Muw&Murrue

 証
 まずは手の甲。ひっくり返して、手のひら。握り締めて、開いて。
「やっぱ・・・・・・。」
 そのまますとん、と落とすと自分の額にぶつかった。
「生きてる・・・・・。」
 それは多分、奇跡、と呼ぶ部類の力のお陰だろう。とりあえず五体満足で。激しく重症で。ひょっとすると、いっそ死んだ方がましだった?と思うような注射を毎日同じ時間にされて。
 でも、そんなことされて痛いのは、紛れもなく生きている、って証でして。
 ようやく普通の病室に移動になり、寝起きできるまでには回復したムウ・ラ・フラガは大きく大きく溜息を付いた。
 現金なもんだ、と我ながら呆れてしまう。
 あの瞬間は帰らない気だった・・・・・というか、身体を捨てて帰る気だった。
 彼女がこの世界から居なくなるくらいなら、彼女を酷く傷つけても護りたかった。
 例え、自分を忘れた最愛の人の手が、別の男と繋がっていても。
 でも。
「全っ然平気じゃねぇ・・・・・・。」
 今もし、この瞬間。彼女の隣に変な野郎がいたら、間違いなく、蹴り飛ばしているだろう。
 何の因果か、神は彼を御許に召すことをしなかった。それどころか、彼女から数万キロ引き離した場所で目覚めさせ、動けない身体にしたくせに、記憶という厄介なものを、そのまま綺麗に残してくれちゃったりしていた。
 つまり。
「このっ・・・・・この身体がっ!」
 動けっ!動けよ足っ!
 気持ちばかりが恋人を求めて彷徨い、結果。
「何やってるんですか、フラガさん!」
「放せっ!放してくれっ!俺には待っている人がぁぁぁぁぁっ!」
「何回言えば分かるんです!?あなたが生存している、という情報は、ちゃんと地球に向けて発信済みです!ですから直ぐに、彼女さんから連絡が」
「何時何分何十秒!?」
 鉄拳制裁が、ムウの頭上に振り下ろされた。
「地球からは何の返答も来ていませんっ!」
 こんな看護士とのコントが、日常茶飯事になっていた。それが、少しだけムウの心を癒している、と若い女の看護士は分かっていたし、ムウも、恋人に似たブラウンの髪の彼女に感謝していた。
「ったく・・・・・少しはナチュラルに優しい看護をしろよな・・・・・。」
「合理的、という言葉が、コーディネイターの自論ですから。」
 涼しい顔で言われ、やれやれとムウは溜息を付いた。
「なら戦争なんて、非合理的なことをするなよな。」
 彼の呟きに、彼女ははっと息を飲んだ。




 ここは、ヤキンの戦いで出た、数千万単位の負傷者の一部を、ナチュラル、コーディネイターわけ隔てなく収容した、プラントのとある病院である。あの悲惨な戦いの直後に行われた人命救助。数多の要請を受け、地球もプラントも一丸となって命を救う事に徹した二週間。
 その二週間は、人々の心に『信頼』という灯火をつける第一歩とるだろう・・・・・と、言った所で、怪我をした当人にしてみれば、そんな話はどうでもいい事だった。
 怪我をして、死んだと思っていた自分が生きていて。命に別状は無いが重傷だとしたら。
「・・・・やっぱり、生きてるんだよな・・・・・。」
 再びの、このムウのセリフに集約してしまうだろう。
 自分が諦めていた未来が、突然目の前に戻ってきたのだ。
 やりたいコトも、逢いたい人も、ムウにはある。でも、現状がそれを許さない。
「何で、生きてんだろ・・・・・。」
 窓から外を見て、ムウは溜息を付いた。死んでしまえば、心ごと彼女の側に居れたのに。
 そんな後ろ向きな願望に、看護士が意地悪く答えた。
「死んでないからですよ。」
 はい、まったくその通りです。
 だからムウは、精一杯健康を保ち、身体を治して体力を付け、リハビリをして、自由に動ける身体に戻ってようやく恋人と再会する、という恐ろしく気が遠くなりそうな回り道を余儀なくされているのだ。
 今すぐ逢いたい。今すぐ触りたい。今すぐ愛したい。
 それはぜぇんぶ、後、後、後。
「ちくしょー・・・・恨むぞ、神様・・・・・。」
 贅沢すぎるセリフを吐いて、彼は眼を閉じた。その端正だが、どこかあどけない寝顔に、看護士は深い吐息を零した。
「そんなアナタが、心から想っている女性を、私は恨みたいわ。」




 そのリストは、混乱しきっているオーブ政府の、膨大な戦死者、負傷者たちの中に埋もれていた。だから、発送されてから半年、という恐ろしく長い時を経て、ようやく彼女の元に届いたのだ。
 十二基あるプラントの一つ。その一つの、とある大病院の医院長から送られてきた、戦争による負傷者のリスト。約三千人の名前が載るそれには、彼らから、家族に向けたコメントが一行ずつ、添えられていた。
 その中の、彼の欄に書かれていたメッセージ。

     やっぱり、MS乗りも嫌いになった?

「死んでたら嫌いになってやる!」
 ぼそっと呟かれた低い声に、シャトルの客室乗務員が怪訝な顔をした。そんな物騒なセリフを、目の前の女性が口にするとは思えなかったからだ。恐る恐る顔を覗き込むと、涙を溜めた瞳が垣間見え、彼女は視線を逸らして通り過ぎて行った。
(本当に本当に、嫌いになってやるっ!)
 どちらかと言えば可愛らしい部類に入る顔を歪め、唇を噛み締める彼女は、シャトルの鈍さを恨んでいた。
 早く早く。どんな戦艦よりも、ロケットよりも、MAよりも早く。
 両手を握り締め、祈るように彼女は俯いた。
 ああ、どうかどうかどうか。彼が元気でいますように。彼が生きていますように。彼が笑ってくれますように・・・・・。
 彼女・・・・・マリュー・ラミアスは、そうやっておおよそ五時間の航行中、祈り続けた。




 マリューにとってムウは希望であり、安らぎであり、マリュー自身だった。だから、彼の行動は理解できる。
 ごくごく当たり前に、目の前でマリューが危険にあっているから、助ける。
 今までの戦闘の延長で、彼はそれをやっただけだ。
 愛をつらぬくとか。
 最強の愛の形とか。
 そういうのではない。
 それを普通に出来てしまうのが、ムウ・ラ・フラガという人なのだ。逆に、ムウが危険だったら、マリューはやっぱり助けに飛び出している。
 だからと言って。
 魂だけの存在とやらを信じられるほど、マリューは壊れていない。現実に触れて暖かい彼が、どこにもいない・・・・・半身を引き裂かれた痛みは、想像を絶する痛さだった。
 いっそ死んだ方がましなのではないか?と思うほどに。
 でも、痛いことすら、生きている証だと、彼女は知った。
 泣いていても涙は止まる。
 歩いていると、どこかに辿り着く。
 雨は止み、日が差し、また雨が降る。
 それを、自分はまだ感じることが出来ていると、そう、マリューは気付いたから、彼女は絶望の淵から立ち上がることが出来た。
 空を見上げて、微笑むことが出来るまでに。
 だって、この喪失の痛みすら、彼がくれた物だから。
 でも、もう二度と、誰も愛さないと誓っていた。
 なのに。
「今更・・・今更生きてますよなんて・・・・・。」
 呻くように呟き、シャトルのタラップを駆け下りる。
「虫が良すぎるわよ、ムウ・ラ・フラガっ!」
 プラント構造体のシャフトを下り、エントランスを駆け抜ける。自動ドアを飛び出すと、全てに『人工』と名の付く、科学の粋を結集した大地が目の前に広がっていた。
 タクシー乗り場に駆け寄り、開かれた扉に無理やり身体と荷物を押し込む。
「どちらま」
「この住所!この病院!今すぐ発進っ!!」
 投げつけられたメモ用紙と、必死の形相のマリューに、運転手はがくがくと頷いて車を急発進させた。
 飛ぶように流れていく景色。地球とは根本的に違う、環境システムが随時管理している自然は、しかしマリューの瞳には映っていなかった。車が進むにつれて、マリューの中を満たしていったのは、忘れたくても忘れられない不安ばかりだった。
 何度も何度も見た、たった一つの夢。
「もっとスピード、出ないの!?」
 それを振り払いたくて、マリューは喚いた。
「ええ!?お、お客さん、無茶言わんで下さ」
「大切な人が死にそうなの!今にもっ!死の淵で私を呼んでるのっ!だから早くしてっ!アナタ、コーディネイターでしょ!?」
 それに、ぎょっと運転手が眼を見開いた。
「コーディネイターって・・・・お客さん、ナチュラル?」
「そうよ。」
「へぇ・・・・・・。」
 複雑なその視線が、マリューの神経に障った。
「だからなんですっ!?何か不満でもあるわけ!?この車のどこにも『ナチュラルお断り』のカードは付いてなかったわよ!?」
 怒鳴るマリューは、すでに涙目だった。
 何もかもが、ぐちゃぐちゃだ。
 世界情勢も、自分の気持ちも。
 絡み合って、もつれ合って、それを解くことすら出来ない。
「・・・・・・いや、そうですよね・・・・・・・。」
 と、涙目のマリューに、ミラー越しに睨まれていた運転手は、五十代そこそこらしい、柔らかい笑みを彼女に向けた。
「何がです!?」
「あの・・・・・・ヤキンの戦いで、傷ついたのはコーディネイターだけじゃ、ないんですよね。」
「・・・・・・・・・。」
 それに、マリューの頭が一気に醒めた。
「ナチュラルだって、愛する人が死にそうなら、泣きたくなりますよね。」
 なら、我々の違い、って何なんでしょうね?
「無いわよ、そんなもの。」
 それに、マリューは反射的に答えていた。
「え?」
「ほら、早く!急いでっ!」
「ああ、はい・・・・・・。」
 アクセルを踏み込み、タクシーは明らかに交通法規違反速度で、広い道を走ってゆく。その車のシートで、マリューは俯いた。
 違いなんて無い。
 なぁんにも無い。
 コーディネイターが羨ましい?妬ましい?
(じゃあ、何が羨ましいのか具体的に言ってみればいいのよ・・・・。)
 それは積極的な、自己否定にしかならない。自分に無い物が欲しい、という。
 たった、それだけ。
 自分を大切に思っていたのなら、起きなかった。そしてそれはコーディネイター、ナチュラル、その両方に言える事なのだ。
(ばかばかしい。)
 本当に、ばかばかしい。そんなばかばかしい戦いに、多くの人が命を投げ出した。多くの人が命を奪った。
(私から、彼を奪って・・・・・ムウを奪って・・・・・っ!)
 だからマリューは唇を噛み締める。
「死んでたって!地獄の淵からでも引きずり出してやるんだからっ!」
「お、お客さん、立ったら危な」
「もっとスピード出ないの!?」
「ちょ・・・・ダメですって、ハンドルに手をださな」
 猛スピードのタクシーが、蛇行運転を開始した。




「暇だな・・・・・・。」
 病室のカーテンが、風に揺れる回数を、二千六十八まで数えて、ムウは視線をそこから引き剥がした。あの空の向こうに、マリューがいる。
(あれから半年・・・・・まだ、俺のこと愛してくれてるよな・・・・。)
 でも、自信が無い。
 彼女の潔さは、よく知っている。それに、ムウとマリューが晴れて恋人同士になってから、たったの三ヶ月しか経っていなかったのだ。出会いから数えても、一年に満たない。
(まさか・・・・・もう誰かとラブラブになってたりは・・・・しないよな?)
 彼女が自分を愛さないようにしていたのは、知っている。彼女には、最愛の人が居て、でも、その人を喪って。そして、その写真を、彼女は肌身離さず持っていた。
 そんな女だ。もう、次の恋を見つけているとは考えられない。
 でも、だからかもしれない、とムウはぼんやり考える。
 生きている限り、ムウはその死者には勝てない。マリューの記憶に、キレイな思い出だけ残して死んでしまったその人と、生きているムウとでは、同じ土俵には絶対立てないのだ。完全なる勝利。勝ち逃げだ。
(だから俺は・・・・。)
 あんな行動をしたのかもしれない。彼女を今でも放さない彼に、勝つために。同じ土俵に立つために。
 でも、自分は生き残った。
(それは勝ちか?それとも負け?)
 どうしても今、マリューに逢いたいのは、ひょっとしたらそれを、はっきりさせたいからかもしれなかった。
 今、彼女の中で、どちらがウエイトを占めているのか。
「って、奴だったら俺、死に損じゃん・・・・・・。」
 つーか、俺まだ死んでな・・・・・・・・。
 そこで、ムウの背筋が凍り付いた。
 死んでない。
(・・・・・・・・・。)
 生きている。
 自分は今、ここで、この瞬間を。
 羨ましい、と、確かに声を聞いた気がした。
 死んでしまったら、もう、彼女の温度を感じることすら出来ないのだ。
(マリュー・・・・俺・・・・逢いたくて死にそうだ・・・・。)
 毛布に潜り、苦しげに顔を歪めた。
 かまわない。
 彼女がもし、別の男とベッドの中で楽しそうに笑っていたとしても。ムウはその場に押しかけて、彼女を奪っていくだけだ。
 そうしなくては、いけないのだ。
 だって、自分は、彼と違って、生きているのだから。
 ノックと共に開いた病室の扉から、担当看護士が笑顔を見せた。その彼女に、ムウが勢い込んで言った。
「あのさ・・・・・・。」




 頭が真っ白。自分の鼓動がうるさい。心臓が喉で脈打っているようだ。
 マリューは大急ぎでタクシーを飛び降り、目の前にそびえる病院によろけながら駆け込む。受付のキレイな女性が、そんなマリューに眼を見開いた。その顔が、急患か!?と問うていた。
「あのっ・・・・この、リストの・・・・・。」
 がくがくと震える手で鞄をこじ開け、ファイルから用紙を取り出す。
「こ、この人・・・・この人は・・・・・。」
 冷たく凍り付いた指先が差す人物に、女性は「少々お待ちください」と笑顔で答えてくれた。手元にある端末のキーボードをかたかたと叩き、パーソナルデータを呼び出す。
「ええ、っと・・・・・はい。いらっしゃいますね。S棟の302号室に・・・・・。」
 その瞬間、マリューは身をひるがえしてエレベーターへと突進していた。だから聞いていない。
「でも今は・・・・・・。」
 という彼女の言葉を。




 昼過ぎの日の光が差し込む、全面ガラス張りの廊下を走る。角を曲がって、続く階段を駆け上る。しん、と静まり返ったそこは、マリューの靴音だけがやけに騒々しく響いていた。
 辿り着いた病棟。さすがに息があがり、それ以上に鼓動が早くて、マリューはめまいを覚えた。
 真正面に窓があり、そこから切り取られたプラントの、よく晴れた空が見えた。廊下の両脇に並ぶ病室は恐ろしく静かで。マリューは一瞬場所を間違えたのかと、廊下の番号を確認する。
 間違いなく、S棟。
 足が、震える。
 一つ一つ病室を確かめるマリューの胸の中には、様々な葛藤が渦巻いていた。
(あんな軽いコメントをくれるくらいだもの・・・・きっと軽傷で・・・・でも、ローエングリンを喰らって、ストライクは爆散・・・・人工チューブに繋がれているかもしれない・・・・ううん、それとも仮死状態・・・・・半身不随・・・・いいえ、あれは半年前のリストだもの・・・・病状が悪化して・・・・・・。)
 302
 その番号の前で、マリューは凍り付いた。まるで夢を見ているようだ。あの、何度も繰り返し見る悲しい夢。
 その延長に、自分が立っているような気が、してくる。
(大丈夫・・・・大丈夫よ、マリュー・・・・彼は生きてる。だって、死ぬはずがないもの。私を置いて、先に行くなんて。私の後ろに居るムウが、私の前を行ってしまう筈が無いわ・・・・・・。)
 ドアを開けたら、何て言おう。
 冷たい手を震わせて、マリューはドアの、銀のノブを掴む。
 ああ、神様。どうかどうかどうか・・・・・・・。
 全ての勇気を振り絞って、マリューは扉を引き開けた。




 開け放たれた窓から、温い風が吹き込んでくる。真っ白なカーテンが風に揺れ、静まり返った部屋に、微かに外の喧騒を運んでくる。
 そこにある、寝台。
 その上に。
 ムウは居なかった。
「・・・・・・・・。」
 ふら、とマリューが部屋に入り、きちんと直されたベッドに近寄る。
 そこにある毛布を、穴が開くほど見詰めた。
 理性が、機能しない。
 ただ、眩暈がして、身体から力が抜けていく。
 感情が、機能しない。
 それなのに、冷たい頬に痛いくらい熱い涙が、ぼろぼろと零れ落ちて。
 ああ、とマリューは理解した。
 ああ、私は、こんなにもムウを愛しているのだ・・・・・と。
 こんなにも、愛しているのだ。
 こんなに、こんなに、こんなに。
 身体が勝手に、反応してしまうくらい、マリューは、ムウを、愛しているのだ。
 理性が追いつかない速度で、ムウを愛しているのだ。
 これは困った。
 自分は一生、ムウを忘れる事なんか出来ない。
 その名を聞いただけで、泣けるほどに。
 彼が居たべッドの、その彼の温もりを刻んでいるだろう毛布を見ただけで、愛しくて涙がこぼれる、ほどに。
 そのベッドに眠る幻にすら、抱かれたくて。倒れこもうとしたマリューを、その声が引きとめた。「だから言ったんですよ。今からは無理だって。」
「でもさぁ、早い方がいいだろ?大体暇なんだよ、寝てるのってさぁ。」
「文句言わない!貴方は怪我人らしく寝て」
 と、がらっと扉が開き、あら、と若い女性の声が静寂を打ち破った。
「お見舞いの方ですか?」
「おいおい、俺に見舞いなんか・・・・・。」
 続いたのは、マリューがよく知っている、声。
 背後で、息を飲む気配がした。でも、マリューは振り返らなかった。いいや、振り返れなかったのだ。身体中が、小刻みに震える。
「あの・・・・・どちらさ」
「MA乗りが嫌いな、戦艦の艦長だよ。」
 不信気な看護士のセリフを、彼が打ち切った。
「強情で、それなのに潔くて、強いのに泣きそうで。甘ちゃんで、ほんと頼りない艦長でさ。」
 出来るわけないのに、それをやり遂げようとバカみたいに必死になって。
「大ッ嫌いよ。MA乗りも、MS乗りも。」
 振り返らないマリューのか細い声が、空気を震わせた。
「人に心配ばっかりかけて。出来もしないのに『不可能を可能にする』なんて大見得切って。いい加減で、いきあたりばったりで。・・・・呆れて物も言えないわ。」
「じゃあなんで来たのさ。」
「・・・・・・・・・・。」
「じゃあ、なんで、来たのさ?」
「・・・・・・・・。」
「まぁ、いいや。別に。」
 それに、マリューの肩が微かに強張った。それに、彼は人の悪い笑みを浮かべる。
「マリューがもう、俺に呆れて、愛想付かしてて、別れてくれ、って言うために来たんだとしても。俺はマリューを愛してるから。」
 どーでもいいんだよ、マリューの気持ちなんか。
「・・・・・・最低。」
「ん。」
「バカ。」
「まぁね。」
「嘘つき。」
「ありがと。」
 泣いているのだろうか、と彼は、マリューの震える肩に眉を寄せた。
「なぁ、いいかげんこっち向いてくれよ。」
 それに、はっきりとマリューが動揺したのが見て取れた。
「・・・・・出来ないの。」
 しばしの沈黙の後、呟いた彼女は、震える自分の身体を抱きしめた。
「出来ないのよ・・・・・・何度も見たの。愛してると、貴方に叫んで、振り返って駆け寄ると、貴方が消えてしまう夢を。」
 それに、彼ははっと息を飲んだ。
「ダメなの・・・・・・ムウ・・・・・振り返りたくないっ!夢なら、いつまでも覚めないで欲しいの!」
 それに、ムウはなぁんだ、とホッとしたように笑った。
「たかが夢だろ?」
「ふ、フラガさん!?」
 と、看護士の甲高い声が響き、マリューがびくっと身体を強張らせた。
「振り返るな・・・・・絶対に・・・・・振り返るなよ・・・・・。」
 がしゃん、と音がして、何かが床を転がる。はっと足元に眼をやれば、投げ捨てられた松葉杖がマリューの視界に飛び込んできた。
「無理です、フラガさん!車椅子も、松葉杖も無く、そんな状態で、歩けるはずが・・・・・。」
「やんなきゃなんねぇんだよ、俺はっ!」
 それに、ムウが苦しげに、でもはっきりと答えた。
「でも、傷が・・・・・。」
 ずるっと何かが滑る音がする。多分、ムウの足が体重を支えきれず、身体が傾いだのだろう。踏ん張って、うめき声が漏れる。
「ムウっ!」
 叫んで振り返ろうとするマリューに、彼は怒鳴った。
「振り返るなッッ!」
 ぼろっと、マリューの瞳から涙がこぼれた。
「絶対に・・・・・俺が、君を迎えに行く。」
「・・・・・・・・。」
「見たんだろ?夢で。消えていく俺を。なら、今度は俺が君を追いかける。」
 鋭く走った痛みに、ムウが悲鳴を飲み込んだ。
「ムウ・・・・止めて・・・・・。」
 彼の現状を見ていないマリューは、心配で不安で、涙をこぼして祈るように呟いた。それに、額に脂汗を浮かべたムウが、ふっと笑んだ。
「痛くないよ・・・・・・。」
「嘘っ!」
「痛くないって・・・・・君がっ・・・・・背負った痛みに・・・・比べたら・・・・・っ。」
 半身を引裂かれた、喪失の痛み。マリューを傷つけたムウの、これが償い。
「この痛みすら、君が・・・・・・くれたもの・・・・・だから・・・・・。」
 生きているから、感じる痛さ。
 生きなきゃならない、痛み。
 生き続けることで背負う、半端じゃない激痛。
「全部・・・・・マリューがくれた・・・・・っ」
 愛しているから、大事だからこそ、痛い。だから、それでもいいと思える。
 涙で、マリューは前が見えなかった。
 踏み出した一歩に、身体が悲鳴を上げ、鋭い痛みが、ムウを苛む。
「動けよ・・・・・俺の・・・・身体だろ!?」
 ほとんど壁にしがみつくようにして前進し、息を切らせて手を伸ばす。苦痛に、顔が歪み、食いしばって切った唇から、血がこぼれた。
「なぁ・・・・・頼むよ・・・・自由にっ・・・・マリューの所に・・・帰・・・・・・。」
 必死に伸ばした手が、震え、彼女の、肩に触れた。
「ムウッ!!!」
 叫んで、涙を散らしたマリューが振り返り、最愛の人を抱きしめた。その腕の中に、ムウが崩れ落ちる。
 暖かい、彼の感触。。
 それが、がつん、とマリューの胸を打って。
「・・・・・ム・・・・・ウ・・・・・ムウ・・・・・ムウッ・・・・・。」
 わああああん、とマリューが子供のように声を上げて泣き崩れた。しゃくりあげる彼女の体温が、意外と高くて、ムウは痛みに冷たくなった手を上げて、彼女を抱きしめ返した。
「マリュー・・・・・。」
 声が、震えた。触れた体の暖かさが、がつん、とムウの胸を打って。
「マ・・・・リュー・・・・。」
 彼女の頬を止まる事無く流れ落ちる涙が、ムウの首筋を、雨の雫のように打っている。
 柔らかい、感触。
 忘れていた、マリューの温度。香り。
「マリュー・・・・・あのな・・・・・。」
 懐かしさと、それからわけの分からない涙が、声に滲んでくる。泣きじゃくる彼女を、強く強く抱きしめた。
「俺・・・・・・生きてるんだってさ・・・・・。」
 しがみ付く彼女の鼓動が、よく身体に響く。
「俺・・・・・生きてるんだよ・・・・・・生きて・・・・・。」
 嗚咽が込み上げ、彼の頬を涙が伝う。
「生きて・・・・・生きてるんだ・・・・・・。」
 真っ赤なマリューの瞳が、震えるムウを捉える。
「うん・・・・・・。」
「死んでないんだよ・・・・・死んでない・・・・・・。」
「うん・・・・・・。」
「恐かった・・・・・・・。」
「うん・・・・・・。」
「今更、恐いんだ・・・・・あの時、死ななくてよかったって今更・・・・・・。」
「うん・・・・・・。」
「生きてて・・・・・本当に良かった・・・・俺・・・・・。」
「うん・・・・うん、うん、うん!」
 本当に、良かった。
 初めて見る、泣いているムウを、マリューは最大の愛を込めて抱きしめた。
「私も・・・・・・生きてるよ・・・・・生きてるんだよ、ムウっ!」 二人っきりの病室で、ベッドから差し出された手を、マリューは握り締めた。
「まさか、この俺が大泣きするとは・・・・・。」
 はれぼったい眼のまま、ムウが苦く笑った。
「情けない、って呆れた?」
 同じように、真っ赤に泣きはらした眼のマリューが、照れたように笑う。
「ううん。・・・・・貴方に、一歩近づいた気がして、嬉しかった。」
 繋いだ手に、強く力を込めると、彼はふと遠くに視線を向けた。
「あの瞬間はさ、帰れなくてもいいと、本気で思ってたし、それで君が生きていてくれるならいいと、マジで思った。」
「・・・・・・そう。」
「でもさ、今までなら別に死んでも構わなかったのに、眼が覚めて、自分が生きてるって分かったら・・・・君が俺を忘れて、元気に暮らしてくんだな、なんて具体的なこと考えちまって・・・・・。」
「辛くなった?」
 それに、ムウがははっ、と自嘲気味に笑って頷いた。
「急に、恐くなった。君や、続いていく世界から俺が消えてしまって、みんな俺を忘れていくんだなって。」
「忘れないわよ。」
 マリューがむっとしたように言うから、ムウは意地悪く笑ってみせた。
「どうかな。」
「失礼ね!」
「忘れていくんだよ・・・・・人はさ。じゃなきゃ、人類発祥から繰り返し起きてる『戦争』が、とっくの昔になくなってる筈なんだ。」
「・・・・・・・・。」
 あの瞬間の痛みすら忘れて、繰り返し繰り返し、他人を巻き込む争いを続けている。
「ま、全部覚えてたら、動けないしな。」
「私は・・・・・・覚えていたいわ。」
「全部?」
 それに、マリューはにっこり笑って頷く。
「だって、悲しいじゃない。死んだ人は、思い出の中にしか、居場所がないのよ?」
 ふと、ムウは目をつぶる。瞼の裏を、死者たちがゆっくりと通り過ぎて行った。
「・・・・なぁ。」
「うん?」
 眼を開けて、ムウが真面目な顔で言った。
「キスして。」
 ふっと笑って、マリューは彼に屈むと、そっと唇を重ねた。その後ろ頭を、手を伸ばして抱え込み、ムウは自分の気がすむまで口付ける。
 顔を離して、彼は至近距離からマリューを見た。
「覚えててくれるか?」
「何を?」
「この戦争のこと。」
「・・・・・・・・・。」
「戦争の始まりに・・・・・・・俺が立っていたかもしれないこと。」
「・・・・・・・わかったわ。」
 乾いた声で答えて、それからマリューはムウを抱きしめた。




「だからっ!今は無理なんです!」
 マリューの怒鳴り声が、リハビリセンターから響いてくる。それを拒むように、手摺に掴まって、早すぎる歩行訓練を開始していたムウが、彼女を睨んだ。
「やだ。」
「やだじゃない!」
「嫌です。」
「言い方を変えてもダメっ!」
 眉を吊り上げるマリューに、ムウは頬を膨らませた。
「だって、こんな身体じゃマリューに楽しい事出来ないだろ!?」
「そういうことを、大声で言うんじゃありませんッ!」
 真っ赤になって怒鳴り散らすマリューに、ムウはでも、と言い募る。そんな二人に、リハビリ中の人たちの暖かい視線が集中していた。
「とにかく!今は寝てなきゃ・・・・・。」
「だったらマリューは地球に戻ってくれよ・・・・・。」
 情けない顔でムウが頼む。それに、マリューがぎゅうっと唇を噛んだ。
「何で。」
「毎晩毎晩、隣で可愛い顔してマリューが寝てるんだぞ!?時々、う〜ん、なんて幸せそうに溜息付いたりしてさぁ・・・・・もうヤだよ俺・・・・・耐えらんない・・・・・・。」
「キスならしてあげてるじゃない。」
 それに、ムウが更に言う。
「んなもん下手にされたら、我慢できなくなって、でも身体は全然動かないし、襲いたいのに襲えな」
 ぱかん、と頭を叩かれた。
「丁度良い機会です。」
「バカ言うなよ!?ヘリオポリスからずっと禁欲してて、ようやくマリューのこと愛せたんだぞ!?それが・・・・なんで今更っ!!」
「いいじゃない。我慢できてたんだから。」
「―――――治ったら覚えてろよ・・・・・・。」
 恨みがましく睨まれ、でも今はそんなこと言われても痛くも痒くもないマリューは、彼の腕を取って病室へと促した。
「さ、戻りましょ?」
「・・・・・・マリューはさ、したくないわけ?俺と。」
 引きずられ、車椅子に押し込まれながら、悔しそうに聞くから、マリューはちゅっと彼にキスをした。
「したいわよ?だから、今は大人しく寝ててください。」
 それに、はぁぁぁぁぁ、とムウが大きく大きく溜息を付いた。
「生きるって、辛い・・・・・。」
 それに、声を上げてマリューが笑った。
「ほんとね。」





(2004/12/30)

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