですから。」
 でもほーんと、恐いですわね。

 おほほほほほ、なんて冷や汗混じりに笑みを返すと、「そう?」とネオが眉を上げて、再び朝食に向き合う。
「ま、用心するに越したことはないし。」
 遅くならないうちに、君は帰った方が良い。
 真っ直ぐな眼差しで見詰められて、マリューは息を飲む。

 思わずどきどきしてしまうような、表情だ。

「でも・・・・・お金をいただいて働いているのだし。」
「いーや、駄目だ。」
 きっぱりと言い切り、それから不意にネオは、マリューに優しく笑って見せた。
「大事な君を、傷物にするわけにはいかないだろう?」
「・・・・・・・・・・・。」

 さーって、今日も一日がんばりますか。

 うーんと伸びをするネオに、耳まで真っ赤になりながら、マリューは慌てて皿を片付け始めるのだった。




「なあ、ネオ。」
 仕事を終えたアウルが、屋台を歩道に止めてやって来たのは、五時の鐘がなる、薄くもやのかかった黄昏時だった。ランプに灯を灯すと、窓の外が途端に闇に落ちる。
 居間にあるソファーに座ったまま、アウルが向かいに座るネオに切り出した。
「・・・・・・・あの女、雇うの辞めたら?」
「何でだ?」
 重たい皮表紙の本をめくって目を細めていたネオが、顔を上げる。
「・・・・・・・・・・。」
 そっぽを向くアウルに、ネオは溜息をつく。
「彼女は色々と使える。」
「・・・・・・・・・。」
「お前が持ってきた情報をもとにするなら、尚更な。」
 再び書物に視線を落とし、眉間に皺を寄せて考え事をするネオに、彼は深いため息を吐いた。
「チャンスと危険が紙一重で、チャンスをとるのかよ。」
「そうか?」
 眼も上げずに、ネオは言い切った。
「危険は無いと思うケドな。」

 そうかなぁ、とアウルは彼女が出てきた建物の事を思い出して、不安気にネオを見た。

「ここで失敗したら、全部終わりだぜ?」
 それに、ネオは本から目を上げて、哂って見せた。
「ヘマはしないよ。」




 ミリアリアが襲われた、と訊いたのは、マリューとノイマンが社内で打ち合わせをしている時だった。午前零時をまわった深夜で、今にも泣き出しそうだった空に、二人は傘を握り締めて社を飛び出した。

「あ、マリューさんにノイマンさん。」
 首に包帯を巻いた彼女が、病院のベッドの上で手を振る。大慌てで階段を駆け上り、急患の為に、明かりの灯った三階の大部屋へと、飛び込んだ直後にそういわれて、マリューは一気に脱力した。
 だが。
「ノイマンさんじゃないだろうがっ!!!」
 ほっと胸を撫で下ろした横で、ノイマンが苦くはき捨てるように叫ぶと、物凄い勢いでミリアリアの元へと走り寄った。
「・・・・・・・あ・・・・・。」
 がっしり彼女の肩を掴み、ミリアリアの目の中を覗き込む。軽く伏せられるそれに、ノイマンは、彼女が負わされた恐怖を見て取り、大慌てで彼女を抱き寄せた。
「・・・・・・・・・・。」
「ばか・・・・・・。」
 声が震える。
 すいません、という掠れた声が、いつも勝気なミリアリアの喉から漏れて、マリューは胸が痛むのを感じた。
 暫く黙って抱き合う二人を見ながら、少し席を外そうと、マリューが踵を返す。それに、ミリアリアが彼から離れて、マリューの方を見た。
「マリューさん。」
 彼女の瞳が、まっすぐにマリューを射抜いた。
「・・・・・・・大丈夫?」
 側によって、白くて細い手を握り締めると、彼女は柔らかく笑みを返してきた。怪我をしたのか、白いテープの巻かれた指に力がこもる。
「はい。」
 それから、ちらっと隣に立つ青年に目をやり、困ったように笑う。
「さっきまではちょっと大丈夫じゃなかったんですけど。」
 元気でました。

 窓の外を雨がたたき出し、それを眺めるノイマンの耳が多少赤くて、マリューは笑いを噛み殺すとポケットから皮のメモを取り出した。

「じゃあ、話せるかしら?」
「・・・・・・・・・。」
 マリューの手を離れた、彼女の白く細い指が、相変わらず窓の向こうを眺める青年のそれに触れる。
 硬く握り締めて、ミリアリアはこっくりと頷いた。
「覚えている限りの事は。」


 深夜、現場周りになにか今回の事件の手がかりは無いものだろうかと、彼女は人気の無い街の一角を歩いていた。
 街灯はなく、曇天の所為で星も無い。
 春風にもやがたなびくそこを、彼女は夢中で歩いていた。
 その時、突然、後ろから羽交い絞めにあったのだ。
 咄嗟に顔を見ようと、彼女は首を捻った。だが、それよりも半歩早く、首筋に鋭利な物を突き立てられたのだという。

「どんな感じだった?」
「私よりも背が高い、がっしりした男って感じでした。」
 腕の感触だけですけど。

 両脇にそれを思い出したのか、微かに震える肩を、ノイマンが支える。軽くもたれかかるようにして彼を見上げ、ミリアリアは言葉を続けた。

「このあたりに、」
 彼女がそっと手を持ち上げて、左手を顎と頬に当てる。
「髪の毛が当たったんです。」
「髪?」

 突然の事で分からなかったが、自分は男の両腕で羽交い絞めにされた。相手の両手が利かない状況で、なのに、首に冷やりとした物が穿たれるのを感じたのだ。

「それでよくよく思い出すと、この辺りに」
 ぱしぱし、と顎と頬の辺りを叩いて、ミリアリアは真剣な表情をする。
「結構ふさふさした・・・・髪の毛のような物が当たったんです。」
 つまり。

 ミリアリアは、自分の肩に置かれているノイマンの手を取ると、自分の両脇の下にくぐらせ、尚且つ、彼の切りそろえられた前髪が顎に当たるように、屈んでくれと頼んだ。

「・・・・・・・・・・これ・・・・・・。」


 それは、後ろから暴漢が、女性の首筋に口付けを送るような格好に見えた。


「それに、首筋の二つの刺し傷。」
 彼女がノイマンから離れて、マリューに向かって身を乗り出す。
「間違いないですよ、マリューさん!」
 ミリアリアは声高に断言した。
「今回の事件の犯人は、まっちがいなく、吸血鬼です!!!」





 欠伸を噛み殺しながら、マリューはネオの家へとやって来ていた。昨夜は大変だった。遅れて到着した警官に、力強く「吸血鬼」の存在を話すミリアリアと、呆れたような警官をとりなすノイマンを残し、マリューは、時計塔の鐘が八時を告げるのと同時に病院を出た。
 途中で二輪馬車を拾ってここまでくると、ふと、彼女は歩道に乗り上げるようにして止まっている、例の屋台を見つけた。
「・・・・・・・・・・。」
 その横を通って階段を上ると、ふわあああ、と欠伸をした少年がドアを開けて出てきた。
「あ。」
「おはよう。」
 笑顔で言うと、少年は一瞬鋭い視線をマリューに向け、たた、と階段を下りてくる。
「ネオならまだ寝てるよ。」
 それだけ言い捨てて、少年は足取りも軽くそこを出て行こうとする。
「あの。」
 その彼に、マリューは咄嗟に声を掛けた。
「君は・・・・・・。」
「人に話しかけるときは、まず名乗るのが常識だろ?」
「あ・・・・そうね。あの、私は・・・・・マリュー・ラミアス。」
 君は?
「・・・・・・・・・・。」
 胡散臭げに彼女を眺めた後、少年はぼそりと名乗った。
「アウル・ニーダ。」
「・・・・・・アウル君は・・・・・。」
 車輪を止めていたストッパーを蹴り飛ばし、彼が勢い良く屋台を持ち上げるのを見て、慌ててマリューは言葉を告いだ。
「ロアノークさんと、どういう関係?」
「商売の手伝いをしてるだけだよ。」
 あの人のやってる仕事、金にならないから。
「え?」

 仕事?
 彼は仕事をしてるのか?

 いつ。どこで・・・・・。

「あんたさ。」
 彼からの情報を整理しているマリューに、アウルがすっと目を細めて彼女を睨んだ。
「あんま、余計な詮索、しないほうが身の為だよ。」
「・・・・・・・・・・・。」
「じゃあな。」
「あ、まって・・・・・・。」

 勢い良くアウルが道路へと飛び出し、自分の仕事場へと掛けていく。屋根からつっているフライパンとフライ返しがぶつかる金音が、あわただしい朝の空気にかんかんと響き渡った。

「・・・・・・・・余計な詮索って・・・・・。」

 彼女は知らず知らず、自分の後ろにある、こじんまりとした屋敷を見上げた。同じようなつくりの家が並ぶ一角の、何の変哲も無い一軒。

 そこで、彼は何の仕事をしてるというのか。

「・・・・・・・・・・・・。」
 湧き上がる好奇心に、眠気を飛ばし、マリューはそっと彼の家へと踏み込んだ。




 『我々』としてもこの事態を見過ごすわけにはいかない


 そう訴えかけるように書かれた文面を何度か読み返し、ネオは電報を引き出しに閉まった。
 彼の部屋は、四方の壁を本棚に囲まれた、窓の無い部屋である。
 この部屋に一人で居ると、集中力が増す。マホガニーの机の上で、ネオは頬杖をついて、開いている右手でこんこん、と机を叩いていた。

 確かに見過ごせるような状況ではないだろう。

 ロアノークとしては。

「・・・・・・・・・・・。」
 机の前にはインクの瓶と羽ペン。それからおびただしい数の紙束が積みあがっている。その一枚を取り、ネオはそこに走っている文字に目を通す。
 昼間でも灯の灯るそこで、オレンジ色の淡い光に、「マリュー・ラミアス」の文字が浮かび上がった。
「・・・・・・・・・・・。」
 溜息を吐いて、それを再び紙束の上に置くと、ネオは座っていた椅子の背から、ベストを取ると、銀ボタンを留め、引き出しから鎖のついた懐中時計を出して、ポケットにねじ込む。

 見過ごせる状況じゃない、か。

 溜息を吐いて背広を羽織り、ネオはその部屋を出て、階段を下りた。



「マリューさん。」
「あ、おはようございます。」
 降りてきた彼が、いつもと違って寝起きではなく、きっちりした身なりをしているのに、マリューは目を瞬いた。
 アウルの話では、寝ているということだったが。
「すまないが、今日はここに泊まって貰えないだろうか?」
「・・・・・・・・・え?」
 バケツにモップを突っ込み、しゃばしゃばしていたマリューはその手を止めて、間抜けにもネオを見上げた。
「いや・・・・・突然の事で申し訳ないのだが。」
 彼はジャケットの内ポケットから、一通の封筒を取り出した。
「とある場所のパーティーに呼ばれていてね。」
「・・・・・・・はい。」
「帰りが何時になるか分からないのだが・・・・恐らく食べられる物が大して無いと思うから、夕飯を用意して欲しいんだ。」
「それで・・・・?」
「うん。遅くなるかもしれないし、暗くなってから君を一人で帰らせるなんて真似、出来ないから。」

 それで泊まってくれ、という事か。

「そういうことでしたら、構いませんけど・・・・・・。」
 上目遣いに、マリューはネオを見上げた。
「でもあの・・・・・・。」
「うん?」
「・・・・・・・パーティーでしたら、ご婦人とお会いになる機会もありますでしょう?」
 その・・・・・・・。

 彼女が言わんとしている事を汲み取り、ネオは小さく笑うと、彼女の耳元に唇を寄せた。

「大丈夫。この部屋に貴女一人残して、遊びになんか行きませんよ。」
「そ、そうじゃありません!」

 変な風に取られたら困る、とマリューは頬を赤らめて顔を上げた。
「じょ、女性の方をお連れしたときに、私のような物が居たら、ロアノークさんが困るんじゃないかってそう・・・・。」
「それは心配ない。」
 くすくす笑い、ふとネオは真顔になると、そっと彼女の頬に手を当てた。

 びくり、とマリューの背筋が強張る。

「今、俺が欲しいのは恋人でも愛人でもなくて、有能で料理が上手なお手伝いさんだから。」
「・・・・・・褒められてるのかしら。」
 睨み上げると、「もちろん。」と可笑しそうに彼が笑う。そのまま帽子を手に玄関へと向かう姿に、マリューが目を丸くした。
「今からですか?」
「ああ。少し・・・・・厄介な所にあってね。」
 肩をすくめるネオが、「八時には戻る。」とマリューに告げると、外へと出た。


 どこへ行くんだろう。


 残念ながら、彼が見せた封筒には何もかかれて居なかった。こんな時間に出かけるという事は、駅で汽車に乗るのかもしれない。
(そうなると郊外か・・・・・・。)
 マリューはモップの柄から手を離すと、窓際に立ち、彼が馬車に乗って駅に向かう姿を見送る。それからたっぷり五分後に、彼女は階段の下に立つと、上を見上げた。

 彼が居ない、今が絶好のチャンスだ。

「・・・・・・・・・・・。」
 ミリアリアにネオの秘密の部屋の事を話すと、彼女は針金で鍵を外す方法を教えてくれた。警官の友人から教わったのだと誇らしげに話すミリアリアの、したたかさと有能さを見たような気がする。
 ごっくん、と息を飲み込み、マリューはゆっくりと階段を登る。

 アウルがいう所の、余計な詮索をする為に。





 駅で馬車を降りると、構内へと続く階段にアウルが座っていた。彼はちゃんと正装をしたネオを見つけると、小走りに近寄る。
「帰るのか?」
 彼が珍しくシルクハットを被っているのを見ながら、アウルが不安げな表情を見せた。
「一応、な。」
「大丈夫なのかよ。」
 ネオが持っていた鞄を持ち、アウルが言う。
「そう簡単に丸め込まれて、そのままって事は無いよ。」
 帰ってくるに決まってるだろ?
 可笑しそうに告げて、「けど。」と自分を見上げる少年の頭を撫でてやった。
「人のこと子ども扱いするなよ!」
「スティングとステラに会うと思うが・・・・伝える事は?」
「・・・・・・・今のところ無し。」
 仏頂面のアウルから鞄を受け取り、ネオは買った切符をひらひらさせて改札を通る。
「なあ。」
 その背中にアウルが叫んだ。
「あのお手伝いは帰したんだよな!?」
 それに、男は振り返るとにやりと笑った。
「俺が戻ってくるまで帰らないように言ってある。」
「ネオーっ!!!」
 慌てて構内の腰丈のフェンスに駆け寄るアウルが、何か不満を口にするより早く、ネオはさっさとプラットホームへと歩いていってしまった。
「馬鹿ネオ!」

 これで事態がややこしくなっても、俺はしらないかんなっ!

 消えるネオの背中を見やり、アウルは肩を怒らせると駅から出た。
 遠くで11時を告げる鐘の音が響き、アウルはそちらをみやると、軽くしたうちした。お昼はかきいれどきだ。
 後でネオの家を訪れる決意を固めて、彼は仕事場へと戻って行った。





 ドキドキしながら階段を上がり、マリューは廊下を挟んで右側のドアに手を掛けた。分厚いドアのノブが、掌にひんやりと馴染む。恐る恐る押してみて、マリューは驚いた。
 鍵が開いている。
「・・・・・・・・・・・・。」
 いつもはきちんと鍵が掛かっているのに、とマリューはドアノブを掴む手に力を込める。
 一瞬ネオに騙されているのではないだろうかという思いが過ぎった。
(それは無いと思うケド・・・・・・。)
 ただ単に掛け忘れたのだろうか。
 それともマリューを全面的に信頼して・・・・・・?
「・・・・・・・・・。」

 にっこり笑ったネオの顔を思い出し、マリューの胸が鋭く痛む。

(いいえ・・・・・これが私の仕事なんだから・・・・・・。)
 震える手に力を込めて、マリューはゆっくりと分厚いドアを押し開けた。

 廊下には一応窓がある。だが、そこもカーテンが引かれていて、二階は酷く薄暗かった。
 だが、その暗さとは比べ物にならないくらいの闇が、ドアの向こうに広がって、マリューは思わず息を飲む。
(灯・・・・・・・。)
 目が慣れず、一寸先も見通せない。一旦居間へ取って返して、そこで蜀台を持ってこようかと身を翻しかけ、ドアの側に置いてある棚に、ランプが乗っているのにマリューは気付いた。
 ドアを目一杯開けて、薄暗がりの中、隣に置いてあるマッチを擦って、ランプを灯す。
 ぼんやりと黄色い光が灯り、暗い室内に光と影を浮き上がらせた。
「・・・・・・・・。」
 ランプを手に、マリューはその部屋の有様に息を飲む。

 四方の壁に、天井まで届くのでは、というような本棚が置かれ、上から下までびっしりと分厚いそれが並んでいる。
 天井と本棚の上部に、自分の影が折れ曲がって映り、上部の闇を濃くしていた。
 かなりの広さがあるそこには、向かい合わせに置かれたソファーと、執務用の机が置いてある。
 一歩踏み出し、靴底が埋まるくらいの絨毯を踏みしめて、ふとつま先に何かが当たり、彼女は視線を落とした。
「あ・・・・・・。」

 床には大量の紙が散乱している。

 一枚だけ拾い上げて、マリューはどきりとした。



 フラージル用水路殺人事件  犯行日 120893 犯人 不明 


「何?これ・・・・・・。」

 もう一枚拾い上げる。


 エヴァンス・リード  15年前に失踪、後、郊外の山奥で発見される 死因不明



「・・・・・・・・・。」
 そこに落ちている紙束を拾い上げて、つぎつぎにマリューは読んで行く。どれも殺人や行方不明事件に対するもののようで、事件の様子が克明に記されているのもあった。

 どういうことだろう。

 急にどきどきしてきて、マリューはそれらを、拾った形跡が分からないようにそっと床に落とすと、ゆっくりと机に近づく。

 広い机の大半を、床に散らばるのと同じような書類が占め、机の上には何枚かそれが重なっておいてある。
「・・・・・・・私はその夜、一人の女性と知り合った。名前は仮に、Fとしておこう。彼女は織物工場に勤めている、うら若き乙女であった・・・・・・。」

 どくん、とマリューの胸が高鳴り、彼女はランプをテーブルに置くと慌ててそれを掴み上げた。



 彼女はとても活発で、そして、男を魅了させる何かを持っていた。私は彼女の瞳におぼれそうになった。まるで、彼女を手にしなければ、この世の全てがまがいもであり、本当の幸福を得る事など出来ないような気にさせるような、彼女の仕草・瞳・存在。
 私は何を失ってもいい、彼女が欲しいと願った。

 なのに彼女は、私に見向きもせずに、自由にまるで蝶のようにひらひらと舞う。

 私の思いはやがて、そんな彼女の行動に魅せられる反面、徐々に侵食されていった。

 手に入らない彼女に対する、苛立ち・・・・彼女を手にする男への嫉妬・・・・羨望・・・・自分の中の何かが、彼女に向かって黒く牙を向き、濁流のように感情が逆巻く。

 欲しい、欲しい、欲しい・・・・・

 彼女が。

 彼女の何か一つでも



 そこで唐突に文が途切れていて、マリューはごくりと息を飲んだ。
 これは、なんだ?彼の日記だろうか・・・・・・。


「織物工場で働く・・・・・・Fって・・・・・・。」
 鼓動が徐々に早がけをはじめ、マリューはその下にある書類を取った。
 記載されているのは、Fという女性ではなく、また別の女性に対する記載だった。
 その文章の内容も、マリューは知っていた。
 誤魔化すように書かれているが、それは間違いなく・・・・。

 書類を机に戻し、今度は詰まれている紙束を手にする。

 アークエンジェル社の記事の切抜きが、一番上においてあった。
 そう。
 あの、例のミリアリアすら襲われた事件の記事が。

「・・・・・・・・・・。」
 高鳴る鼓動とは逆に、マリューの顔から血の気が引いていく。震える手が、書類を掴み損ねて、一部が床にばら撒かれた。
 はっとしてしゃがみ、掴み上げてマリューは目を見開いた。


 マリュー・ラミアス


 赤いインクで書かれたその名前に、彼女の目は釘付けになり、身体が震えてくる。

「これ・・・・・は・・・・・・。」


 彼女の名前が記載されている場所から、紙面は空欄が続き、やがて書類の一番下に、小さく書かれた文字を見つける。


 死亡


 その瞬間、彼女は書類を全て元に戻すと、大慌てで部屋を出た。ランプの明かりを消して、元の位置に戻し、勢い良くドアを閉める。それから飛ぶように階段を駆け下りて、居間へと飛び込むと、崩れ落ちるようにソファーに腰を下ろした。


 あそこにあった書類。
 「私」という人物と女性の記述。

 それは、今現在、街を騒がせている事件の被害者とそっくりだった。詳細はぼかして書かれているものの、間違いなく。
 それと、事件の記事と自分の名前。死亡、に引かれた訂正線。
 それが何を意味するのか、マリューは考えたくも無かった。


 あの事件の犯人が、ネオなのだろうか・・・・・。


 嫌でも頭に浮かんでくる疑問に、マリューは頭を抱えた。
 彼が何者で、何を生業にしているのか、それがまるで見えてこない。

 でも、だからと言ってそれだけで、彼を犯人だと断定するには早急すぎる。

「・・・・・・・・・・。」

 そうだ。彼が犯人かどうか。それを調べるにはまず、犯行現場を押さえなくては。

 きゅっと唇を引き結んで、マリューは顔を上げる。

 不意に、彼の柔らかい瞳と、引き込まれるような笑顔を思い出し、急に胸の奥が痛くなった。

 それを振り払うように、マリューは勢い良く首を振った。

 これからは、もっと本気で彼の事を調べなくては、と心に決めて。





 やっぱり食べる物が無かった、とネオは馬車の背もたれに身体を預けながら溜息を吐いた。
 お腹のなる音が、石畳の上を走る車輪の音に混ざって響く。
(それにしても・・・・・。)
 少しだけ窓に掛けられているカーテンを持ち上げて、ネオは月明かりの滲む街並みを眺めながら再び溜息を吐いた。
(簡単に言ってくれるがなぁ・・・・・・。)

 会食の場で告げられた言葉を思い出し、ネオは顔をしかめた。
 ただ椅子に座り、あれやこれやと文句を言うだけのお歴々には、ネオに告げた事がどれだけ面倒なことか、考えも付かないのだろう。
 彼等が考えることといえば、ロアノークの由緒正しい血を護ることだけである。
(だから嫌だったんだよ、俺は・・・・。)
 ふてくされて、カーテンから手を離し、ネオは深くソファーに腰掛ける。直に伝わる振動を身体に感じながら、ネオは目を閉じた。

 ただ静かに平和に暮らせたら、それでいいのに・・・・・。

 そう思ってきたのだが、とかく人の世は住みにくい。

 やれやれだな、なんてらしくもなく黄昏ていると、不意に馬車が速度を落とした。懐中時計を見れば、八時に三十分足りていない。
 ドアを開けると、狭いなれど自分の家で、ネオはほっと胸を撫で下ろした。
「ありがとう。」
 御者に銀貨で支払いを済ませて、遠ざかるそれを見送る。ふと階段を登りながら、ネオは窓ガラスに映るランプの明かりに目を細めた。

 広々とした屋敷に、煌々と灯るシャンデリアの豪華さに比べて、それはほの暗く、みすぼらしい灯であった。
 だが、そのランプの明かりこそ、ネオが恋してやまないものである。
「・・・・・・・・・・。」

 お金に余裕が無くて、昼間までしか人を雇えない事を、ネオは悔しく思う。本当はこんな風に、誰でも良いから自分の帰りを待っていて欲しかったのだ。

 窓明かりに癒されながら、ネオはゆっくりと階段を上がると、玄関のドアを押し開けた。





「ただいま。」
 思いもしなかった主の、早めの帰宅にマリューは思わず包丁で指先を掠めてしまった。
「マリューさん?」
 台所から聞こえてきたかすかな悲鳴に、慌てて駆けつけると、人差し指の付け根を握り締めた彼女にぶつかった。
「あ、お帰りなさいませ。」
「大丈夫か?」
 ネオの目が、真っ直ぐに、マリューの細い指先へと注がれている。
「はい。ちょっときってしまっただけで・・・・・。」
 慌てて側にあった布巾で指先を拭おうとして。
「!?」
 突然マリューの手を掴んだネオが、それを口に含んだ。

(ひゃ・・・・・。)
 かああ、とマリューの頬が真っ赤になるのを気にも留めず、ネオは彼女の指先を少しだけ舐める。舌に血の味がして、どき、とネオの胸が高鳴った。
「あ・・・・・・あの・・・・・・。」
 真っ赤になるマリューにようやく気付き、ネオは慌てて彼女の指を離した。
「って、ゴメン。つい無意識で・・・・・。」
「あ・・・・・いえ・・・・・・。」
「傷テープ、あったよな?待ってて。」
 所在無げに立ち尽くす彼女を残して、ネオは居間へと取って返す。暖炉の上から傷箱を取り出しながら、彼はふるふると頭を振った。
(いかんいかん・・・・・こんなのでは・・・・・。)
 一方、まな板に向き合ったマリューは、まだ少し頬を赤くしながら血の滲む自分の指先を見詰める。
「・・・・・・・・・・・。」

 不意にミリアリアが言っていた言葉を思い出した。

(って、そんな、お伽噺じゃあるまいし・・・・・・。)
 それでもマリューの視線は、指先に赤く溜まる紅玉へと注がれ、それから、窓際に置かれた籠の中身へと移動する。
「・・・・・・・・・・・。」

 首筋に噛み付く、今回の事件の犯人。

 ミリアリアが言う「吸血鬼」という単語。

 マリューの中での吸血鬼のイメージといえば、「太陽に当たると灰になる」「にんにくと十字架が嫌い」「女性の血を好む」「胸に楔を打ち込まれると死ぬ」などだ。
 ネオは太陽を浴びても大丈夫だったよな、などと考えて、ふるふると彼女は首を振った。

(って、だから吸血鬼なんて居るわけ無いでしょーが!)

 そう。吸血鬼なんて居やしない。それを模した凶悪な犯罪者が居るという事実が大事なのだ。

「これでいいか?」
「きゃああああっ!?」
 やっぱり気配の無いネオに驚いて振り返ると、困ったようにネオが笑った。
「マリューさん、そんなに俺に話しかけられるの、いやなの?」
 微かに、悲しげな色が瞳の奥に見えて、マリューはぶんぶんと首を振る。
「ち・・・・・違います!ただ・・・・・その、ロアノークさんの気配って、あんまり感じないから・・・・。」
 もごもごと口の中で呟く彼女の手を取り、ネオは苦笑したままテープを張ってあげる。
「と・・・・・これでよし。」
 気を付けてくれよ?
 念を押すように顔を覗き込まれ、その柔らかい青い眼差しに、マリューは思わず赤くなってしまう。
 それと同時に、先ほど見つけた彼のメモの内容も思い出し、マリューは彼から目をそらすと「以後気をつけます。」と小声で応えた。

 彼が何者なのか。
 自分はそれを知るためだけに、ここに留まっているのだ。

「それで、今日は何・・・・・・。」
 いくらか深呼吸をしながら、まな板に向き合うマリューの肩越しに、ネオは食材を見やった。
「トマトソースで、パスタでもとおもったんですが・・・・。」
 窓際の籠から、それをだして刻もうとするマリューに、ネオが待ったを掛けた。
「ストップ!!」
 がし、と彼女の肩を掴む。
「え?」
「すまない。言ってなかったな。」
 振り返る彼女に、頭を掻きながらネオが言う。
「俺、にんにく、駄目なんだよな。」
「・・・・・・・・え?」
「アレルギー体質というか・・・・食べると口の中がひりひりするというか・・・・。」
 今からそれ、抜きでも大丈夫?
 はい、だいじょうぶです、なんて答えながら、マリューは不意に嫌なものを感じた。
 にんにくが嫌いな人は、きっと探せばたくさん出てくるはずである。
 だからこれは単なる偶然。

「そ、よかった。」
 再び前を向く彼女の耳元で、笑いながら告げる仕草に、マリューはミリアリアが感じた恐怖を思い出す。

 後ろから、首筋に噛み付かれたという事実。

「あの・・・・・・。」
「うん?」

 貴方は何者なのだと、問いただしたい。

 それを必死に飲み込んで、マリューは顔を上げると笑って見せた。
「他にも嫌いな物があったら、仰ってくださいね。」
 それにネオは、見とれてしまうくらい、キレイな笑みをマリューに見せるのだった。

(2006/04/14)

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