その弐 〜マルス登場〜


そよ風が庭園の樹木を撫でる様にキャンパスを吹き抜けていく。

その樹木を見上げて微笑む一人の青年の姿があった。青味がかった短い髪が、樹木同様にそよ風に揺れている。

「あ、あの・・・。」

青年が振向くと、胸に教科書を抱えた少女が立っていた。その後ろでは、数人の少女がその様子をうかがっている。青年は微笑んだ。

「確か、同じゼミのカチュアさんだよね?僕に何か用?」

「・・・名前・・・覚えていてくれたんですね。」

少し顔を赤らめながら嬉しそうな表情を浮かべる少女に爽やかな笑みを返しながら青年は言った。

「僕の特技の一つなんだ。一度会った人の顔と名前はすぐに覚えられるってね。」

「そうなんですか。」

カチュアは、微笑み返した。チラリと背後をみると、友達のジェスチャーが見えた。

「カチュア。ファイト!」

先程よりもやや顔を赤らめながら、カチュアは意を決して口を開いた。

「あの、マルスさんって、紋章荘にお住まいですよね?・・・その、もしよろしければ、今日、途中まで一緒に帰りませんか?私の家、紋章荘の近くなんです。」

マルスと呼ばれた青年は一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに微笑んだ。

「僕でよければ別にいいよ。」

「ホントですか!!」

少女の顔が輝く。後ろの級友達も万歳をしている。

「・・・最近物騒だものね。傷害事件の犯人もまだ捕まっていないし。・・・女の子の一人歩きは危ないから。」

カチュアは思わずつんのめった。後ろの友人たちもずっこけている。

「あ、アハハ、そ、そうなんですよ!」

少々引きつった表情で笑うカチュアに、マルスは優しげな笑みを返した。

 


 

「へえ、カチュアさんの家って探偵事務所なんだ?」

並んで歩きながらマルスは少女に尋ねた。

「ええ、マケドニア探偵事務所っていうんですけど、御存知ですか。」

「知っているとも。あの名探偵ミネルバ女史の事務所だね。」

「ミネルバさんは、身寄りの無い私たち姉妹を住まわせてくれて、実の妹のようにかわいがってくれているんです。・・・私もミネルバさんのお役に立ちたいと思って・・・。」

マルスは納得したかのように頷いた。

「それで、カダイン大の法学部に?」

カチュアは頷いた。マルスは微笑んだ。

「えらいんだね。君は・・・。」

カチュアは、はにかみながらうつむいた。

「あーっ!!」

突如、背後からあがった声に、二人はびっくりして振り返った。短い髪の活発そうな少女が、二人を指差しながら口を大きく開けて硬直している。カチュアはその少女を見て呟くように言った。

「エ、エスト・・・・?」

少女はダッシュで駆け寄りながら叫んだ。

「お姉ちゃんが、男と歩いてる!!」

そして、マルスをしげしげと眺めながら言った。

「しかも美形だ!」

苦笑するマルス。真っ赤になってうつむくカチュア。

何かを考えるようなそぶりを見せていたエストが不意にポンと手を叩いた。

「そうか!どっかで見た美形だと思ったら、いい男データーベース、ナンバー00776番!!」

「な、776番?」

面食らった表情のマルスを無視して、エストはカチュアを肘で小突いた。

「もう、お姉ちゃんったら、結構面食いなんだから。ウリウリ!」

「ちが・・違うったら。」

「いいっていいって。それじゃあ、お邪魔虫は去ります。バイバイ776番のマルスさん!」

エストは、にかっと笑うと、手を振って駆けていった。

マルスは、気を取り直すと尋ねた。

「ええっと・・・。妹さん・・・かな。」

「・・・はい、妹のエストです。」

カチュアは溜息と共にそう答えた。

「776番って?」

「・・・さあ、何でしょうね?」

カチュアは苦笑して誤魔化した。

『妹がいい男データベースを作ってるなんて言えないよぅ・・・。』

 


 

「まったく!今朝の刑事たちったら失礼しちゃうわ!!・・・私は真剣なんですからね!」

シーダは、カバンを大きく振り上げた。

「あ痛ッ!!」

そのカバンが、後ろを歩いていたカシムの顎を直撃した。カシムは顎を押さえながらうずくまった。

「みんなで、私を子ども扱いするんだから!・・・ちょっとカシム聞いてるの!!」

シーダが振り返ると、カシムはまだうずくまっていた。

「ちょっと、何やってんのよ。」

カシムは涙目で見上げた。その顎は赤く変わっていた。

「どうしたのその顎?」

「・・・いいんです。なんでもないですお嬢様。」

カシムは半ば諦めたかのようにそういった。彼は立ち上がると再びシーダの後を歩き始めた。

「まったく、お父様といいお爺様といい・・・。!?・・・あれは!!」

シーダは急に走り始めた。

「お、お嬢様、急に走ると危のうございますよ!」

カシムも慌ててその後を追いかけた。

 


 

「あれは・・・。」

マルスは、前方から走り拠ってくる少女を確認すると軽く手を振った。

「やあ!」

シーダは息を整えるとにっこりと微笑んだ。

「こんにちは、マルスさん!」

マルスは微笑み返すと言った。

「こんにちは、今日も元気だねシーダ。」

そこにカシムが追いついてきた。

「き、キミッ!失礼じゃないかね。ここにおわすお方をどなたと心得え・・・ブッ!」

シーダの鉄拳がカシムの顔面を捉えた。ゆっくりと仰向けに倒れていくカシム。

シーダはホホホと笑った。

「気にしないで下さいね。この人少し変なんです。」

苦笑するマルスの隣で、カチュアは呆気に取られていた。

そのとき、シーダは初めてカチュアの存在に気づいたようだ。一瞬二人の視線が絡み合い、静かな火花が散った。

「あの、マルスさんこちらの方は?」

先に言葉を発したのは、カチュアだった。

「ああ。こちらはシーダ。アカネイア学園の学生さん。ついこの間、図書館で知り合ってね。」

「初めまして。シーダです。」

シーダは軽く頭を下げた。

「あ・・・こちらこそ初めまして、マルスさんと同じゼミのカチュアといいます。」

しばし沈黙がその場に訪れる。

カシムが意識を取り戻したのは、そんな時だった。彼は腕時計を見て大声を上げた。

「ああっ!!」

その声に一同の視線が彼に集中する。

「なに急に叫んでんのよ!びっくりするじゃない!!」

「お、お嬢様、旦那様とのお約束の時間までもう時間がありません!!」

「何ですって!ばか!何でもっと早くに気づかないのよ。」

「そんなこといわれても・・・。」

「グズグズ言ってないで急ぐわよ。・・・マルスさん、私これで失礼します。」

シーダは、マルスに軽く頭を下げると踵を返して駆け出した。

と、歩道の段差に足を取られてバランスを崩したシーダは、車道側に倒れそうになった。

「お嬢様!!」

「危ない!!」

カシムとカチュアの声が重なる。倒れかけたシーダは猛スピードで駆けていた馬車に轢かれそうになったのだ。御者が手綱を引いて制動をかけるが、間に合いそうに無い。

思わず目を閉じる二人。・・・恐る恐る目を開けると、そこには、シーダを抱き寄せるようにして立つ、マルスの姿があった。

彼は、驚くべき瞬発力で、跳躍するとシーダを抱き寄せて車道への転倒を防いだのだ。

「だ、大丈夫かね!」

蒼ざめた顔で御者が叫んだ。

「ええ、大丈夫です。すみませんでした。」

マルスは、そう御者に話すと、シーダをゆっくりと立たせてあげた。

「・・・あ、ありがとう・・・・ございます。」

蒼ざめた表情の少女にやさしい笑みを返すマルス。ふと視線を感じて馬車の方を振向くと、客車の窓から一人の男がマルスを見つめていた。

30代前半ぐらいの目つきの鋭い男だ。マルスが軽く会釈をすると、男は御者に何事かを指示したようだ。やがて馬車は去っていった。

「・・・あれが、噂の狼か・・・・。」

「え?」

シーダは、マルスの言葉に驚いて彼を見た。マルスは何事も無かったかのように微笑んだ。

「何でもないよ。」

二人の下にカシムとカチュアが駆け寄ってきた。

 


 

同時刻、カダイン総合大学のキャンパスでは、一人の青年が首をかしげながら歩いていた。

「・・・おかしいな。マルス様は一体どこに・・・。」

「マ〜リ〜ク!えい!!」

青年は急に背後からハリセンで頭を叩かれた。

「のぉ!!」

頭を押さえて振り返ると、その手に巨大なハリセンを持ったポニーテールの少女が立っている。そのハリセンには見事な毛筆で「おーら」としたためられている。

「リンダ!・・・いい加減僕の頭をはたくのはやめてくれないか?」

「だって、叩きやすいんだもんマリクのうしろ頭。」

「大体、そのハリセンはいつも何処から出すんだ?」

そう言った時にはもうハリセンは影も形も無い。リンダは手ぶらの上、春物の洋服を着ているだけで、何処にも巨大なハリセンを隠せるような場所はなさそうだ。

「女に秘密を聞くなんて野暮!」

「あのなぁ・・・。」

脱力するマリクと対照的に、リンダはカラカラと笑った。

「・・・と、こうしてはいられない。マルス様を探さないと・・・。」

「あたし知ってるよ。」

「何!」

マリクは思わずリンダの肩を掴んだ。

「何処にいるんだ!!」

「痛いったら!」

「・・・あ、ゴメン。」

マリクは慌てて手を離した。少し赤くなりながらリンダは答えた。

「さっき、女の子と一緒に正門から出て行くのを見たよ。確か・・・法科のカチュアって娘だと思うけど。」

「・・・マ、マルス様が・・・じょ、女性と!?」

マリクは強い衝撃を受けたようだ。リンダはあきれたように言った。

「まるで、恋人を取られたようなショックの受け方だね。・・・あんた達ってやっぱり・・・。」

マリクは顔を上げた。

「やっぱり?やっぱりって何だ?」

リンダは真面目な顔で答えた。

「やおいな関係?」

マリクは無言で懐からハリセンを取り出すと問答無用でリンダの頭をはたいた。スパーンと小気味よい音がキャンパスに響く、こちらのハリセンにはゴシック体で「エクス“か”リバー」と刻印されている。

「痛ったーい!女の子を叩くなんて正気!?」

「やかましい!根も葉もないデマを言うからだ!」

マリクはハリセンを素早くしまいこんだ。

「・・・マリクも人の事言えないじゃない。そのハリセン。どこにしまったのよ。」

「そんなことはどうでもいい。・・・それよりも、ああ、マルス様・・・・。」

マリクはしばし考えていたが、やがて溜息をついた。

「・・・まあ、マルス様のことだ。めったなことは無いだろうし、僕も帰ろう。」

「よっし、じゃあ今日はこのリンダさんが一緒に帰ってあげよう。」

「だーかーらー。何でそうなるんだ?」

「いいからいいから。」

リンダは素早くマリクの腕に自分の腕を絡めた。

「さ、レッツゴー!!」

「・・・なんだかな・・・。」

マリクは大きく溜息をつきながら、半ばリンダに引きずられるように歩き出した。


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