第4話 なすべき事


リュッセンが行方をくらませてから、10日余りが過ぎた。

その尻尾がつかめないことに、私を含め、主だった面々は頭を悩ませていた。

 

・・・もっとも、私は全く別件でも頭を悩ませていたのだが。

 


 

「・・・毎晩飽きないものだな。」

私は、護身用の短剣で素早く突きこまれる長剣を受け流しながら、半ば以上呆れたように問い掛けた。

無論問い掛けた相手は黒髪の少女である。

「うるさい!今度こそ貴様を討ち取ってやる!!」

「・・・無理だと思うがなぁ」

 

夜半に、そして、早朝に鳴り響く金属音。

最初のうちこそ、城内の者たちが騒いだものの、それが毎日のように続くと、慣れとは恐ろしいもので、誰も気にしなくなった。

 

ラドネイは、一日も欠かすことなく深夜に、あるいは夜明けごろに、私の命を狙って忍び込んできた。

もっとも、その全てを退けたからこそ私は生きているわけだが、いくら体に傷一つ負っていないとはいえ、いかんせんこう毎晩だと、眠くて仕方ない。・・・おかげで目の下には見事な隈が出来る始末だ。

 

不思議なのは、ラドネイとて寝ていないのは同じはずなのに、その顔に隈一つ出来ていないことだ。

『・・・美しいな』

私は、いささか寝ぼけ気味にそう思った。

その考えに、私自身苦笑しながら、短剣を巧みに操ってラドネイの長剣を跳ね飛ばした。

「くっ!」

甲高い音を立てて部屋の隅に落下した長剣に軽く目をやった私は、その後ゆっくりとラドネイを見つめた。

「・・・さあ、今回も、私の勝ちだ。おとなしく帰りたまえ。」

 

ラドネイは唇を噛み締めると、床に転がる長剣を拾い上げて部屋から出て行った。

私は、彼女がドアの向こうに消えると同時にベッドに横になった。

「やれやれ・・・。」

私はサイドテーブル上に短剣を放り投げると、静かに目を閉じた。

『・・・そういえば、明後日は、シャナン王子とラクチェの結婚式・・・か。』

 

私は、そのことを思い出すと急に息苦しさを覚えた。

『・・・いよいよ、結婚するんだなラクチェ。』

 

努めて別のことを考えようとすればするほど、浮かんでくるのは、ラクチェの笑顔ばかりだ。

すでに大分以前から、彼女が自分の手の届かないところにいることは分かりきったことだったわけだし、以前から割り切ろうと努力をしてきたつもりだった。

だが、・・・やはり、頭で分かっているということと、感情とは相反するものらしい。

 

無理に眠ろうとすればするほど、逆に意識がはっきりとしてくる。

 

「・・・だめか。」

私は、眠ることをあきらめた。ベッドから起き上がると書棚に歩み寄った。そして、その隠しに収納しているミレトス産の白ワインを取り出して飲み始めた。

普段はたしなむ程度しか飲まないのだが、今夜はとことんまで飲みたい気分だった。

「・・・明日、クローヴィスに叱責されるかも知れんな。」

私は、そう考えながらも、どこかでやけっぱちな気分にもなっていた。

「かまうものか。」

私は、ピッチを上げてワインを飲み干すと、2本目の栓をあけた。

 


 

どれぐらいの時間飲んだのだろう。意識は朦朧としている。少しはうとうと出来たのかもしれない。

「う・・・?」

窓から月が見えることから考えると、まだ夜なのは間違いない。

私はふらつきながら立ち上がると、部屋を出た。少し夜風に当たれば、もう少し飲めそうな気がしたのだ。

 

「う・・・?」

どこをどう歩いたのか、はっきりとしないが、私はいつしか城の中庭に座り込んでいた。

片手には、酒の空ビンを握り締めている。それが、ワインではなくイザーク産の蒸留酒であることから考えると、どうやらここにくるまでに城の酒倉に立ち寄っていたようだ。

私は、空ビンを手放すとまた立ち上がった。その拍子に何かを蹴飛ばした。

「?」

見ると、開封していない果実酒のビンのようだ。

「・・・。」

私はしゃがみこんでそのビンを拾うと再び歩き出した。

 

「う・・・?」

次に気が付いたのは庭園の噴水の縁に腰を下ろしていたところだ。

朦朧とする目で周囲を見ると少しはなれたところに空ビンが転がっている。

私は溜息をついた。

 

そして、天を振り仰いだ。

煌々と輝く月が、あたりを優しく照らしている。

 

私は、なんとなく歌を歌い出した。

 

 

この空のどこかで  君も月を見上げているのだろうか

遠くはなれた地で  眠れぬ夜に

 

流れる黒い髪  輝きを秘めたまっすぐな瞳

透き通る美しい声で  優しさをたたえたその声で

愛しき者の名を  そっと呟いていることだろう

 

でもそれは  僕とは違う誰か

君と共に歩む  運命の相手

 

僕は空を見上げて  君が幸せであるように祈るだけ

側には居られないから  せめて祈る

 

 

「・・・?」

ふと、人の気配を感じた気がしたが、すでにまともな判断が出来ない私は、再び歌いだした。

 

 

あの時僕は  君の支えになれたのだろうか

気丈に振舞う君が  隠れて涙をこぼしたあの夜

君が泣き止むまで  ただ黙って側に寄り添っていた。

 

君のために出来ること

君を思うからこそ出来ないこと

 

全てを抱えて今は祈るだけ

君の幸せを ただ祈るだけ

 

 

「・・・ただ祈るだけ。」

私は、溜息をつくと縁から地面へとずり落ちた。

 

目がかすんでいる、頭には靄がかかった様になっていて、思考がまとまらない。

「ん?」

 

ぼやけた視界に誰かの足が入ってきた。ゆっくりと顔をあげると、黒髪の少女の姿が目に入った。

「・・・ラクチェ?」

私は、よろめきながら立ち上がると、優しく微笑んだ。

何故、ここに彼女がいるのか。このとき私はそのことに疑問を抱かなかった。

少女は戸惑ったように私を見ている。何事かを喋っている様だが、私の耳には届かない。

「・・・そうか、これは夢なんだな。そうだろうラクチェ?」

私の言葉に少女は、ますます困惑の表情を浮かべる。私はふらつく足取りでゆっくり彼女に近づいた。少女は私が近づくと後ずさった。だが、私がさびしげに微笑むと、立ち止まった。

 

私は、笑みを浮かべて彼女に語りかけた。

「おめでとう、ラクチェ。・・・いよいよ、シャナン王子と結婚だね。」

少女は何かを喋っているがやはり聞こえない。

「さよなら・・・ラクチェ。」

私は踵を返すと歩み去ろうとした。・・・だが、足が動かない。

急激に、ラクチェへの愛しさがこみ上げてくる。

私は、振り向いた。彼女はまだそこに立ち尽くしている。

その姿を見た瞬間、私は彼女に駆け寄っていた。そしてその体を抱きしめる。

突然のことに少女は硬直している。

私は、しばしの間、彼女を抱きしめていた。そして、思いを振り切るように彼女に囁いた。

「・・・幸せに、・・・幸せになってくれ、ラクチェ。」

私は、精一杯の笑顔を彼女に向けると、今度こそ彼女に背を向けて駆け出した。

しかし、数メートルも駆けないうちに意識が暗転していった・・・。

 


 

「・・・殿下、・・・殿下。」

どこか遠くで声が聞こえる。

「殿下・・・殿下!!」

「ん?」

 

私が目をあけると、見慣れたクローヴィスの顔が私をのぞきこんでいる。

「クローヴィス?・・・ここは?」

クローヴィスは呆れた顔で頭を振った。

「寝ぼけておられるのですか?ここは殿下のお部屋です。」

言われて視線を転じると、確かに私の部屋のようだ。

 

「・・・私の・・・部屋?」

クローヴィスは、いささか怒った様子でタオルを投げてよこした。

「何だ?」

「風呂の用意をさせておきました、すぐにお入りください。」

「風呂だって?」

「そうです、この部屋もしばらく開けっ放しにさせていただきますよ。強烈な酒のにおいが充満していますからね。」

「酒?・・・そうか酒か。」

私は、ようやく昨夜のことをおぼろげながら思い出していた。

もう一度部屋の中を見渡すと、空の酒ビンはきれいに片付けられていた。

「珍しいですね。殿下がこんなになるまで飲まれるというのも。」

私は、まだ少しぼやけ気味の頭を二、三度振ると、ゆっくりとベッドから身を起こした。

「・・・私とて、・・・たまには、飲みたくなることもあるさ。」

クローヴィスは、何も言わずに部屋を出て行った。

 

何かあったのかとは決して聞かない。私が彼を信頼するのはそうした心遣いを、さりげなくしてくれるからなのだ。

 


 

風呂で、十分に体を洗ってから部屋に戻る。空気の入れ替えのおかげか、酒の臭気も収まったようだ。

私が着替え終わったのとほぼ同時に、部屋がノックされた。

「どうぞ。」

私が声をかけると、トールトンとラドネイの二人が部屋に入ってきた。

「おはようございます公子。」

「おはよう。」

相変わらず、感情を読み取りにくいトールトンに笑いかけながらそう挨拶する。私は、その隣にいるラドネイに目をやったときに、おやっと思った。

私とまともに視線を合わさないのはいつものことだが、今日はその顔にやや赤みがさしているような気がしたのだ。

「ラドネイ?どうかしたのか?」

私が問い掛けると、怒ったようにそっぽを向いた。

「・・・なんでもない。」

「風邪でもひいたのではないか?顔色が良くないようだが?」

「なんでもないと言ってるだろう!」

ラドネイは、そう言い放つとさっさと部屋から出て行ってしまった。

私が首をかしげていると、トールトンが話し掛けてきた。

「お急ぎください公子。間もなくスカサハ殿下ご一行が、一時帰国されます。」

その言葉に私はハッとした。

「・・・そうか、シャナン王子の婚礼に出席するために魔法で戻るのだったな。」

「御意。」

私は、あわただしく仕度すると、部屋を後にした。

 


 

「すまないな、一時戻らせてもらうよ。」

スカサハはそう言って微笑んだ。

「ああ、・・・シャナン王子とラクチェによろしく伝えてくれ。」

私の言葉に、スカサハは無言でうなずいた。

そして、スカサハと数名の供の者たちは魔法でイザーク王国へと転移していった。

 

その姿が消えた後もじっとその場に佇んでいた私の傍らに、クローヴィスが現れていた。

「・・・クローヴィスか。」

「此度の婚礼ですが、セリス王を初め、各国の主だった代表者が参加されるようです。」

「そうか・・・。」

「・・・よろしいのですね。」

私は、答える代わりに微笑んで見せた。クローヴィスは無言で一礼すると踵を返した。

「・・・本当は出席した方がいいことは理解してはいるのだが・・・な。」

 


 

私室にて、毎度のごとく書類に目を通していた私は、随分と長い間、仕事に没頭していたことに気づいて少し休憩することにした。

 

執務机を離れて、大きく伸びをする。いささか疲労感を憶えてソファーに腰をおろした。

ちょうどそれを測ったかのようなタイミングで、ドアをノックする音が響いた。

「どうぞ。」

私がそう声をかけると、いつもどおりの剣士姿のラドネイが入室してきた。朝よりは顔色がいいようだ。

「何か?」

ラドネイは、むすっとした表情のまま口を開いた。

「クローヴィス卿からの伝言だ。今夜行う予定だった予算会議は、明後日に延期するのだそうだ。」

「そうか・・・。スケジュールに急な空白が出来てしまったな。」

なんとなく顎に手を当てて考え込んだ私だったが、ラドネイがまだ入り口のところで立っているのに気づき、顔をあげた。

「まだ何かあるのかい?」

ラドネイは、少し逡巡したようだがやがて言葉を発した。

「・・・シャナン殿下の婚礼に、お前は参加しないのだそうだな。」

「ああ・・・。」

私はラドネイが何故そのようなことを言い出したのかその真意を測りかねた。

「・・・そういう君こそ、帰国しないのか?」

「私は、一日も早く貴様を始末しなければならないからな。」

その答えに私は苦笑いを浮かべた。

「・・・いやはや、熱心なことだ。」

「・・・お前は・・・。」

「ん?」

ラドネイは躊躇いながら言葉を継いだ。

「ラクチェ様のことを好きなのか。」

「・・・!?」

私は唐突なその言葉に、混乱し、顔に朱がさすのを抑えることが出来なかった。その私の顔を見て、ラドネイは意地悪い笑みを浮かべた。

「・・・どうやら事実らしいな。」

「・・・どうしてそんなことを。」

ラドネイが、このことを知っているのは別に特別なことではないだろう。あの頃私が・・・正確には私たち兄弟が、ラクチェに熱を上げていたのは解放軍の中では有名だったからだ。

問題は何故、そんなことを尋ねてくるかだ。

ラドネイは私に歩み寄ると真正面に立ち見下ろしてきた。

 

「つまりお前は、シャナン様に負けたわけだ。」

彼女はそう言い放つと嘲笑を浴びせてきた。私は、胸の奥から怒りが湧き上がってくるのを感じた、だが同時に深い悲しみが心を満たしていった。

怒りを押さえながらラドネイを注視すると、どうも、むりに嘲笑を浴びせているように感じた。

そのうちに、嘲笑は止み、室内に沈黙が訪れた。

ラドネイは後味が悪そうな顔をして黙りこくっている。

 

しばらくして、私は問いかけた。

「・・・満足したかい?」

「・・・えっ?」

私は、胸中の悲しみを隠さずに表情に表していた。涙こそ流しはしなかったものの、余りさまにならない顔だったことだろう。

「・・・。」

ラドネイが何かを話そうとするより先に私は口を開いた。

「怒り狂うかと思ったかい?・・・残念だったね、怒りにわれを忘れれば簡単に討ち取ることも可能だったろうに。」

「・・・私は、そんなつもりで・・・。」

ラドネイは私と視線が合うと決まり悪そうに視線をそらした。

私は、ふらりと立ち上がると窓辺に歩み寄った。

「・・・ヨハン。」

私はラドネイの声に振り返った。

「・・・すまなかった。」

私は首を横に振った。

「・・・別にかまわんよ。ラクチェのことを好きだったのは事実だし、大勢の者が知っている。彼女が私ではなくシャナン王子を選んだこともまた事実だしね。」

怒りと違って、悲しみは押し止めようとしても、押さえきれない。

私は、何とか笑おうとしたが・・・どうも無理なようだ。

 

ラドネイは、私を嘲笑したことを明らかに後悔しているようだ。

やがて、この雰囲気に耐え切れなくなったのか、ドアから出て行こうとした。

「ラドネイ。」

私が、呼び止めるとラドネイは立ち止まった。私はその背中に向けて話しかけた。

 

「・・・一つだけ、これだけは言っておきたいんだが、私はシャナン王子に負けたとは思っていない。・・・いや、そもそも勝ち負けなんてものは無いと思う。ラクチェは、自分の心に従って、相手を選んだんだ。それが、たまたま私ではなくシャナン王子だっただけのことだ。・・・ならば、それは受け止めなくちゃいけない。・・・あとは彼女が幸せになってくれれば・・・それでいい。」

ラドネイは私に背中を向けたままで答えた。

「・・・彼女が幸せならいい?それはフラれ男の言い訳じゃないのか。」

「そうかもしれない。・・・でも私は後悔していないよ。やらなければいけなかったことを、やらなかったわけじゃない。私がラクチェのために出来ると思うことは全て、それこそ全力でやりきったよ。」

「なら!」

ラドネイは振り返った。その顔に怒ったような表情を浮かべている。私は思わず息を飲んだ。

「本当にお前が後悔していないなら、姫様の婚礼に胸を張って出席すればいいじゃないか!」

「・・・!!」

「それが出来ないっていうのなら、偉そうに後悔は無いなんて言うな!」

「ラドネイ・・・。」

「姫様だって、お前に出席してもらいたいはずだ。」

「・・・。」

「笑顔で祝福することが、お前が最後にやるべきことなんじゃないのか!」

「私が・・・最後に・・・。」

「馬鹿野郎!!」

ラドネイはそういい残すと部屋から駆け去っていった。

私はうつむいたまま、ただ立ち尽くしていた。

 


 

私は、しばらく考え込んでいたが、やがて一つ肯くと侍従のものにクローヴィスを呼ぶように命じた。

数分後にクローヴィスがやって来た時には、既に仕度を終えている。

「お呼びですか。・・・その出で立ちは?」

「私もシャナン王子の婚礼に出席することにした。明後日の会議までには戻る、それまで留守を頼みたい。」

クローヴィスは肯いた。

「・・・こうなるのではないかと思っておりました。・・・トールトン卿を護衛につけます。どうかお気をつけて。」

「すまない。・・・リュッセンがいつ策謀をめぐらせてくるか分からん、十分に気をつけてくれ。」

「この一命に換えても。」

私は厳しい表情で首を振った。

「それではだめだ。たとえリュッセンを討ち取ったとしても、君が死んでは何にもならない。無理はしてもかまわない。だが無茶はするな。・・・この違いは分かるな?」

「心得ております。」

「頼む・・・。」

私は椅子にかけてあったマントを手にすると、クローヴィスを伴って部屋を後にした。

 


 

イザーク式の厳粛な結婚式とはうって変わって、披露パーティは華やかなものだった。イザーク城の中庭を、丸々会場にしたこの宴に参加した人々は、みな一様に本日誕生した一組の夫婦を祝福していた。

ユグドラルを覆う、邪悪な暗雲は、まだ完全に払拭できた訳ではないが、この宴の間だけは、みなその事を忘れて楽しんでいる。

 

宴の中央では、今宵の主役である、シャナン王子とラクチェが一組の男女と話している。

青い髪の、まだ少年でも通用する容貌の青年と優しい笑みを浮かべ青年に寄り添う少女。

グランベル国王セリスとラナ王妃だ。

目を転じると、トラキア連合暫定政権の中心人物リーフ王子とその婚約者であるナンナ王女が、ノディオンのアレス王並びにリーン王妃と談笑している。

 

シレジアのセティ王はフリージ公国のティニー公女と見事なダンスを踊っている。

 

私自身もついこの間まで共に死線を潜り抜けた戦友たちと再会して、多くのことを語り合うことが出来た。

改めて出席してよかったと感じていた。

 

私は中庭から城内へと入っていった。勝手知ったる他人の家ならぬ、他人の城。かつては、イザーク全土をドズル家が占領していた際にはこの城は拠点のひとつだったため、構造は良く心得ている。私は迷うことなく広間へと足を踏み入れた。

こちらでも、宴が行われていて、ヴェルダンのジャムカ王子やエッダのコープル公、シアルフィのオイフェ公らの姿が見える。

彼らに軽く会釈を返しながら、私は2階のバルコニーに通じる階段を上っていった。

 

 

途中給仕の者から飲み物を受け取って、私はバルコニーに立った。微風が心地よい。中庭の歓声が、その微風に乗って流れてくる。

 

私は、結婚式に先立って、ラクチェと面会し、祝福の言葉を自分の口から伝えた。その時の彼女の笑顔・・・。幸せの涙を浮かべたあの笑顔を、私は忘れることは無いだろう。

 

「・・・これでよかったんだよな。」

私は呟いた。まだ完全に吹っ切れた訳ではないし、そうなるにはこれからも時間がかかるのは間違いないだろう。だが、吹っ切ってゆくための一つの区切りになったのではないだろうか。

 

「失礼いたします。」

私は、唐突に耳に入った男の声に思考の世界から現実へと引き戻された。

声の主は、私の斜め後ろに佇んでいる男のようだ。

きちんと整えられた髪、穏やかな笑みを浮かべているが、深い知性を感じさせる瞳。長身でがっしりとした体格の美丈夫である。

「・・・貴公は?」

男は一礼してから名乗った。

「ヨハン公子には、お初にお目にかかります。私はフリージ公国で公国軍団長代理を務めております、ラインハルトと申します。」

「貴公が・・・あのラインハルト卿か!?」

私は、まじまじと目の前の男を見た。

フリージ公国随一の武人であり、用兵家でもある魔法騎士。

先の解放戦争では、リーフ王子率いるレンスター解放軍と戦い、両軍の間に和平が成った後は、混乱するフリージ公国を見事にまとめあげたと聞く。

現在は負傷して思うようには動けないイシュタル公女の代わりに、公国の軍事、政治の両面で公女を支えている。

 

「・・・ヨハン公子には、一度直接お会いしてお礼を申し上げたいと考えておりました。」

「礼?」

「はい、・・・イシュタル王女を救っていただいたことを・・・。」

「・・・ああ。」

私は肯くと微笑した。

「べつに、改まって礼を言われるほどのことはしていない。」

ラインハルトは首を振ると口を開いた。

「いえ、公子には二度助けていただいています。最初は解放軍の強硬派によって処刑されそうになったとき・・・。」

「あれは、別に特別なことをしたわけじゃない。怨恨から捕虜を殺すことなど外道の行うことだ。だから止めたまで・・・。」

「二度目は、イシュタル王女・・・いえ公女が自らお命を絶とうとなさったときに、止めていただいたとか。」

「・・・あのことか。」

私は溜息をつくとラインハルトを手招きした。フリージの名将は私の隣に並んだ。

「・・・確かに命を助けることにはなったが、イシュタル公女にとっては、ある意味死よりも辛い選択を強いたのかもしれないと思っているんだ。」

私は、星空を見上げた。

「優しかった彼女のことだ、いままで帝国に、・・・ひいてはロプトの邪悪に心ならずも加担したことは耐えられるものではないことは分かっていた。・・・それに彼女が愛したユリウス皇子の死も、それに追い討ちをかけたことだろう。」

ラインハルトは無言で私の言葉を聞いている。

「・・・死をもって償う。・・・それも一つの方法かもしれない。だが、私にはその選択はどうしても逃げにしか思えなかった。本当に償いたいのなら、周りからどう罵られ、中傷されようとも、生きて償っていくべきだと思う。」

私は青年騎士を見た。

「幸いにも、彼女を慕う臣下は多い。君のように。・・・ならば、このいわば試練ともいえる苦しみにも、正面から挑んで乗り越えられると思った。そして、今語ったのと同じように彼女に説いた。・・・私がしたのはそれだけだよ。」

私は微笑んだ。

「最終的に生きることを選び取ったのはイシュタル公女自身だ。・・・だから礼なんていらないんだ。」

ラインハルトはもう一度深々と頭を下げた。

「・・・ありがとうございます。・・・私はこの身をフリージ家に捧げています。されど、ヨハン公子に、いえ、ドズル公国に危機が訪れた際には、このラインハルト、どのような協力も惜しみません。」

「ラインハルト卿。」

私は微笑みながら肯くと右手を差し出した。ラインハルトも肯き手を差し出す。私たちは固い握手を交わした。

 


 

しばらくの間、ラインハルトと様々な話をしていたが、やがてラインハルトも宴の中へと戻っていった。イシュタル王女の名代としてこの地を訪れた彼は、私とだけ話しているわけにもいかないからだ。

この宴に参加しているもののほとんどが、顔見知りではあるが、それぞれが国の重要なポストに位置する今では、単に仲間内での会話というだけではなく、ひいては外交につながるのだ。

私も、宴に戻るべくバルコニーを後にしようとした。

と、そのときになって初めて柱の影に佇む人影に気づいた。

私は、いささか油断していたことに苦笑しながら、その人物に近づいた。

 

「今日は斬りかかってこないのかい?」

その言葉に、その人物は不機嫌そうな表情で柱の影から姿を表した。

男性用の正装にいつもの長剣を佩いたラドネイだった。

「・・・やっぱり来たのだな。」

そう呟いたラドネイに、私は頭を下げた。

「な、何のマネだ!?」

驚くラドネイに私は微笑みかけた。

「ありがとう。君があの時叱咤してくれたおかげで、どうやら後悔をしないですみそうだよ。・・・きちんとラクチェに祝福の言葉を伝えることが出来た。」

ラドネイは、戸惑ったような表情を浮かべた後、いつもの怒ったような表情に戻った。

「べ、べつにお前のために言ったわけじゃない。・・・私は姫様の・・・ええい!調子が狂う!」

ラドネイはビシッと私を指差した。

「シャナン様と姫様の祝いの場を血で染めるわけにはいかないからな。勝負はドズルに戻ってからだ!!」

そういい残すと、ラドネイは足早に立ち去っていった。

 

私は苦笑すると肩をすくめた。再び城の外へと足を踏み出した私は、私の名を呼びながら中庭の方から歩いてくるラクチェたちの姿を目にした。私は、微笑みながら手を振ると彼女たちの方へと歩き始めた。

 

イザークの風はどこまでも優しく、頭上に輝く月は穏やかな光を地上へと投げかけていた。


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