子供〔2004年7月6日〕

 

先日、とあるニュース番組で、イラクの産婦人科の様子が報道されていた。

フセイン政権が打倒され、戦争が一応の収束を見せてから、イラクではベビーラッシュなのだという。嬉しいと語る女性の産婦人科医の姿が印象的だった。

ただ、未だイラクを取り巻く情勢は緊迫しており、テロリストたちによる攻撃も続いている。また、周辺諸国のテロリストたちも、ここぞとばかり凶悪なテロ活動を行っている。

 

産婦人科のベッドで幸せそうに眠る赤ん坊も、濁った瞳で人質の首を切り落とすテロリストも、同じ人間である。

何をあたりまえのことをと思われるかもしれないが、これは重要なことだと思うのだ。

テロリストも、生まれたときから銃を撃ち、刃を振りかざしていたわけではない。そこに何らかの意志が働いたために殺戮者となったわけである。

 

どんなに大義を唱えようとも、殺戮は「絶対悪」である。故に「正義」の「戦争」というものは存在しないというのが私の考えだ。どんな理由があるにせよ「戦争」という手段をとった以上そこに「正義」は無く、また、いかなる思想であれ「他者の命」を要求するようなものは、他にどのような素晴らしい教義が並べられていようと「悪」でしかない。

 

目を国内に転じてみたい。

 

つい先ごろも、女子小学生による痛ましい殺人が行われた。また、子供、大人を問わずに、凶悪な事件、残忍な事件は後を絶たない。法を守るべき警察や、司法の関係者による事件さえ珍しいものではない。それは、人間である以上仕方のないことなのかもしれない。

だが、仕方の無いという一言で片付けるのはあまりにも悲しすぎないだろうか?

 

そもそも、子供と大人の明確な違いとは何なのだろうか?

生物学的に、肉体が成熟したものが大人で、未成熟なのが子供なのか?

分別ができるのが大人で、できないのが子供なのか?

 

私は、常日頃からこのことで考え込んでしまう。

つまり、自分は「大人」か「子供」か?

 

肉体的、年齢的には「大人」と呼ばれる集団に分類されるのは間違いない。

だが、今ひとつ自分が「大人」であるとは断言できない自分がいるのだ。

 

先の、小学生の事件に視点を戻してみよう。この手の事件でよく言われるのは「親の責任」という言葉だ。

私は、当然「親の責任」は問われるべきであろうと思う。だが、それだけでは不十分ではないかとも思うのだ。問われるべきなのは「親の責任」を含めた「大人の責任」ではないかと思う。

 

「子供」にとって、一番小さい単位の「社会」は家庭である。家庭において、「子供」に影響を与える「大人」とは、言うまでも無く「親」であり、「親の親」、場合によっては「親の親の親」であるだろう。だが、「子供の世界」はそれだけで完結しているわけではない。

乳児の頃ならばともかく、それ以降の幼児にはさらに大きな「社会」と接点を持っていくものだ。それが、近所の遊び友達であったり、近所の「おじさん」、「おばさん」といった、家庭以外の「大人」であったりするだろう。あるいはテレビなどのメディアも「大人」が子供に干渉するものといえる。遊び友達の人格に影響を与えるのは「その親」であったりするわけで、これも間接的に「大人」が子供に影響を与えていると見ることができないだろうか?

 

乳児が凶悪事件を起こしたというのでなければ、その原因を「親の責任」のみに求めるのはおかしいのではないか?「親の責任プラス大人の責任」を考えるべきだろう。

親がいなかったとしても、「偉人」と呼ばれるような人物に成長した人はいる。

これは、その人そのものの資質もあったのかもしれないが、周囲による支えも当然あったと思うのだ。言い換えるなら、逆境を乗り越えられる「意思」を持つように影響を与えた「何か」は「大人」から与えられたのではないかと。

無論、身近な人ではなかったかもしれない。周囲には支えとなってくれる人がいなかったかもしれない。

だが、それが「書物」であったり、「思想」であったりと、何らかの形で「大人」の影響があったのではないかと思うのだ。

 

私の同級生の中には、既に結婚して子を儲けたものもたくさんいる。私は、少なくとも「親」となった彼ら、彼女らをすごいと思う。

もちろん、望んで子を儲けた人たちばかりではないかもしれない。だが、「親」となるということを「決意」してそうなった人がいるならば、私は素直に賞賛したいと思う。そして、どうか幸せな家庭を築き、「素晴らしい子供」を育ててほしいと願う。

 

私は、正直自分が「大人」であるとはどうしても思えない。身体ばかり大きくなってまだまだ「未熟」な人間だと思っている。故に「子供」の「親」となることなど、とてもではないが考えられない。・・・少なくとも今はまだ。・・・最も今は彼女もいないが。

 

時折、若い・・・というより幼稚な夫婦が、虐待の末に子供を殺したという事件を目にする度に思うのだ。何故、そのような未熟な人間であるにもかかわらず、親となろうと思ったのか?

「作りたくて作った子供ではない」という言葉もよく聞くが、少なくとも「どうやったら子供ができるか」を知っていながら「そうやった」のならば、そのような戯言は言い訳にすらならないとは思わないのだろうか?

 

「そうすること」が「愛の証明」であるかのような考えもあるようだが、はなはだ疑問だ。

確かに、「人間」という「動物」は「そういった行為」でも愛を表現する生き物だろう。

だが、「一時の快楽」のために「結果そうなるかもしれない」ことから目をそらすのは卑怯ではないだろうか?そこに果たして「愛」はあるのか?

 

等と考えるのは私が未熟なせいなのだろうか・・・。「子供」だからなのだろうか・・・。

 

「親」になるということ。「大人」になるということ。それは、いろいろなことが可能になるというだけでなく、同時に様々な「責任」をも背負い込むことになる・・・少なくとも私はそう思う。

 

「自分の子供」また、関っていくであろう「他人の子供」に、意図しようとしまいと影響を与えていくのが「大人」であることは自覚する必要があるのではないだろうか?

 

10年先、20年先に、世界を動かしていく中心となっていくのは「子供」達であるはずだ。「未来」を、「平和な世界」にするのも「地獄絵図」にするのも、結局は今の「大人」次第というのは極論だろうか?

 

私も、もしかするとこの先「大人」としての「自信と誇り」を持てるようになって、誰か素晴らしい伴侶に巡り合う事ができ、「子を持つ親」となる日が来るかもしれない。

 

その時に、人殺しを正当化するような「子供」にはしたくない。他者を傷付けながら正義を謳う「子供」にはしたくない。堂々と顔を上げて光の下を歩ける「子供」そして「大人」へと成長できるよう努力したいと思う。それこそが「親」、そして「大人」の「責任」だと思うからだ。

 

私が大好きな「仮面ライダー」達は、「人類の平和のため」、何より「子供たちの未来のため」に命を賭けた。

ならば、我々が虚構に劣ってはいけないと思う。

「子供たちの未来のため」それは、別にヒーローでなくても成しえることだと思う。

21世紀の残りの日々が、「輝かしい未来」「子供・・・未来の大人が誇れる世界」と成るか否かは、「今の大人」たる、我々にかかっていることを自覚すれば「お馬鹿なこと」はそうは容易く出来ない・・・と思うのだが、いかがなものであろうか?


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