Muw&Murrue
- 三日目の帰り道
- 夕暮れが迫る金曜日。
なのにマリューはいつもとは逆方向に歩いていた。
彼のマンションがある方向ではなく、自分のアパートがある方向へ。
「・・・・・・・・・。」
なんだか少し、やる気がそがれて、今日はカップラーメンにでもしようかな、なんてため息混じりに考えて、マリューはふと、ここ半年近くの日々を思い出した。
半年前。
財布を落としたことから始まった奇妙な関係は、ついに、というかやっと、というか恋人同士らしくなって来ていた。
マリューもようやく、少しは彼に甘えようかな、なんて自分の左手の薬指にはまる指輪を見ながら思うようになっていた。
信号が赤で、立ち止まったマリューはその待ち時間の間に、この道を帰る自分の思考も、随分変わったな、と不思議な気持ちで考える。
半年前は、ここを帰る自分には学問しかなく、それだけにすがって生きていたような気もする。
でも、今は違う。
今は。
人が動き始め、幸せに浸っていたマリューは慌てて歩き出す。それと同時に、今日の昼にかかってきた電話を思い出してほうっと溜息を付いた。
「はい。」
『あ〜、今大丈夫か?』
「ええ。」
ムウからの電話だ。
声を聞いただけでどきどきするなんて、とマリューは少し頬を桜色に染めて目を細めた。
私ってこんなに純だったっけ?
『悪いんだけどさ、ちょっと今新機体のテスト飛行で忙しくて。』
「うん。」
『今日とか帰れそうに無いんだよ。』
「そう・・・・・。」
『うん。だからさ、今日は来なくて良いから。』
背後で怒鳴り声が聞こえ、わ〜かった、今行く!!とムウが怒鳴り返している。雑然とした空気が電話口から漂ってきて、マリューは心なしか居心地が悪くなった。
「忙しそうね。」
『目が回るよ。』
「土日も?」
『え?』
声が強くなっている。金属音ががんがん響いてきて、マリューは慌てて「なんでもない!」と叫んだ。
叫ばないと、声が届かないと分かったのだ。
「仕事、頑張ってね!」
それに、少しだけ間があり、ムウが『なぁ、』と切り出した。
『寂しい?』
「・・・・・・・・・・・・。」
正直、寂しかった。
金曜日に会えないのなら、土日に会いたいな、なんて事をちらっと考えたのだが、きっと忙しいのだろう。
『俺は寂しいな。』
「・・・・・・・・・・。」
間断なく響いてくる機械の駆動音に混じって、『フラガァァァァ!!』と怒声が飛んでくる。
「行った方が良いわよ?」
『答えは?』
「早く行って下さい!」
ちぇ、なんてぶつくさ言う声が聞こえ、『必ず穴埋めするから!』と念を押すように告げると、ムウからの慌しい電話は切れた。
暫く、マリューは電話の切れた音だけをぼんやり聞いて、それからぱたん、と携帯を閉じた。
研究室の窓から、すっかり散ってしまい、若葉が目にまぶしい桜の樹が数本見えた。その葉の先に、ちらちらと青空が見える。
開いた窓から、カーテンを膨らませて風が舞い込み、マリューは目を細めた。
眠たくなるようないい天気だ。
ぱたぱたと本が風にめくれる音で、彼女は我に返り、ぽん、と自分の頬を叩く。
今日は一人で「忍風捕り物帳」を観るんだな、なんてすこしさびしく思いながら。
春の夕焼けは心なしか長い。
冬とは違い、柔らかい色合いで沈んで行く空を見上げて、マリューはアパートの階段を上がり、数ヶ月ぶりに一人の金曜日を迎えた。
カレンダーは土曜から月曜まで休みを指している。
明日から三連休のスタートだ。
することもないので、適当にインスタントで夕飯を済ませ、四月から新たに始まった『金曜時代劇』の「忍風捕り物帳」を観ながら、マリューはお風呂を沸かす。番組が終わると、文庫本片手にのんびりバスタイムを楽しんだ。
と、そうやって本を読んでいると自宅用の電話がなり始めて、彼女はどうしようかと逡巡した。
時計を見れば八時半だ。
「・・・・・・・・・・・・。」
どこの誰だろう?
そもそもこの時間はいつもバイトで居ないのだ。
だから居留守を使っても問題ないだろう・・・・。
そこまで考えて、ふと、ムウからの電話かもしれない、と思い当たる。
そうなると、彼女は居ても立ってもいられず、大慌てで湯船から上がり、水気もそのままでバスタオルを巻いたままダッシュで浴室を飛び出した。
彼女の通った後に、水溜りがぽつぽつと出来ていく。
コール音は多分、八回目。
「はい!!」
ひったくるように受話器を取り上げ、彼女は誰からだろう!?と期待を込めて耳を澄ませた。
『あら。』
女の声だ。すこし、掠れ気味の。
『やあだ。女に繋がったわ。』
「?」
それから、くすくす笑う声が続く。
『ごめんなさいね。ちょっと電話を退かしたら掛かっちゃって。』
「あの・・・・・・。」
『あなた、誰?』
不躾すぎる。
マリューは答える義理も無いので無言で返した。
それに、電話口の女性が、ああ、ごめんなさいねぇ、なんて甘い声で返してきた。
『私は・・・・・・この家の主の恋人。』
どくん、とマリューの心臓が嫌な感じで鳴った。
この家の主?
それは誰を指しているのだ?
『まだ警戒してる?しょうがないわね〜。私は、ムウ・ラ・フラガの恋人。』
「え・・・・・・・・・・・・・。」
息が詰まった。
目の前が一瞬だけ真っ白になり、それから急激に世界が遠くなる。
電話口の女の声が、何かのフィルターを通したようにくぐもり、耳に聞き取りにくくなった。
『アナタは?恋人二号?それとも三号かしら?』
あはははは、なんて喉を逸らして笑っているような、掠れた高笑いが響き、
『まあ、何でも良いわ。』
と心底楽しそうに言ったりする。
『ごめんなさいね、忙しかったんでしょ?』
「あの・・・・・・。」
『ムウから聞いてる。あなた、マリューさんでしょ?』
突然自分の名前を言い当てられて、マリューは困惑した。
聞いてる?何を?
『お料理が上手で、金曜日には毎回料理を作りに来てくれる契約だって。』
契約?
・・・・・・・ああ、そうだ。
確かに自分は・・・・・・。
『でも、今日はいいよ、って断られたデショ。』
くすくす笑う声が、やけに大きく響いた。
「・・・・・・・・・・・・。」
『どうしてだか、わかるぅ?』
少し小声になると、女はひそひそと楽しそうにマリューに告げた。
『今ね、ムウ、シャワーに入ってるの・・・・・・。』
微かに受話器が遠のき、なにか水音が響いてくる。
それに、マリューの中で全てがクリアーになった。
妙にはっきりと、隅々まで物が見える。
「そうですか。」
次に出てきたのは、驚くほど冷たい声だった。
マリューはばくばくいう心臓を宥めすかし、出来るだけ声が震えないように懸命に頑張りながら、口元に冷笑を浮かべて見せた。
形から入らないと、壊れてしまいそうだったからだ。
「私はただのアルバイトですから。そのようなご報告は一々なさらなくても結構ですし、恋人のあなたに迷惑をかけるようなこともありませんから。ご心配なく。」
精一杯、そういうと、「あら、そう?」なんて弾んだ声が答えた。
「そうです。失礼します。」
マリューは早口でそういうと、がっちゃん、と力いっぱい受話器を電話に叩き付けた。
頬に、濡れた髪の毛がまとわりつき、顎から雫がこぼれていく。
それに、いくらか塩辛い雫も混ざっていて、マリューはぐいっと顔を拭うと、ぺたぺたと廊下を歩いていった。
身体も、そして心もすっかり冷え切っていた。
空き缶が転がる床で、マリューは身震いした。
寒い。
手を伸ばしても何も届かず、むっくりと身体を起こすと、がつん、と頭が痛んだ。
見ればカーテンが風に揺れている。
薄明るい水色に沈んだ空が見え、夜が明ける寸前だと気付く。
窓を開けたまま、眠ってしまったらしい。
アルコールがまだ体内に残っていて、酷くだるいし、目が回る。
散らばるビールやらカクテルやらの缶をよけて立ち上がり、ついでに無性に乾いた喉に、コップに残っていた甘めのお酒を再び流し込んで、マリューは窓を閉めた。
頭が何かを考えようとするが、無理やりそれを拒否させる。
何も考えずに、マリューは側にあったベッドに倒れこんだ。
時計が指している時刻は四時半。
まだまだ眠れる・・・・・・。
上掛けにも潜らずに、マリューはそのまま再びにごった夢に落ちていった。
「いい加減起きろ、このバカ!」
「いった〜〜〜い。」
自分のベッドを我が物顔で占領する人物の後頭部を叩き、ムウは眉を吊り上げる。
「なによぉ・・・・酷いわね〜。」
身体を起こし、ずり落ちたキャミソールの肩紐を直す。顔に掛かっている長めの黒髪をかきあげて、ソイツは灰色の瞳で上目遣いにムウを見上げた。
「もうちょっと寝かせてよぉ〜。」
「俺は色々忙しいんだ。」
素っ気無く言って踵を返す。その背中に、枕を投げつけた。
「もう!昨日は散々私のこと弄んだくせに!!」
「それはお前が・・・・。」
なによぉ、なんてぶすっとむくれてムウを見上げる姿に、彼は一気に脱力した。
「もういいよ。俺は出かけるから、電話が来ても、誰が来ても応対するな。いいな?」
「ねえねえねえ。」
聞いてんのか、こいつは!!!
目を怒らせるムウの腕に自分の腕を絡めて、見上げる。
「これ、ちょうだい?」
「あ?」
飾り棚にある、ちいさな硝子細工を指差している。
「なんで。」
「欲しいからん。」
「あ〜も〜分かったよ、何でも好きな物もってけ。」
投げやりに答えて、ムウは腕を振り払う。と、素早くソイツが身体を寄せて、ムウのほっぺたにキスを贈った。
「いってらっしゃいませ。」
「・・・・・・・・・・。」
複雑極まりない顔をして、ムウは溜息を付くのだった。
携帯が震えている。
その音でマリューは目を覚まし、それと同時に痛む頭と寒気の走る身体に驚いた。
身体中がだるい。
ベッドの上を這い、枕もとの携帯を取り上げる。ムウからだ。
「・・・・・・・・・・・・・。」
昨日の光景がぼんやりと甦り、無性に腹が立ってくる。
「はい。」
物凄く不機嫌な声で、マリューは電話に出た。
『あ、マリュー!』
「・・・・・・・・・。」
『寝てた?』
「・・・・・・・・・。」
『お〜い、聞いてるか?』
「・・・・・・・・。」
『?』
随分と軽い声だな、とマリューは手を握り締めた。
「何?」
『え・・・・・あ、いや・・・・今日とか、暇?』
心なしかたじろいだ空気が伝わってきて、それにもっとマリューは不機嫌になる。
何よ。まるで私が悪いみたいじゃない。
「忙しいです。」
突っぱねるように、マリューは言った。
『じゃあ、夜は?』
「・・・・・・・・・・・。」
夜、だと?
マリューは、自分の心が、悲しみと怒りと、なんだか分からないどす黒い感情に支配されるのを感じた。
「夜もあいてません。」
『そんなに忙しいって・・・・どうかしたのか?』
「ええ。」
次の瞬間、痛む頭のまま、マリューはきっぱりと言ってやった。
「大学の教授とお食事する予定なんです。」
『・・・・・・・・・・・は?』
「ちょっといいなって前から思ってた人で、昨日の帰りに誘われて、OKしたんです!多分、どっかに泊まってくるでしょうから、明日も暇じゃないです!!」
高ぶった感情が涙をさそい、何でか知らないが、マリューは涙目になっていた。
『・・・・・・・どういう意味だよ、それ。』
低い声が返ってきて、ムウが怒ってるのが手に取るように分かった。だが、マリューだって怒ってるのだ。
いや。
マリューの方が怒ってるのだ。
昨日の電話の女。
ムウの彼女と名乗った女。
「そういう意味です!!」
叫ぶと、マリューは携帯を唐突に切った。
涙が、ぽろっと頬を滑り落ち、携帯を放り投げる。
「わ・・・・・・悪いのは・・・・・・。」
そう言って、マリューは震える体を抱きしめた。頬に、涙の筋がいくつもいくつも出来ていく。
「悪いのは・・・・ムウなんだから・・・・・。」
昨日から我慢していた嗚咽が、急に溢れて、抑えきれなくて、マリューはその場に倒れ伏すと、枕に顔を埋めたまま声を上げて泣いた。
「・・・・・・・・・・。」
胸の奥が真っ黒になる。何度コールしてみても、電源が切られています、という応対メッセージに繋がるだけで、それがさらにムウの気持ちを焦らせた。
マリューの家に行こうか?
窓から下を眺めて、ムウは思案する。
とにかく話がしたい。
確かに、昨日約束をドタキャンしたのは自分だ。
でも、非があるとすればそれだけだ。
たったそれだけで、マリューが自分に愛想をつかせて他の野郎と一線越えようなんて決心をするのはおかしすぎる。
それに、電話口の彼女の声は、曇っていなかったか?
時計を見ればまだ、昼を少し回ったくらいだ。
「・・・・・・・・・・。」
自分が抱えている用事が済むのには、まだ時間が掛かる。
「くそっ!!」
頼むから、出てくれよ・・・・・・。
ムウは祈るような気持ちでコールを続けた。
だるい身体と頭痛を押して、マリューはパーカーにデニムのスカートといういでたちでムウのマンションを見上げていた。
泣いて泣いて泣いて。
それから、マリューは立ち上がった。
本当に、自分はムウにとって都合の良い女として考えられているのだろうか。
本当は・・・・・なにか行き違った理由があるのではないだろうか。
みっともないとは分かっていても、そんな感情が膨らんで、どうしても確かめたくなったのだ。
電話ではなく、直接会って話がしたい。
マリューはそう思うと、居ても立ってもいられず、二日酔いに軋む身体のまま、ここまで来ていた。
でも、いざ、彼の部屋の前まで来ると、足がすくんだ。
この部屋に、誰かいるのだろうか。
いるとすれば、どんな格好をしてるのだろうか。
それとも二人でいるのだろうか・・・・・。
戸口の前で、凍り付いていると、背後から靴音がして、はっとマリューは振り返った。
「あら?」
廊下をやってくるのは、すらっと背が高い、ブルーのワンピースを着た黒髪の美人だった。
「うちに何か御用?」
掠れた声に、マリューははっとした。
この、声・・・・・・。
目を丸くする彼女に、ああ、と美人が納得したように笑った。
唇に引かれたルージュが艶やかで、マリューはひるんだ。
今日のマリューははっきり言ってノーメークだ。
辛うじて泣きっぱなしの目元を冷やして、なんとか見られるようにしただけだ。
唇を噛む。
「あの・・・・・。」
「あがって。ムウに会いに来たんでしょ?」
「・・・・・・・・・・。」
我が物顔で部屋に上がる美人に、マリューは俯いた。
知らなかった。
こんな女性がいるなんて。
なんて自分は馬鹿なんだろう。
(そりゃそうよね・・・・ムウって・・・・・もてるもの・・・・。)
彼女の背中を見ていると、敗北感しかわいてこなくて、マリューはまるで知らない人の家に上がるように俯いてしまった。
「はいどうぞ。」
「・・・・・・・・。」
自分が買ったものとは少し違う紅茶を、自分がいつも使うのではないカップで出されて、マリューは眉を寄せた。
そういえば、部屋の中の様子が少しずつ違っている。
そこで、マリューは気付いたのだ。
ムウの所で料理をするようになって買い揃えた食器類が、全て違う物に変えられていたのだ。
ぽかんとそれらを見上げていると、向かいに座った美人が、にっこり笑った。
「私はライザ。ライザ・スタイン。・・・・・驚いた?」
「・・・・・・・・。」
ぐらぐらする頭のまま、ライザを見ると、ふん、と眼を細めて笑う。
「何も話してないの?ムウ。」
「・・・・・・・・。」
何の話を?
「私、ここに住むの。」
「・・・・・・・・。」
「だから、アナタはここに来なくてもいいのよ?」
ご苦労様でした。
そう言って、からから笑うと、ライザは紅茶に口を付けた。
マリューはその、白いカップに映える、真っ赤なルージュを見詰めていた。
ただ、そこに彼が口付けるのかな、なんて思いながら。
「せっかくだから、記念に何か持ってく?」
ソファーから立ち上がり、ああ、これなんかどう?とクリスタルのイルカを持ってくる。
「ほら、可愛いでしょ?」
「・・・・・・・・・・。」
酷い頭痛がする。
眩暈もするし、目が潤んでくる。
心なしか背中が寒い。
「これ。」
マリューはそのテーブルの、イルカが置かれた横に、自分の指にはまっていた指輪を外すとことん、と置いた。
ついでに、持っていた合鍵も。
「あら、彼からの贈り物でしょ?」
ライザが目を丸くする。
「もう、要りませんから。」
「あらそう?だったら質屋にでもなんでも売れば良いじゃない。」
きっとマリューはライザを睨み上げた。
「私は、そんな女じゃありません。」
それに、ふ〜ん、とライザが意地悪く目を細めた。
「そうなの?そうは見えないけど?」
「どういう意味です?」
テーブルに肘を付いて、ライザはマリューの瞳を覗きこんだ。
「尻尾巻いて逃げるような女は、ムウにはつりあわないってコトよ。」
「っ・・・・・・・。」
かっと頭に血が上る。
それに、あははははは、とライザが高笑いした。
「温いわね〜。貴女のムウへの愛情なんてそんなもんだったのよ。」
「・・・・・・・・・・。」
「思い出にしときなさい?優しいわよねぇ、思い出は。」
「・・・・・・・・。」
「まだムウにあうつもり?」
つりあわないって、理解できないの?
泣くもんか。
そう思い、マリューは椅子をたった。
「ばいば〜い。」
ライザが軽い口調でそういう。
泣くものか。
マリューは唇を噛み締めた。
だって、他にライザに立ち向かえる要素がどこにも無かったから。
自分がどうしてムウの隣に居続けられるのか。
あんなに彼をないがしろにして、自分から契約だって言っておいて、今更側に居て欲しいだなんて。
虫が良すぎる。
自分は負けたのだ。
負けた。
負け・・・・・・・。
見知らぬ物が溢れる、見知らぬ部屋。
震える足を励まして、マリューは玄関まで歩いていった。
行って。
「ちょ、ちょっと!?」
急激な眩暈が彼女を襲い、ふらと身体が傾ぐ。
手で壁を掴みそこね、マリューは廊下に崩れ落ちた。
慌てたライザがかけてくる。
「ちょ・・・・・!?」
そこで、ライザは抱えた彼女の身体が尋常じゃなく熱いことに気付いた。
「あ・・・・・あんた・・・・・酷い熱・・・・・。」
「・・・・・・・・・い・・・・・。」
「え?」
ライザの胸元にしがみ付いたマリューが、顔を上げた。歯を食いしばり、睨み上げる瞳から涙がこぼれ、服を掴む手が真っ白だ。
「・・・・・・・・・。」
「悔しいっ・・・・・・。」
吐き出してしまうと、箍がはずれ、マリューは思いっきりライザの胸をこぶしでたたいた。
「悔しいっ!!!!」
「・・・・・・・・。」
悔しいを連発するマリューを、ライザはそっと抱きしめて、しょうがないわね、と困ったように笑うのだった。
駆けつけたマリューの部屋には誰も居なかった。
合鍵だけは渡されていたから、チャイムをしつこく鳴らした後、慌てて駆け込んだのだ。
初めて入った彼女の部屋は、凄い有様だった。
そこかしこに、空き缶が散らばっている。
缶ビール、カクテル、チュウハイ、ワインのビン・・・・。
「・・・・・・・・・・。」
ムウは混乱する。
一体、彼女に何が起きて、どうしてこうなっているのか。
「俺か・・・・・?」
考えられる要因は昨日の件だけだ。
だが。
「・・・・・・・・・。」
あの電話を考えてみても、特に何もひっかからない。
マリューを混乱させるような要因なんて何も無い気がする。
「・・・・・・・・・。」
彼女は出かけた後なのだろうか・・・・・。
そう思うと、ぞっと背筋が寒くなり、胃の辺りが痛み出した。
彼女が他の男に抱かれる・・・・・・。
そんなの、許せるわけが無い。
何処に行ったかなんてわからない。わからないが・・・・。
この部屋にいるわけにも行かず、ムウは大急ぎでそこを飛び出した。
その数秒後、彼女の部屋に電話のベルが鳴り響く。
それを取れば、彼は無駄な捜索をして、街中を駆けずり回る事もなかったのだが・・・・・。
「マリューちゃんの家にもいないとなると・・・・・。」
あの人ったら、無駄にあちこち探してるわね。
ライザは溜息を付き、青白い顔で待合室に姿を現したマリューに慌てて駆け寄った。
場所は病院。
熱が高かった彼女を、ライザは無理やりタクシーに押し込み、ついでに一緒に病院まで付き添ったのだ。
彼女は、二時間の点滴を受けていた。
その間に、ライザは昨日、偶然見つけてしまったマリューの番号を控え、ムウに繋がるかと思ってかけてみたのだが。
「ムウ、居ないみたいよ?」
「・・・・・・・・。」
「携帯も繋がらないし。ほんと、肝心な時にバカなんだから・・・・。」
呆れるライザは、それでもマリューの肩を抱いて支えた。
「大丈夫?だるくない?」
「はい・・・・ありがとう・・・・ございます・・・・・。」
俯くマリューの目元は赤く腫れていて、辛そうだった。
マリュー自身、風邪の所為でつらいのか、それともムウに捨てられたことがつらいのか分からない。
無言の彼女に、ライザは溜息を付く。
「それで?どうする?帰る?」
頷いて、歩き出すマリューの足が、ふらついている。
「ああ、もう!」
ライザは怒ったように眉をよせると、ぐいっと彼女の腕をとった。
「その状態で、何が出来るって言うのよ!」
「・・・・・・。」
「薬、食後なんでしょ?料理は?出来るの?」
きつく問われて、マリューはきっとライザをにらみあげた。
「出来ないでしょ。」
にやりと笑われ、唇を噛む。点滴を打ってもらい、熱を下げる注射もされた。
身体中がだるくて、立っているのがやっとなのだ。
その彼女を支えて、ライザが笑う。
「うちに来て待ってなさい。そのうちムウも帰ってくるから。」
そこで、決着つけましょ。
どこか楽しげに言われて、マリューは熱に浮いた頭で考える。
ああ・・・・・どうせただ捨てらるだけなのに・・・・。
と。
ホテルというホテルを片っ端から探し、マリューの名前を探したが、見付からない。
男の名前でチェックインされている可能性が高いのに、それでも諦め切れなかった。
でも、見付かるわけが無くて。大体どこのホテルも明確な答えをくれるわけでもなく。
ムウは時計を見て、寒くなる。
時刻は既に10時を回ろうとしていた。
「・・・・・・・・・・・・。」
想像もしたくない。
自分以外の男が、マリューのあんな顔を見てるのかと思うと、殴り飛ばしてやりたい気になる。
でも、ムウにはその相手を見つけることも出来ないのだ。
「・・・・・・・・・・・。」
自分の家には戻れない。戻ったら、永遠にマリューに会えない気がする。
しらず、ムウの足はマリューに部屋へと向かっていた。
帰ってくるまで、そこでマリューを待とうと、決意を固めて。
他の男に、何かされたのなら、上から自分が消していけば良い事だ。
それ以前に、マリューにどうしてそんなバカな真似をしようと思ったのかを聞きたい。
そして、もっと根底に、ただただ逢いたい思いが溢れていて。
ムウは夜の街を、彼女のアパートに向けて歩いていった。
夜が明ける。
マリューのアパートでただ、床に座って彼女が帰ってくるのを待っていたムウは、がちゃん、という鍵の外れる音ではっと顔を上げた。立ち上がり、玄関まで駆けて行く。
「マリュー!?」
その姿に、入ってきた人物は呆れたようにムウを見上げた。
「ムウ・・・・・あなた、何してるのよ・・・・。」
「あ・・・・・・ああああっ!?」
ようやく差し込んできた朝日の下に居たのは、ライザだった。
「ほんと、バカな男だとはおもってたけど、ここまでバカだと何もいえなくなるわ。」
「・・・・・って、なんでお前がここにくるんだよ!?」
それに、はっとムウが固まった。
「ま・・・・・・さか・・・・・。」
「マリューちゃんにあっちゃった」
えへっと笑うライザに、ムウが真っ赤になる。
「お・・・・・・お前だな・・・・・っ。」
瞬時に事態を察知したムウが、ライザの胸倉を掴み上げた。
「お前っ!!!マリューに何言いやがった!?」
「落ち着きなさいよ、バカ!」
「何言ったんだよっっっ!?」
「今日からムウのところに住むって言ったわよ?」
「!!!!」
「だって、事実だし。」
ああそうか。
そうかそうか、なるほどね。
ムウは込み上げてくる怒りのままに、物凄い形相でライザを睨んだ。
「なるほどな・・・・・マリューがほかのヤロウに抱かれて、ここに帰ってこない全ての元凶はお前かっ・・・・・。」
すごむムウに、何言ってんのよ、とライザがころころ笑った。
「マリューちゃんなら、昨日からずっとうちにいるわよ?」
「・・・・・・・・・・は?」
「彼女、風邪引いて高熱だして、それで彼女の代わりに着替えを取りにこのあたしが・・・・・って、ちょっと!!聞いてるの!?ムウっ!!!」
聞いていない。
その時には彼はもう、ダッシュで彼女のアパートを飛び出していた。
玄関の辺りがやけに騒がしい。
身体を起こし、マリューは自分の身体に、ライザのシルクのパジャマが張り付いているのに気付いた。
汗が脇を下っていく。
「ライザさん?」
ばたばたと走る音がして、マリューはゆっくりと上着を脱いだ。側に落ちていたタオルを拾う。
身体を拭こうとして、いきなりノックもなくドアが開き、マリューは慌てて持っていたタオルで身体を隠した。
「い、いきなりなんで・・・・・・・。」
抗議の声はそこで止まった。
肩で息をするムウが、戸口に立っていたからだ。
「あ・・・・・・・。」
彼の顔が真っ青で、マリューは言葉を呑んだ。
「んのっ・・・・・。」
つかつかと近寄るムウの顔が、怒りに震えていて、マリューは反射的に身を強張らせた。
「バカっ・・・・・。」
手が振り上げられる。
叩かれる。
そう思って目を閉じ、マリューは衝撃に備えた。
だが。
「きゃあっ!?」
いきなり抱きつかれて、ばふっと布団の上に押し倒されてしまった。
「む・・・・・・。」
口付けられる。
言葉も。
吐息も。
何もかも奪って深く深く。
「はっ・・・あ・・・・・・・。」
口を離すと、痛みの滲む視線にぶつかった。
空色の瞳が、揺れていた。
「ん・・・・・・・。」
「どれだけ・・・・心配して・・・・・。」
声が続かない。
それに、マリューは涙が膨らむのを感じた。
「それは・・・・・・。」
触れてみて、改めて、マリューは感じた。
私にはこの人しか居なくて、この人が側に居てくれなければ進めない気がする、と。
ぼろっと彼女の頬を涙が落ちた。
「だって・・・・・・貴方・・・・・・・・・・。」
声がかすれる。それを懸命に抑えて、マリューはムウにしがみついた。
「私のこと・・・・・嫌いに・・・・・。」
「なるかよ、バカ。」
彼女の髪の毛を梳いてやり、宥めるように背中を叩く。
「だって、ライザさん・・・・・・。」
「・・・・・・・・・・。」
身体を離して、マリューは涙の滲んだ眼差しをムウに向けた。
「ここに・・・・住むって・・・・・。」
「・・・・・あ・・・・・まぁ・・・・そうなんだけど・・・・。」
ぶわあっとマリューの褐色の瞳に涙が滲むのを見て、ムウが必死に言い募る。
「だ、だから、それには理由が」
「私が買ったお鍋とかフライパンとか、グラスとかお皿とか全部ないしっ・・・・お茶のパックだって・・・・」
「それはだな、マリュー・・・・・。」
「き・・・・のうからずっと・・・・ライザさん・・・・泊まってるし・・・・・・。」
「マリュー、違うんだ落ちつけ!」
「な・・・・・に・・・・。」
ぼろぼろと泣きじゃくるマリューの肩を、両手で支えて、ムウは一つ深呼吸をした。
「あのな、マリュー・・・・・。」
「あらあら〜、お盛んなのはいけど、マリューちゃんは風邪引いてるのよ?」
入り口に妖艶の美人が立ち、ムウがうんざりしたような眼差しを送った。
「ライザ・・・・・お前・・・・・。」
「はいはい、あら、まだ熱あるわね。ほらムウ!あんたは出た出た!」
「ばか!出るのはお前だよ!!」
「何言ってるのよ!!」
しかし、ムウはマリューを抱きしめてはなさい。
「あのねぇ、女の子が着替えるのよ?男は外にでるもんでしょうが!」
「俺はマリューの恋人だぞ!!それに、」
今にも射殺さんとする眼差しをライザに向けた。
「同じ男なら、マリューと全然何にも関係ないお前が出るべきだろうがっっっ!!!!!」
その場に、マリューが凍り付いた。
「お・・・・・・・・。」
「ライザは男なんだよ。」
苦い物を噛み締めるような顔をしたまま、ムウが告げる。
「本名、ラムダ・スタイン。俺の同僚で・・・・・まぁ、飛んでる最中に神を見たらしくてな・・・・。」
「そ。事故って落ちていく機体の中で、尊い神様が降臨なされて、私は実は女であると告げられて」
「学校辞めて、女になった変り種だよ。」
「・・・・・・・・・・・・・。」
マリューの目が白黒する。
「じゃ・・・・・あの・・・・・。」
「ごめんね〜、マリューちゃん。だあってこのボケナスがいっつも自慢するからぁ〜、嫉妬しちゃったvvv」
「・・・・・・・・・。」
悪びれる風でもなく、ライザ・・・・もとい、ラムダがニコニコ話を続ける。
「だあって、絶対結婚するならムウってきめてたんだも〜〜〜ん。」
「うるさいバカ!!近寄るなっ!!!」
すりすりと頬を寄せてくるラムダをけり返しながら、ムウはマリューを必死に庇う。
「でもね、安心して。」
そういうと、ラムダは、腕の下からぽかんとするマリューの、熱を帯びた頬に口付けた。
「わたしぃ、なぁんか、マリューちゃん、お嫁に欲しくなっちゃった。」
「帰れぇぇぇぇぇぇぇっ!!!」
ごしごしとマリューのほっぺたを拭いながらムウが瞳を怒らせる。
「なんでよぉ、まだ私、マリューちゃんと身体繋げることもでき」
「とっとと手術でも何でもしろ、バカっ!!そして二度とマリューの前にくるなぁぁぁぁぁっ!!!」
「あは☆怒ったムウもす、て、きvvvv」
「あの事故で死んだ方がよかったんじゃないか・・・・・・。」
恨みがましい視線を受けて、しゃらっとラムダが笑う。
「そう?今の人生、物凄く楽しいわよ!」
そしてくすっと微笑むと、ラムダはムウの耳元に口を寄せた。
「それよりも、あんまり抱きしめすぎると彼女、窒息しちゃうわよ?」
「え?」
見れば、半分気を失いかけているマリューが・・・・。
「ま、マリュー!?マリュー!!!」
「バカね、熱が上がってるわよ〜」
「大変だ・・・・つか、お前!!マリューの身体見んな!!!」
「やだ〜〜〜、胸大きくて羨ましい〜〜〜!!触って良い?」
「射殺するぞ、お前っ!!」
マリュー、しっかりしろ!!
遠くなる意識の端で、マリューはムウの呼びかけを聞き、心地よい腕の中で、ほっと溜息を付いた。
なぁんだ・・・・私・・・・捨てられたんじゃないんだ・・・・・・。
ぼんやり目を明けると、時計は午後二時を指している。身を捻ろうとして、マリューは自分がしっかり抱きしめられているのに気付いた。
「食欲あるか?」
「え?」
目を上げると、真っ直ぐに自分を見詰めるムウの瞳にぶつかった。
「・・・・・・・・。」
「いま、ライザがお昼作ってるからさ。食べないと。」
薬も飲めないし。
そういって、こつん、とマリューの額に自分の額をくっつける。
「熱、引いたな。」
「うん。」
「なあ・・・・・・・。」
ムウはそっとマリューの左手を取った。
「どうした?」
薬指をさすられて、マリューの心臓がどくん、となる。
「・・・・・・・・・・。」
「俺、振られた?」
顔を上げて、マリューはぶんぶんと首を振る。
「違うの・・・・・それは・・・・・あの・・・・・。」
ムウは何も言わない。
だから、マリューは必死に言葉を探して言い募る。
「あの・・・・ね・・・・・。私・・・・・捨てられたのかと・・・・。」
「聞いたよ、あのボケから全部な。」
そう言って、ムウはは〜っと溜息を付いた。
「悪かった。」
「・・・・・・。」
「でも、マリューだって、あんな嘘付いて。」
「・・・・・ごめんなさい・・・・・。」
俯くマリューの顔を持ち上げて上向かせ、ムウはにやっと笑った。
「俺、すっごい嫉妬したんだけどさ、マリューは?」
「・・・・・・・・。」
ぱっと顔が赤くなる。
熱は下がったはずなのに、頭がぐらぐらする。
「妬いた?」
視線を、逸らす。
「なあなあ、妬いた?」
しつこく聞かれ、マリューはこくん、と頷いた。
反応が無い。
そっと顔を上げると、本当に嬉しそうな顔をした、子供みたいなムウにぶつかって、マリューの心臓が急にバクバク言いだす。
「あ・・・・の・・・・。」
「どうしよう。」
そう言って、ムウは恋人をしっかり抱き締めた。
「すっげー嬉しい・・・・・。」
彼の腕の中は暖かくて心地よくて、マリューはそっと目を閉じると深呼吸する。
「愛してる・・・・・・。」
身体に響いた低音に、マリューはただ一言、「うん。」とだけ答えた。
それだけで、足りる気が、したから。
「では、改めて。」
そっと、ムウはマリューの左手の薬指に、件の指輪をはめた。
「もう、外すなよ?」
それに、マリューはムウへ口付けて答えたのだった。
ムウのマンションの前で、引越しのトラックを見送り、ぽん、とライザがマリューの背を押した。
「ごくろうさま。」
「あ・・・・・はい。」
いい天気の月曜日。
今日はお休みで、マリューは少し風邪気味だったが、うかうか寝てもいられない理由があった。
だから、朝から起きて、ムウとライザがばたばた動き回るのをぼんやり眺めていたのだ。
「これで最後か?」
マンションの入り口から出てきたムウが、う〜ん、と伸びをし、あ、と顔をしかめる。
「マリュー、ソイツの側に立つな!!」
「え?」
「やあだ、ムウったらん。や、き、も、ち?」
そう言ってマリューをぎゅーっと抱きしめる。
パットが入ってる胸がマリューの頬にあたり、彼女はなんとなく赤くなった。
「止めろ、このバカっ!!」
強引にマリューの腕を引っ張って奪取し、睨みつける。
「やあだぁ、マリューちゃん、こんな独占欲強い男、止めた方が良いわよ?」
絶対苦労するから。
手をひらひらさせるライザに、マリューはくすっと笑う。
「駄目なんです。」
「え?」
「私が、ムウから離れられなくなってしまったから・・・・。」
ね?
なんて可愛く見上げられて、ムウが思わずマリューを抱きしめた。
「好きだァァァァl!!」
「往来で何叫んでんのよ、バカ!」
ライザがムウの後頭部に鉄拳を叩き込み、ぎゅうっとマリューの手を掴んだ。
「こいつに愛想が尽きたらいってね?いつでも力になるから。」
「ありがとう!」
他の『男』と手を取り合っている姿を見て、ムウはむすっと顔を歪めた。
「で、もういいんだな?」
「ええ。」
さり気なくマリューを取り返し、ムウは溜息を付いた。
「じゃあ、行こうか、マリュー?」
「はい。」
「たまには遊びにきてねん、マリューちゃああああん!!」
「気色悪い声でマリューの名前を呼ぶな!!」
「はい!またきます!!必ず!!!」
手を繋いで歩き出す。
この道は、マリューがいつも、一人で帰る道だ。
「ねぇ・・・・・・。」
「ん?」
「私・・・・貴方の新居の場所、聞いてないんだけど・・・・。」
「行けばわかるよ。」
マリューに優しく笑って見せて、ムウは強く彼女の手を握り締めた。
そう。
実はムウは引越しを考えていたのだ。
それに伴い、自分の持ち家であるマンションの一室を、人に貸し出す事にしたのであった。
その相手が、腐れ縁のラムダこと、ライザであった。
だから、今日からここに住む、とライザが言い、マリューが買い揃えた食器類は全て新居に移されていた、というわけだ。
「ねえ・・・・どうして引っ越すの?」
「ん〜?」
「あそこでも良かったじゃない。」
それに、借りてるんじゃなくて、買ったものなんでしょ?
そういうマリューの頬に、ムウはそっと手を添えた。
「別に俺が買ったものじゃないんだ。」
「え?」
「まあ・・・・・いろいろ事情があってさ。」
「・・・・・・・・・。」
「でも、マリューのこと、本気で幸せにしたい〜って思ったら、曰くありなあそこに住み続けるのも、なんか嫌でさ。」
だから、ね。
信号で二人は止まる。
そういえば、ここの信号で並んで待つの、初めてだな、なんてマリューはこっそり考えた。
いつもの帰り道。
一人の帰り道。
「全部自分の力で、なんとかしたくてさ。」
そう言って、ムウは青になった信号を、マリューの手を引いて歩いていく。
夕暮れの雑踏。
向かってくる人、追い越していく人。
立ち並ぶ建物の上に、ぼんやりとかすんだ茜色の空が広がっている。
歩く人は家路を急ぎ、楽しそうだ。
「それで、どこなの?」
ふわっと吹いて来た春風に髪をなびかせ、マリューは笑いながら尋ねる。
「こっち。」
そう言って、ムウはどんどん歩いていき。
一つのアパートの前で止まった。
「え・・・・・・・・・・。」
「こっちこっち。」
どんどん歩いて、内階段をあがっていく。
「・・・・・・・・・。」
「さあどうぞ。」
通されたのは、今まで住んでいた巨大なマンションとは似ても似つかぬ、部屋が三つに、居間が一つとキッチンのある・・・・ごくごく普通の部屋だった。
リビングの窓から夕日が差し込み、向かいのアパートの窓が見える。
カーテンが引かれた。
マリューの部屋が。
「ムウ・・・・・・。」
「いや〜、マリューに気付かれないように引っ越すの大変だったよ〜。」
からから笑うムウに、マリューは何も言えなかった。
ただ、呆気に取られてムウを見上げる。
「マリューがさ、大学教授と〜とか言い出したとき、ほんとは俺、ここに居たんだよ。でも、荷物届く手筈になっててさ。」
やきもきしたぜ〜?見えるのに行けないんだから。
部屋の中を歩いて、掛かっているカーテンを開ける。すると、本当にすぐそこに自分のアパートが見えて、マリューはぎゅうっと手を握り締めた。
「大体、ラムダの野郎に引越し手伝わせたのが間違いでさ。あいつ、全然役に立たなくて、ひーひーいってんのな。」
振り返るムウの立ち姿が、窓の外の明るさにかすんで影になる。
「ま、女になろうって奴に手伝わせた俺がばかだけどな。」
「・・・・・あの・・・・・・・。」
「ん?」
「・・・・・・・・・・・。」
茜色の光の中で、マリューは言葉が出なかった。
でも、何故か言いたい事は伝わったみたいで。
近寄ると、そっと屈んで、ムウがマリューにキスをした。
「これからは、一緒に帰ろ?」
返事の代わりに、マリューはムウの首に抱きつくのだった。
6974ヒット御礼リクエスト企画作品 version宇宙さま
(2005/04/13)
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