噴煙にこのことを書いてからもう一年がたってしまった。コンピュータの社会への浸透はこの一年もすざましいものがあり、全国的にはINS構想の具体化とか、東京世田谷での電話線火災とか、NHKでのコンピューター社会の病相の報告等、社会的ね話題にこと欠かない。長野県教育界においても、魅力ある学校作りの一環としてのパソコン導入、成人大学での活用が新聞の中信欄をにぎわした。また木曽高でもコンピューターと一緒に育ったようなY教諭の赴任等、この分野での話題も『かけはし』などでは話題にはならないが、着実に日常の一部となっているような気がする。
さて大型コンピューターのように遠い存在で一部の技術者占有のものから、天文ファンと天体望遠鏡のような関係を経てついに本格的に一般的な道具として学校の教育のなかでとりあげられるようになった。それにともない、コンピューター(パンコン)に対する一般の見方も批判的、問題提示的なものになってきた。(ちょうど、新しい事業計画に対する高教組の見解のように)。このことはパソコンの存在が無視して良い段階から、何らかの対応をせまられる対象になった証拠であると思う。
パソコンに対する反応はだいたい次の3種にわけられるようだ。
私はというと当然第3グループに所属していたわけである。ただしこの一年で今まで心の中でモヤモヤしていたことがかなりはっきりしてきて、第1グループに心を寄せるようになってきた。それは、プログラム作りにおいてはプロとアマの差が歴然としてきたことである。高視研なる研究団体でパソコン部会なるものか発足して、各校第三グループの猛者連が集合し、自作プログラムを発表する。趣味でそのプログラムを使うぶんには、全くかなわないわけだが、現場で『教育ソフト』を称して、もし、学習プログラムを使うとすれば、現段階では恐ろしいことだし、中身が少しわかるだけ、危険なことと思わざるえない。嬉々として現場にパソコンの活用を導入しようという方向に対しては反対であり、その意味では第二グループに所属している気分である。
プログラム言語の知識があるなしにかかわらず、これからの社会で電算機を介さない、生活、教育というものかなりの確度でありえないことと思う。一方ではコンピューターの青少年の心身への影響が心配され、もう一方ではきたる『高度情報化社会』へむけての構成員作りが問題にされている。この二つは明らかに相反する矛盾である。わたしたち教師はU教諭言うところの『バランス感覚』をもって、つかず離れず、冷静にかつ創造的にこの問題に『取り組んで』いかねばならないだろう。この一年いろいろな取り組みがあった。社会からの外圧が様々な面で強まっている現在、あくまで主体的に、広い視野、見地からこの問題への見解を持っていきたいと思う。