第1話 ドズルの公子


荒れた感のある庭園。

3ヶ月ほど前の戦いの傷跡だ。

かつては、この城で唯一、芸術的と呼ばれた大小5つからなる噴水も、そのあちこちに亀裂が生じ、みすぼらしさを感じさせる。

 

だが、比較的その損傷が軽微なのは、ここを攻めた解放軍、とりわけその盟主たるセリス皇子の厳命によるものが大きい。彼は、蛮行を嫌い、美を愛でる心を持っている。

・・・この私も同じつもりだ。

 

私は、月光を受けて青白く浮かび上がった噴水を見上げて呟いた。

「・・・公国の再建の目処が立ったら、元どおりに修復せねば・・・な。」

 


 

私の名はヨハン。グランベル王国・六公爵家の一つ、ドズル公国の公子だ。

とはいえ、先の決戦において父はその実権を失い、心労により臥せっている。・・・まあ、私に言わせれば自業自得だ。自己の権力を守ることのみに終始し、帝国の言いなりとなって子供狩りをも行おうとした父だ。その報いを受けているのだろう。

 

兄のブリアンも戦死した。・・・というよりも私自身の手でその首を落とした。父同様に自分の派閥の拡大のみを追及し、民を省みなかった。とどめの一撃を打ち下ろすときにも躊躇いは無かった。もともと兄弟としての感慨も無い。・・・所詮は腹違いの兄である。

 

私と唯一血がつながっていると呼べるのは、弟のヨハルヴァだけだが、・・・こちらにはとどめをさせなかった。もとより仲はあまり良くなかったが、それでも憎んでいたわけではない。

・・・まあ、恋敵ではあったが。

風の噂では、西方に落ち延びたそうだが・・・。

 


 

私は、自室のドアを開けた。すると、そこには女官の一人が薄物をまとって跪いていた。

『・・・またか。』

私は心の中で溜息をついた。

そのまま、女官を無視して机に向かうと、正装の上に取り付けていた喪章をはずし上着を脱いだ。

 

テウタテス将軍の葬儀は、つつがなく終わった。彼の遺体は、ドズルの英霊達の眠る王立墓所に埋葬された。

私は、彼の遺体を本国へと運ぶ処理の一切を取り仕切ってくれた、ノディオン王国の将・イーヴ卿に宛てた感謝の意を述べる書状と、その若き主君・アレス王子への謝辞を書き終え、ようやく女官の方を振向いた。

 

女官は、その場に跪いたままじっと待っていた。

私は溜息をつくと席を立ち、女官の傍らにかがみこんだ。まだ若い。おそらくは16、7歳だろう。その肩が細かく震えている。

 

「・・・で、誰の命令だい?」

女官は、ハッとして顔を上げると私の顔を見た。私が答えを待っていると、擦れるような声で話し出した。

「リュッセン伯爵です。・・・伯爵様から公子のお世話をするようにと。」

私は、その男の名に聴き覚えがあった。もともとは、父がイザークに進出する前に、ドズルの地で子飼いにしていた将軍だ。

父が帝国領イザーク王国の国王となってからは、ドズルの地を預かった兄・ブリアンの下で働いていたものの、解放軍優勢となったとたんに、いち早く中立を宣言し、領地に引きこもった男だ。この男を皮切りに、その後も中立を宣言する将が相次ぎ、兄は最終的には自ら前線に立たなければならなかった。・・・気の毒な話ではある。

 

困ったことに、そういった輩は、全員が全員、私を、父や兄と同じような人間だと思い込んでいる節がある。

そのいい例が、こうして毎夜のごとく送られてくる女官たちだろう。

 

「・・・無用だ。」

「えっ?」

「夜伽の相手は不要だと言っている。・・・君も本心では望んでいないだろう?」

「で、でも・・・。」

私は立ち上がるとドアを開いた。

「さあ、もういいから戻りたまえ。」

すると、その女官は私の足にすがり付いてきた。私は正直驚いた。昨夜までの女官は全てこう言って追い払ってきたのだが・・・。

 

「・・・お願いします。どうか、どうか私を・・・。」

私は、ドアを閉めると、再び女官の傍らにかがみこんだ。

「・・・何か、訳があるんだね?」

女官の表情から、私は何か理由があることを読み取った。・・・やがて彼女はポツリポツリとその訳を話し始めた。

 

彼女の父親が、生前、伯爵に恩義があったこと。その父親の死後も伯爵が何かと世話を焼いてくれたこと。・・・最もそれは、公子の愛妾として彼女を送り込むという算段があったわけだが。当初は兄に対して行うはずだったこの策を、今度は私に対して行うことにしたというわけなのだろう。

 

「・・・もし、今宵、殿下のお情けをいただけなければ、私も、・・・そして、母も弟たちも路頭に迷うことになります。・・・どうか、どうか助けると思って私を・・・。」

涙目で訴えるその顔からは、嘘の臭いを嗅ぎ取ることはできなかった。

 

「・・・わかった。」

私はそう言って、彼女の肩に手をおいた。その体が硬直するのがわかる。

私は微笑んだ。

「今晩は、この部屋に泊まっていきなさい。・・・そして、明日、伯爵には私の夜伽の相手をしたと伝えるといい。・・・私はそこのソファーで休むから、君はベッドを使っていい。」

少女は驚いた顔で私を見た。

「・・・殿下?」

「私には、夜伽の相手など必要ない。・・・だから、安心して休みなさい。」

「しかし・・・、殿下をソファーで寝かせることなどできません。」

私は少女に微笑みかけた。

「君、名はなんという?」

「セリアと申します。」

「ではセリア、私も女性をソファーに寝かせて、自分だけベッドで眠るなんてできないよ。・・・私のことは気にしないでいい。こう見えても頑丈だからね。」

さっさと寝巻きに着替えてソファーに向かおうとした私の手を、女官が掴んだ。

「?」

「・・・あの・・・殿下さえお嫌でなければ、・・・一緒にベッドで。」

「・・・しかし。」

「・・・その、・・・さっきの言葉、信じていますから・・・。」

 

真っ赤な顔でそういう少女を見て、私は溜息をつくとベッドに横たわった。ややあって、少女がベッドに入ってくる気配を感じた。

 

しばらくすると、規則正しい寝息が聞こえてきた。おそらくは、かなり気が張っていたのだろう。その疲れから一気に睡魔に身をゆだねたのだろうが・・・。

「やれやれ・・・。参ったな・・・。」

さきほど、ああは言ったものの、私とて健全な成人男子である。

加えて、伯爵が夜伽の相手にと推薦するだけあって、この少女に、幼さの中にも目を見張る美しさがあることも事実だ。

 

私は、自らの中に沸きあがってくる欲望と戦わねばならなかった。

『・・・あの娘に対しては、こんな想いなど抱かなかったものだが・・・。』

そんなことを考えているうちに、いつしか、私も眠りの世界へと誘われていた・・・。

 


 

翌朝、女官の少女を下がらせると、侍従のものを呼び、いくつかのことを伝えた。

朝食は、部屋で取ること。

午前中に仕上げねばならぬ書類は私の部屋へと運ぶこと。

そして、リュッセン伯をはじめ、中立派だった将軍を、執務室に召喚すること。

 

「・・・さてと。」

私は朝食を手早く済ませると、運ばれた書類に目を通し、サインをする作業に没頭し始めた。父・ダナン、兄・ブリアンと、無能が2代に渡って、この国の財政、その他を悪化させてきた。私としては、まずそこからこの国を立て直さねばならなかった。

 

作業が一段落したとき、女官が紅茶を持って部屋に入ってきた。

「・・・君は。」

昨晩の女官であった。

「お茶をお持ちしました。」

私は微笑んだ。

「ありがとう。・・・そうだ、しばらく待っていなさい。面白いものを見せてあげよう。」

「?」

 

私は微笑むと、お茶を飲み始めた。

しばらくすると、侍従のものが将軍たちが集まったことを告げにきた。

「・・・集まったか。・・・セリア!」

「は、はい!」

思わず直立不動になる彼女に笑いかけると、私はついてくるように促した。

 


 

執務室では4名の将軍が待っていた。

・・・どいつもこいつも、腹に一物ありそうな曲者ぞろいである。

 

「急な召喚。どのような御用向きでしょうか?」

一同を代表して、リュッセン伯が口を開いた。その視線が私とセリアを交互に見ては口元にいやらしい笑いを浮かべている。その様子を見て他の将軍はやや不満そうだ。

 

ここにいる俗物どもは、私へ夜伽の女官をあてがう策で競い合っていたのだから無理は無い。完全に私が彼女を抱いたと思い込んでいるのだ。

 

「時間ももったいないので簡潔に言う。・・・諸君らの領地を没収し、公国の直轄領とする。以上だ。」

 

その場にいる将軍全ての顔が、一瞬蒼ざめ、ついで赤黒く染まった。・・・それはもう、図ったように同時にその変化が起こったので、私は可笑しさをこらえるのに苦労したものだ。

 

「な、何故にそのような無体なことを。」

詰め寄ってくるリュッセンを軽く手を上げて制すると。私は別室に待機していた人物を呼んだ。

「失礼します。」

入室してきた男の姿を見て、4人の顔が引きつる。

その男は、4人に比べると遥かに若い。・・・当然だ、私と同年代なのだから。黒い長髪を後ろでまとめ額をあらわにした変わった髪型をしている。

 

「クローヴィス・・・。」

苦々しげな表情の4人と対照的に、若者は微笑んでいる。

「例の報告を頼む。」

「御意!」

 

クローヴィスが読み上げていく報告書を聞くうちに、彼らの顔から徐々に生気が失われていった。

それぞれの領地における、悪法、悪政の数々、帝国時代の子供狩りや、無体な徴発の数々が明るみに出るにともない、あるものはその場にへたり込み、あるものはうなだれた。

ただ一人、怒りの表情も露に、私を睨みつけた男がいる。リュッセンだ。

「・・こ・・この若造どもが・・・。」

クローヴィスはすかさず叱責した。

「控えろリュッセン卿!公子に対して何たる口の聞き方だ!!」

「構わない、クローヴィス。彼にも言いたい事があるだろう。」

私がそういうと、リュッセンは額に青筋を浮かび上がらせながら、叫んだ。

「これまで、ドズルに対して忠義を尽くしてきた私を、このように簡単に見捨てるのか?一体誰のおかげでドズル公の地位に就けたと思っているのだ!!」

「ほう?貴公のおかげだとでも言いたいのか?・・・付け上がるな!慮外者が!!」

私の怒声に、その場の者が硬直する。例外はクローヴィスだけだった。

「な・・・な・・・・。」

口をだらしなくパクパクさせるリュッセンに、私は指を突きつけた。

「リュッセン卿、貴公に関しては、もう一つ、領地没収の確たる理由がある。」

「何?」

「・・・全て調べはついているぞ。貴公が裏でロプト教団とつながっていることもな。」

リュッセンは、流石に色を失った。

「衛兵を呼んでくれ。」

「は、はい。」

セリアが部屋から駆け出していった。

「他のものは、後日正式な沙汰を下す。それまでは、自国領に戻り、身辺の整理をしておくがいい。」

衛兵が駆けつけてきた。彼らはリュッセンに縄を打つと、引っ立てていった。他の将軍たちも肩を落として退室していった。

 

執務室の中には私とクローヴィス、そして、女官のセリアが残った。

私は、立ち上がってクローヴィスに歩み寄ると、その手をとった。

「この短期間で、よく調べてくれた。感謝する。」

「いえ、相当ずさんな体制だったようで、粗を探すのにそんなに苦労したわけではありませんので。」

クローヴィスはそういって爽やかな笑みを浮かべた。

 

クローヴィスは、ドズル辺境にある、さる伯爵家の当主である。

幼くして両親と死別した彼は、祖父の手で育てられた。その祖父も5年前に他界し、当時若干18歳で当主の座についたのだ。

 

辺境の一伯爵家とはいえ、彼の一族が所有する兵力は馬鹿にはできない規模のものであり、ドズル公国の有力な貴族の一人であるのは事実である。

しかし、彼の祖父も。また彼自身も帝国制を取ったグランベルに組するのをよしとせずに、早々に自領の城に兵を集結させて、堂々とドズル主家に対して反感の意を表明したのだ。

 

この為、父ダナンも、兄ブリアンも、幾度と無く討伐の兵を差し向けたものの、その都度彼の用兵術の前にことごとく惨敗した。彼自身、優秀なグレートナイトだが、その力は己の武勇のみならず、策略の面でもなかなかのものなのだ。

 

グランベルのことわざの中に、「智将を欲せばヴェルトマーに行け」と言う言葉がある。事実、歴史的に有名な知略の士はヴェルトマー出身の場合が多い。

今時大戦においても、グランベルの十指にはいる智将のうち、サイアス卿、ベレノス卿をはじめとした7人もの将がヴェルトマーの出身である。残る3人のうち、2人はフリージのラインハルト卿とタラニス卿。そして、最後の一人がこのドズルのクローヴィスなのだ。

 

彼は、私が解放軍の一員となったことを知るや、すぐさま精鋭の兵とともに駆けつけてくれた。その時から、彼とは主従というよりも、親友のように接している。

 


 

「何はともあれ、これでひと安心だよ。内に火種を抱えたままでは、安心して遠征に出られないからな。」

「・・・やはり、アグストリアの地に向かわれるのですか?」

「反対かい?」

「そうですね・・・。」

クローヴィスは考え込んだ。私は彼の答えをゆっくりと待つことにした。と、セリアのことを思い出した私は、彼女を見た。

『おや?』

彼女は、クローヴィスを見つめたままボーっとしている。その顔が微かに赤く染まっているように見える。

『・・・これはもしや。』

 

私は、唐突にセリアに声をかけた。

「セリア。」

「は、はい。」

慌てて私のほうを見るセリアに笑みを返すと、私は言葉を継いだ。

「先程見てもらったとおり、リュッセン伯爵はその実権を失った。もう君たちの家族にちょっかいをかけてくることは無いはずだ。」

「あ、ありがとうございます。」

深々と頭を下げる少女に微笑みかけると、その前まで歩いて軽く肩を叩いた。

「でだ、君の新たな仕え先なんだが。・・・このクローヴィスの所などどうだろう?」

「えっ!?」

少女は驚きの声を上げた。クローヴィスまでが呆気に取られた顔でこちらを見ている。

「どうだ、クローヴィス。この娘の一家を引き取ってはくれないか?」

「・・・公子たっての願いとあれば、依存はありませんが・・・。」

「よし決まりだ。・・・いいねセリア?」

「は、はい!」

私は満足して頷くと、机に戻って一枚の書状を書き上げた。

「クローヴィス伯爵家への紹介状だ。これを持っていきなさい。・・・今日はもう帰ってもいいよ。御家族にもちゃんと話をして、引越しの準備をしなさい。」

「はい、ありがとうございます。」

少女は、何度も何度も頭を下げながら、退室していった。

 

「どういうおつもりですか?殿下。」

「なに、君もそろそろ嫁をとってはどうかと思ってな。」

「・・・で、その本心は?」

私は苦笑した。そして昨日の経緯を話した。

「そんなことが・・・。」

「リュッセンの一派が、腹いせに彼女の一族に対して嫌がらせを画策するやも知れないからな。君のところで庇護してくれれば、その心配も要らないだろう。」

「・・・解りました、お引き受けいたします。それよりも先程の・・・。」

「アグストリア遠征の件だろう?」

「はい、もう少しドズルの地盤が磐石になってからでも遅くないのでは・・・。」

「・・・いや、遅いな。」

私は表情を引き締めると机に肘をついた。

「君の言うとおり、ドズルの情勢は良くない。グランベル国内でも一二を争うほど荒廃してしまったからね。」

「でしたら・・・。」

「まあ、聞いてくれ。今回、アレス王子への援軍として、六公国からはそれぞれ有能な人材を派遣することになった。いち早く援軍を派遣したのは、ユングヴィ公国のファバル公子だ。彼は従兄弟のレスター卿を将軍とした部隊を既に派遣している。」

「存じております。」

「エッダ公国のコープル公子は教団のプリーストを教護部隊として派遣することを決定したそうだし、ヴェルトマー公国のアーサー公子は、サイアス卿を派遣部隊の長とした部隊を送り込む手はずだとか。フリージ公国はまだしばらく援軍は見送るらしいが、シアルフィ公国のオイフェ公は自らが赴くと宣言している。」

「シアルフィは、わが国に比べ、まだしも安定しておりましたから・・・。何しろアルヴィス皇帝の直轄領でしたし。」

「・・・それは、解っている。わが国が正直なところ派兵など難しい状況であることもね。それでも私はいかねばならない。」

クローヴィスは私をまっすぐに見つめて口を開いた。

「ヨハルヴァ公子のことですか?」

私は苦笑した。

「そういえば、あいつは今あの辺りをうろついているのだったな。だが、あいつは関係ないな。・・・強いて言うなら、アグストリア地方に対するドズルの罪滅ぼしの為だな。」

「罪滅ぼし・・・ですか?・・・・あ!!」

「気づいたようだな。そう、祖父のランゴバルト公がシグルド公子を追い出してアグストリアを制圧した際に、あの国の人々には相当ひどいことをしたらしいからね。・・・まったく、恥ずべきことに、同じ事を父もイザークで行ったがね。」

クローヴィスは、納得してくれたようだ。

「公子のお考えは解りました。・・・しかし、公子の御不在の間、公国の政はどうなさいます?」

「君がいるじゃないか、クローヴィス。」

「私が!?」

驚くクローヴィスに私は微笑みかけた。

「君がいてくれると思うからこそ、私は安心して遠征に出かけられるんだ。」

クローヴィスは困ったような表情だったが、しばらくするとハッとした表情となった。

「もしや、先程行った領地没収の措置は・・・。」

私はニヤリと笑った。

「そのとおり。何も、公国建て直しという財政面だけのことではないのさ。反乱の芽は早めに噴き出させる方がいい。ここで、早めに刈り取っておけば、安心してアグストリアに向かうことができるだろう?」

「了解いたしました。・・・なれば、私は先程の将軍たちが動いてもすぐに対処できるように準備を整えておきます。」

「頼むよ。」

クローヴィスは敬礼すると執務室を去っていった。

「さて、お膳立ては整えた。・・・あいつら、いつ行動を起こすのか。」

そう考えたときに、ドアをノックする音が響いた。入室を許可すると、侍従が入ってきた。彼が携えていたのはイザーク王国からの親書だった。侍従を下がらせて封を開けた。

その筆跡には見覚えがあった。

「スカサハか、・・・久しぶりだな。」

私は、ゆっくりとその親書に目を通した。そこには、アグストリアへの援軍としてスカサハ自身が部隊を率いて出陣することが書かれていた。その際にこのドズルに立ち寄ることも。・・・さらに。

「・・・!?」

私はその箇所に目をやってしばし硬直した。そして、再び読み進めるとその書を閉じた。

 

「・・・そうか、結婚するのかラクチェ。」

私は、胸の奥が痛み出すのを感じていた。

ラクチェは、私が今まで心のそこから愛した、ただ一人の女性だった。

もっとも、彼女はずっと一緒に育ってきたシャナン王子のことを一途に思い続けていた。私は、彼女に愛を告げたときに、彼女の口からはっきりとそのことを告げられた。その時から、私は彼女の愛を応援する側にまわった。

 

無論、すぐに割り切れるはずもなく、心の中では様々な葛藤があったが、ただ、私が愛した女性に幸せになってもらいたかったのだ。

 

彼女は、あの戦争の最中、シャナン王子と結ばれた。心も、そして・・・。

 

「ふう・・・。」

私は溜息を漏らした。解ってはいたのだ。私とて子供ではないのだから、恋人同士になるということが何を意味するのかも。

ただ、理屈でどんなに理解していても、感情はそんなに簡単に納得できるものではない。

シャナン王子に対して嫉妬することなどしょっちゅうだった。しかし、それを表に出すことはしなかった。

・・・それは、さらに自分を惨めにするだけだと、解っていたから・・・。

 

あれから、数ヶ月。ようやく心に平静が戻りつつあったのだが・・・。

「そうか、結婚か・・・。」

私はもう一度そう繰り返した。再び古傷が痛み出すかのような感覚と苦しさを覚えた。

 

本心から、彼女を祝福できる日がやってくるのはいつになるのだろう・・・。

ただ一ついえるのは、まだしばらくの間は、ラクチェ以外の女性のことを考えられるようにはなれないだろうということだ。

 

私は、重い気分を払拭するように、仕事に没頭することにした。

 


 

翌日、あまり気持ちよくとはいえないが、目を覚ました。

睡眠は偉大だ。少し気分が切り替わる。・・・いや、時間が偉大だというべきなのだろうか。

 

私は、着替えるとすぐに執務室へと向かった。そこで、食事を摂る。考えてみるとドズル公国に帰国してからのこの数ヶ月というもの、まともに食堂で食事をしたことがない。

 

手早く食事を終え、山と積まれた書類に手を伸ばそうとしたとき、慌しい足音とともに侍従が駆け込んできた。

「公子!一大事でございます!」

「どうした!」

「リュッセン伯爵をはじめとする将軍たちが、王都の公邸に立てこもり武装蜂起いたしました。」

「リュッセン?あいつは投獄したはずでは?」

「それが、何者かの手引きにより脱獄した模様です。・・・牢獄の破壊状況から推測するに、おそらくはダークマージの仕業かと・・・。」

私は自らの甘さに舌打ちした。

「ぬかったな。・・・ロプト教団がこんなに迅速に動くとは。」

そこにクローヴィスが駆けつけてきた。

「公子、いささか予定とは異なりましたが、反乱分子をいぶり出せたようですね。」

私は苦笑した。

「まあね、君は、至急集められるだけの兵を集結してくれ。午後にも奴らの立て篭もった館に攻め込む。」

「心得ました!」

クローヴィスはそう言うと身を翻し駆けていった。

 


 

リュッセン伯爵の公邸には、他の3名の将軍も手勢を率いて集結していた。

特に誰が音頭を取ったわけでもない。単にこの公邸が、最も堅固なつくりをしていたからだ。・・・そう、まるで砦のごとく。

 

今にして思えば、このような事態を想定して、作られたのかもしれない。

「・・・さて、戦力では圧倒的にこちらが勝るが。」

私は、傍らのクローヴィスに語りかけた。

「されど、下手に篭城などされては、彼らの領地から援軍が到着するやもしれません。・・・ここは、迅速に制圧すべきかと。」

私は頷いた。

「そうだな。ただ問題は、どのようにしてそれを成し遂げるかだが・・・。」

私は軽く額を掻いた。

 

「お困りのようですね、公子。我々でよろしければ力をお貸しいたしましょうか?」

私は驚いてその声の主を探した。

その男は、背後に共の者を従えて、微笑んでいた。

 

「スカサハ?・・・一体いつこのドズルへ?」

その剣士は笑みを絶やさずに私に歩み寄ってきた。私は差し出された彼の手をしっかりと握り返した。

「つい先程。城に参上したところ、こちらだと聞いて駆けつけてきたのです。」

私は苦笑した。

「到着早々、お恥ずかしいところをお見せした。・・・くだらないことになっているだろう。」

彼は首を振った。

「いまさら、我々の間で遠慮は無用ですよ。アグストリア遠征の前哨戦としゃれ込もうではありませんか。」

 

私たちは頷きあった。

 

スカサハは、セリス皇子より賜った、勇者の剣を携えている。彼のすぐ隣には、先の戦いでも活躍した、剣士マリータが佇んでいる。

そのほかのメンバーは新顔のようだ。だが、一見して剣士の姿が多いのは、イザーク王国の国柄を表しているようだ。

 

と、その中の一人から、奇妙な視線を感じた。

私は、その視線の主を探す為にゆっくりと彼らの顔を眺めていった。

 

『・・・あの剣士か?』

私に向かって、叩きつけられるような視線をたどると、一人の剣士にたどり着いた。

『女性剣士だな・・・だが、この視線は・・・。』

私に気づいたのか、剣士は顔をそらした。

『・・・殺気・・・だな。』

私にはその剣士に見覚えはないし、どう考えても恨みを買うようなことをした覚えもなかった。

私は苦笑すると、視線を公邸へと転じた。

『そて、どうなるかな。』

私は、体の奥底から何かこう、血がが沸き立ってくるのを感じていた。

危険の中に楽しさを見出す。・・・結局のところ私もドズルの家系ということなのかもしれない。


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