1986

噴煙第7号 パソコンシンドローム

 同名のタイトルで書くこと3回、1回めは木曽校1年めで拙文を書くのにてまどり、迷ったあげく当時パソコンに手を出して2年めの私の症状を記すつもりで書いた。2回めは多少分析的に無味乾燥の文を書いてしまった。
 さて、今年は。
 パソコンとかワープロとか時代の最先端のような誤解を招く世界の事情に首をつっこんでいると、誠に時代感覚が狂ってくる。例えば機械−いわゆるハードを例にとってみると、私の所有する機械は4年前に購入した時には「究極の8ビット」というふれこみであった。それがわずか4年で骨董品扱いである。生徒には「まだ動くのですか」とバカにされる始末だ。本校Y教諭は私の次世代のパソコンを購入したが、すでに85年度に新鋭機に買い代えたし、2年前に最新鋭機を購入したはずのK教諭はどうにかして自分の機械で満足しようと努力している。してみるとこの世界での4年は一般社会の10年にも相当するようである。たかが半年でも2年か3年たったように感じる。
 プログラム−いわゆるソフトについても同様のことがいえる。4年前にはプログラムを金で払って購入するとは考えられなかった。プログラムとは自分で作ったり、雑誌にあるものを自分の手で入力するものであった。事実その程度のプログラムでもりっぱに通用したし、いわゆる素人もプロもなかったのである。思えば夢があった。機械さえあれば、あとは自分のカでどうとでもなるという、幻想に近いものがあった。それがたかが4年でプロはプロの道をまっしぐら、今やプロとアマの差は歴然。自分一人の手による手作りソフトなどは影をうせ、今や分業化したチームでのプログラム作りが大半である。
 かくして『パーソナル』であったはずのコンピューターは急激に仕事だけをし、どうしてそうするのかわからない箱(いわゆるブラック・ボックス)となって、アマの毛の抜けたような素人の私には遠い遠い存在となってしまった。


 さてパソコンがパソコンでなくなり、家電に近付いていく中、この1年どんな変化があったろうか。コンピューター・シンドロームなどという症候群は減少したのだろうか。最近では会社にやたらとコンピューターが入り(本校でも例外ではないと思うが)そのような仕事とのかかわりではテクノ・ストレスとかOAストレスという言葉が誕生し、さらに『テクノ恐怖症』などと細分されているようだ。
 この大人社会での病魔はまだ爆発的な増加にはいたらず、社会問題として取り上げられることはあっても、真剣さはまだない。

 問題は子供だ。

 85年、私にとって2つの印象的な数字があった。一つはたかが週刊マンガであるはずの『少年ジャンプ」が一週の発行部数で四百万部を越えたこと。そしてもう一つは、たかがテレビ・ゲームであるはずのファミリー・コンピューター(任天堂の商標−以下ファミコンと記述)の販売台数が軽く五百万台を突破、現時点では六百万台を越えているだろうことである。
 日本のパソコンを販売する各社が過去7年間かかってやっと売り上げたパソコン販売台数が三百万台である。なんとその3倍のファミコンが小学生の男の子を中心に売れたのである。
 六百万という数字がどういうことを意味するかというと、新聞の家庭欄に世の母親族から『ファミコン通信』がぞくぞく届き、3面には特集が載り、小学生男子の子供を持つ家庭のほぼ全世帯でファミコン購入が少なくとも一度は話題となり、一般の小学校のクラスでは男子の半分から3分の2がファミコンを所有するという状況を呈するのである。
 テレビのCMで流されているファミコン・ゲームに『スーパー・マリオ・ブラザーズ」というものがある.このカセットが実に百五十万を上回る数売れた。1セット5千円のこのカセットが百五十万というとレコードのLPが百万枚売れた勘定である。かってLPで百万枚売れたものがあったろうか。今をときめくサザン・オール・スターズのLPといえども10方とか20万枚という数字ではないだろうか。そしてこのゲームの『解法テクニック」を扱った本が他の文芸作品・健康ものなどをおしのけて60万部売れたと聞く。
 ファミコン恐ろしである。このファミコンの持つ衝撃はあの阪神優勝の経済的効果を上回るのではないだろうか。


さて家庭ではファミコン購入の是非が話し合われ、中には「ファミコンを持たぬ子供は仲間はずれ、イジメの対象にも」という懸念からファミコンを購入したという話も聞く。ゲームに一体どのくらいの時間を当てるかは親と子供の深刻な協定問題と聞くし、これを制限するはずの父親が夢中などという話まである。
 かつてコミックが生活に入り込み始めた時、その影響が真剣に論じられた(と思う。) 現在はそんなコミックで育った人が30代までなり、電車や食堂で大の大人がマンガを読むことになんの違和感もなくなってしまった。はたしてファミコンはマンガのように1文化を形成し、生活に根をおろすのだろうか、それともダッコちゃんやフラフープあるいはルービック・キューブのように嵐のような旋風をまきおこし、あとかたもなく消えてしまうものだろうか。
 私はパソコンのハード・ソフトのサイクル/進歩についてゆけず脱落した。かつて実務に使われるはずだった私のパーソナル・コンピューターはファミコンと同様の存在になっている。そこでファミコン化したパソコンから、このファミコンの持つ悪魔的魅力と、その子供たちに与える影響を考えてみたい。
 ファミコン/テレビ・ゲームとバカにするこのたかだか1万5千円の機械であるが、その心臓部にあたる演算装置はゲームに関しては過去何十万円もした機械に匹敵する。ある面では私の持つ『究極の8ビット」よりも数倍も優秀なのである。そしてカセットというプログラムはかつてのピンポン・ゲームやインベーダー・ゲームとは比べようもないゲームになっている。かつて外で友達と遊ぶことに熱中していた子供たちがそれと同じか、あるいはそれ以上虜にする魅力がこのゲームにはある。
 このゲームの特徴をあげよう。

@ 疑似体験としてのゲーム
 最近のゲームの主人公はかつてのインベーダーのように次々とせまりくる宇宙人をひたすら撃ち殺すといった勤厳実直な働き者ではない。次々を変わる場面を前に(ある時は迷路、ある時は山、ある時は谷を)記憶力と推理力と反射神経と判断力で次から次へとクリーヤーしていかねばならない。場面を征服し、通過するためには時には数十にのぼる課題をこなす必要があるし、そのためにはテレビ画面を離れてまで考えを巡らすはめになる。すなわち、ゲームを中心とした生活が始まり、他に興味のいかない子供版テクノ依存症ーゲーム依存症患者が誕生するのである。

A スリルとサスペンスの連続−この中毒的緊張感

 ファミコン・ゲームには自分の分身であるヒーローが登場する。このヒーローは目の前でせまりくる敵を倒し、鍵をうばい、魔法のカをつけ、それを使うなど一瞬たりとも休むことがない。子供たちはゲームの分身を操り、刻一刻と瞬時に反応していく。目分が能動的に参加し、成累がすぐに現れる。時として起こるヒーローの死は新たな挑戦へとかきたてる。およそ戸外で行われる団体競技の他に自分が能動的にそして成果-結果が期待できるものは身の周りにはそうない。


 読書は言葉という抽象化された媒体を通しての体験だけにゲームのリアリズムには勝てない。おもしろいと思われるテレビは一方的で自分の参加する余地がない。人の話はまどろこしくて聞く気にならないし、ゲームのスリルを基準にした場合、世の中他の物は退屈な存在となる。学校において良しとされている要素はファミコンのくり広げる世界からは何一つ魅力のあるものとしては映らない。最近読んだ本によるとビデオ・ゲーム(テレビ・ゲームのこと)に熱中する子供たちは時間に対する観念がいちじるしく歪曲し、ゲーム時以外の時間は退屈で無駄な時間と感じるそうだ。人とのかかわり、その中での成長という長年学校教育の柱とされてきたものからの逃避、避難がみられるという。


 今までファミコンの持つ一面を多少誇張気味に書いてみた。なにを隠そう年2度のボーナスのほんの一部をあてて年に2度ファミコン・ユーザーと化している私が自分自身を分析するとこのようになる。伊那谷の田舎で幼年時代を健康に過ごして、30過ぎてのユーザーにはこういった弊害はあまり問題なかろうが(?)、これからまだまだ成長しなければならない小学生にはどんな影響がてるだろうか。すくなくとも次の3点が考えられる。

@ 『すべてに興味を示し、チャレンジする」という好青年の出現はむつかしく、極端に限られたことにしか興味を示さない子供。

A目にみえる形での成果を望む子供-今まで以上にテストの点/学年順位の上がり・下がりを気にする子供。

B人間性を高めるというおよそ計量できないものに価値を置かない直観的実務的な子供。


 ファミコンがどのように推移するのかはわからない。この無視することのできない大きな市場に群れる企業は多いと思われる。かつてのマンガのようにやがて子供たちの生活に定着し、やがてその子供が成長して高校生となり社会人になっていくとしたら、この現象が及ぼす子供たちの感性の変化について、いつかはその子らを教える運命にある私たち教師は無関心ではいられないだろう。このファミコン少年達は2年前に予想したマイコン少年とは全く質をことにする何の変哲もない多数派の子供たちである。

 私の脳裏にふと思うでもなくこんな姿が浮かぶ。

 (生徒宅夕方生徒Aと教師1の会話)

 「おまえ、ファミコンに手を出したことについて反省したか。この前もいったようにファミコンは18才未満は禁止なんだ。それをよりによってお前が手を出すなんて---…-〔沈黙〕・・・…反省文を見せなさい。

 『ファミコンはタバコが体にいけないのと同様に心に悪いことはよく知っていました。このファミコンを両親に隠れてやるなんて僕は本当に気がゆるんでいたと思います。今後卒業するまでは絶対やらないと決意します。そのくらいの強い意志がなければりっぱな社会人にはなれないと思います。…(後略)」

 よくわかっているじゃないか。もう20才を越えて大人になれば全くダメというわけじゃないが、お前ら発展途上の者がこんなおそろしいものとかかわってどうする。」

 はたしてこんな滑稽なことが起きるだろうか。はたまたダッコちゃんのように今は知る生徒なしといった過去に遺物になるのだろうか。
私一人の杷憂であってくれればと願っている。