Muw&Murrue

 二週間後の大嫌い 01



(30000打ヒットアンケート第1位企画作品)



「マリューさんって彼氏とか居るんですか?」
 研究室での飲み会で、二次会のバーへと引っ張ってこられたマリューは、隣で飲んでいる男性に聞かれて、目を丸くした。
「ど、どうして?」
 なんで、私、動揺してるんだろう・・・・・?
 グラスを手に、ニッコリ笑うと、その青年は、ちょっと困ったように頭をかいて、てれたように笑った。
「いや・・・・・マリューさんて、綺麗だし・・・・・。」
 目を見られる。
「他の奴が放っておかないだろうなって思ったから。」
「・・・・・・・・・・・。」

 ぱっと頬を赤くして、マリューは小さく笑った。

「そんなこと無いですよ。」
「前は地味な格好、だったのに、今はすっごく・・・・その綺麗だし・・・・・これは・・・・気になる・・・人でも出来たのかなぁ、なんて思って。」
 薄い闇が支配するそこで、マリューは持っていたキレイな色の飲み物をくるくるしながら、赤くなって俯いた。
「そうですか?」
「・・・・・・・居ないんですか?彼氏。」
 恐る恐る訊ねる青年の緊張に、マリューは全然気づいていない。

 彼はマリューを口説こうとしてるのだが、それにだって全然気付いていないのだ。

「彼氏かぁ・・・・・・・。」
「居ない・・・・・?」
 焦れたように、重ねて問われて、マリューはうふふ、と小さく笑った。

 空色の瞳が、自分を真っ直ぐに捉える。その瞬間が好きだ。
 何もかも色あせて、世界中に二人しか居ないような気になるから。
 くすんだその金髪が、光を受けて輝くのも好き。
 乾いた大きな手が、自分の頬を包む、一瞬躊躇うような間が好き。
 請うような口付けも、軽く触れるだけのそれも、甘くて深いのも好き。

 抱きしめられて、感じる体温も、微かに首を傾げて、首筋に顔を埋めるその仕草も。

「彼氏かぁ・・・・・・。」

 くすくすと笑い続けるマリューに、青年は怪訝な顔をした。だが、そんなのお構いなしに、マリューは幸せそうにこっくりとお酒を飲んだ。

 そんな大好きな人が、自分の事を好きで居てくれるなんて、不思議だな。

「あの・・・・・・・?」
「あの人が彼氏だなんて、ちょっと信じられないかな。」
「え?」
 ニッコリ笑って、彼女は青年に照れたように告げた。
「すっごい素敵なんです、私の彼氏。」

 酔っ払ったマリューは、箍が外れたように恋人の惚気を始める。ふにゃふにゃの笑顔で彼氏との話をを聞かされた青年は、密かに涙しながら、場がお開きになるまで彼女の相手をし続けた。






 人に自分の恋愛事を話すようなことなどめったに無いマリューは、お店を出て、少し秋めいてきた夜の空気を吸い込み、月を見上げた。
 中ほどにかかる月は、もう直ぐ満月になろうとしている。
 それをべろべろに酔っ払ってふわふわした頭のまま見上げて、マリューは思う。
 何故人が、恋人の惚気話をしたがるのか、ようやく理解することが出来たと。

 何故、惚気るのか。

 それは、その人の話をしてる間中、その人の事を想い出し、脳裏に浮かべて話すコトが出来るからだ。
 その人のことだけを考える幸せな時間。

 くふふ、と小さく笑い、満足満足と伸びをする彼女に、例の青年が後ろから声を掛けた。
「あの・・・・。」
「はい?」
 振り返る彼女は、この場の誰よりも飲んでいた。足元が覚束ない。苦笑しながら青年は自分が家まで送ろうかと申し出た。

 95パーセントの親切心と、5パーセントの下心。

「だいじょうぶですよぅ〜。」
 既に口調が大丈夫じゃない。
 その台詞に笑いながら、青年は強引に彼女をタクシーへと押し込めた。認識力が大分落ちている彼女は、ふにゃふにゃと、何か呟くとこてん、と青年の肩に頭を乗せる。
「・・・・・・・・。」
 どきどきしながら見ていると、小さく彼女が恋人の名前を告げるのが聞こえて、妙な感情が彼を支配していった。

 このまま、彼女を知らないところへ連れて行ってしまったら・・・・。


 だが、タクシーが辿り着いたのは、どこぞのホテルではなく、ちゃんとマリューのアパートの側だった。
「マリューさん。」
 軽く揺さぶられて、目を開けたマリューは慌てて車から降りる。足元がふらつくのを見かねて、青年はタクシーに、少し待っててくれと告げると、彼女を支えて車から降りた。
「どこです?」
「ん〜〜・・・・こっちのぉ〜・・・二階〜・・・・。」
 お酒を飲んですっかり酔っ払っている彼女は、体温が高く、温かい。
 このまま、ぎゅっとしたら気持ちが良さそうだ。
 目をやると、彼女の丸みを帯びたラインが見える。抱き心地が凄くよさそうだ。
「・・・・・・・・。」
「あ、ここです〜〜〜。」
 アパートの階段を登り、廊下を行く彼の、不埒な方向に落ちそうになる意識を引き戻したのは、マリューの声だった。彼女は支える青年の手を振り払って、ドアノブに掴まって立つと、持っていたハンドバックをごそごそした。
「あれぇ〜・・・・鍵・・・・・。」
「無いんですか?」

 その事態に、瞬時に青年は脳裏で計算した。

 彼女は一人暮らしだ。鍵がなければ中に入れ無いし。加えて時刻は深夜の2時。合鍵を借りに管理人さんの所に行くのも非常識だろう。

 ・・・・これは、彼女の鍵が見つからなければ、自分の家に呼んでも不自然ではないのでは・・・・?

 秋口の現在、外で夜を明かすには寒すぎる。ホテルに泊まるのよりも、自分の家で飲みなおすのもいかがですか、なんて誘って・・・・・。

「無いんですか?」
 そんなことを、めまぐるしく考えながら、期待を込めて聞けば、潤んだ彼女の瞳が青年を捕らえた。
 しゅ〜ん、と肩を落とすマリューの、困ったような表情に、青年の心拍数が上がる。
 ダメだ。
 どうしても、この女が欲しい。
 誰かの物でも。
 一晩だけでも。
「あの・・・・よければ・・・・・。」


 95パーセントの下心と5パーセントの親切心。


 だが、事態は思わぬ方向に転んだ。

 次の瞬間、マリューがその部屋のチャイムを押したのである。

「え・・・・・・?」
 想定外の出来事に、青年の思考が数秒間停止する。

 チャイム?
 彼女は一人暮らしのはずでは・・・・?

 微かに電子音がこだまし、やがてそれが消える。玄関はいまだ暗いままだ。
「あの・・・・誰もいないんじゃないんですか?」
 酔っ払っているから、彼女が何か勘違いをしているのでは、と恐る恐る訊ねると、マリューはふるふると首を振って、もう一度チャイムを押した。

 再び電子音が響き、呆れた顔で彼女を見ている青年の目の前で、不意に玄関のライトが灯り、内側から扉が開いた。







 ふにゃあ、と心底幸せそうに笑う恋人を、深夜、自分の家のドアの外に見つけたムウは、これは夢の延長かと目を疑う。
 だが、パジャマ一枚では寒くなってきた夜気が肌を撫で、続いて温かい彼女がよろけるようにして自分に抱きつく確かな感触に、夢ではないと悟る。

 じゃあ、夢じゃないとして・・・・・。


 ムウの思考が数秒間停止し、その後。


「マリュー!?」
 彼は抱きついたまま、安心したのかずるずるとずり下がる彼女を、慌てて抱きなおした。
「な・・・・・・。」

 なんでこんなど深夜に、マリューが家の前に立っていて、チャイムを押して、俺に抱きついているんだ!?

 困惑しながら、温かい彼女を支えていると、不意に、視線を感じてムウは顔を上げた。
 ぽかんと口を開けた男が自分を見ている。
「え・・・・・・・と?」

 ドチラサマデ?

 怪訝なムウの台詞に、はっと青年は我に返った。
「あ・・・・・の、ここはマリ・・・・・ラミアスさんのお宅・・・・?」
「え?」
 青年の口を付いて出たのは酷く場違いな台詞だった。だが、それに、相対する男はちょっと気まずそうな顔をする。

 ムウにとって、その質問への正式な解答は「違う」だ。

「あ〜・・・・いや、違うけど・・・・・。」
 歯切れの悪い彼の言葉に、青年がじとっとムウを見詰める。それにおや?とムウは眉を寄せた。
「ここ、ラミアスさんの家じゃないんですよね?」
「ええ・・・まあ。」
「俺は、ラミアスさんを、『彼女の』家まで送り届けに来たんです。」
 はあ。
「ここ、ラミアスさんの家じゃないんですよね?!」
「はい・・・・・・。」
 じゃあ、彼女の家に連れて行きますので、返してください、という台詞を青年が吐こうとした瞬間、それはマリュー自身の言葉でさえぎられた。
「ごめんね〜〜、夜中に〜。」
 もぞ、と彼女の頭が動き、ムウをほやっと見上げる。
「マリュー?」
 抱きなおして瞳を覗き込むと、酔っ払ってうるうるした目がムウを映しているのにぶつかった。
「でも・・・・突然逢いたくなっちゃって・・・・・。」
 小さく笑うと、そのまま彼女は、腕を伸ばしてしっかりとムウの首筋にすがりつく。
「近いんだし〜寝てるかな〜とか思ったけど〜逢いに来ちゃった〜〜〜。」
「・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・。」
 すりすりとムウの首筋に自分の頬をこすりつけるマリューを見て、男二人は絶句した。

 いつもの・・・・・いつものマリュー・ラミアスじゃない・・・・・。

「・・・・・あ〜・・・・・・悪いな・・・・・彼女、送らせちゃって。」
 衝撃から立ち直ったのは、恋人であるムウの方が先だった。呆気に取られる青年に苦笑し、彼はひょいっと彼女を抱き上げた。
「え?」
 その行為に、途端に男の目に疑いが浮かぶ。それに、ニッコリ笑ってムウは告げた。
「あ、大丈夫大丈夫、俺、怪しいものじゃないし。」
 ちゅっと彼女の額に口付けを贈ると、もっともっとと、酔っ払ったマリューがぱたぱた手を動かした。それを「はいはい」と適当にあやしながら、ムウはくるっと青年に背を向け、ふと首だけで彼を振り返った。
 綺麗に笑ってみせる。
「俺、彼女の恋人だから。」



 え?



 目を丸くする青年に、ムウは更に畳み掛ける。

「因みにマリューのアパートは、お向かいね。」



 は?



「ご近所なのよ。」
 そのままムウは、それはそれは神々しい笑みを浮かべて見せた。ただし、まとう空気が闇以外のなにものでもない。

「ここまで何事もなく無事に手も出さずに俺の最愛の恋人のマリューを送ってくれてありがとな。」

 一息に言われた台詞は、物凄い数の棘にまみれていた。

 言外に「お前、俺の女に手ぇだそうとしてただろ?」が滲んでいる。

「じゃ、おやすみ〜〜。」

 人の悪い笑みを浮かべたムウを飲み込むように、ばったんとドアは閉じ、残された青年は絶対マリューではなく、この男にタクシー代を請求してやろうと、ムウの住所をメモするのだった。




「分かってるのかっ!?」
 リビングのソファーに腰を下ろしたマリューを、ムウが恐い顔で睨む。その彼の表情にきょとんとしたまま、彼女はブラウスのボタンに手を掛けた。
「何が?」
「・・・・・・・・男はみんな狼だってことだよ。」
 無防備に、酔っ払ったまま男に送ってもらうなんて。
 それに、マリューがにこにこ笑う。
「でも送ってもらった先は貴方のところだったんだからいいじゃない。」
 そのまま彼女はボタンを外していく。

 確かに。

 どこの世界に『男に彼氏の家に送ってもらう女』が居るのだろうか。

「よっぽど悪い女だな、マリューって・・・・ってそうじゃなくてだな!」
 まるで性悪女のようなやり口に、半分感心しつつ、半分呆れながら、ムウは隣に座ると、がっしりとマリューの肩を掴んだ。
「あのまま、タクシーで寝ちまったら、ホテルに連行されてたかもしれないんだぞ?」
「ナイナイ〜。」
「ナイナイ〜、じゃない!!大体マリューは酔っ払うとろくなことがな・・・・・。」
「・・・・・ムウ?」

 そこで、不意に台詞をきった恋人に、マリューが小首を傾げた。

「何・・・・・してるんだ?」
 続く掠れたムウの台詞に、ぽと、と自分の着ていたブラウスを床に落として、ブラジャー一枚にスカートという姿になったマリューが不思議そうに彼を見上げた。
「何って寝るんだけど?」
「・・・・・・・・・・・。」
 そのままスカートを脱ぎだすマリューを、慌ててムウは押し留めた。
「って、マリューっ!?」
「なによぅ。」
 いつもは『脱がされる』のをいやいやするマリューなのに、自分からどんどん脱いでいくから、違和感があることこの上ない。
 慌てて抱きしめると、うふふ、と笑う彼女の吐息がムウの耳元にかかった。
「なあに?脱がせてくれるの?」
「や・・・・・まあ、確かに脱がせたいけど。」
「じゃあ、脱がせて。」
 ちゅっと、挑発するようにムウの首筋に口付けて、マリューは小さく笑う。



 95パーセントの脱がせたい気持ちと、5パーセントの明日の惨劇を憂える心。



「ここでマリューを脱がせて気持ちイイコトしたらさ・・・・明日絶対怒るよな?」
 現在、マリューはすっかり酔っ払って、自分の中の箍が壊れてしまっている。
 普段の彼女は自分から誘ってくるような事はあまりしないような女性なのだ。そんな彼女が、今夜起こる出来事を許してくれるとは到底思えない。
 だが。
「怒らないわよ?」
 当の本人は甘えるような声なんか出すから、ムウはふるふると頭を振った。

 酔っ払ってる女をあれこれするのは趣味じゃない。
 大体犯罪だろう、犯罪。

 ・・・・・・・・けど。

 マリューとなると、話は別だ。

 犯罪だろうが何だろうが、欲しい女が今目の前で自分に絡んできているのだ。

(食べないわけにはいかないだろーがっ!)

「絶対明日、怒るなよ。」
 そっと髪の毛に指を絡めると、こくん、と女が頷く。
「神に誓えよ。」
「は〜〜〜〜い。」
「・・・・・・・・・・・・。」

 風が吹けば飛びそうな約束だなぁ、と涙しながらも、ムウはそっとマリューを抱き上げて、寝室へと連行するのだった。




 暖かくて、気持ちよくて、思いっきり足を伸ばし、ころ、と寝返りを打ったマリューは、額に暖かい物がぶつかってぼんやりと目を開けた。
「おはよ。」
「ん〜?」
 首の辺りに暖かい物を感じる。それが誰かの腕だと気付くまで、三秒を要した。
「!!」
 はっと顔を上げると、カーテンから漏れる透明な朝日の下で、ニッコリ笑う金髪の恋人が目に止まった。
「・・・・・・・・・・。」
「まだ9時前だけど、起きる?」
 ちゅ、と彼女の額に口付けを落とす恋人を、マリューは困惑したまま見上げた。
「え・・・・・・と・・・・・・。」

 ここはどこだ?
 自分の家か?

 きょろ、と視線だけで辺りを確かめれば、サイドボードに無造作に乗っかっているオーディオ類と、窓際に適当に置かれただけの観葉植物が見えた。
 がらんと広い、殺風景なそこは、紛れもなくムウの部屋だった。
「・・・・・・・・・・。」

 昨日、研究室の皆で飲みに行ったのは覚えている。
 そのあと、二次会に強引に誘われて・・・・・・。

「・・・・・・・・・・。」
 青くなるマリューに気付いたムウが、意地悪く笑うと、彼女を腕に閉じ込めた。
「よかったな〜。酔っ払って記憶なくして、ベッドには見知らぬ男が、っていう展開じゃなくて。」

 全く持ってその通りだ。

 記憶の無いマリューにしてみれば、その可能性の方が断然高かったのだ。
 その事実に、急に恐くなって、慌ててムウの体温に頬を寄せる。
「でも・・・・・なんで?」
 くぐもった声が身体にじかに響き、彼女の髪の毛に指をくぐらせて遊んでいたムウは、小さく笑う。
「昨日、2時くらいかな。マリューさん、いきなり俺んちのチャイム押すんだもんなぁ。」
「・・・・・それで?」
「男に送ってもらってたぜ、君。」
「・・・・・・・・・・。」
「しかも、俺ん家に。」
「・・・・・・・・・・。」

 絶対真っ赤になってるな、と思って、強引に彼女の頬に手を絡めて持ち上げると、最初は抵抗していたのだが、遂に諦めた彼女が顔を上げた。

 耳まで真っ赤である。

「ごめんなさい・・・・。」
 視線を逸らし、小さく謝るマリューに、ムウは「キスしてくれたら、許す。」なんて注文を出し、朝っぱらから濃厚なのを貰うと、にっこりと笑って見せた。
「まったく。酔っ払って記憶なくて、それで寝ちまってホテルに連れ込まれたらどうする気だったんだ?」
「・・・・・・・でも、そうならな」
「そうならなかったけど、そうならない自信があるのか?」
 重ねて言われて、うっと詰まる。
「わ、私はムウ以外に許す気なんか」
「なくたって、男に腕力じゃ敵わないだろうが!」

 大分前に襲われた感覚がぞっと甦り、泣きそうな顔でマリューが慌てて彼にしがみ付いた。

 それをよしよししながら、ムウは溜息を付いた。

「ガード、固いくせに、なんだって昨日はヘマしたんだ?」
「・・・・・・・・・。」
「マ〜リュ〜さん?」


 あまりよく覚えていないが。


「ムウの所為よ。」
 小さく小さくマリューが答え、「はあ?」と彼は眉を上げると、顔を恋人に寄せた。
「俺の所為?」
「そうよ!」


 彼の事を人に話すのが楽しくて、それでついつい自制するのを忘れてしまったのだ。


「ちょ・・・・・・。」
 がばっと起き上がり、ムウに背中を向けて、マリューは落ちていた下着を拾っていく。
「どういう意味だよ?」
 抱き寄せようとする手をものともせずに下着をつけると、同じように床に落ちていたムウのパジャマの上を羽織って彼女はくるっと振り返った。
「ムウの所為であんな風になっちゃったんです!」
「???」
 可愛らしく怒られて、さっさと部屋を出て行くマリューを見送り、ムウは首をかしげた。
「・・・・・・って何?それ。」



 遅めの朝食を用意し、シャワーを浴びているムウを残して、マリューは一旦家に帰ろうとハンドバックを取り上げた。
 さっきシャワーに入ったばかりで、髪の毛も生乾きだが、自分の家が目の前のため、特に気にもしない。
 ムウに、一旦家に帰るわね、と告げると「朝、一緒に食べたいから速攻で戻ってきて。」と念を押されてしまった。
 はいはい、なんて笑いながら、マリューは外へ出る。
 扉の向こうは、秋晴れの、気持ちの良い土曜の朝が広がっていた。空気は結構澄んでいて、風は冷たい。だが、日差しはまだ夏の名残があって、風が止むとじわっと汗ばむ感じがした。
 とりあえず着替えて戻ろうと思っていたマリューは、小走りに自分のアパートの階段を駆け上がると、鍵を開けて中に滑り込んだ。



 髪の毛を拭きながらバスルームから出てくると、朝食の目玉焼きが湯気を上げているのにぶつかった。
 いためたソーセージの良い匂いがする。
 辺りを見渡せば、まだマリューの姿は無い。
「・・・・・・・・・・。」
 特に気にするでもなく、ムウはソファーに腰を下ろすと、テレビを付けた。
 土曜の昼間には珍しく、ドラマの再放送なんかが掛かっている。いろいろチャンネルを変えて、バラエティー情報番組に落ち着くと、マリューが取ってくれた新聞を手に広げる。
 一面から読んでいくと、途中の地域面で、この辺りに来春、大学付属高校が出きるという記事が載っていた。
 どうやら、マリューの通う大学の付属高校のようだ。
「なんで、こんな飛行場と近い場所に勉学の場をもってくるかな・・・・。」
 前々からある「騒音問題」。だが、大学、という学業の場が特殊な所為で、あまり騒がれないが、「高等学校」となるとそうも行かないだろう。
 いくら付属とはいえ、授業も大学のものの比にならない。
 お金持ちの坊主やお嬢ちゃんの背後に居るPTAだかなんだかしらないがが、大騒ぎするのが眼に見える気がした。

 やれやれ。

 女子高生相手に、目の色が変わるかもしれない自分の教え子にも溜息が出る。

 うんざりしながら、彼は新聞をめくり、ふと彼女がまだ戻らない事に気が付いた。
「・・・・・・・・。」
 コーヒーでも淹れようかな。
 立ち上がり、今日は『亀の生態』についてやっているその番組を見ながら、ムウは恋人が戻ってくるのを待った。
 だが、ただいま〜、と帰って来る予定の彼女の姿を、ムウはついぞ見ることが叶わなかった。

 その事実を告げたのは、我慢できずに朝食を一人で食べ始めたムウの元に、掛かってきた一本の電話だった。

『ムウ?』
 3コール目で出た相手の声に、ムウは呆れたように答えた。
「何?こんな近所なのに電話?」
 だが、何故か彼女はひそひそと声をひそめている。
『ごめんなさい・・・・戻れなくなっちゃったの。』
「はあ?」

 意味が分からない。

「戻れなくなったって、どういうこと?」
 勤めて冷静に切り返すと、ますます困惑したマリューの声が返ってきた。
 だが、声量は極端に小さい。
『お昼過ぎには戻るから・・・絶対絶対戻るから。』
「・・・・・・・・・なあ、さっきまで朝ごはん一緒に食べようって約束してたのにさ、それはないんじゃな」
『ごめんなさい!小言なら後で聞くから!』
 それじゃあっ!!!!

「・・・・・・・・。」
 虚しく響く電子音を聞きながら、ムウは受話器を見詰めたまま、静かにそれを元に戻した。そのままテーブルに付くと、おもむろに朝食を頬張り始める。

 これを大急ぎで片して、それから絶対抗議しに行ってやる。

 変な決意を固めて、ムウはダッシュで朝食を平らげると、コーヒーを流し込んで立ち上がった。

(2005/11/05)

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