第16章 皇帝の死 〜ノディオン城の攻防 (中編)〜
ベレノスは、小刻みに震える自分の体を、どうすることもできなかった。
まもなく日付が変わろうかという刻限である。冷え込みが強くなっているのも確かだが、この震えは、それとは別種の原因によるものだということは、あきらかだった。
「・・・私は今、解放軍に身をおいています。」
サイアスが告げた言葉は、ベレノスの体内を凍てついた奔流となって駆け巡った。
「・・・何故・・・です。」
ベレノスの口からその疑問が飛び出すまでに、かなりの時間を要した。サイアスは落ち着いた態度を崩さずに答えた。
「今の帝国は、このユグドラルの民にとって益するところは何もありません。・・・いや、それどころか害悪であるといっていいでしょう。」
その言葉は、矢となってベレノスに突き刺さった。
「・・・そんな。」
「ベレノス卿、あなたほどの騎士ならば、薄々感づいていましょう?帝国には義がないことを。」
サイアスの声は、次第に熱を帯びてきた。
「強大な軍事力で他国を攻め、民衆に重税を課し、悪しきロプトの跳梁を助長し、あまつさえ生贄の為に子供狩りを行う!・・・このような汚れた国のどこに義があるというのです。」
ベレノスは、何とか反論しようと試みた。
「・・・他国を攻めるのは、このユグドラルに真の平和を実現させるためです。・・・確かにロプト教団を容認する姿勢には賛同しかねますが、アルヴィス皇帝陛下には、何かお考えのあってのこと・・・。」
サイアスは悲しげに首を振った。
「あの方に帝国の実権があったのは10年以上前のことです。今の帝国は、ユリウスが意のままに操っている。・・・陛下は傀儡でしかなかったのです。」
ベレノスは激した。立ち上がりざまサイアスに詰め寄る。
「それは、あまりにも言葉が過ぎるのではありませんか!まるで、陛下が無能であるかのようなその発言・・・。」
「無能なのです。」
「な・・・!?」
サイアスは驚愕するベレノスに悲しげな視線を向けた。
「無能・・・いや、正確には無力というべきでしょうね。帝国の真の支配者であるユリウスは化け物です。」
「ご自分の・・・ご自分の弟君を化け物だというのですか?何故なのです!!」
「ユリウスは暗黒神ロプトゥスそのものだからです。」
「・は・・?」
サイアスはもう一度言った。
「皇太子ユリウスは、転生したロプトゥスの化身そのものなのです。」
ベレノスは言葉もなく立ち尽くした。
サイアスはゆっくりと事の経緯を説明し始めた。
「すべては前大戦に起因します。・・・あの前大戦自体が、アルヴィス皇帝が目論んだことなのです。」
彼の口から語られるのは、決して歴史の表には出ることのないであろう澱みきった醜悪な物語だった。ベレノスは呆然としたまま、その話を聞いていた。
偉大にして強大な皇帝アルヴィスが弄した策略のすべてが、サイアスの手で明らかにされていった。それは、この大陸を覆う暗黒を呼び込んだのはアルヴィス自身であることを暴露するものだった。
身を切るような寒さの中、トリスタンは解放軍の陣地の周囲で索敵任務についていた。その頭上には、煌々と満月が輝いている。
『何事もなく任務を終えられそうだ』
そう思って帰路に着こうとしたそのとき、前方がにわかに騒がしくなった。
「何だ?!」
風に乗って剣戟の響きと悲鳴が聞こえてくる。
トリスタンは馬を飛ばした。徐々に大きくなる音。そして前方で戦っている人の姿を視界に捉えた。
『あれか!!』
どうやら小規模の集団が、帝国兵の軍装をした者たちによって攻撃を受けているようだ。
トリスタンは素早く腰間の長剣を引き抜くと、その只中に乱入した。
巧みに馬を駆り、左右の帝国兵を切り倒す様は、彼の師であり、上官でもあった、ノイッシュを髣髴させる。3ヶ月にも及ぶ攻城戦によって、彼の技量は確実に上がっていた。
ようやく帝国兵が逃走を開始したとき、トリスタンの周囲には帝国兵の骸が散乱していた。
「退いたか・・・。」
トリスタンは剣を一振りしてこびり付いた血を払うと、その刀身を鞘に収めながら周囲を見渡した。
そこには、帝国兵同様に、集団の人々も地に倒れ伏し、生存者はいないかのように見えた。
「あと少し気づくのが早ければ全滅させずにすんだのかも・・・ん?」
トリスタンは、視界の隅で人影が動くのを感じた。彼が慌てて馬から降り駆け寄ると、剣士の出で立ちをした若い女性がうめきながら身をよじっている。
「大丈夫か?しっかりしろ!!」
トリスタンが呼びかけると女性は微かに目を開いた。しかし再び目を閉じるとそのまま気を失ったようだ。
「・・・これは・・・いや、まだ助かるかもしれない。」
トリスタンはその剣士を抱き上げると愛馬に飛び乗って疾駆し始めた。
ノディオン城内では、サイアスの話が続いていた。その話はアルヴィスとディアドラの結婚からユリウスの誕生の件に差し掛かっていた。
「アルヴィス陛下とディアドラ皇后は・・・実の兄妹!?」
ベレノスは自らの顔から血の気が引く音を聞いた様な気がした。
サイアスはうなずいて続ける。
「・・・すべては、ロプト帝国復活を目論んだマンフロイの陰謀です。ロプトの血筋は、ただ一つの一族を残して絶えています。」
「・・・十二聖戦士とともに、帝国に立ち向かった、ロプトの皇族・マイラの一族ですね。」
サイアスはうなずいた。
「そのとおりです。ロプト帝国崩壊後、彼の一族はヴェルダンの地で、外界との接触を絶って密やかに暮らすことになりました。以来、その集落では、外界のものと結ばれてはならないという厳しい掟が作られ、それはずっと守られてきました。・・・しかし、この数十年のうちでその掟は、二度破られた。」
「・・・ヴィクトルおじい様ですね。」
ベレノスはヴェルトマー城に飾られていた、古い絵画を思い浮かべた。そこには、若き日のヴェルトマー公ヴィクトルと、その傍らに立つ美しい婦人が描かれていた。
「そのとおり。マイラの隠れ里から近くの町に出て来ていたシギュンという名の少女は、偶然ヴィクトル公と出会い、そして恋に落ちた。やがて二人は結婚し、アルヴィス陛下が誕生した。」
「おじい様の所業は聞き及んでおります。正妻であるシギュン様の他にも、数多くの妾がいたそうですね。」
ベレノスの父も、そうした多くの妾の内一人が産んだ公子なのだ。サイアスは軽く相槌を打ちながら続けた。
「ヴィクトル公は、小心で、尚且つ猜疑心の強いお方だったそうです。自分に自信がもてないその反動のように、女色にふけり、シギュン様に辛くあたるようになった。・・・そのシギュン様に同情し、何かと便宜を図っていたのが、バーハラ王家のクルト王子でした。・・・やがて二人は深く愛し合うようになり、・・・それに気づいたヴィクトル公は・・・。」
「自殺・・・なさったのですよね。」
「・・・恨みつらみの遺書を残して・・・ね。・・・クルト王子は謹慎処分にされ、シギュン公妃は子供であるアルヴィス陛下を残したまま、隠れ里へと戻っていった。・・・彼女はそこで一人の女児を出産する。」
「それが・・・それがディアドラ王女なのですか?」
「やがて、時が過ぎ、少女は里の外で一人の青年と出会う。そして、その青年と結ばれる。・・かつて彼女の母がそうであったように。」
「・・・シアルフィ公国のシグルド公子。・・・その先の経緯は私も知っています。マンフロイがシグルド公子の下からディアドラ王女をさらい、魔法で記憶を消し去ってアルヴィス陛下の后とした。」
「・・・そのとおりです。」
しばらく、沈黙の時が流れた。
ベレノスは震える声で問い掛けた。
「陛下は・・・陛下は知っておいでだったのですか。・・・その、・・・ディアドラ様が妹であることを。」
サイアスは溜息をつきながら言った。
「・・・陛下がその事実を知ったのは、ユリウス王子誕生後だそうです。・・・不可解なのは、その後もディアドラ皇后を妻として愛し続け、ユリア皇女も生まれていることです。今となっては、陛下のお心を知るべくもありませんが、もしかすると妹であるディアドラ様に、母の面影を重ねていたのかもしれません。」
ベレノスは、話を聞き終わると、嫌悪からくる嘔吐を堪えるのに必死だった。
サイアスは、静かにベレノスが落ち着くのを待っているようだ。
しばらくして、ようやく平静を取り戻したベレノスはサイアスに尋ねた。
「マンフロイの・・・ロプト教団の狙いは、シギュン様の子供同士を結ばせて、ロプトの血を濃く受け継ぐ者を誕生させようとしたという訳ですね?」
「・・・おそらくは。そしてその試みは成功した。・・・今のユリウスに自我はありません。彼は、グランベルの皇子ユリウスではなく、ロプトの皇帝ガレとなってしまっています。」
「・・・だから、サイアス殿下は解放軍へ?」
「そうです。」
「殿下は、彼らにこそ正義があるとお考えなのですか?」
サイアスは首を振った。
「・・・私は、力を振りかざすものに正義はないと思います。その点から考えれば、理由はどうにせよ戦争という手段をとっている解放軍にも正義はありません。ですが、少なくとも彼らは悪の敵対者であるのは事実です。」
「・・・悪の・・・敵対者・・・。」
「リーフ王子、セティ王子、アレス王子、・・・そしてセリス皇子。実際にこの目で見、共に戦って、彼らが皆、素晴らしい若者であることを私は確信しています。・・・時代は動き出そうとしています。若き英雄たちの活躍によって。」
再び、部屋に静寂が訪れた。やがて、苦渋の表情でベレノスが口を開いた。
「・・・私に何をお望みなのです。」
「城外のアグストリア解放軍との和睦を。そして、各地の解放軍と共にロプトの脅威と戦いましょう。」
サイアスは微笑みつつ簡潔に行った。その言葉にベレノスは溜息をつきながら答えた。
「ひとつだけ聞きたいことがあります。」
「何でしょう?」
「仮に、ユリウス皇子が倒されたとして、グランベル帝国は誰が治めることになるのです?・・・サイアス様が、陛下の後を継がれることになるのですか。」
赤き髪の司祭は静かに首を振った。
「・・・私には、バーハラ王家の血は流れていません。帝位を継ぐ資格もなければ、その様なことに興味もありません。同様にヴェルトマー公国の公王位もです。それに、民衆はバーハラ王家の血筋による統治を望んでいるでしょう。解放軍としても異論はありません。・・・おそらくは、ディアドラ様の血を引くセリス皇子がグランベルの指導者となるでしょうね。」
その言葉を聞いていたベレノスは、うなずくとサイアスを見据えた。
「・・・わかりました。残念ながらご期待には添えません、お引き取りください。」
「ベレノス卿・・・。」
「帝位、また公王位を放棄することで、あなたはアルヴィス様の後継者となる意思が無い事はよくわかりました。・・・ならば、反乱軍に身を置くあなたは私にとって敵でしかありません。」
サイアスの顔には失望の色が浮かんだ。
「・・・どうあっても邪悪な陣営に組するというのですか?」
「・・・邪悪ならば、内部から正して見せます。私には、反乱軍はいたずらに混乱を助長しているようにしか思えません。」
「本気でそう思っているのですか?」
「・・・手段はどうあれ、一つにまとまりかけた体制を破壊しようとすることは、より多くの混乱をもたらし、結果として多くの人命が失われる。・・・サイアス卿、私はそう思うのです。」
サイアスはまっすぐにベレノスを見た。ベレノスもその視線を真っ向から見返す。
「秩序を破壊しようとするのは悪しき行いではありませんか?」
「誰のための秩序です?」
サイアスの言葉にベレノスは硬直した。
「誰の・・・。」
「ロプト教団ですか?・・・そもそも今の帝国に果たして秩序というものを構築できるのですか。」
「出来ます!」
「ベレノス卿、それはあなたの本心ですか?・・・先ほどあなたは、一つにまとまりかけたとおっしゃいましたね?暴力と恐怖によって押さえつけることを、あなたはまとまるというのですか。」
「そ、それは・・・。」
「そこから生まれるのは、信頼と強調ではなく、憎悪と復讐の連鎖です。」
サイアスは静かに立ち上がった。
「・・・今日は一先ずこれで失礼いたします。3日後にまた参りますので、それまでによく考えておいてください。」
ベレノスは、深く椅子に体を預けながら、サイアスに尋ねた。
「・・・サイアス様は、陛下の亡骸と対面なさったのですか。」
移動の為に、呪文を詠唱しようとしていたサイアスが詠唱を中断しうなずいた。
「・・・それどころか、陛下の死を看取りました。そして最後のお言葉もお聞きしました。」
「・・・陛下は何と?」
「私に一言、『すまない』と。そして、これを・・・。」
司祭は懐から一冊の魔道書を取り出した。
「!・・・それは『ファラフレイム』の魔道書!?」
サイアスは肯いた。そして、再び呪文を唱えると、現れたときと同様に唐突にその姿を消していた。
「陛下が・・・、『ファラフレイム』を・・・。」
ベレノスは、そう呟くと沈黙した。窓の外には、いつしか雪が降り始めていた・・・。
「・・・ベレノス卿、・・・こだわりを捨てて、協力してほしいものですが・・・。」
サイアスはイザーク・レンスター解放軍が駐留する、シアルフィ城へと戻ってきた。破壊の痕も痛々しい城内を歩きながら、先ほど語り合ったベレノスのことを思い出していた。
彼は、別れ際のベレノスが見せた表情から、その心の内で葛藤が巻き起こっていることを正確に読み取っていたのだ。
サイアスにとっては、ある意味、父であるアルヴィスと同じぐらいに、従兄弟であるベレノスのことを気にかけていた。
『・・・もうこれ以上、人の死は見たくない。・・・特に親しき者の死は。』
「サイアス卿。」
サイアスは、不意にかけられた声に驚きながら、声の主を探した。すると、すぐそばの柱の陰から一人の青年が姿を現した。
淡い紫色の長髪をなびかせた、美貌の青年である。腰に短剣を佩びただけという軽装だ。しかしその指には複雑な意匠を施された、指輪がはめられている。見るものが見れば、それが魔法の発動体であることがわかるだろう。
「アーサー卿・・・。」
サイアスはいささか安堵したようにそうもらした。
アーサー。
ベレノスと同じく、サイアスの従兄弟にあたる人物だ。
彼の父親、アゼル公子は、皇帝アルヴィスの異母弟で、かつてシグルド公子の部隊で魔法騎士として活躍した。息子であるアーサーもまた、解放軍の魔法騎士として活躍している。
アーサーの母親であるティルテュもまた、優秀な魔道士だったため、彼の魔力は両親を凌ぐほどだ。
「いかがでしたか。ベレノス卿は、味方となってくれそうですか?」
サイアスは、そう問いかけるアーサーの顔に、ベレノスの顔が重なって見えた。二人は、本当によく似ている。髪の色と、髪型を除けば、瓜二つといってもよいだろう。それは、この二人がアーサーの父、アゼル公子に似ているという事でもある。
かつて、ベレノスがシレジア遠征の折、腹心のルゴス卿からも言われていたが、長髪によって隠されたその素顔は、童顔である。当然ながら、瓜二つであるアーサーの顔は押して知るべしであろう。
だが、そのことが、彼らの美貌を損なっているのではないことは、付け加えておこう。
「・・・すべてお話しましたが、まだ決断をつけかねているようです。」
サイアスのその言葉に、アーサーは落胆した。
「そうですか・・・。」
サイアスは、微かに笑みを浮かべた。
「生真面目なお方ですので、悩んでおられるのでしょう。・・・ですが、義を重んじ、無益な殺戮を好まぬ方ゆえ、必ず我々と共に来ていただけると信じております。」
アーサーは、サイアスの言葉にうなずいた。
立ち去っていくサイアスの姿を見送りながら、その表情が徐々に曇っていった。
「アーサー、どうしたの?」
アーサーの傍らに、いつのまにか小柄な少女が立っていた。
「あ、・・・うん、サイアス卿が帰ってこられたので話を聞いていたんだ。」
「アーサーの従兄弟の件?」
アーサーは肯いた。
「で、どうだって?」
苦笑しつつ首を振るアーサーに、少女は肯くと勢いよくその背中をたたいた。
「イタッ!?」
「そんな顔しないでよ。相棒のあんたがそんな顔だと、こっちまで調子が狂うじゃない。」
「・・・そうだな。」
「そうだよ、大丈夫、もうすぐ戦いも終わるよ。きっとその人も仲間になってくれるって!」
そういって、微笑む少女を抱き寄せながら、アーサーも微笑した。
「フィーの言うとおりだな。・・・ありがとう。」
アーサーは、ふと窓の外を眺めた、澄み切った冬の空には多くの星が輝いていた。
『・・・これ以上の悲劇は、見たくない。・・・死んでほしくないんだ、誰にも。』
サイアスと同様に、アルヴィス皇帝の最後を見届けたアーサーもまた、サイアスと同じ思いを抱いていたのだ。
奇しくもこの時、シアルフィの城では、多くの戦士たちが空を見上げていた。
セリス、リーフ、アレス、セティ、シャナン・・・。
彼らの胸中には、様々な思いが渦巻いていた。
昨晩から降り積もった雪が、ノディオン城を白く染め上げていた。
ノディオン城、南方の護りの要である、正門上に設けられた櫓。その屋上に、ベレノスの姿があった。
彼は、そこから、はるか前方に布陣するアグストリア解放軍の様子を眺めやっていた。
ベレノスの脳裏では、様々な悩みが乱舞していたが、その中でも一番彼を悩ませていた事柄は、アルヴィス皇帝の死についてである。
この事を、他の将兵に明かすべきなのかどうか。
全軍の士気にかかわる重大事ゆえに、慎重にならざるを得ないのだ。
今のベレノスにとって、最も不幸であるのは、この悩みを共有できる友人が居ない事であろう。
『雑多な部隊の寄せ集めである、このノディオン守備隊の潜在的な問題点が、今はっきりと浮き彫りとなったな・・・。』
皇帝の死の事実を前に、ノディオン守備隊、いや、アグストリア派遣部隊そのものが、今後のありかた、方針といったものを求められているのだ。
皇太子であるユリウスのもと、あくまでこれまでどおりの侵攻を続けるのか、それとも・・・。
サイアスの言葉を全面的に信用するならば、ユリウスは紛れもなく邪悪なる存在である。その冷酷非情さは、ベレノスとて十分に承知している。
何よりも、アルヴィス皇帝亡き今、ユリウス皇子は何の憂いもなく、今まで以上の圧制を強いるようになるだろう。皇帝は、ユリウス皇子、そして、帝国内のロプト教団に対する最後の歯止めだったのだから。
ユリウス皇子の指揮の元、ロプト教団が跳梁跋扈するであろう事は想像に難くない。実質上グランベル帝国は滅び去り、ロプト帝国が再興することになるだろう。
傍系ながらも、聖戦士の血を受け継ぐ自分が、それに加担するようなマネが出来るのだろうか?
また、仮に解放軍と手を組んで、帝国に反旗を翻したとして、ユリウス皇子一派を打倒できるのだろうか?
シアルフィまで攻め落とされたとはいえ、まだ本国には多くの兵が残っている。
ヴェルトマー、ユングヴィ、ドズル、エッダ、フリージ・・・。それらの兵を結集すれば、かなりの戦力となる。
そのうえ、暗黒神ロプトゥスの力が伝説どおりだとするならば、果たして、人の手におえる代物なのだろうか・・・。
「こちらにいらしたのですね。」
その声にベレノスが振り向くと、そこには防寒具を着込んだフノスの姿があった。
「フノス・・・殿。」
フノスは微笑を浮かべたまま歩み寄ってきた。
「どうなされたのですか?こんな朝早くに。」
「いや、目が覚めてしまったもので、ここから敵陣を眺めていたのです。・・・フノス殿こそどうして?」
フノスは笑みを絶やさずに言った。
「私も、目が覚めてしまって。・・・外を見ると雪が降っていたので何だかシレジアを思い出してしまいました。」
「そうですか・・・。」
「ちょうど、ベレノス様が歩いているのをお見かけして、ついてきてしまったんです。」
「??・・・私に何か御用でも?」
そう問いかけられて、フノスは少し顔を赤らめた。
「・・・いえ、その・・・。・・・!そう、今日は私がベレノス様付きの伝令ですので、その、・・・ご挨拶をと思って。」
「そうでしたか。・・・それでは今日はよろしくお願いします。」
「はい!」
二人は、顔を見合わせるとクスッと笑った。
ベレノスは、先程までの苦悩が、少し楽になっていることに気づいた。
彼は、傍らに立って彼方を眺める少女を見つめた。その優しい微笑を見るうちに、自分が精神的に癒されているように感じた。
『・・・不思議だな。この少女は・・・。』
と、フノスは視線を感じてかベレノスを見た。そして頬を染めた。
「・・・私の顔に何か付いてます?」
「い、いや・・・そういう訳では。」
ベレノスは、普段の彼らしからず、妙に慌ててしまった。そして苦笑を浮かべると口を開いた。
「そろそろ中に入りましょう。風邪をひいたら大変だ。」
「はい。」
フノスは、微笑みながらうなずいた。
ベレノスとフノスが、並んで廊下を歩いていると、前方からルゴス将軍とガレスフ将軍の二人が、血相を変えて駆けてきた。
「ベレノス司令官!」
何時になく取り乱している腹心の様子に、ただならぬ気配を感じたベレノスは表情を険しくして問い返した。
「どうしたのだルゴス将軍。貴公らしくもない。」
「・・・と、ともかく急ぎ会議の間へ。」
そう言って反転する老将の後を追ってベレノスとフノスも駆け出した。
「どうしたというのだ?・・・ガレスフ卿。」
フリージの勇将は、心持ち青ざめた顔で首を振った。
「・・・私にもはっきりとしたことは、ただ・・・。」
「ただ?」
強面の将軍はかすれた声で言った。
「帝都バーハラから、特使がまいったとか・・・。」
「特使・・・だと?」
会議室には、既に諸将が集っていた。ベレノスは、席につこうとして、いつも自分が着いていた席に、見知らぬ人物が座っている事に気づいた。
傍らに置かれた杖から、魔道士であることが知れる。だが、奇妙な事に暗灰色の僧衣の上から、見事な装飾を施された鎧を身につけ、腰には長剣を帯びているのだ。
老人とは思えぬ見事な黒髪を短く刈り込んでいる。それだけに深く皺の刻まれた顔が一層際立って見える。
その初老の男は、ベレノスを見て唇の端を吊り上げて笑った。
「・・・これで全員そろったようじゃな。」
ベレノスは、その声を聞いて仰天した。
「・・・!?・・・まさか、ドンヌ司祭なのか。」
老人は肯いた。
ベレノスが驚くのも無理はない。ドンヌは、普段からフードを深くかぶっていた為に、その顔を正確に知るものは皆無と言ってよかった。
ドンヌは、ベレノスが驚く様を見て愉快そうに笑った。思わずむっとしたベレノスが、いささか厳しい口調で問い詰めた。
「ドンヌ司祭。あなたが今座っている席は、司令官が座る席だ!」
「知っておるとも。」
平然としてそう言うドンヌ司祭に、ベレノスは続けた。
「解ってらっしゃるのならば、自分の席にお戻りください。」
しかし、ドンヌは一向に席を立とうとしない。ベレノスはさすがに不気味なものを感じた。
「司祭!?」
ドンヌはテーブルにひじをついて。両手を組み合わせた。そして、目を細めてベレノスを見上げた。
「ここが、私の席じゃ。」
「・・・なんですって?」
老司祭は、そう言うと、懐から一枚の書類を取り出した。
「これが、ユリウス皇子からの任命書じゃ。本日を持ってこのドンヌがノディオン方面軍の指揮を執ることとなる。」
黙り込むベレノスに代わって、ガレスフ将軍が口を開いた。
「おかしくはありませんか?いかにユリウス皇子の任命書があるとはいえ、ベレノス将軍をノディオン方面軍司令官に任命したのはテウタテス総司令官であり、許可を下したのは皇帝陛下だったはず。・・・ならば、変更の辞令は皇帝陛下が出されるはずではありませんかな?」
ルゴス、アミッドといった将軍たちがうなずく。しかし、ドンヌは平然として薄笑いを浮かべている。
その様子を見て、ベレノスの背筋を氷塊が滑り落ちた。
『こいつ、まさか!!』
「ここで諸卿に重大な知らせがある。」
その一言でベレノスは自分の予感が正しかったことを確信した。
「皇帝陛下は戦死なされた。」
その一言で、会議室内の時間が停止した。
一瞬の間をおいて騒然となる室内。その様子を眺めやってドンヌは満足そうな表情でうなずいている。
対して、ベレノスは苦々しげな表情を隠そうともしなかった。
ややあって、ドンヌが咳払いをした。それによって室内に静寂が戻った。ドンヌはおもむろに語り始めた。
「皇帝陛下がお亡くなりになった以上、その権限は誰かが引き継がねばならん。ならば皇太子であるユリウス殿下が、その権限を代行して何の不都合があろうか。」
室内からは、何の反論も起こらなかった。
「どうやら納得いただいたようじゃな。・・・儂が司令官になった以上、前任者であるベレノス卿は、派遣部隊の副司令に戻っていただく。依存はあるまいな?」
ドンヌは、いまだ立ち尽くしているベレノスを見やって言った。
「・・・無い。」
吐き捨てるようにそう言ったベレノスに嘲笑めいた顔を向けるとドンヌは立ち上がった。
「では、改めてこの城の新任司令官として、今後の方針を伝える。ベレノス副司令、及びその揮下のロートリッター隊は、本日正午までに準備を整えアグスティへと帰還せよ。かの地にて新たな指示を待つように。」
再び、室内がざわめく。それを見てドンヌは再び懐から書類を取り出した。
「なお、これがその旨を明記したユリウス殿下の命令書である。・・・異議ある場合は、すなわち帝国への反逆とみなす。」
こういわれては、みな黙るしかなかった。
「・・・なお、シレジア解放同盟の諸将方は、ベレノス卿とともにアグスティへと向かわれたし。卿同様、以降の指示を待っていただくこととなる。」
みな無言でその言葉を聞いていた。その後、二、三の連絡事項が伝えられた後、会議は終了となった。
ベレノスは、アグスティへの移動を通達すべく、城内を南へと歩いていた。その後ろをルゴス将軍が続く。
「・・・ベレノス様、よろしいのですか。」
ベレノスは立ち止まると、腹心を振り返った。
「良いも悪いも、勅命ならば仕方あるまい。」
「・・・しかし、陛下が亡くなられたとは。」
ベレノスはそれには答えず無言で歩き出した。
ノディオン城の北門が開かれ、ベレノス達ロートリッター隊が進軍して行く。その後ろには、シレジア解放同盟からの援軍が続き、一路、北のアグスティを目指していた。
粉雪が舞う中を整然と進む兵士たち。その様子を見下ろしながらドンヌは悦に入っていた。
「・・・邪魔者はいなくなった訳じゃが、これからが本番。」
ドンヌは不気味な笑みを浮かべた。
「ここまでは予定どおりじゃが・・・、はてさてうまくいくかな。」
ドンヌの背後には、3つの人影が付き従っている。ドンヌはその人影をちらりと見やった。
「お主らにも、存分に活躍してもらうぞ。」
ノディオン城を出発して、まもなく半日が経とうとしていた。雪はやんだとはいえ、すでに周囲は薄暗くなり、寒さも増してきている。ベレノスは、全軍に野営の準備に入るように伝えて、兜をはずした。
身を切るような寒風が、今は心地よかった。
ふと、その視界を光がよぎったような気がした。
「・・・何だ?」
闇の中に、目を凝らすと確かに光が見える。しかも徐々にその数を増しているようだ。
「松明・・・なのか?」
それが、ベレノスの錯覚でない証拠に、ほかにも気づいた兵たちが、作業の手を休めて騒ぎ始めていた。
落ち着くように指示を出そうとしたベレノスの前に一騎の騎影が踊りこんできた。とっさに抜剣したベレノスは、松明に照らされたその騎士の顔を見た。
「・・・タラニス将軍!?」
タラニスは、ベレノスの姿を認めると、不敵な笑みを浮かべた。
「なぜ、貴公がここに・・・。」
その言葉が終わらぬうちに、闇の中から蝗の大群が飛び立つような音が響き渡った。
「な!!」
一瞬後に、大量の矢が豪雨となって降り注いでいた。