Muw&Murrue

 衛星は一つだけ
「マリューちゃん、今日も可愛いねぇ。」
「・・・・・・はあ・・・・・あ、ありがとうございます。」
 一息入れようと自分のデスクから立ち上がり、フロアの隅に据えてあるコーヒーメーカーから紙コップにコーヒーを注いでいると、マリュー・ラミアスは他部署で、モテル、と評判の先輩に肩を叩かれた。
 セクハラまがいの行動をよくする男なのだが、容姿の良さと気さくな性格の所為で、女子社員からは「んも〜。」で終わってしまっている。
 今も彼はマリューに挨拶をした後、なにやら女性の間を渡り歩いているのだが、セクハラ認定も、する相手によるのだと、構われてはしゃぐ同僚を横目に、マリューはこっそりため息を付いた。
 三時を少し過ぎて、ちょっと息抜きに来ただけなのだろうが、来られた方は、ちょっとした騒動になっていた。
「何目で追ってるんですか?」
 ラミアスさん?
 と、ぼんやりそんな光景を眺めていたマリューは、隣でコーヒーを淹れはじめる男の声に、びくりとして振り返った。
「あ・・・・・・・。」
 屈んでいる金髪の頭が揺れて、こちらを向く。
 細められた目の奥が、なにやら身をすくませるような色を含んでいて、マリューは苦く笑った。
「別に、追ってませんけど・・・・・・。」
「そーう?」
 しゃんと背を伸ばして、カップに口を付ける。隣に立つムウ・ラ・フラガから視線を逸らし、楽しそうに話をする同僚二人に彼女は目をやった。
「ラミアスさんは、ああいうタイプがお好みですか?」
 女性の扱いが上手で、話題も豊富。甘いマスクで自信に満ち溢れた態度。
「・・・・・・・・・・・。」
 彼女たちと親しくするその男を暫く眺めて、マリューは吹き出した。
「何?」
 眉を寄せてコーヒーを飲むムウを見上げる。
「彼って、貴方と似てません?」
「・・・・・・・・・それって好みってこと?」
 しれっと切り返えされて、マリューは「さあ。」とそらっとぼけた。

 彼は好みじゃない、とマリューが言うと、それと似たタイプだと評された自分の立場は無い。
 では好みだといわれると、彼に構われるマリューを見るのは絶対にいやだ。

 複雑な表情で黙り込む男を見上げて、マリューは涼やかに笑った。

「さ、お仕事お仕事。」
「ん・・・・・・・ていうか、マリューさん。」
 さっさと自席に戻ろうとする彼女に、ムウは視線を外したまま尋ねた。
「マリューさんの中で、俺ってどういう評価なわけ?」
 訊ねられて、少しの間瞬きすると、そりゃあ、とマリューが綺麗に笑った。
「女の人に優しくて、仕事ができて、話題も豊富で自信に満ちてる人、ってイメージですけど?」
「・・・・・・・・・・。」
 あはははは、と笑い声が聞こえて、ムウはフロアの奥を見渡した。立ち去り際に、彼が何か言ったらしい。なんとも和気藹々としたムードが漂っている。

 あんな奴と似てるかねぇ・・・・・。

 ふてくされるムウを見上げて、マリューは小さく笑い、そして自席に戻った後も、思い出したように微笑んでしまうのだった。





「マリューちゃん。」
「あ、お疲れ様です。」
 仕事も終り、帰ろうとやってきたエレベーターの中で乗り合わせた先輩から声を掛けられて、マリューは咄嗟に挨拶した。
「今日は?もう帰るの?」
「はい。」
 頷く彼女に先輩は「そっかぁ。」となにやら思案する。女子社員にきゃあきゃあ言われる容姿を、知らずマリューはしげしげと眺めていた。
 身長はムウより少し低く、髪の毛は明るめの金髪で結構さらさらだ。鼻筋も通ってるし、目元が涼やか。ムウのように無邪気に笑うところは想像出来ない、洗練された物を感じる。
 だが、その口から飛び出す気安さが、外見とのギャップを演出していて、オンナノヒトはくらくらするのかもしれない・・・・・・と、そんな分析をしていると、ふいに先輩の眼差しがマリューへと落ちた。
「俺の顔に何か付いてる?」
 覗きこむように見られて、咄嗟に「スイマセン」と謝った。オレンジがかったブラウンの瞳が、可笑しそうにマリューを映していた。
「不躾に見詰められちゃって、俺、なんかドキドキしたよ。」
 にこにこ笑いながら言われて、返答に困る。「はあ。」と曖昧に告げると、更に男は笑みを深めた。
「というわけで、これからお食事にでも行きませんか?」
「はあ・・・・・って、ええっ!?」
 目を丸くするマリューの目の前で、エレベーターが開いた。と、鞄を持っていない方の手で、男は強引にマリューの手首を掴む。
「せ、先輩!?」
「いいお店、知ってるんだな。」
「先輩ってば!」
 エントランスをどんどん手を引かれて歩いていきながら、マリューは恥かしさといたたまれなさで赤くなった。見知った顔が居ないことが幸いである。
「何?なんか不都合が?」
 振り返る男に、「そりゃ、」とマリューが口を開いた。
「わ、たしにも・・・・・か、彼氏がいますし・・・・・その・・・・・こういう風に、お、男の人と二人っきりで食事は・・・・・・。」
 大体自分の所属する部署にも、この男のファンは居るのだ。一緒に食事をしていた、なんて知れたらどんなに面倒な事になるやら。
 だが、相手は頓着しない。
「彼氏って、南の島の?」

 ・・・・・・・ああそうだった。そういう事になってたんだっけ。

「いいじゃん、君をおいてどっかに行っちゃうような男なんて放っておいてさ。」
「そ、そんなわけには・・・・・。」
「大体、マリューちゃんだって、寂しいんじゃないの?」
 くすくす笑って見詰められ、挙句、ウインクまでされる。
「たまには、男性と食事をして、生活に潤いを持った方がお肌も心もつやつや〜になると思うんだけど?」
「・・・・・・・・・・・・・。」
 思わず絶句していると、「んじゃ、一緒に行こう。」と再び腕をとられた。
「あ、で、でもあの・・・・・。」
「いいからいいから。」
「ていうか、先輩、なんで私なんですか!?」
 思わず強い調子で言ってしまい、しまったと周りを見渡す。ちらちらと振り返る視線に、マリューは泣きたくなった。
 どうかどうか、ここに知り合いが来ませんように。
「・・・・・・・・何でって・・・・・。」
 見詰める瞳が怪しく光った気がして、反射的にマリューは後ずさった。
「そりゃあ、マリューちゃんともっとお近づきになりたいからですが?」

 私はなりたくありません!

 そんな台詞が喉元まで込み上げるも、それを男が遮った。
「気になる女性と、親しくなりたいって、そう思うのは間違い?」
 一変し、真摯な眼差しで見詰められて、マリューは口ごもった。
「それは正当なアプローチにはならない?」
「だ、だって・・・・・私には付き合ってる人が・・・・。」
 切り札、と思って告げる言葉に、先輩はしかし笑顔を絶やさずに告げる。
「でも、食事に行くだけだし。」
 男友達と食事に行くのは悪いことじゃないだろ?
「でも、先輩はそんな気じゃなくて」
「うんまあ、そうだけどさ。俺だって努力くらいさせてよ。」
「・・・・・・・・・・・。」

 恋人になれないんなら、一緒にいる友達でもいいんじゃないのでしょうか?

「友達って・・・・・。」
 それに、マリューは困ったように顔を俯けた。弱ったなぁ、という単語が胸の内をぐるぐる駆け回る。こういうタイプは付き合うまで側に居たがるのだろう。
 強引に事を運びたがるのだろうし。
 必死に言い訳を考えるが、出てこない。

「それでも、」
 苦しい言い訳と分かっていながら、マリューは切り出した。
「純粋な友達として、じゃない気持ちが先輩に有るのなら、私は一緒には居られません。」
 はっきりと告げて、彼女は顔を上げる。
「・・・・・・・・・・・・。」
 そんな真っ直ぐなマリューの視線を受け止めて、暫く彼女を見詰めていた男は、小さく笑うと、「そっか。」と妙に軽く答えた。
「じゃ、俺、マリューちゃんの恋人は諦めるから、だから付き合って。」


 そう来るのか、あなたはーっ!!!


「俺は、マリューちゃんと純粋なオトモダチになる事を、誓うからさ。」
「そ、そんな、ちょっと・・・・・先輩!?」
 がし、と腕をとられて引きずられる。なりふり構わず、マリューはあたりを見渡した。捜し求めるのはただ一人。
(ムウ・・・・・・・。)
 泣きそうな顔で周囲を見渡し、エントランスの奥のエレベーターを必死に見詰める。だが、彼女が自動ドアを抜けるまでに、そこからムウは出てきてはくれなかった。
「・・・・・・・・・・。」
 どうしよう。
 そのまま、笑顔でタクシーを止める男に、背中を押される。
 どうしよう・・・・・どうしたらいい?

「こ、困りますから」
「ちょっと食事するだけじゃん。ね?」
「ね?って・・・・・あ、あの先輩!?」
 そのまま強引にタクシーに押し込まれ、すがるようにマリューは窓の外を見た。と、丁度玄関から出てきたムウと視線がぶつかった。
「あ」
 はっきりと。
 嬉しそうな顔をするマリューの肩を、横から伸びてきた手が攫う。
「先輩!?」
「ゆーじょうゆーじょう。」
 へらっと笑う男に、マリューは頭痛を覚え、それから走り出した車窓から、せめて、と後部を振り返る。
 唖然とした顔で、こちらを見送るムウが見えて、マリューは泣きたくなるのを必死で堪えるのだった。





 何が起きたのか、ムウには理解できなかった。
 理解できたのは、マリューが車に乗って『連れ去られた』ことだけである。
「ってぇ・・・・・っ!」
 タクシーを捜して追いかけようとするが、「あの車を追ってください」が通用しないほど先にタクシーは行ってしまった。
 それでも追いかけたくて、無理やりムウは走り出した。
 どこに行くのかも、それから車に追いつけるかどうかも、冷静な頭で考えればすぐに分かるようなことなのに、この時ばかりはムウの脳裏に浮かばない。
 ただ、夢中でマリューを追いかけ、大きな通りの雑踏の中に滑り込む。
 巨大なビルの立ち並ぶオフィス街から、もう少し行くとにぎやかな部分に出る。信号で足止めを喰らうと、みるみるうちにマリューを乗せたタクシーは見えなくなった。肩で息をし、ムウはまわらない頭でどうにかこうにか、『携帯電話』の存在を思いだした。
「電話・・・・・・。」
 側のビルには、腰丈の植え込みがあり、その縁に手を掛ける。ぜーぜー言いながら、ムウは大急ぎで電話を掛けた。




「!!」
 低い振動音ではっとする。
「ごめんなさい。」
 なにやら親しげにこれから行くお店の、お薦め料理を話していた男に断って、マリューは鞄から携帯を取り出した。ディスプレイを素早くチェックすると、「おにいちゃん」となっている。

 マリューはムウの携帯番号を「おにいちゃん」で登録していた。
 これなら、親戚の、とかイトコの、とかいくらでもいい訳が立つからだ。下手に人の名前を入れて突っ込まれたりするよりは都合が良く、親しく話をしていてもばれない。
 それに、当の本人は眉を寄せて嫌がっていたのだが、一応、しぶしぶ納得してくれても居た。

「はい。」
 隣の男を気にしつつ、マリューが電話に出た。
「マリューか!?」
 雑踏と、信号機の奏でるうら寂しいメロディーをバックに、ムウの切羽詰った声が耳を打った。
「なんだ!?何があった!?」
 偉い剣幕で怒鳴られ、隣をちらちら気にしながらマリューがそっと告げた。
「ごめんなさい。今、会社の先輩と一緒なの。」
「先輩!?」
 ムウの声がオクターブ上ずった。ムウから「こいつか!?」と名前を告げられ、泣きそうになるのを堪えて、「そうよ。」となるべく冷静に答えた。
「今一緒なのか?」
「はい。」
「・・・・・・・・マリュー。」
 呆れたような溜息の混ざる調子で言われて、「だって」と思わずマリューが声を荒げた。

「もめてるの?」
 と、ぽん、と肩を叩いた先輩が、神妙な顔でマリューを見た。なんとか身振りで大丈夫ですを伝えよとするが、ムウの低い声は止まらずマリューの耳を打つ。
「なんで?なんでソイツと一緒なわけ?」
「い、色々と事情が・・・・・・。」
「事情!?どんな!?おい、マリュー。まさか」
「ち、違うわよ!それくらい分かってるでしょ、ム―――――おにいちゃん。」
「なんだよ、それはっ!!!」

 自分の電話の設定を知っているはずなのに、ムウはすっかり忘れて語尾を荒げる。電話からもれる声に、マリューの隣に座る男が、芳しくないものを感じたのだろう。冷や汗をかくマリューを見て、うん、と一つ頷くと、ぱっとマリューの手から携帯を取り上げた。

「せんぱ」
「マリューちゃんのお兄さんだかなんだかしらないけどね。」
 と、今ここで一番聞きたくない人物の声を耳元で聞いて、ムウが絶句した。
「彼女、嫌がってますから、あなたと話すの。」


 なんだと!?


 ムウの眉が上がるが、見えないので意味が無い。だから相手は黙り込むムウに畳み掛けるように告げた。

「大丈夫ですよ、お兄さん。僕と彼女はただちょっと食事に行くだけです。友達、ですから。」


 はあ!?友達だと!?


「な」
「失礼します。」

 反論しようとしたムウの台詞を聞かず待たず、男は力いっぱい携帯の通話を切ってしまった。
 それからさっさと電源まで落としてしまう。
「先輩!?」
「こまるよね、身内に過保護な人がいると。」
 ああでも、マリューちゃん可愛いから、こう、お兄さん気分になる人多いのかもね?

 過保護とかじゃなくて、ムウは私の恋人で、だから――――

 そう言ってやりたいが、二人の関係は内緒なので言えるわけも無い。そもそも自分の恋人は海の上、という設定なのだ。

「・・・・・・・・・・・。」
「あ、ほら、ついた。」

 路地を曲がり、小さな看板が道路を照らす。夕方の雑踏が少し遠のいたこじんまりとしたお店の、オレンジの光を見、嬉しそうな先輩の笑顔を見て、マリューは仕方なく・・・・本当に仕方なく、腹を括るのだった。






 創作和食、なんだけどね、と座敷に通され、障子の向こうの庭を見詰めるマリューに男はニコニコと笑う。
「なかなか変わった物が多くてさ。あ、コース料理がいいかな?それとも単品で頼む?」
「え?」
 鞄から携帯を取り出し、電源を入れようとしていたマリューに、「ああ、ダメダメ。」と男が手を伸ばした。
「ここ、携帯はご法度なの。」
 店内には静かな和風の曲が流れている。和琴と尺八だろうかと、頭の隅で考えるマリューに、ほらね、と男はメニューを見せた。
 お品書き、の上の方に「携帯の電源はお切りください」と書かれていた。
 淡い行灯の灯が揺れる室内と、整えられた小さな庭。それから優雅な店内の音楽。それら和の雰囲気を楽しみながらの食事をモットーとしているのだと、男は笑った。

「じゃあ・・・・・あの・・・・・。」
「電話したいの?お兄さんに?」
 柔らかい視線で見詰められて、マリューは「そういうわけじゃ・・・・。」とぽつりとこぼすしか出来なかった。



 運ばれてきた料理は、コースで、しかも創作和食、という事だから純粋な和食とはちょっと違っていた。地豚と茸を湯葉で巻いた料理や、海鮮パイの包み焼き、かと思うと鯛のお造りなどなど。
 お店の雰囲気に飲まれながら、「ここの日本酒、美味しいんだよ?」と薦められて、マリューは一、二杯飲んでしまった。

(あんまり飲みたくないなぁ・・・・・・。)
 時計が気になり、ちらちらと腕時計を確認する。お店に入ってから、ようやく一時間が過ぎようとしていた。
「マリューちゃんってさ。」
 そわそわする彼女を看破してか、男が行儀悪く頬杖を突きながらマリューを見た。
「はい?」
「こういうお店には来ないの?」
「え?」
「なんか居心地悪そうだからね。」
「あ・・・・・いえ・・・・・・。」
「普段は?外食派?どういうお店に行くの?」
 矢継ぎ早に聞かれて、マリューはふんわり笑った。
「こういうお店は苦手で・・・・だから居酒屋とか良く行きますね。」
「そうなんだ。」

 そこで、ふとマリューは思い当たった。相手の話を聞きながら良く考える。

 ムウとデートのとき、彼はフランス料理だったりイタリアンだったり、それこそこんな風な和食だったり、色々連れて行ってくれたりする。
 かと思うと、近くのコーヒーショップだったり、居酒屋だったり。「ここの焼きそば、うまいんだよ。」とお好み焼き屋に連れて行かれたり。

「・・・・・・・・・・・。」
 話す先輩に相槌を打ちながら、マリューはそういう、ムウと一緒の時だと、そんなに気を張らないし、むしろどこでも楽しかったことにふと思い当たったのだ。

 元来、こういう敷居の高そうなお店は苦手なのに、だ。

「先輩。」
 やって来た鮎の焼き魚を前にしながら、マリューはおずおずと切り出した。
「私・・・・・・先輩とは」
「ねえ、マリューちゃん。」
 と、何かを言いかけた女を遮って、男はふわりと笑った。
「今度は、どこに行こうか。」


 ・・・・・・・・・・は?


「いつがいい?驕ってあげるからさ。」
「え?」
「だって、あんまりこういうところ、来ないんだろ?・・・・だよね、分かるよ。恋人と二人で、っていうのがこういうお店とかレストランだと常識っていうかさ・・・・周りもカップルばっかりで、寂しく思うしね。」
 足が遠のくのも仕方ないよ。
 一人で頷く男に、マリューは唖然とした。
「じゃあ、暫くは、飲み友達というか、食べ友達というか、それでいこうよ。」
「・・・・・・・・・・・・。」
 キレイな漆塗りの箸を握り締めて、マリューは呆然と相手を見詰めた。

 ムウよりも強引というか・・・・・大分強引の方向が違うが、それでもマリューは眩暈がした。

「あ、あの先輩」
「今度の金曜は暇?」
 その日はムウと一緒だと決まっている。
「いいえ。」
 間髪居れずに答えると、「休みも予定あり?」と不満そうに聞く。
「はい。」
「じゃ、月曜。」
「会議があります。」
「なら、火曜日は?」
 間があった。予定が思いつかない。
「じゃ、火曜日ね。」
「ちょ・・・・あ、あの・・・・。」
「なんで?嫌?」
 真っ直ぐ見詰めてくる瞳に、マリューはぎゅっと唇を噛む。そうだ。嫌だ。嫌って言うんだ。
「はい。」
 急いで頷く。
 そんな風に、あんまり率直に頷かれてしまったので、男はちょっと目を丸くしたあと、大笑いした。
「そんなに嫌われてるわけ、俺。」
 腹を抱えて笑う男に、マリューは真っ赤になった。
「そ・・・・・んなわけじゃ・・・・。」
「いいって、いいって。」
 まだ口元に笑みを閃かせたまま、男は斜めに女を見上げた。
「でも、話してみないと、分からないこともあると思うし、ていうかマリューちゃん、俺のことあんまり知らないでしょ?」
「・・・・・・・・・。」

 それは、そうかもしれない。
 確かに、そうなのかもしれない。

 弱りきって俯く彼女の、栗色の髪の毛を目を細めて眺めながら、男はこっそり呟いた。
「それに、嫌われてるってわかって、俄然燃えてきたし。」
「え・・・・・?」
 反射的に顔を上げると、片目をつぶられてしまう。マリューは頭痛がした。どうしたら、分かってもらえるだろうか。
「とりあえず、もう一回食事しようよ。ね?」
 マリューちゃん?
「・・・・・・・・・・。」
 見目麗しい外見で、にっこりと微笑まれて、どうしても断りきれず、マリューは断腸の思いで「はい。」とか細く答えるのだった。





 飲みなおそう、と言われ、頑としてマリューは断った。明日も仕事だし、これ以上先輩におごらせるわけには行かないと、必死で言った。
 だが、手首を掴んで離さない男は、強引で、マリューは泣きたくなる。
 それでも「本当に、今日はダメなんです!」というと、男は条件を出してきた。
「じゃあ、次の機会は絶対ね?」
「次って・・・・・・。」
「火曜日。」
 にこにこ笑う男に、マリューは「やっぱり覚えてるんだ。」と肩を落とした。
「んじゃ、送ってく。」
 へい!タクシー!なんてふざけたノリで手を上げる男を前に、少しほろ酔いのマリューは思わず吹き出してしまった。

 気さくで、明るくて、強引で。

 ふと思う。
 もしも。もしも自分とムウがなんでもなかったら、こんな風に誘われ続けて拒み続けることが出来ただろうか・・・・・いや、もっと言えば、拒もうなんて思っただろうか。
 今だって彼は、止まったタクシーにマリューを押し込め、しつこくマンションの所在を聞いてくる。
 駅までで良い、と頑なに答えるのに、だ。
「途中で何かあったらどうするのさ?最近は物騒だし。駅前なんて特にだろ?」
 まだ九時にもなっていないのに、眉を吊り上げる男に、マリューは苦笑する。
「この時間なら、まだ人通りも多いですし」
「いや、ダメダメ。そう思うでしょ、運転手さんも。」
 振られて、ドライバーは距離が伸びるのは私としてもありがたいですね、と混ぜっ返す。
 しつこくしつこく、あの手この手で諭されて、マリューはとうとう、自分のマンションの名前を告げてしまった。

 どうにか、なんてなりっこない。

 やっぱり他愛の無い話を続けて、車が止まる。お礼を言って降りるマリューの手を、男が掴んだ。マリューに付き従って降りる先輩に、マリューはどきりとした。
 まさか、家に入れろとか・・・・・言わないわよね?
「マリューちゃん。」
「・・・・・・・・はい。」
 どことなく及び腰で身構える彼女に、男はくすっと小さく笑うと、どきりとするくらい真剣な瞳を見せる。
 え?と思った瞬間、「おやすみ。」と彼は告げてあっというまに、マリューの頬に口付けた。
「!?」
「次は俺、本当にちゅーしちゃうからな?」
「せ・・・・せんぱ・・・・・。」
 あっはっはっは、なんて笑いながら、真っ赤になるマリューを残して、男はひらひらと手を振ると車に乗り込む。
 スタートする車。そのテールランプを、マリューは呆然と見送った。じんわりと、触れられた頬が熱を持つ気がして、思わず手を上げて指先で触れる。

 あの先輩なら、特に気にするような事でも無いだろう。
 半分くらい酔っ払っていたし。

 けど。

「・・・・・・・・・・・。」
 俯いて、門灯の灯に沈むアスファルトを眺めていると。
「随分楽しそうだったな。」
 冷ややかな声が、マリューの背後から降り注いできた。
 はっと振り返る。
 マンションの入り口にある門柱に身をもたせかけ、仏頂面でムウがこちらを睨んでいた。マリューの目が大きくなった。
 それに気付かず、ムウが半分怒ったような、低い口調で続ける。
「そんなにアイツと食事すんの、楽しかったわけ?」
 携帯の電源切るくら―――――

 そこで、ムウの拗ねたような言葉は途切れた。
 突然マリューが、ムウに抱きついたのだ。

「・・・・・・・・・。」
 予想外の行動に呆気に取られていると、しがみ付く彼女が、胸元でなにかごにょごにょ言う。
「あ?」
「なんで助けに来てくれなかったんですか!!」
「・・・・・・・・へ?」
 間抜けな返答が喉を付いて出て、それに顔を上げたマリューが涙目で男をにらんだ。
「会社で!連れて行かれそうになった時、なんで助けに来なかったのよ!」
「・・・・・・・・・・・。」

 無茶な物言いだ。

「私・・・・・私っ」
 顔を埋めてぽかぽか殴られ、ムウははっとした。
「ま、まさか、マリュー!?アイツに何かされたんじゃ」
「違います!でも、すっごく困ったんだから!!!」
 ぶう、と頬を膨らませる姿が、歳に似合わず幼くて、それと同時に、彼女が本当にここ数時間、弱りきっていたことに、ムウはようやく気付いた。

「ごめん・・・・・・・。」
「ムウ〜、どうしよう〜。」
 低い声で謝られて、箍が外れたのか、それとも多少酔っ払っていたのか、マリューは抱きついたまま、悲しげな声で訴える。もたれかかる彼女を抱き寄せたまま、ムウは「とりあえず、中、入ろう?」と提案するのだった。




「待ってたの?ずっと?」
 玄関から中に入るなり、鍵を掛けるのを待つ間ももどかしいと、ムウはマリューを抱きすくめる。
「ん・・・・・だって、他に君を捕まえる方法が見つからなかったから。」
 ちう、と首筋にキスを落として、髪の毛を掻き分ける。暖かい肌に安心しながら、ムウはマリューの腰を抱いて、口付け始めた。
「晩ご飯は?」
 重なる口付けの合間に、そっと訊ねる。
「まだ。」
 軽くムウの胸元に手を付いて、マリューは尚もキスしようとするムウを放した。
「だったら、今からご飯・・・・・。」
「こっちが先。」
 ちょっと!?

 抗議の声を再び口付けで封じて、男は器用に彼女を抱え上げると寝室へと連行した。
「ダメ、おなかすいてるでしょ!?」
「・・・・ん・・・・・。」
「んもう、ムウ!私、シャワーとか・・・・・。」
「んなの、後々。」
「こらーっ!」
 ベッドに寝かされて、見上げるマリューに、ムウは真っ直ぐな視線を返した。
「俺、気が気じゃなかったんだからな。」
「・・・・・・・・・。」

 あんな風に、男に連れ去られて。連れまわされて。

「それは。」
「ちゃんと断ったのか?」
 それに、マリューが眉を吊り上げた。
「当たり前です!」
「・・・・・・なら確認。」
 そう言って、マリューの着ているスーツの上着を脱がせて落とし、ブラウスのボタンを一個一個外していく。
「なんの確認ですか!?」
 キレイな胸元にキスをする男に悲鳴を上げると、ムウは綺麗な笑顔を見せた。
「もちろん・・・・・ね?」
 それに、俺、ご飯より先にマリュー食べたいし。
「こ、こら・・・・ば、馬鹿っ!!!」
 そのままマリューを押し流して、ムウは何かを確かめるように、彼女を強く強く抱きしめるのだった。




「まったくもう!」
 ぶうぶう文句を言いながら、それでもマリューはちゃんとムウにご飯を作ってくれる。「チャーハンしか作りませんから!」と冷蔵庫から卵を取り出す彼女を、ムウはシャワーから上がって頭を拭きながら、可愛いなぁ、なんて目を細めて眺める。
 暫くして、いい音と香りがキッチンからし始め、ムウはソファーに座ると時計を見た。

 もう直ぐ、十二時になろうとしている。

「結局こんな時間か・・・・・・。」
「太っても知りませんからね。」
 どん、と山盛りに作られたチャーハンを目の前に出されて、ムウが苦笑する。
「運動したら良いと思う?」
「一人でランニングですか?」
「いや、ベッドの」
 ぽか、と頭を叩かれた。
 いただきまーす、なんて言いながらぱくぱく食べ始める男の向かいに座り、マリューはテーブルに両手を投げ出すとうつぶした。
「で、火曜日、行くの?」
「・・・・・・・・・うん。」
「・・・・・・・・・なんで?」
「約束したから。」
 それに、ムウが眉を寄せた。
「適当に断ればいいだろ?予定が出来たとかなんとか。」
 それに、マリューは「無理よ。」とため息を付いた。
「どうすればいいわけ?散々『嫌い』とか『嫌だ』とか言ったのに。それでも『一回だけ』って懇願されて。あの手この手で誘われて。」
 無下に断ったって、きっと次には、「じゃあ、いつならいいの?」と聞かれるに決まっている。
「いつでも良くないって言えばいいだろが。」
 出してくれたウーロン茶を喉に流し込み、ムウが睨む。そんな弱気なマリューの態度がいけないのだと、言外に語っていた。
 そんなムウを、マリューは睨み返した。
「貴方なら諦めるんですか?」
 私が「嫌だ」っていったら。
「・・・・・・・・・・・・・・。」

 マリューを初めて意識した時を思い出す。

 絶対に、誰にも渡したくない一心で、ムウはかなり無茶な事をマリューに強いた。

「そりゃ・・・・・まあ・・・・。」
 途端歯切れの悪くなるムウに、「でしょう?」とマリューが頭を抱えた。
「貴方みたいなタイプが、一番厄介なの。」
「・・・・・・・・まさか。」
 と、ふと過去の自分の所業を思い出し、ムウがテーブルから身を乗り出した。
「マリュー、お前、アイツに迫られたらそのまま流されちまうんじゃ」
「馬鹿言わないの!!」
 途端、マリューが悲鳴のような声で遮った。
「そんな事になったら、殴るなりなんなりして、逃げます!」
「でも、俺の時はそんなことしなかったじゃん。」
「そ、れは・・・・・・・・・・。」

 怒り心頭、と行った感じでムウを睨んでいたマリューの瞳が、途端につい、と泳ぐ。

「あれは・・・・・その・・・・・。」
「・・・・・・・・・・・・。」
 耳まで赤くなって俯く彼女に、ムウはじんわりと胸の中が暖かくなる気がして、そっと彼女のほほに手を差し伸べた。
「自惚れて、いいんでしょうか?」
「・・・・・・・・・・・。」
「ふーん・・・・・そっか。俺とは一線越えても良いって思っててくれた」
「んもう!ムウなんか知らない!!」

 テーブルに手を付いて立ち上がる彼女の腕を、ムウがとった。

「まてまて、マリューさん。」
 そのまま自分の座るソファーへと彼女を引き寄せる。ぽすん、と隣に収まる彼女を抱き寄せたまま、「それは置いて置いて、実際、火曜日どうするんだ?」と真顔で尋ねた。
「・・・・・・・・・・・・。」
「強引に迫られても、絶対に靡かないってのは分かったけど。突然襲われたら対処出来ないだろ?」
「・・・・・・・・・・・・けど。」
「分かってる。」

 自分と似たタイプ、ということはだ。確かに、「彼氏がいますから。」で納得して引き下がりはしないと思う。
 オマケに、マリューの彼氏は『南の島』だ。側に居ない、夢ばかり追いかけている彼氏なんてさっさと別れて、俺と付き合った方が幸せになれるに決まっていると、そう思ってるはずだし、実際そうやってマリューは口説かれている。

 じゃあ、どうすれば奴からマリューを護る事が出来るのか。

「ムウが恋人だって言えたらいいのに・・・・・。」
 寄りかかるマリューが、ぽつりと漏らす。確かにそれが一番手っ取り早い気がする。
 社内恋愛が禁止されているわけでも無いし、確かに「付き合ってます」というのが一番だろう。だが、そうなると、内部で色々と「やりにくい」事が出てくる。
 特に、自分の過去を踏まえると・・・・・・。

「それは最終手段として・・・・・・。ようは、ばしっと断れる、それなりの理由があればいいんだよな。」
「・・・・・・・・どんな?」

 暫く思案した後、ムウは「こんなのは?」と口を開いた。




 ざわざわとした空気の漂う、居酒屋の一角に、マリューは居た。いくつもテーブルが据えられて、大きな窓の向こうには、張り出したテラスの席がある。板張りのそのお店の、天井で回る大きなファンを眺めていると、向かいに座った先輩が、「飲み物は何にする?」とニッコリと笑らった。
「あっと・・・・・じゃあ、ウーロン茶で。」
「ビールとかカクテルとかあるけど?」
 お薦め、なんて書いてあるし。
 メニューを指差す男に、マリューはちょっと思案すると、でもやっぱりウーロン茶を頼んだ。
 やって来た飲み物を手に、「とりあえず乾杯。」と男が笑顔でグラスを上げた。
「何にですか?」
 くすくす笑いながら訊ねると、そりゃあ、と大仰に眉を上げる。
「俺とマリューちゃんの付き合いに、ね?」
「本当に先輩のおごりなんですか?」
 笑顔を見せるマリューに内心どっきりしながら、もちろん、と頷く。
「じゃあ・・・・・・。」


 こないだの料理屋とは違い、ボリュームのありそうな物が、テーブル一杯に並んでいる。ウーロン茶片手に、次々と料理に手を付けるマリューを、男は唖然として眺めていた。
「ろうはひまひは?」
 もぐもぐと、トマトとベーコンのピザを頬張って口を動かすマリューに、男が「え?」と目を瞬いた。
 思わず見入っていたらしい。
「あ、これ、先輩、これ美味しいですよ?」
 フォークでバジルソースの絡んだパスタを皿に取り分ける。
「ん〜、美味しい〜。」
 にこにこ笑う彼女に、男はどうリアクションしていいか分からない。スペアリブにナイフを突き立てるマリューがニッコリ笑った。
「最近、食べるくらいしか楽しみがなくて。」
「・・・・・・・・・。」
「あ、ほら、彼氏、南の島でしょう?」
 先輩が言ったように、なかなか会えないですから。
 ふっと視線を落とし、皿の美味しそうに焼けたスペアリブを見詰める。
「先輩が、それなら『食べ友達』になろう、って言ってくださって、本当は嬉しかったんです。」
「そうなの?」
 ちら、と目の前の男に、笑みが閃く。
「はい。美味しいもの、沢山食べたかったし。」
「・・・・・・・・そ、う・・・・・。」
 期待はずれの答えに、男は微かに閃いた笑みを凍りつかせた。
「だから、ありがとうございます。」
 そんな彼の様子に気付かず、語尾を跳ね上げて告げると、マリューがパエリアを皿にとりわけ出した。彼女の食べっぷりに、男は気圧されたのか食が進まない。
 辛うじて、じゃこの乗った海鮮サラダにフォークをおいたとき、「あれ?」と後ろから声が掛かった。
「あ。」
 マリューが顔を上げる。
「フラガさん・・・・・・・。」
「・・・・・・・・ふーん?」
 仕事帰り、といった様子で男の後ろに立ったムウが、素早く二人を見て納得したように頷いた。
「何、二人で。」
「おい。」
 同期に入社したムウの登場に、男が眉を寄せた。にやにや笑う彼の噂を、男も当然知っている。だから、どうにかムウからマリューを庇おうとしたのだ。
 だが、ムウは人の悪い笑みを浮かべたまま、丸いテーブルのマリューと男の間に腰を下ろした。
「お前、連れは?」
「さっきまで一緒に居たけどさ。」
 頬杖をついて二人を見る。
「帰っちゃってさぁ。怒らせるようなことしたつもりはないんだけどね。」
 興味深そうに見詰められて、マリューが居心地悪そうにする。見て取った男が、ムウを睨んだ。
「なら、帰ればいいだろ?」
「んー・・・・・つか、二人は付き合ってんの?」
 不躾な質問に、マリューがぎょっとした。
「な・・・・・・。」
「違うよ。」
 鋭い男の視線がムウにそそがれる。その中に含まれている「邪魔すんな。」という色合いをムウは看破した。
「ラミアスさんって、彼氏居なかったっけ?」
 動揺するマリューに、ムウがにこにこと笑顔で切り出す。
「は・・・・・い。」
 うろ、と視線を泳がせるマリューに「だよねぇ。合コンも来ないし。」とムウが目を細めた。
「なのに何〜?二人っきりでお食事〜?」
「・・・・・・・・・。」
「フラガ。」
 堪らず男が切り出した。
「別に俺達は大人なんだし。彼氏に一々断りを入れなくたって、食事くらいしてもいいだろうが。」
「二人っきりで?」
「居酒屋だぞ、ここは。」
 レストランのディナーじゃない。
 むっとする男に、「ま、ね。」とムウがあっさり認める。
「けどさ。ラミアスさんって、あんまり男の人と二人っきりで食事するような人には見えなかったからさ。」
 意外だなぁ、なんて。
 すっと目を細めるムウを前に、マリューが「それは。」とか細い声で答えた。
「何々?寂しかったからとか?」
 ぐ、と身を乗り出すムウに、困ったようにマリューが笑う。
「それも、あります。彼は遠いところに居ますし・・・・・こうやってお食事する機会もあまりないから。」
「ほら、お前はもう帰れよ。」
 睨み付ける男に「えー、なんでー。」とムウがそらっとぼけた。
「んじゃさ、俺ともデートしてよ。」
「え?」
 マリューのきょとんとした目を覗き込む。
「デ エ ト 。だろ?これ。」
「・・・・・・・・・・・・。」
 そう見えるのだろうか、とマリューの視線が男に向き、彼が溜息をついた。
「違うよ、フラガ。まあ、俺としてはデートのつもりだけどさ。」
「ふーん。」
 と、すっとムウの目が細くなった。
「何、お前はラミアスさんに気があるわけだ。」
 あっさり言われて、むっと眉を寄せるが、逆に男は開き直った。
「ああ。それは彼女に言ってある。」
「・・・・・・・・・・で、これ、」
 ムウがテーブルに所狭しと並べられた料理を指差した。
「全部お前のおごり?」
「当然だろ。」
 途端、ムウが「おいおい。」と苦く笑った。
「ラミアスさんにはその気は無いのにか?太っ腹だな。」
 それから、鋭い眼差しのまま、マリューを見る。
「んで、ラミアスさんは、そんな男心を知っていながら、飯だけおごらせようって寸法?」

 途端、マリューの顔が青ざめた。

「おい!」
 思わず声を荒げる男に、「事実でしょ?」とムウは悪びれない。どころか。
「ああ、そっか。彼氏も居ないし、都合がいいかもな〜。人肌恋しいってやつ?」
 相手は自分に好意があるんだしさ。驕らせて体繋いで、後腐れなくて良い関係築けそうだよねぇ。

 途端、マリューが席を立ち上がり、力いっぱいムウの頬を張った。

 ぱしん、という小気味良い音がしたかと思うと、唇を噛んだマリューが、鞄をぎゅっと握り締める。

「・・・・・・・・・・。」
 頬に指を走らせ、斜めに、ムウがマリューを見上げた。
「図星?案外酷い女なんだな。」
「・・・・・・・・・・。」
 彼女の目尻に涙がたまる。
「おい!?」
 ぐ、と肩を掴む男を無視して、ムウはマリューに吐き捨てた。
「なんなら、俺が相手、してやろうか?」
 すう、と血の気をなくしたマリューが、ムウを睨んだまま、震える声を出した。
「先輩。」
「え?」
「私、帰ります。」
「・・・・・・・・・・。」
「それと、二度と一緒にお食事もしません。絶対にしません。」
 失礼します。

 掠れた声を、精一杯張って、マリューが逃げるようにその場から立ち去る。喧騒の中、それを追いかけようとした男の腕を、ムウが取った。
「お前っ」
 血走った眼差しでにらまれるが、ムウは平然と哂う。
「ま、いいじゃん。靡かない女相手にして、金使ってどうすんのさ。」
「・・・・・・・・・・・・。」
「それに、彼女だって体裁ってもんがあるだろうしぃ。」
 あくまで軽い口調で言うムウを、怒りもあらわに睨む。

 そんな男を、探るようにムウは見詰めた。幸い、何かを図るようなムウの視線に男は気付かず、長いため息を漏らした。

「くそ・・・・・・・。」
 そのままどっかり椅子に座る。
「女ならいくらでもいるって。」
 宥めるように男の肩を叩けば、横目で男がムウを見た。
「後少しで落とせそうだったのに・・・・・・。」
「そうなの?」
 手付かずの皿から、焼き鳥を取って口にする。
「つかさ。」
 もぐもぐととり皮をかみながら、ムウが頬杖をついたまま、男を見た。
「本気だったりして?」
「まさか。」
 ふん、と鼻で笑ってあっさり告げ、男はジョッキのビールを煽る。ムウが小さく哂った。
「だよなぁ。」
「女一人に本気になってどうする。ゲームだよ、ゲーム。彼氏のいる女が落ちるかどう」
 そこで、男はムウが妙ににやにやしながら自分を見ている事に気づいた。
「?」
「あの・・・・・・・。」

 と、か細い声が背後から掛かり、男は仰天して振り返る。そこには唇を噛んだマリューが立っていた。

「・・・・・・・・・・・・。」
「あ・・・・・・・・・。」

 明らかに狼狽する男を前に、マリューは自席に戻ると、忘れた携帯を取り上げた。
 それから、すっとテーブルの横の伝票を掴む。

「この分は私が支払いますから。」
「え?あ・・・・・その・・・・・。」
「・・・・・・・・・・・。」
 マリューが能面のような、動きの無い表情で切り捨てた。
「さようなら。」








「って・・・・・・。」
「ごめんなさい、腫れてきた?」
「ん・・・・・・つか、血の味がする。」

 こっそり落ち合ったのは、近くの駐車場のムウの車の中である。居酒屋から出てきて、車に乗り込むのだから、誰かに見咎められるかと思ったが、その心配もなかった。大体、二人とも一滴も飲んでない。

 運転席に腰を下ろしたムウが、堪らず頬を押さえるのに、マリューは慌ててお絞りを差し出した。
 店を出るとき、持って来たのだ。二、三個グラスの氷を落としたそれは、解けて濡れて冷たい。

「思いっきり、振り抜いたもんな、マリューさん。」
 眉を寄せるムウは、男と話す間中、頬杖をついて、赤くなった頬を必死で宥めていたのだ。
 そんな彼に、マリューが申し訳なさそうに俯く。
「だ、だって・・・・・あ、んなのやったこと無いから・・・・・。」
 加減が分からなくて・・・・・。

 本当にごめんなさい、と助手席で深々と頭を下げるマリューの手を、ムウが掴んで引き寄せた。

「――――俺もごめん。」
 台詞とはいえ、マリューにあんな酷いこと。
 肩を引き寄せて、抱きしめる男が、微かに震えているのに、マリューは目を閉じた。
「ううん。いいの・・・・・。大体、そういう話にしよう、って決めたのは私よ?」
 顔を上げて、ふわりと笑う女に、ムウは目を細た。
「けどさ・・・・・・。」
「もう。」
 強く掴まれた手が、熱い。
「お芝居、でしょ?」

 それでも、あんな台詞を言いたくなかった。よりによってマリュー相手に。

「んっ・・・・・・・。」

 笑うマリューが愛しくて、ムウは深く深くキスをし、舌を絡める。

 音が絶えてしばし。

 ちう、と唇を離したムウが、満足そうに彼女を見た。
「ま、これであの野郎がマリューに手、出すことも無いだろ。」
「・・・・・・そうね。」

 小さく笑うと、そっとマリューがムウの頬に手を伸ばした。ちり、と痛みが走り、ムウが眉を寄せる。

「お礼、しなきゃダメですね。」
 わざわざこんな茶番、演じてくれて。
「・・・・・・・・・ホント?」
「はい。」

 ふむ、と唇に指を当てて考え込み、ムウがろくでもない笑顔を見せた。

「じゃあさ。一週間、俺と一緒に出勤して?」
「・・・・・・・・・・・・・。」

 ちらっと考え込み、それから、マリューはふう、とため息を付いた。

「ちゃんと寝かせてくれるなら、許可します。」






 朝から晩までマリューが側にいるのはいいものな反面、あの男のこともあって、その一週間、マリューは仕事中、ムウを見なかった。
 わかってはいたが、冷たくあしらわれると、辛い。

(けどま。帰ってきたら、マリューが物凄く甘えてくれるからいっかぁ。)

 会社での反動か、あるいはムウに申し訳なく思っている所為か。彼女はいつになくムウに甘いし、素直に甘えてくれる。

 ムウはそれが嬉しくて仕方ない。

 棚から牡丹餅である。

「ムウさん。」
 そんな二人の様子を社内でしか知らないキラが、こっそりムウに訊ねる。
「マリューさんと何かあったんです?」
「ん〜?」
 かたかたとキーを叩くムウが、にんまり笑った。
「何かなら大いにあったね。」
「・・・・・・・・・?」
「ところでさ。」
 あの男の名前を出して、「最近どうしてる?」なんて尋ねてみる。関係ないが、どういうわけか、キラのもとには色んな情報が流れてくる。本人が集めているのか、彼に情報を流すと得なのか、その辺はハッキリしないのだが、彼の事を、ムウは密かに重宝していた。
「なんか、最近うちの部署避けてるみたいですね。」
「・・・・・・ふーん。」
「業績も芳しく無いみたいですよ。」
「へー、そう。」

 初めて、女性関係で失敗したのかねぇ。

「何かいいました?」
「うんにゃ。サンキュー、キラ殿。」
 ひらひらと手を振る男に、キラは呆れたように肩をすくめる。
 再び画面に向き合いながら、ムウは内心、まだまだだなぁ、なんて思う。


 あんなん修羅場の内にはいらねっての・・・・・。


(気持ちの切り替えくらいさっさと出来ないようじゃなぁ・・・・・・。)
 甘いよな、と百戦錬磨の男は、思ってしまう。



 だが。



「って、俺も人のこと言えないか。」
「え?」
 ムウの家のリビング。ソファーの上で、膝枕してもらい、更にリクエストとして、彼女に男物のワイシャツ一枚だけを着せたムウが、笑う。


 一人の女に、これほどまでに執着してるなんて、昔の自分からは考えられない。


「ムウ?」
「んー・・・・・いや、俺って幸せだなって思ってさ。」
 それから腕を伸ばして、彼女の首に巻きつける。

 口付けて笑った。

「んじゃ、今日はこのまま・・・・・・・・。」
「んっ・・・・・・・・。」


 頬を染めたマリューを腕に抱きしめて、改めて、彼女以外いらないと、そう思うのだった。














10万打ヒット御礼アンケート企画作品 第一位「社会人編」

(2006/08/01)

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