第8話 記憶の底(前編)
登山道を、一人の女性が歩いていた。
時折、空を見上げてはしきりに空模様を気にしている。
「さっきまでは、あんなに晴れていたのに・・・。」
女性はそう呟くと溜息をついた。
確かに、抜けるような夏の青空が、今は黒い積乱雲によって隠されている。遠くで雷鳴も聞こえているようだ。
「急がなきゃ・・・。もし雨でも降ってきたら。・・・・あら?」
女性は立ち止まると、目を凝らした。
彼女が今いる場所の少し先に、頂上に向かう道とは別の細い下り道が見えたのだ。
「あんなところに、分岐点なんてあったかしら?」
女性が首をかしげながらその分岐店に差し掛かると、その下り道の先に木々に隠れるようにひっそりと建物の屋根が見えた。
「・・・山小屋かしら?・・・丁度良いわ、少し休ませてもらおう。」
女性は、登山道から外れて、その道を下り始めた。
道は、うっそうと茂る木立を縫うように続いていた。少々薄気味悪さを感じながらも、頭上に響く雷鳴に急き立てられるように、彼女は歩みを速めた。
やがて、彼女は先ほど見えていた建物の前にたどり着いた。
「教会・・・?」
どうやら、建物は古びた教会のようである。周囲に蜘蛛の巣が張った様子も無く、正面の扉付近もきちんと清掃されている様子から、廃屋というわけではなさそうだ。
女性は、扉につけられたノッカーを叩いた。
・・・しかし、何の反応も無い。
「すみません!・・・どなたかいらっしゃいませんか!!」
女性が叫ぶと、しばらくして中から一人の神父が姿を現した。
「どちらさんかな?」
柔和な表情の初老の神父が女性に尋ねた。女性は安堵の溜息を漏らすと、口を開いた。
「山登りをしていたんですけど、雷が鳴ってきたので・・・。こちらにお家が見えたので少し休ませていただこうかと思いまして。」
痩身の神父は微笑すると肯いた。
「そうですか。それはお困りでしょう。・・・ご覧の通りの古ぼけた教会ですが、どうぞゆっくりしていってくだされ。・・・ささ、どうぞ中に。」
「ありがとうございます。」
女性は礼を言って教会の中に入った。教会の中もきれいに掃除されていて、山奥の僻地にあるにもかかわらず、あまりそういったことを感じさせない。神父は女性を応接室へと案内した。
「そこいら辺に、適当に腰掛けていてくだされ。・・・すぐにお茶をお持ちしますでな。」
「あ、お構いなく。」
恐縮する女性に神父は優しい笑みを向けた。
「いえいえ。ここでお会いしたのも主のお導きでしょう。どうぞくつろいでいってくだされ。」
神父はそう言うと部屋を出て行った。
「・・・よかった、親切そうな神父様で。」
女性はソファーに腰をおろすと、背もたれに背を預けた。
その時、窓の外を大きな羽音とともに何かが横切っていった。
「鳥・・・かしら?」
女性は立ち上がると窓に近づいた。両開きの窓からは涼しい風が吹き込んでいる。顔を突き出して上をみると、先ほどの羽音の主らしき影が空高く飛んでいくところだった。
東京都内にある、ゴルゴムのアジト。
高級住宅街の一角にあるこのアジトに、六人の神官が集結していた。
上座に座る神官長のガホム
不機嫌そうな顔で腕を組んでいるのは、グルカムだ。
六人中唯一の女性神官ラシュムは、瞑想するかのように瞳を閉じている。
神官衣のフードをずらし、微笑を浮かべるデルフィム。
長い髭を蓄えた、老人といった出で立ちの神官は、名をファルシムという。
六人中最も痩身の神官はナシュラム。手にした書類を読み上げている。
現在のゴルゴムという組織のトップが、顔をつき合わせて会議を行っているのだ。
「・・・以上のように、旧神殿跡、及びその周辺の山中をくまなく探索しておりますが、いまだに、サタンサーベルの行方は杳としてつかめません。本日06:00より探索エリアを半径10キロメートル広げる方針です。」
その報告にガホムは肯いた。
「わかった。・・・サタンサーベルは、キングストーンと並びゴルゴムの象徴。・・・なんとしても探し出すのだ。」
「は。」
ナシュラムは一礼すると着席した。
ガホムは、一つ咳払いすると次の議題に移った。
「では、先の新生宣言以降の、各々の活動について報告してもらおう。まずは、デルフィムからだ。」
「はい。」
デルフィムは立ち上がると口を開いた。
「手元の資料、17ページをご覧下さい。現在、Eプラン戦闘員の製造・配備は順調に進んでおります。既に、先行量産型の20体は、アメリカ合衆国において実戦テストを行っています。近日中には、その結果をご報告できるはずです。」
「フム。・・・Eプランについては解った。セカンドタイプ怪人の創造状態はどうなっている?」
「現在のところ、試作型の数体を日本各地で製造しております。内一体は、明日から稼動実験に入ります。」
「解った。・・・結果がわかり次第すぐに報告をしてくれ。」
「はい。」
ガホムは、着席するデルフィムを横目で見ながら、再び口を開いた。
「次は、ファルシム。」
「はい。私どものプロジェクトチームで開発中のサイバネティック技術による戦闘員化計画は現在最終段階に入っております。・・・現在、アフガニスタン・イラク・イスラエルの各地で実戦を行いつつ、データの収集中です。」
「イスラム系過激派組織は、掌握したのだな?」
「はい。指導者層の暗殺と、わが組織からの人員の派遣は、おおむね完了しております。間もなく、奴らは完全にわれらの下部組織となりましょう。」
「解った。ひきつづき、作戦を遂行せよ。」
「は!」
「諜報部門はどうか?」
ガホムの問いかけに、ラシュムが立ち上がる。
「既に、ユーラシア大陸のアジア方面においては、ほぼ90パーセントの国々にゴルゴムの信奉者が食い込んでいます。この日本においても、内閣調査室や、警視庁内部に既に多数の構成員が派遣されています。また、北米、及び東ヨーロッパでは、順調に工作が進んでおりますが、南米において少し手間取っております。」
「南米?何故だ?」
「地元に根付いている呪術結社が、強固に抵抗し、妨害工作を行っているためです。・・・もっとも後二月以内には制圧できる予定です。」
「・・・迅速に処理せよ。・・・その他の国々についてはどうか?」
「前準備は整っております。・・・後は幹部クラスの養成が完了しだい、順次送り込めます。」
「解った。今後も作戦の全てをお主に一任する。」
「は!」
「さて・・・。」
ガホムは、グルカムを見据えた。グルカムは不機嫌そうな表情のままその視線を受け止めた。
「グルカム。・・・お主の進めるプロジェクトが、一番遅滞しておる。唯一順調なのは、お主の部下・古畠が進めているSプランのみ・・・。江田島の進めているアンドロイドソルジャー製造計画であるCプランは、あいかわらず思ったような成果をあげていないようだな。」
「・・・残念ながら。・・・されど!!」
「言い訳は聞きたくない。」
ピシャリと言われたグルカムは悔しげな表情で口を閉ざした。
「・・・まあ、よい。引き続きプロジェクトを進めよ。」
「は・・・。」
「ただし!」
ガホムの声にグルカムが緊張する。
「アンドロイドソルジャー計画は、もうひとつC2プランとして、ファルシム配下の、西教授のプロジェクトチームも参加させることとする。」
「ガホム様!それは・・・!」
「すでに、通達は出しておる。二つのプロジェクトチームのうち、よりすぐれたアンドロイドソルジャーを生み出したチームに、今後のアンドロイド製造を任す。」
グルカムは、不承不承肯いた。
「それから、ナシュラムのV−Virus計画を承認する。これまでの実験段階から、本格的な作戦行動への移行を許可する。」
「ありがとうございます、ガホム様。」
「それでは、各自の持ち場の確認を行う。ナシュラム、デルフィム、ラシュムの3名は、引き続き日本において各自の作戦を展開せよ。」
「「「はっ!!」」」
「ファルシムは、中東における中心拠点の建設を急がせよ。」
「心得ております。」
「グルカムは、各プロジェクトの完遂とともに、オーストラリアにおける大神殿発掘を進めるのだ。」
「ははっ!!」
「では、各自、抜かりないように。・・・ブラックサン・・・いや、仮面ライダーも動き始めたようだ。・・・もう一つ、謎の改造人間の報告も入っておる。・・・我等、ゴルゴムこそが最強の組織であることを、他の結社、軍団の連中に思い知らせてやれ。」
会議を終え、それぞれ部屋を後にする神官たち。・・・その背中を見ながら、デルフィムは謎めいた笑みを漏らしていた。
警視庁。
多くの警察官が、日夜、犯罪と戦っているこの建物の中に「M.A.S.K」の本部があった。
その本部では、一週間前に起こった、商店街大量虐殺事件と、中央線ジャック事件について会議が行われていた。
「・・・以上のことから、この二つの事件における関連性は疑う余地はありません。双方の事件現場における怪生物の目撃情報、および、回収した死体。この類似性は明らかです。」
荒木刑事の報告を聞き終えると、橘警視正は口を開いた。
「・・・例の組織、『ゴルゴム』の仕業だな。」
悠輝刑事はその橘の言葉を受けて、ホワイトボードに張られた写真を指し示した。
「現在、この怪生物の死体を調査中ですが、現時点で解った範囲では、昨年のテロ事件における怪生物との共通点が多く見られますのでおそらくは・・・。」
悠輝刑事の言葉に橘は肯いた。
「・・・何はともあれ、奴らが凶悪な犯罪者であることは間違いない。今後もより悪質な事件が起こりうるだろう。・・・チームの規模拡大も視野に入れ、関係機関との協力体制も、より強固なものにしていく必要があるだろうな。」
「チーフ!」
「なんだね、村上刑事?」
「先の、中央線ジャック事件における、生存者2名のうち、南沙代子の証言に出てきた、銀色の怪人の事なのですが。」
「報告は聞いている。」
「実は、風杜刑事が遭遇した事件においても、同様の銀色の怪人が目撃されているのです。」
村上刑事の言葉に、橘は風杜に語りかけた。
「・・・千葉県内で起こった、連続母子誘拐殺人事件だな。」
「はい。」
風杜刑事は肯いた。
「自分は、あの事件で、怪生物と戦う、銀色の怪人を目撃しています。」
「・・・それで?今回もその怪人がゴルゴムの怪生物と戦ったというのかね?」
「事件の時にTV局が放送した映像の中に、例の列車を追跡する非常識な速度で走るバイクらしき車両と、その車両に搭乗した銀色の人物が映し出されたものがありました。」
「その資料は、私も目を通している。」
「あの怪人は、ゴルゴムと敵対する何者かだと思われるのです。」
橘警視正は、風杜刑事の顔をじっと見つめた。
「・・・君は確か、以前よりゴルゴムと戦う戦士について持論を持っていると聞いている。・・・そう、一部の民間人が噂する『仮面ライダー』が実在すると。」
風杜刑事は肯いた。
「あの事件以来、それは確信に変わっています。・・・怪人は、あの現場で、自分に向かってこう名乗りました。」
風杜刑事は、落ち着くように大きく息を吸うと、言葉を発した。
「仮面ライダー・・・シャドウと。」
しばし、沈黙が座を支配した。ややあって、次に口を開いたのは菅田刑事だった。
「しかし、私が聞いた情報では、昨年噂に上った謎の戦士は、黒かったと記憶しています。」
その発言を補うかのように、速水が言葉を継いだ。
「私も民間人が『仮面ライダー・Black』と噂しているのを聞いたことがあります。」
「それなんだが・・・。」
本条刑事は、相棒の大門寺刑事、そして風杜刑事に肯きかけると口を開いた。
「この間の商店街事件の容疑者を追跡中に、我々が出会った怪人は、黒かったんだ。」
「本条刑事からの報告では、自ら『仮面ライダー・Black』と名乗ったそうだな。」
橘警視正の言葉に三人は肯いた。橘警視正は腕組みを解くと立ち上がった。
「・・・にわかには信じられない話だが、件の組織と対立する何者かが存在する事だけは確かだ。そして、その人物は我々に対して害意は持ってないということもな。・・・そして、その何者かは2名・・・。」
橘警視正は窓辺に歩み寄るとブラインドを上げた。
「・・・ともあれ、まだ、完全に正体がわからない人物は一先ず置いておく。我々は当初の方針のまま動く。・・・本条、大門寺、風杜は、悠輝と共に、科警研に向かい、完成したC・スーツ、01、02、03の稼動試験を。」
敬礼を返す三人を一瞥すると、橘警視正は言葉を継ぐ。
「先日の適正試験を終えていない、高杉、菅田の両名は、第2研究所で試験を受けるように。岡崎は、本庁の資料室で過去のゴルゴム関連事件をもう一度洗い出してくれ。速水は05のチェックに横浜港にある第8研究所に向かへ。」
そして、橘警視正は残る二人に目線を移した。
「荒木、村上の両名は、中央線ジャック事件の後詰だ。荒木は八王子署に、村上はもう一度、生存者である南沙代子に詳しい話を。・・・では各自行動を開始してくれ。」
10名のエリートチームは、一斉に敬礼を返すと各々の任務を果たすべく動き始めた。
一人、本部に残った橘警視正はふと手元の資料を見た。
「・・・行方不明事件か。・・・最近ではどの事件もゴルゴムの引き起こしたものではないかと疑ってしまうな。」
彼はそうぼやくと苦笑した。
「それにしても・・・『仮面ライダー』・・・か。」
山中に建つ、古びた教会。そのノッカーを二人組みの警察官が鳴らす。しかし、何の反応もない。
「・・・無人なのか?」
「いや、これだけ綺麗に掃除してあるんだ。誰かは居るだろう?」
そんなことを彼らが話していると、扉が開き中から壮年の神父が顔を出した。
「・・・どちら様ですかな?」
柔和な表情を浮かべた、堂々たる体格の神父に、二人の警官は軽く頭を下げた。
「実は、この付近で行方不明事件が多発しておりまして、すこしお話を伺いたいと思いまして。」
「左様ですか。・・・まあ、立ち話もなんですので、どうぞ中に。」
「それでは、失礼します。」
二人は、応接室に通され、そこで神父としばらく会話を交わした。だが、有用な情報を得ることは出来なかった。
「・・・どうもお邪魔いたしました。」
「神父様はここにお一人で暮らしてらっしゃるのですか?」
神父は微笑みながら肯いた。
「ええ、家族に先立たれたもので、以来ずっとここで祈りを捧げております。」
「そうですか・・・。最近は物騒な事件も多いことですのでお気をつけ下さい。何か不審な人物を見かけたりしましたら、是非、署の方にご連絡ください。」
「お気遣いありがとうございます。・・・それでは、何か気が付いたことがありましたら連絡させていただきます。」
「ご協力感謝いたします。」
「それでは、失礼いたします。」
二人は、そう言うとふもとに向かって、来た道を引き返し始めた。神父は笑顔で二人を見送ると、教会へと入っていった。
「こんな山の中で一人とは大変だな。」
「全くだ・・・ん?」
「どうした?」
急に立ち止まって上を見上げた同僚に、もう一人が尋ねた。
「いや・・・大きな鳥が飛び立ったもので・・・。」
「鳥?」
もう一人も上を見上げた。
森の木々の上を、何かが羽ばたいていく。警官は苦笑した。
「おいおい。あれは鳥じゃない。蝙蝠だよ。」
「蝙蝠か・・・。でもでかいな。」
二人は、その蝙蝠が飛んでいった方をしばらく眺めていた・・・。
高速道路のサービスエリアに、二人連れのライダーが姿を現した。南光太郎と秋月杏子である。
二人は、自販機で缶ジュースを買うと、椅子に腰を落ち着けた。
「・・・そうか。・・・克美さんはアメリカに残ったのか。」
光太郎の言葉に杏子は肯いた。
「ええ、・・・向こうの大学に留学という形になったの。・・・そこで、素敵な人と出会ってね、・・・この間もらった手紙によると、もうすぐ結婚するそう。」
「そうか・・・。」
光太郎は、複雑な表情で手にした缶ジュースを見つめていた。その横顔を、杏子はじっと見つめていた。
「・・・そうか。」
光太郎はもう一度呟くと、溜息をついた。
飲食スペースの片隅に設けられたテレビではニュースが流れている。
何気なくそのニュースを眺めながら、光太郎は杏子に問い掛けた。
「それはともかく、もう一度アメリカにもどるつもりはないのかい?」
「私のこと?」
光太郎はゆっくりと肯いた。杏子は少し顔をしかめた。
「どうして・・・どうしてそんなことを言うの。」
「ゴルゴムの残党が活動を再開した。・・・正直言って、奴らと戦いながら杏子ちゃんを守る自信が、今の僕にはないんだ。」
「光太郎さん・・・。」
杏子は悲しそうな表情を浮かべながら、そっと光太郎の手に自らの手を重ねた。
「杏子ちゃん!?」
「ねえ、光太郎さん。・・・きっとゴルゴムがある限り、この地球上のどこにいたって安全な場所なんてないと思うの。・・・確かに、光太郎さんの足手まといになることもあると思う。・・・でも、せっかく再会できたのよ?・・・私は、あのときの私とは違う。今度こそ光太郎さんの側を離れない!」
「杏子ちゃん・・・僕は・・・。」
「光太郎さん・・・、いいえ仮面ライダー。私も一緒に戦わせてほしいの。・・・もちろん怪人と正面きって戦うことは出来ないけど、・・・せめて側にいて光太郎さんのために何かしたい!!」
光太郎は、しばし考え込んでいたがやがてふっと苦笑を漏らした。
「・・・まったく。相変わらずこうと決めたら頑固なんだから。」
その言葉に杏子の表情が輝く。
「それじゃあ!」
光太郎は、苦笑しつつ肯いた。
「しかたないからね。・・・でも、くれぐれも無茶だけはしないで欲しい。さっきも言ったように。僕の力は半年前よりも確実に弱まっているんだ。」
杏子は光太郎の手を取ったまま肯いた。しかし、すぐに光太郎に疑問をぶつけた。
「それにしても、どうして力が弱くなったの?」
光太郎は、深刻そうな表情で首を横に振った。
「正確なところはわからない。・・・推測でしかないんだけど、太陽黒点の消滅と、何らかの関係があるのかもしれない。」
「黒点の・・・消滅?」
光太郎は肯いた。
「創世王の寿命が尽きる太陽黒点の消滅直前に、最もパワーが充実するように僕と・・・信彦は調整されていたのかもしれない。・・・本来はどちらかが生き残った段階で、二つのキングストーンを得て新しい創世王になるから、もしかすると、かなり偏った調整がされていたのかもしれない。」
杏子はあっと声をあげた。
「そうか・・・でも光太郎さんはお兄ちゃんのキングストーンを得ずに、創世王にならなかったから。」
光太郎は重々しく口を開いた。
「そうなんだ。・・・もしかすると、今後もっと厄介なことになるかもしれない。」
「厄介な・・・こと?」
その言葉に、光太郎は答えずにさびしそうに微笑んだ。
テレビでは、相変わらずニュースが続いていた。その内容が、ここ数日各地で起こっている行方不明事件についてのものへと変わっていた。
「信彦様お待たせしました。」
スーパーから一杯の荷物を手に出てきたあゆみは、そこに待っているはずの信彦がいない事に気づいた。
「信彦様?」
彼女が慌てて当たりを見回すと、少し先にある電気製品を扱う大型量販店の店先に信彦の姿を見つけた。あゆみは、ほっとした表情で小走りに信彦のもとに駆け寄った。何台も並んだテレビの画面では、アニメや旅番組、そして、行方不明事件のニュースなどが流れていた。
信彦は、そのうちの一つの画面を食い入るように眺めている。
「信彦・・・様?」
あゆみは、そのときになって、信彦の様子が普通でないことに気づいた。まるで魂を抜かれたかの表情で小刻みに体を震わせている。
「??」
あゆみは、信彦が見ているのと同じ画面を覗き込むと同時に、彼女もまた硬直した。
「!!」
そこでは、アメリカの富豪の一人息子と、日本人女性の婚約が報じられていた。
『・・・紀田・・・克美!?』
幸せそうでありながら、どこか憂いを含んだような微笑を浮かべる女性は、かつて、秋月信彦が人間であった頃、彼の恋人だった女性だ。
あゆみが画面から視線を信彦に戻すと、信彦は真っ青な顔でブツブツと何事かつぶやいていた。
「・・・誰・・・誰なんだ??・・・・僕は・・・僕は・・・この人を・・・知って・・・る??・・・いや?・・・僕・・・は。」
「信彦様!!」
あゆみは買い物袋を放り出すと信彦の肩をつかんで揺さぶった。その途端、信彦は弾かれたかのようにあゆみの手を振り払うと駆け出していた。そのあまりの力に、危うく吹きとばされそうになったあゆみが、何とか踏みとどまって信彦を目で追うと、既にその後姿は雑踏の中に消えてしまっていた。
「・・・信彦様。」
彼女はしばし立ち尽くすと、テレビ画面を振り返った。そこでは、まだ紀田克美の姿があった。あゆみは唇を噛み締めると、信彦を追いかけて駆け出していた。
会社帰りのラッシュが一段落ついた、午後9時前。駅前の一部を除くと、人通りもまばらになる。駅の改札を出てくる、塾帰りの高校生や、会社員に混じって、一人の女性が汗をぬぐいながら駅を出て歩き始めた。
「・・・思わぬ残業になっちゃったな。」
その言葉から察するにOLなのだろう。駅前のアーケード街を抜けると大きな幹線道路が横たわる。
信号待ちをしている人も、この時間帯になると極端に少なくなる。そして、少し長めの横断歩道を渡ると、人影はさらに少なくなる。
高級住宅街へと続く坂道を、ゆっくりと歩いていく。明日は金曜日。一週間の疲れと、急な残業のせいで、普段よりいささか坂を上がる足も重く感じる。
やがて、彼女の他には人影が絶え、アスファルトを行く彼女の足音だけが、周囲のコンクリートの塀に反響している。
ふと、女性は立ち止まった。
「・・・?」
誰かの視線を感じたのだ。
しかし、周囲を見渡しても、特に変わったようなところは見受けられない。周りには誰もいないし、周囲の家からも覗かれているような風ではない。
「・・・気のせい・・・よね?」
女性は気を取り直して歩き始めた。
しかし、十歩も歩かないうちに再び、絡みつくような視線を感じて思わず振り返っていた。
そこには、普段と変わらぬ、見慣れた道があるだけだ。
しかし、確かに誰かに見られているような感覚がずっと消えない。
「何?・・・なんなの・・・。」
呟く声が震えている。
女性は、勢い良く首を振ると、歩調を速めて再び歩き始めた。
『・・・やっぱり・・・何か居る。』
歩調を速めながら彼女は、振り返らないように努めた。振り返ると、とんでもないモノがそこに存在するような、そんな気がしたのだ。
薄暗い道は続く。
街灯は、数十メートルおきにしかなく、また、家の明かりも、どうしたわけか今日は少ないようだ。
普段は、なんということもない道であるのに、今夜ばかりは、心細さが倍増されていくように感じていた。
もはや歩くというよりは、駆け足に近いようなスピードで、背後から感じる気配を否定しながら彼女は家路を急いだ。
やがて、右手側に、小さな公園が見えてきた。
『・・・あそこまで行けば、明るい。』
女性は、息を切らしながら、公園に向かってさらに足を速めていた。
公園の入り口付近の電柱に設けられた水銀灯の光の中に入ると、女性は息を整えてゆっくりと背後を振り返った。
暗闇の中にじっと目を凝らしてみたが、そこには、夏の夜の、じめっとした空気が渦巻いているだけのようだ。
「・・・はぁ。」
彼女は溜息をつくと、額の汗をぬぐった。落ち着いてみると、体中に不快な汗をかいている事に気づいた。
暑さのためだけでなく、多分に冷や汗も混じっているようだ。
「帰ったら、真っ先にシャワーを浴びなきゃ。」
そして、再び歩き出そうと踵を返すと、数メートル先の路上に人影が佇んでいた。
「ヒッ!」
思わず息を飲んで硬直する。心臓を鷲掴みされたかのような衝撃を感じ、腋の下から冷たい汗が流れ落ちる。
恐怖に閉じることの出来ない瞳で見つめると、その怪人物は、夏だというのに、どうやら長袖の服に何かを羽織っているようだ。それが、タキシードとマントであることに気づくと同時に、その怪人物はその姿をかき消していた。
「!!」
彼女が驚く間もなく、その怪人物は女性の背後にあらわれ、後ろから羽交い絞めにした。
悲鳴をあげようとしたその口を、左手で覆うと、もう片方の腕を腰に回す。
失神寸前の女性の首筋を、その怪人物は舐め上げていく。丹念に。幾度も、幾度も。まるで吹き出した汗を一適残らず舐め取ろうとしているかのようだ。
あまりの恐怖と、嫌悪感にあえぐような息をし始めた女性を見て満足そうに目を細めたその怪人物は、いきなり首筋に吸い付いた。
女性の白い首筋に、いくつものキスマークがつけられていく。
そして・・・。
「・・・!?」
女性の首筋から鮮血が溢れる。
謎の怪人物の犬歯は、鋭く尖り、その長さは人間ではありえないぐらいのものとなっている。
その凶器が、哀れな犠牲者の皮膚を貫いて、深々と突き刺さっている。
怪人物は、極上の生贄を得て、この上ない至福の表情を浮かべ、生命のワインを嚥下し続けていた・・・。
静まり返る深夜の公園。
日中は子供達の歓声が絶えないであろう遊具の影に、何か異質なモノが放置されている。
それは、青ざめ血の気の失せた顔をさらし、仰向けに横たわる女性だった。
胸が微かに上下している様子から、死んではいないようだ。しかし、その動きも徐々に弱々しくなっていき、・・・やがて完全に停止した。
・・・。
どれほどの時間が経過したのだろう。
完全に動きを止めていたはずの、女性の指が、微かに動いた。
その動きは、だんだんと大きくなり、それに伴って、再び胸が上下し始めている。
女性は、ゆっくりと上体を起こした。そして、右手を顔の前に持ってくると、掌を広げたり、握ったりを繰り返した。
やがて、女性は満足そうに肯くと、ゆらりと立ち上がった。
その口から溜息が漏れる。
だが、何か違和感を憶える。その溜息は、呼吸の延長上の産物というよりは、体内に留まる最後の人間の部分を排出しているかのようだ。
大きく伸びをした後で、長い髪をかき上げる。
その拍子に露になったその首には、小さな二つの傷跡が刻まれていた。
女性は、襲われる前とは、まるで別人であるかのように妖艶な笑みを浮かべると、ふらつくような足取りで、ゆっくりと公園から立ち去っていった。
少しはなれた電柱の先端では、先ほどの怪人物がその様子を眺めていた。
怪人物は、女性が完全に視界から消えると、一つ肯いて跳躍した。
微かに羽ばたきのような音がしたようだが、単なる風の音だったのかもしれない。
怪人物は忽然とその姿を消していた。
静寂が戻る公園には、先ほど怪異が起こったとは信じられないほど日常の姿に戻ってしまっている。
ただ一つだけ、確かに怪異があった証拠として、ごくわずかな血痕が残されていた・・・。