Muw&Murrue

 贖罪カレンダー
 デュランダル議長の野望を退け、世界は再び目標を模索し始めた。だが、誰もが激戦に疲弊し、疲れきっていたのは確かな事で。
 乞うように、緩やかに平和の道を歩き始める、この世界情勢の中、アークエンジェルは、プラント評議会からの申請を受け、プラント入りをしたラクスに同行し、現在、一度も足を踏み入れる事が無かった、アプリリウスの港に停泊していた。

 束の間の平和。

 それを恒久のものにしようと頑張る若者たちを、支えるべく、飛んできた艦の中で、マリューは長い長いため息をついた。

 艦長室のデスクに座ったまま、リクライニングを軋ませて、天井を見上げる。
 ここ数ヶ月の出来事が、ゆっくりと脳内を巡っていく。

 誰もが幸せに生きたいと願って、その為に選んだ道の違いから起きた、戦争。失ったものも沢山あった。
 目を閉じて、腹の底にたまっている疲労に身を委ねていると、不意に手元の端末が音を立てた。のろのろと身体を起こし、呼び出しに応じる。
「どうしたの?」
 切り替わった画面は、何故かサウンドオンリーだった。目を瞬いていると、やや歯切れの悪い低音が響いてきた。
「あー・・・・俺だけど、寝てた?」
 どきり、と胸が鳴った。
 待ち焦がれ、帰って来てくれた人。
「ええ・・・・少し。」
「悪い。疲れてんなら、明日にする。」
 いくらか小声で言われて、マリューは弾かれたように背筋を伸ばすと、椅子に座りなおした。
「いえ。大した事ないの。ちょっとうたた寝してただけだから・・・・。」
 何か用?
 重要なことでもあるのだろうか。
 戦闘や、政治的なごたごたは、今は持ち込まれていない。プラント側の人間に、あまり良い印象をもたれていないかもしれない、と、取り越し苦労かも知れないが、マリューは艦の警備は厳重にしているつもりだった。
 だが、ムウが通信を入れてきているのが、格納庫であることから、何か機体に関するトラブルが、プラントとの間で起きたのかもしれないと、危惧したのだ。
 だが、サウンドオンリーの男は、「こっちも大した事じゃないんだ。」とワントーン高い声で切り出してきた。
「プラント側から何か言われたとか、そういう事じゃないの?」
「違う違う!そういうのは全部キラとお姫さんが睨み利かせてるから。」
 彼らしい言い方に、思わず吹き出す。
「どういうイメージよ。」
 くすくす笑いながら言えば、ムウの声がいくらか温かくなった。
「いや、なんちゅーか、逆らったら怖いというか。」
「失礼よ、それ。」
 まだくすくす笑うマリューは、かすかな溜め息のような物を聞いて、耳を澄ました。顔が見えない所為で、かすかな吐息ですら、なんとなく聞き漏らしたくない。
「それで・・・・貴方の用は何?」
 気になって切り出せば。
「うん?ん・・・・・いや・・・・・。」
 曖昧な返事をされる。そんな、自分の事になると、とたん歯切れの悪くなる恋人に、マリューは眉間に皺を寄せた。
 なんだろう。言い憎い用件なのだろうか。
「用ってほどでもないんだけどさ・・・・。」
 通信機から響く声は、酷く不透明で、困っているようだ。
 一体全体、この、なんでもあっさり言ってしまう男が困って言い憎い事って一体なんだろう。

(まさか・・・・地球軍に戻りたいとか、そういう事なのかしら。)

 不意に掠めた不安に、マリューの心が震えた。

 第八十一独立機動軍。通称ファントム・ペイン。

 その部隊の大佐だった彼が、地球軍を気にするのは想像に難くない。だが、地球軍はほぼ壊滅状態だ。戻ったところで、待っているのはただの混乱した情勢ばかりだろう。
 近々、地球軍は解体されると、ターミナルから聞いたが、それの建て直しに参加したいと、そういう事なのだろうか。

「ねえ。」
 なんていうかさぁ、なんて曖昧な語句をひねり出しているムウに、マリューはそもそも、この状況はなんだろう、と思い切って切り出した。
「うん?」
「あの・・・・・なんでサウンドオンリーなの?」
「へ?」
 画面に映る、一定の感覚でくるくる回る、通信用のオブジェを見ながら、マリューはぎゅっと手を握り締めた。
「顔、見て話せない事?」
 微かに震えたマリューの声。それに気付いたのか、ムウの慌てた声が返ってくる。
「違う違う!そ、そういうわけじゃなんだけどさ・・・・・。」
「じゃあ、なんで?」
「いや・・・・・それは・・・・。」
 いつものムウとは違う、その言い方に、マリューは眉を寄せた。
「顔、見せて。」
 微かに、囁くようなマリューの声に、通信機越しに彼がひゅっと息を吸い込むのが聞こえた。
「それは・・・ちょっと・・・・・。」
「どうして?」
 反射的に切り出し、マリューは自分の方の通信を、相手に画像を見せるように切り替えようとした。
 その手を止めるように、ムウの声が響いてきた。
「待った!」
 寸でのところで、マリューの手が止まる。
「そのままで・・・・聞いてくれないか。」
「?」
 妙に切羽詰ったような言い方に、ますますマリューの眉間の皺が深くなる。
 一体全体なんなのだ?
「あのな、マリュー。」
 そんな彼女を知ってか知らずか、低い声が、囁くように言葉を継いだ。
「疲れて、眠いとか、人と話すのが億劫だとか、そういう・・・・体調というか、その・・・悪くないか?」
 いきなり何を言い出すのだろう。
「別にそういうことは・・・・ああでも、そうね、疲れてはいるかしら。」
「だよな?」
「?」
 妙に声が明るくなり、マリューはますますますます訳が分からなくなる。
「いや、それの確認をしたかっただけ。うん。疲れてる所、悪かったな。」
「??」
「じゃ、ゆっくり休めよ。」
 矢継ぎ早に言われて、マリューは慌てて「ちょっと!」と通信機に身を乗り出した。
「何?」
「・・・・ねえ、貴方、変よ?」
「そうか?」
「そうよ!絶対変!」
 用事があって、通信入れたんでしょ?
 声の尖る恋人に、「まあ、そうなんだけど。」とやっぱり曖昧な台詞を返される。
「用事、って何?」
「・・・・・・・・・・・。」
 誰何するような、強い語調で言われて、ムウは咄嗟に言葉を呑む。

 沈黙が落ち、じれったくなったマリューが、先程断念した映像通信のスイッチを、問答無用で押した。

「ねえ、ムウ!」
 こっちは煮え切らない恋人に、怒ってるのだ。
 それを知らせるように、多少頬を膨らませて、マリューは勢い込んでカメラを睨んだ。

 その瞬間、「うわああっ!?」という非常に情けない声が上がり、続いて何かを派手に蹴飛ばす音が響いてきた。

「ムウ!?」
 自分からは、向こうの光景は見えない。相変わらず明滅を繰り返すサウンドオンリーの表示を睨み、マリューは向こうでなにやら慌てふためくムウに、声を荒げた。
「大丈夫!?どうかしたの!?」
「な、なんで唐突に顔を映すかな!」
 やや離れた場所から話しているのだろうか。微かに遠のいたムウの声に、マリューは「だって。」と唇を尖らせた。
「貴方、態度がおかしいし・・・・・私が怒ってるの、知らしめてやろうと思って。」
「いい、いい!分かったから、映像切って!」
「なんでよ!」
 それに、マリューの目が釣りあがる。
「どういう意味ですか、それは!!私は、貴方の態度が気に入らないから怒ってるのよ!?それを、映像切れってどういうことなのかしら!!!」
「怒ってるのは分かったから!だから・・・・・・・。」
 そこで、唐突にムウの声が途切れ、マリューはむーっと、上目遣いにカメラを睨んだまま、不意に瞬きをした。
「ムウ?」
 スピーカーに耳を寄せる。
「ム〜ウ?」
 音がしない。
 通信途絶かと、モニターの端を見れば、ちゃんと通話中になっている。
「もしも〜し?」
 声を掛ければ、低い声が耳を打った。
「馬鹿。」
 突然、言われて、マリューは目を瞬いた。
「な」
「馬鹿マリュー。」
 心外だ。
「ちょ・・・・い、いきなりなに言い出すかと思ったら!それはないでしょ!?」
 カメラを睨むマリューは、次に、ごん、という鈍い音を聞き、「?」と首を傾げる。
「いや、馬鹿は俺かな。」
 ややあって、響いた声に、いくらかつらそうな色が滲んでいて、マリューは反対方向に首を傾げた。
「あの・・・・・ムウ?」
 どうしたの?

 なんだか、彼の態度がおかしい。やっぱり、単機で陽電子砲を弾き返したのが、まずかったのだろうか。
 怒涛のように戻ってきた記憶に、何かが揺さぶられているのだろうか。

 徐々に不安になるマリューは、軽い音を立てて切り替わった画像にはっとした。

 ムウが、モニター越しにマリューを真っ直ぐに見ていた。
 蒼穹の瞳が、微かに揺れている。

「マリュー。」
 掠れた声が、眼差しと混ざって届き、途端、彼女は急激に心拍数が上昇するのを感じた。かあっと頬が熱くなる。
 苦しげに、ムウの眉間に皺が寄る。
「ごめん・・・・・。」
 切ない眼差しに、身体が震え、マリューは映像ってこんなに破壊力があるのかと、自身を戒めるように、ぎゅっと右腕を掴んだ。
 だが、それはムウも同じだったらしく、再び鈍い、ごん、という音がして、彼がモニターに額を押し付けた。。
 画面いっぱいに映る、恋人の顔。

「俺の用事ってのはさ。」
「・・・・・・・ええ。」

 二人とも、声がかすれている。

「―――――君に逢いたいな、ってことなんだけど。」

「・・・・・・・・・・・。」
 かあ、と耳まで真っ赤になるマリューを、顔を上げたムウの、蒼穹の瞳が射る。
「逢いたいんだ・・・・マリューに。そりゃ、昨日も一昨日も、その前も一緒に仕事したりはしたけど・・・・・ちゃんと、二人っきりってのは無いだろ?」
 どちらも忙しく、このプラントの港に入港するまで二人きりの時間を得ることが出来ないでいた。

 ようやく訪れた、束の間の平穏な時間。

 それに、ムウが彼女に逢いたく思うのは至極普通のことなのだが。

「けどさ・・・・・ずっと戦闘続きで・・・・マリューも・・・・いや、マリューこそ、大変な立場で、疲れ切ってると思ったし。」
 彼女が時折ふらつくのを、ムウはこっそり目撃していた。
 それでも気丈に頑張る彼女に、今日くらいは一人きりで存分に休ませて上げたく思ったのだが。
「けどさ・・・・・。」
 うろーっと視線を泳がせて、ムウが決まり悪げにぽつりと零す。
「忙しさから解放されて、時間が出来ちまうと、どうしても・・・・マリューに逢いたくてさ。だから、せめて、声だけでもと思って・・・・・。」
「それで・・・・・通信?」
「ああ。」
 ちらっと横目でこちらを見るムウに、マリューは頬を赤くしたまま「なら、映像ありでもいいじゃないの。」と拗ねたように言った。
「私は・・・・・ムウの顔、観たかったわよ?」
「観ちまったら・・・・・逢いたくなる。」
 心持ち、視線を逸らし気味に言われた台詞に、彼女はきゅっと眉を吊り上げた。
「なら、会いに来れば良いじゃない。」
「・・・・・・・・・・。」
 上目遣いに見上げるマリューを、ちらと見た後、ムウがやれやれというように溜め息を吐いた。
「そうじゃない。」
「・・・・・・・何がですか。」
「君の言う会いたいと、俺の言う逢いたいは意味が違う。」
 低く告げられた台詞に、暫く目を瞬いていたマリューがひゅっと息を吸い込んだ。
 腕を掴んでいる手に、力と、それから熱が籠る。
「マリューさん、疲れてるでしょ?あんま、無理させたく無いし。」
 決まり悪そうに笑い、「あーもー、俺って情けねー。」なんてムウが天井を仰いだ。
「もっと、大人の男らしく・・・・自分自身、コントロールできると思ってたんだけどな。」
 まあ、そういうわけだから、と男は苦笑すると、ひたとマリューを見た。
 その瞳に映る揺れるような焔に気付いて、マリューの鼓動が跳ね上がる。痛いくらいに、心臓が早くなり、甘く、うずくようなものを身体の奥に感じて、彼女はぎゅっと身をすくませた。
 そんな彼女に、男はいくらか諦めたような、柔らかな笑みを向けた。
「モニター越しにでもあえてよかった。今日はゆっくり休め。」
 後の事は、俺が引き受けるからさ。
 男が画面に手を伸ばす。頬に触れるような仕草に、マリューは、身体を折り畳むように肩を抱くと、ぽそっと漏らした。
「・・・・・・・・それでもいいわ。」
「ん?」
 俯けていた顔を、ゆっくりと上げる。モニターに映る男に、マリューは微かに笑うと、顔を寄せた。
「逢いたい。」
「・・・・・・・・。」
「逢いたいの。」
 普段は言えないような、甘ったれた、そんな台詞。だが、口に出してしまうと、関を切ったように言葉が溢れてきた。
「貴方に・・・・・もう二度と逢えないと思ってたのよ。でも、今は何の障害も無く逢える。それなのに、モニター越しだけなんて・・・・そんな寂しい事、言わないで。」
 囁かれた、彼女の甘い声に、ムウが驚いて目を見張る。
「マリュ」
「傷つけられた。めちゃくちゃに、どん底まで貴方に落とされたわ。」
「・・・・・・・・。」
 強い言葉。それに、強張るムウを前に、だが、マリューはモニターに手を伸ばすと、すっと目を閉じて、あの二年間を振り返った。

 居ない人。聞こえない声。触れることの出来ない体温。

 心は近くにあると信じても、目を閉じた世界でしかあえない人。

「それ以上に、私を傷つけるものなんか、何一つ無いわ。」
 ゆっくりと目を開けた女が、真っ直ぐにモニターを見詰める男に視線をそそぐ。
「逢いに来てよ、ムウ。」
 待たせた罰よ。

 目尻から、微かに溢れた涙に、思わずムウが手を伸ばした。かん、と軽い音を立ててぶつかる指先に、これは画像だと気付く。

 見えて、聞こえて。でも触れることの叶わぬ距離。

「来てくれなきゃ、ここで一生泣いてやる。」
 それを知っているように、ぐす、と鼻を鳴らして、マリューはふわりと微笑むと、一気に通信を切った。

 しん、と音の無い空気がマリューの身体を包み込み、耳元に競りあがった心臓の、騒がしい鼓動だけが響いてくる。

「どうだ。」

 照れたような、気恥ずかしい物が心の奥で渦巻いているが、それよりも、言ってやったという喝采の方が大きかった。

「早く来ないと、洗面器一杯泣いてやるんだから。」
 ゆっくりと、制服のファスナーを降ろして、彼女は椅子から立ち上がった。そのまま上着を脱いで、マリューはベッドの上に座ると、ぱったりと後ろに倒れこんだ。柔らかな敷布と、天井の味気ないパネルが見える。
「でもその前に、寝ちゃうかもよ・・・・?」
 くすくす笑いながら、マリューはゆっくりと目を閉じた。たまっていた涙が溢れて頬を伝う。ぽろっと落ちたそれが、シーツに染みを作ろうかというとき、せっかちな呼び出し音が響き、身体を起こす間もなく、ドアが開いた。
「マリューっ」
「あ。」
 廊下を走ってきたのだろうか。肩が上下している男が、ずかずかと部屋の奥までやってくると、ようやく半身を起こした恋人に、半分押し倒す勢いで抱きついた。
「きゃ」
「マリュー」
 抱きしめる両腕に力が籠り、ぎゅううっと強く強くホールドされる。ふっと、マリューの身体から力が抜けたのを確認して、ムウは腕に女を抱えたまま、横向きに倒れこんだ。
「ちょっと・・・・・一佐っ」
 おかしそうに告げられた台詞に、男は無言で顔を寄せると、手を伸ばしてマリューの頬に触れた。鼻先が触れ合う距離で、ムウが眉間に皺を寄せた。
「ごめん。」
「ムウ・・・・・・。」
「ごめんな。」
「ム」
 そのまま、口付けられ、少し目を見張った後、彼女はそっと目を閉じた。



 それから、どれくらい時間が経っただろうか。



 長い長い口付けの果てに、ようやく、腕の中の恋人を解放したムウが、その栗色の髪に、さらっと指を絡ませ、深く胸元に引き込んだ。
「ムウ・・・・・苦しいわ。」
 口付けの所為で、息が上がっている彼女は、更に深く抱きしめられて、窮屈そうにもがく。だが、お構いなしに、ムウはきつく彼女を抱きしめ続けた。
「ごめん・・・・ちょっと我慢して。」
「んもう。」
 ぽかり、と胸元を叩いて、それから大人しく、ムウの両腕に巻かれていると、不意に彼女を離した男が、褐色の瞳を覗き込んできた。
「愛してる。」
 低く告げられた彼の台詞、それに、じんわりと、痛みにも似たような、熱をはらんだ物が胸に沁みて、マリューはきゅっと唇を噛んだ。
「泣かせたし、困らせたし・・・・想像できないくらい、傷つけたってのは分かってるつもりだ。」
 ゆっくりと、噛み締めるようにムウは続けた。
「でも・・・・・わがままかも、しれないけど・・・・・放したくない。」
 マリューの腕に触れている彼の掌が、熱く、強くなる。
「ホント、俺ってばどうしようもないよな。」

 けど。君を置いて、飛んで行けなかった事は、評価してくれよ。

 肩口に顔を埋めるムウに、マリューは小さく息をつくと、意地悪くくすりと笑った。

「二年も放っておいたくせに?」
「・・・・・・帰って来たろ?」
「一目惚れ発言の責任は?」
「俺が、一目惚れしたってことにしておいて。」
「酷い事、言われたわ。ムウ・ラ・フラガってのは、あんたのなんなんだって。」
「―――――嫉妬くらいさせろよ。」
 低く、身体に響いた声に、マリューは身体をずらし、ムウの頬に手を当てた。顔を上げる男に、彼女はふっと目許を和らげた。
「妬いたの?」
 密やかな質問に、男はつと彼女の目尻に指の背を当てる。
「妬いたよ。」
「・・・・・・・・・ホント?」
「俺なら、絶対にこんな良い女置いて、死んだりしないのに、ってね。」
 思わず吹き出し、マリューは滲んだ涙を散らすように瞬きを繰り返す。その女の、柔らかくて温かい身体を、再び閉じ込めて、彼女の目尻に唇を寄せる。
「他にも色々。君を愛してるのに、届かないのが悔しくて・・・・・自分相手に嫉妬ってのも変な感じだけど・・・・他の事はどうでもよくても、君には俺を見て欲しかった。」

 俺だけを。

 見ていたわ、という台詞を、マリューは黙って飲み込んだ。たとえ、自分がそう思っていたのだとしても、彼に伝わっていなければ意味が無いのだ。
 代わりに、彼女はそっとムウに身を寄せる。より近く、彼の体温を感じて、マリューはそっと目を閉じた。
「今・・・・は?」
 掠れた声で訊かれ、男は少し目を見開くと、嬉しそうに笑った。
「すげー、満足。」
 背中に回された腕に、力が籠る。
「このまま時が止まればいいのにと、思うくらい。」
 首筋に降って来るキスに、マリューは目を閉じたまま、彼の背中に手を伸ばして、ぎゅっと制服を掴んだ。
「私も。」
 イタヅラを始める唇を、柔らかく微笑んで受け止めながら、組み伏せようとするムウに素直に従う。
「このままこうしてたい。」

 真上に、覆いかぶさる体温と、貫くような眼差し。この狭い世界に、彼と自分しかいない。
 見えるものも、触れるものも、全部がムウで、それが嬉しくて、女は彼の背中をきつく掴んで引き寄せた。

「貴方に触れていたいし・・・・・貴方に触れて欲しい。」

 ムウだけの私で居たい・・・・・・。

 今だけでも、と掠れた声で告げる女に、ムウは深く深く、噛み付くように口付けた。
 甘い渦の中で、溺れるように手を上げてすがる彼女を、素肌に抱きしめながら、ムウも触れる体温や、感触のすべてを身体に刻んで、そっと囁いた。

「俺も・・・・・マリューのことだけ、考えてたい・・・・・。」


 相手を欲して、相手と繋がる間だけ、世界中に自分と相手だけしかいなくなる。
 贅沢な一瞬。
 触れる温もりも、身体も、想いも、全部閉じ込めたくて、求めて惹かれて溺れていく。


 自分の人生に、こんな瞬間がまた来るとは思わなかった。

 硬く、一つになろうと抱き合いながら、二人は互いにそう思い、幾度と無く、相手を求めて手を伸ばし続けた。





 身を寄せるマリューを抱きしめながら、ムウは温かい中でそっとで目を閉じる。

「待たせた罰、か。」
 思わず零れた台詞に、うとうとしていたマリューが、緩やかに目を上げた。
「何?」
「・・・・・・待っててくれて、ありがとうって。」
 夢うつつのマリューの胸の中を、二年間が過ぎり、泣いた日々が少しずつ崩れ落ちていく。
 もう、どれだけ辛かったのかも、思い出せない。
「いいの・・・・・・。」
 不意に涙ぐみ、泣きそうな声で、マリューがそっと告げた。
「もういいの・・・・・・貴方が生きててくれただけで十分よ・・・・・。」
 ぽろぽろと涙を零すマリューに、ムウは苦笑すると、塩っ辛いそれに唇を寄せた。
「あーもー・・・・いつになったら、泣きやんでくれるんだ?」
 こつん、と額に額がくっ付き、ふわりと笑ったマリューが、彼の首筋に擦り寄った。
「二年分、愛してくれたときに、よ。」
「ああ、じゃあ。」
 それに、何かを思いついたのか、ふと人の悪い笑みを浮かべ、ムウがぎゅっと腕の中の恋人を抱きしめた。
「・・・・・・じゃあ?」
「・・・・・・いっぱいしないと。」
「ちょ」

 そのまま組み伏せられ、「眠いの〜。」なんて抗議する彼女に、キスの雨を降らせる。

「いいじゃん。俺の贖罪に付き合って。」
「そういう意味で言ったんじゃ・・・・んっ・・・・もう!」

 笑う彼女を、その腕に抱えたまま、ムウは一晩中彼女を離さないのだった。




「・・・・・なあに、これ。」
「うん?」
 翌日、昨日とは打って変わって、あっさりマリューに逢いに来たムウは、彼女の座るデスクの前に、ことん、と何かを置いた。
 プラスチックのケースに入ったそれは、横に可愛らしい羊のイラストが描かれた卓上カレンダーである。
「カレンダーだけど?」
「それは分かるけど・・・・・。」
 ちらっと手元の端末を見て、マリューは苦笑した。モニターの隅には、ちゃんとスケジュール管理に使っているカレンダーが映っているのだ。
 草原に大量に描かれた羊は殺人的に可愛いが、カレンダーは別段必要ない。
 だが、ムウは嬉しそうに、胸ポケットからサインペンを取り出すと、昨日の日付になにやら数字を書き込んだ。
「・・・・・・何の数字?」
 ご丁寧に赤でハートマークまでついている。
「ん?さあ、何の数字でしょう。」
 にこにこ笑うムウに、「???」とマリューは首を捻る。
(何だろう・・・・何かの記念日とか?ああでも、数字は関係ないわよね・・・・それにハートマーク・・・・・。)
 腕を組んで考え込むマリューに、顔を近づけたムウが、顎を掴んで自身の方に向かせる。そのまま、男はちう、と可愛らしい唇に口付けた。
「これはね。」
「はい。」
「昨日した回数。」
「したって・・・・何を・・・・・・?」
「・・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・・。」
 次の瞬間、ぼん、とマリューは赤くなり、ムウは一気に笑み崩れた。
「一日一回と仮定して、これが二年分に達した時に、晴れて罪を滅ぼしたってことになるかな〜って。」
「!!!!!!」
 真っ赤になって口をぱくぱくさせるマリューに、ムウは益々笑みを深めた。
「ああでも、そうなると、今年の分が繰り越されちゃうなぁ〜・・・・それも取り戻すために、頑張んないとね、マリュー。」
 ちう、と頬にキスされて、耳まで赤くなった彼女が立ち上がって拳を振り上げた。
「そ、そそ、そんな贖罪ありますかっ!!!」
 ひらっと彼女の攻撃をかわし、男は全く取り合わない笑顔をマリューに向ける。
「二年分愛して、って言ったのはマリューさんでしょ〜。」
「そ、それはそうですけど!こ、こういう方法じゃなくて・・・・・!!!」
「あ〜、無駄無駄。」
 馬鹿馬鹿〜、と赤くなってムウを捕まえようとする彼女を、逆に捕らえて、抱きしめながら男は笑う。
「俺、決めちゃったもんね。」
 だから、諦めて付き合って?

 ひょいっと抱き上げる男を、マリューは唇を噛んで見下ろした。

「昨日の殊勝な貴方はドコに行ってしまったのかしらっ!?」
 低く告げると、ムウは偉くカッコよく笑って彼女の唇に手を伸ばした。
「君が悪いんだぜ?俺をその気にさせちゃったんだからな。」

 覚悟しろよ?

 ああもう、どうしてこう・・・・・そういう事を、そんな顔で言うのだろう。

 無駄にカッコいい恋人に、頬を染めて俯くと、マリューは小さく深呼吸をした。

「貴方って、ほんと、面倒な人。」
「嫌いになった?」
 気弱な言葉とは裏腹に、態度が自信満々で、悔しくて、マリューは自分から、抱き上げる男にいきなり口付けた。
「いいえ。」
 ふん、と精一杯悪女らしく笑ってみせる。
「大好きよ。」

 この女は〜〜〜、と抱きつく男に、きゃあきゃあ言いながら、マリューは逃れようと暴れる。
 そんな事をしながら、二人はじんわりと、『今』を噛み締めた。

 まだまだやらなければならないことがたくさん有って。
 必ずしも平和とは言えないけれど。

 でも。


 長い長い、暗い一人ぼっちの旅を終えて、ようやくきちんとスタートラインに立てたと、そう思う。



 これから先、カレンダーに増える数字がどこまで行くのか。
 それは、二人だけが知ることなのであった。




(2007/05/06)

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