Muw&Murrue

 三月の仄白い月
「フラガさ〜ん。」
 その泣き声にも似た、媚びた声に、ムウ・ラ・フラガはぎくりと足を止めた。ぎぎぃと音を立てて振り返ると、半べそをかいた新人教官が、パソコンの前で固まっている。
「・・・・・・・・・・・。」
 いつもなら、どうした?と訊き、そのミスをカバーするのがムウだ。
 だが、今日は訊けない。
 訊けるはずが無い。
「フラガさん、あの・・・・・。」
 明るめの髪の色をした、23くらいの女性は、すまなさそうな顔でムウを見ている。いつもは、優しくしてくれる上司が、何故今日に限ってそうじゃないのかと、目で訴えている。

 ムウは時計を見た。

 待ち合わせの20時30分まで、あと15分しかない。

 ムウはがっくりと肩をおとして、仕方なく訊ねる。
「どうした?」
と。



「あ〜のさ、マリュー。」
 本日は金曜日。
 マリューがアルバイトの為に、ムウのところに食事を作るようになって、既に半年が経っていた。

 経っているのに。

 二人の間には、あの時のキスの一件依頼なんの進展も無い。
 いい雰囲気になったことが皆無、とは言わない。
 大体ムウだって若い男だ。
 晴れて手にいれた恋人を、今ここで押し倒してしまいたい気は、そりゃあもう、山々々だ。
 だが。
 キスをして、その手を肩、とか頭、とかから移動させると、大抵。
「駄目。」
「何で?」
「帰るから。」
 と、あっさり身体を離され、さっさと身支度して帰ってしまうのだ。
 金曜日には来てくれる。
 食事を作りに。
 だがそれは契約として。

 裏を返せば、マリューが私用でムウの所に来たことなど、皆無であった。

 だから。

「なんですか?」
 キッチンでエビチリを作っている彼女の背中に、意を決したムウが抱きついた。
「ムウ〜?」
 声にむっとした調子が滲んでいるが、この際は無視だ。
「明日、暇?」
「え?」
 顔を上げると、酷く真剣なムウの顔にぶつかった。
「明日は・・・・・・。」
「明日は?」
「卒業式です。」
「!!」
 そうか、とムウは眉を上げた。彼女は一応大学院に進学が決定している。だが、それとは別に、卒業式が行われるのだ。
「じゃあさ、その後は?」
「卒業祝いのパーティーが。」
「その後!」
 しつこいな、とマリューはちらっとムウを見上げ、「あいてますけど。」とぽそっと答えた。
「何時に終わる?」
 いい加減、放してくれないかしら・・・・と、胸元辺りに触れる彼の腕を見ながら、マリューは「多分、八時には・・・・。」と答えた。
「じゃ、八時半に駅前で待ってるからさ。」
「え?」
 目を丸くするマリューを見て、ムウはにっこり微笑んだ。
「明日、家に泊まってかないか?」
 あまりにも唐突に、あっさり告げられて、マリューはびっくりする。
「な・・・・・・・。」
「いいだろ〜、付き合って半年になるしさ。マリュー、用事が終わったらさっさと帰っちゃうし。」
 たまには、泊まって行ってもいいんじゃないですか?
 あっさり告げられて、マリューは眩暈を感じた。
 一体何を言い出すのかと思ったら・・・・・。
「フラガ教官・・・・・。」
「・・・・・・・・駄目、は無しな。」
 どうして、ときつく問い返そうとして、マリューは言葉を飲み込んだ。

 真っ直ぐに、空色の瞳が自分を捉えている。

「駄目は聞き飽きた。」
「・・・・・・・・・。」
「俺だって男だしさぁ・・・・・分かるデショ?」
「・・・・・・・・・・。」
 ううううっ、と変な唸り声を上げたあと、くるっとマリューが彼に背中を向けた。
「・・・・・・・分かりました。」
 そう答えた彼女の耳が真っ赤で、ムウは「よっしゃ」と心の中でガッツポーズをとってしまうのであった。



 新人さんは、一クラス分の飛行データを綺麗さっぱり消去していた。
 新学期にあわせて、このデータを元に生徒を次の学年にクラス別けする。そんな大事なデータなのだ。
 と、言う事はつまり。
「あ、マリュー?・・・・・・ゴメン・・・・迎えにいけそうに無いわ・・・・・。」
 クラス別けの期日は週明け。それまでにデータが揃っていないと話にならない。
 前回と前々回のテストデータを、一人一人移し変えていかなくてはならなくて、つまり、下手をすると今日中には帰れそうにないという状況に陥っていた。
 新人教育を任されているとはいえ、まさかなんで、というのがムウの素直な感想だった。
 電話の向こうのマリューはしかし、特に変わった様子もなく、「そう。じゃあおやすみなさい。」と電話を切ろうとする。
 だから、ムウは大慌てで続けた。
「迎えには行けないけど、家で待っててくれないか!?」
 声が必死で情けない。
 ついでにその必死さが伝わったのか、電話口のマリューは沈黙してしまった。
「あ・・・・・いや、確かにこれじゃあただの色魔だよな・・・いや、そうじゃなくてだな・・・・・・。」
 ざわめく声がよく響いてくる。
 どうやら酔っ払った学生たちが、カラオケでも始めたのだろう。軽い伴奏に混ざって、くせのある歌声が響いてきた。
「わかったわ。」
「え?」
「待ってます。」
 それに、ほ〜っとムウが息を吐いた。
「約束だぞ!?」
 念を押され、マリューはほうっと溜息を付いた。



「マリュー、二次会は?」
「私はいいわ。皆で楽しんできて。」
 さっさと身支度して、鞄を手に、歩き出す。その背中に、酔っ払った同級生の声が響いた。
「ラミアスゥ〜!抜け駆けかぁ〜。」
 何が抜け駆けだ。
 苦笑して、マリューは見守る彼らにひらひらと手を振った。
「また、いつかどこかで!」

 久々に楽しかった。

 夜気は春らしく暖かい。軽く、ふわふわするような足取りで歩きながら、マリューは空の端に掛かる月を見上げた。丸い月が、どこまでもマリューを追いかけてくる。
「綺麗・・・・・・。」
 ぼんやり見上げながら、再び歩き出す。

 別にムウに抱かれるのが嫌だとか、そういう理由で拒んでいたわけではない。
 ただ、なんとなく「そうなる」のは早いような気がしていただけなのだ。

 何故早いと思ったのか。

「・・・・・・・・・・・・・。」
 ムウは大人で、しっかり仕事を持って、こんなマンションに一人で暮らしている。
 そこに聳えるマンションに入り、オートロックを外しながら考える。
 それに、卒業もせず、のほほんと毎日好きな学業に励んでいるだけの自分が、どうにもつりあわないような気がしたのだ。

 ムウといると、何も考えなくてすむ。

 それがマリューは嫌だった。
 彼に護られるだけの存在なんて、まっぴらだった。

 だから。
 彼との雇用関係も持続させてるし、一人暮らしも続けている。必要以上に会わないようにもしていた。
 抱かれるなんてもってのほか。

 そういうことよりもまず、自立したい、とマリューは考えていた。

(それが傷つけてたのかしら・・・・・・。)
 ムウの部屋の前に立ち、鍵を開けて中に入る。青い闇に沈んだ部屋が、静かに目の前に広がった。
 灯もつけづに、カーテンを開け、そっとソファーに腰を下ろす。
 仄白い月明かりが、斜めに床に当たり、ふうっと室内が明るくなった。

 マリューのそんな距離をとろうとする態度が、ムウを傷つけていたのなら。
(・・・・・・・・・。)
 卒業した今だから、とマリューは理由を付けてみた。けれど、本当の理由は別に有る。

 彼を傷つけたくない。
 傷つけていたのなら、許して欲しい。

 ただ、それだけである。
(ちょっとわがままだったものね、私・・・・・。)
 ふうっと目を閉じて、くすっとマリューは笑った。
 結構たくさん飲んだから、くるくると目が回る。
「ムウ・・・・・・・。」
 そっと掠れた声で、マリューは呟いた。
「早く帰ってこないと、寝ちゃうわよ・・・・・・。」



 時刻は23時。
「終わった!!」
 自分のノルマを恐ろしく早いスピードで切り上げたムウは、がたん、と勢いよく立ち上がった。
「・・・・・・・・お疲れ様です。」
 疲れた目を擦りながら、ふと彼女の手元をみれば、まだあと半分は残っている。
「・・・・・・・・・・・。」
 手を貸せば、絶対今日中には間に合わない。
 ムウは言いにくいコトを言おうと、すうっと息を吸い込んだ。
「悪いけど、俺、急用があるからさ・・・・・。」
「はい。」
 眼に見えてしおれている新人に、ムウは罪悪感を覚えるが、よく考えれば、目の前にいる新人が悪いのだ。

 コイツが悪いから、コイツに後は任せて帰ろう。

 そう思うのに、やっぱり彼女を任されたのは自分だとそう思うと・・・・・。

 ムウが一番嫌いな責任感、というやつががっつり自分を捕らえていて、彼は深く溜息を付いた。



 震える携帯の音で、マリューは眼が覚めた。あわてて掴むと、ムウからの着信だ。
「はい。」
 いつの間にか眠っていた。
 時計をみれば11時を少し過ぎていた。
 彼は言いにくそうに、今日中には戻れそうも無い、と小声で話している。
「そう。」
 別にとりたてて残念な気はしていない。明日は日曜日だし、泊まっていく約束なのだから、遅くても気にはならない。
 なにより、仕事なのだから。
 なのにムウはどうしても帰りたそうである。
 それも、なんとしても今日中に。
「ねぇ。」
 あまりにも「絶対帰るから」を連呼するから、マリューは問い返してみた。
「別に遅くても構わないのよ、私は。」
「でも、俺は嫌なんだよ。」
「どうして?」
「どうしてって、今日は」
 言いかけた彼の声に、甲高い声がかぶさった。

 フラガさ〜ん、はやくきてくださぁ〜い。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
「いま、何か勘違いしなかったか?」
 ひゅっと息を吸い込んだマリューに、ムウがすかさず訊ねる。
「・・・・・・・・・・・・・・・・別に。」
「違うからな、判ってると思うけど、しご」

 フラガさ〜〜〜ん、まてませぇ〜〜〜ん。

「『お仕事』頑張ってくださいね。私、いまからタクシー拾って帰りますから。」



 我ながら大人気ないとそう思う。
 でも、腹が立つのだから仕方が無い。

 みっともない嫉妬だ。

 春コートに袖を通しながら、マリューはでも、喉の辺りにつっかかっているイライラを解消できずにいた。

 出来ることなら大声で叫びたい。

 どんな言葉が出てくるか、今のところは分からないが。

 でも、ムウは仕事とはいえ、あんな猫なで声を出す女と一緒なのだ。こんな、遅い時間まで。
「・・・・・・・・・・・・。」
 何かあるわけが無い。
 そう判っているのに、感情が受け付けない。

 だって、変なお預けを食らわせてきたのは他でもないマリュー自身なのだ。何かの拍子にムウの理性が吹き飛んだって、文句は言えない。

 でも、それを容認できるほど、マリューはお人よしでもなかった。

 自分でまいた種とは言え、辛かった。

 だから、それらを全て払拭したくて、マリューはハンドバッグを思いっきり振り回して肩にかけた。
 と、その弾みに、ダイニングテーブルの上にあった何かにぶつかり、叩き落してしまう。
「あっ!」
 薄暗い闇の中、ぽとり、と落ちたそれを慌てて拾い上げる。

 雲間に沈んでいた月が、すうっと顔を出し、青白い室内に、白光を投げかける。それが、マリューが拾い上げた物を照らし、闇の中にくっきりと浮かび上がらせた。

 小さな箱だった。
 綺麗にラッピングされて。
 カードまで付いている。

 室内の闇では、きっとマリューはその文字を読めなかっただろう。
 だから、机の上にそれを戻して、慌しく部屋を出て行ったはずだ。

 だが、12時にぎりぎり満たない時刻の月は、どうやらムウの味方だったようだ。

 月明かりの中で、その文字は意志を持ち、主張するかのようにマリューの瞳に飛び込んできた。

 ムウの手で、「マリュー・ラミアスさまへ」とカードには書かれていた。



 終わったのは深夜の一時。
 溜息とも嘆息ともつかない吐息を吐き出し、ムウは官舎を出た。
(あ〜あ。)
 春の夜気は、確かに冷たいのだが、香りがいい。
 芽吹いたばかりの緑と、何より土の匂いがする。
 時計を確認し、再び溜息と共に歩き出したムウを、その声が追いかけた。
「フラガさ〜ん!」
 ぱたぱたと可愛らしい音を立てて駆け寄ってきた新人は、ぴょこん、と頭を下げた。
「本当にありがとうございました!」
「いや・・・・・・。」
 もう、何かを返す気力も無い。
「あの、良かったらこの先にあるバーでどうですか?奢りますよ?」
 今日のお礼に。
 そう言って罪なく笑う。
「いや・・・・・俺は帰るよ。」
 ひらひらとやる気なさ気に手を振って、彼はちょうど青になったばかりの横断歩道を渡っていく。その彼を、彼女は慌てて追いかけた。
「あ、じゃあ、うちに来ませんか?ここから近いですし、お夕飯、ご馳走します。」
「遠慮しておく。」
 すたすたと先を急ぐムウに、しかし女は食い下がる。
「そんな、私、お礼がしたいですし、それに・・・・・・。」

 あ、やばいな。

 だてに女性と付き合ってきたわけじゃない。
 こう言う風に言う女には気を付けた方がいい。

 先手、とばかりに、ムウはくるっと振り返ると、彼女の鼻先に指を突き付けた。

「俺は今、物凄く怒ってるんだが、わかるか?」
「え?」
 はっと彼女が目を見開いた。
「確かに成り行きで手を貸したけど、それは同僚としてだ。」
「はい。」
「だから、君は気に病む事はない。」
「・・・・・・・・・。」
「と、同時に、俺は君の所為で、大事な大事な大っっっ事な彼女との約束を思いっっっきりすっぽかした。」
 それに、ますます彼女の目が大きくなった。
「彼女・・・・・・。」
 呟く女の声に、ムウは脱力しそうになった。
 引っ掛かるところはそこなのか、と突っ込みたくなる。
「だから、俺は今非常に不機嫌で、早く帰りたいんだ。悪いがあんたに付き合ってる暇は無い。以上。」
「でも、すっぽかしてしまったんでしょう!?」
 歩き出す彼の背中に、彼女は告げた。
「なら、今夜はフリーじゃないですか。」
「・・・・・・・・・・・・。」
 どういう脳内回路をしてるんだろう?
「あのな、」
「今日はとことん、私に付き合って下さいよ!ここまで来たんなら。不機嫌なまま寝ちゃうより、二人で飲み明かした方が楽しいと思いますけど?」
 ぐいっと腕を引っ張られ、本気で怒鳴ろうかとそう思ったその時だった。
「あ・・・・・・・・・・。」
 数メートル先の24時間営業のスーパーから、見知った人影が袋を手に出てくるのを見て、彼は力いっぱい女の腕を振り解いた。
「マリュー!」
 声を掛けると、丁度街灯の下にたった彼女が、振り返り、ぱっと顔を明るくした。
(え?)
 電話口の冷たい声とは、全然様子が違う。
 違うどころか。
「ムウ!」
 嬉しそうに叫んで、たっとこっちに駆けて来た。
 そのまま、がばっと彼に抱きつくから、彼女を受け止めたムウは目を丸くした。
「な・・・・・・。」
「・・・・・・・・・・。」
 ぎゅうっと首筋に抱きつくマリューを見て、新人はぽかんと口を開けた。
 ここぞとばかりに、彼はマリューに優しく告げた。
「マリュー・・・・帰ったんじゃなかったのか?」
「そのつもりだったんだけど・・・・・・。」
 気持ちよさそうに目を閉じて、ムウの首筋に頬を当てるマリューは、そっと身体を離すと照れたように笑った。
「気が変わったの。」
「何で。」
「・・・・・・・・・・これ。」
 にこっと笑うと、マリューはそっと左手をムウの目の前に翳した。
「あ・・・・・・・・・・・。」

 その、細い薬指に収まっている、小さなリング。

 シンプルなデザインだが、花をモチーフにした、可愛いものである。

「どうして・・・・・・・。」
 目を丸くするムウに、マリューは笑む。
「さあ、どうしてでしょう?」
 くすくす笑うマリューに、ムウは溜息を零した。
「それ、俺が渡そうと思ってたのに、先に見つけられたか。」
「ダイニングテーブルに置きっぱなしになってたわよ?」
 見つけてくれと、いわんばかりじゃない。
 それに、ムウが苦笑する。
「だな。・・・・・・何時に見つけた?」
「ちゃんと、間に合いました。」
「そか。」
 ふと、夜空を仰ぎ見て何かを思案すると、ムウは呆けたように立ち尽くす新人をくるっと振り返った。
「見届け人になってくれな。」
「え?」
 突然振られ、呆気に取られる彼女の前で、ムウはマリューの左手をとる。
「ホワイトデーには、間に合わなかったけど、バレンタインのお返しに、俺の未来をマリューに渡すよ。」
 手を取って、その薬指に口付ける。
「ま、婚約指輪ってわけでもないけどさ、マリューの将来は俺が予約しました、って証ってことで。」

 どう?俺のお返し。

 それに、マリューは赤く染まったほほでにっこりと笑って見せた。



「あの人・・・・・・。」
「うん?」
 キスの合間に訊いて見る。
「落ち込んで・・・・無い?」
 帰っていく彼女の背中が寂しそうに見えたマリューが、気を回す。だが、ムウは知っている。

 あの手の女は、凹むというコトを知らないのだ。

「大丈夫大丈夫。」
「ん・・・・・。」
 だから、彼は軽く言って、再びマリューの唇に噛み付く。
「う・・・・・ん・・・・・・。」
 深く深くなっていく口付けに、身体の芯が溶けていく。
 そっと、押し倒されて、マリューはほんのり赤くなった頬を隠すように横にした。
「マリュー・・・・・。」
 耳元で囁かれて、マリューはそっと目を閉じた。
「ムウ・・・・・・。」
「何?」
「・・・・・・・・・・・・だいすき。」

 そっと囁かれたその言葉に、ムウは幸せそうに笑うと、彼女の首筋に顔を埋めた。

 彼女の体温が心地よい。

「俺も、大好きだよ・・・・・・。」



 そのまま、二人だけの夜は過ぎていった。

(2005/03/14)

designed by SPICA