大意

関西大学

【Ⅰ】

ますます多くの研究が過度なソーシャルメディアの使用はすべての年代の精神面での健康にマナスな影響を与えうる。

アメリカの若者に関する最近の研究によれば,22%は一日に少なくも10SNSにログインしている。その多くはオンラインで虐めや不快な性的コメントにさらされ,研究者が「フェィスブック鬱」と呼ばれることを引き起こしている,と報告した。

他の研究では,オンライン上の友情の表面的な本質はまた,孤独感も引き起こしかねない。人々の生活で対面の接触の比率が大きければ大きいほど,孤独を感じることは少ない。

フェイスブックを使うと気分が落ち込む大人もいるが,違った理由からである。ミシガン大学での発見によれば,大人がフェースブックを使う時間が多ければ多いほど,より孤独になる。

大人のフェィスブック鬱は,たとえば,人々が自分たちだけで座り,友人が楽しんだり,何か興味深いことをしている無数の写真を見ているときに起きる。彼らは自分自身の生活と画面上で見ることを否定的に比較しているのかもしれない。

しかし,すべての研究者がこのことに同意しているわけではない。最初から孤独,あるいは内気な人はフェイスブックに長い時間をかける傾向がある,と主張する研究者もいる。

【2】

I'm a Stranger Here Myself: Notes on Returning to America After 20 Years Away

カリフォルニア大学,バークリー校の研究者が,最近,国民の歩行習慣の研究をし,アメリカの平均的な人は1年に120キロ以下,1週間に約2キロ,一日約300メートルしか歩いていないことがわかった。私自身も怠惰な部類であるが,この数字は驚くほど少ない。テレビ用リモコンを探すだけでももっと歩いている。

 

バークレーの研究によれば,アメリカ人の85%がほとんど体を動かさない。私たちは滅多に席を立って,動き回らない。さらに35%は全く動かない。私たちは座って,運転する国民になった。妻と私がイギリスからアメリカに戻ると決めたとき,私たちがしたかったことの一つは中心街の歩いて行ける範囲で用の足すことのできる町に住むことだった。私たちが定住したハノーバーはアメリカ北東部の典型的な小さな町で,快適で,落ち着いて,まとまっている。そこには,ダートマス大学の古く立派な建物と狭い本通り,植栽の施した住宅地の通りに囲まれた広い中央広場がある。簡単に言えば,徒歩で用事が済ますことが容易な快適な場所であるが,私が知る範囲ではほとんど誰もそうしていない。

 

私は家にいるときはほぼ毎日町の中心部へ歩いて行く。私は郵便局や図書館,書店に行き,時に,気が向けば,Rsey Jekes Caféにカプチーノを飲みに立ち寄る。時にはよる,妻とNugget劇場へ映画を見にぶらぶらと行ったり,ビールを飲みにバーへ行く。これらはすべて私の生活の大きな部分であり,徒歩以外では考えられない。人々は今ではこの珍しい行動に慣れているが,以前は何回か通りかかった知り合いが速度を落として歩道に近づき,乗るか聞いてきたものだ。

 

 「でも同じ方向ですが」,私が丁寧に断るとまだ言ってきてものだ。「全然大丈夫です」私は返答をしたものだ。「じゃ,本当に大丈夫ですね」そういうと,しぶしぶ,罪悪感を感じながら対去ったものだ。

 

人々はすべてのことに車を利用するのに慣れているので自分の足を使って,この下部の脚ができることを理解しようなんて思い浮かばないだろう。アメリカの敷地外での移動の93%は車の使用に関わっているということは述べておく価値がある。

 

ほかの時代の交通用に設計されたほとんどの北東部の古い町と同様にハノーバーは車にとりわけ優しい場所というわけではない。自動車による町への訪問はほぼ,駐車スペースを探す,長い,いらいらする時間に特徴づけられるだろう。これを改善するために自治体は車の流れを速めるために道路を拡張し,新しい駐車場を建設している。ダートマスは最近,キャンパスの中心部より駐車スペースを入れるために古い病院の建物を取り壊した。そもそも町が望ましいものになっているのはこうした特徴がないことだと理解できずに。

 

しかし,責めを負うのは本当に自動車なのだろうか。どこに行くにも2トンの金属を連れて行きたいと思っているのは人間なのだ。大学生が授業の合間に車を運転することを期待し,両親は車に乗り,3ブロック離れた子供の友達の家に迎えに行き,郵便配達員は通りの脇道を行ったり来たりする時代になっているのだ。私たちは20フィートの歩行を省くためにまで運転するだろう。

 

ほとんどばかげているときもある。先日,私は近くの町のエトナにいて,ピアノのレッスンを終える子供を家まで連れ帰るのを待っていた。地元の郵便局の外に車が止まり,私の年齢ぐらいの男性が出てきて,車のエンジンをかけたまま中へ入っていった。彼は3,4分中にいて,出てきて,車に乗り,16フィートきっかり離れた隣のスーパーまで車で行き,エンジンをかけたまま,また,中へ入っていった。

 

重要なのは,この男性は本当に健康そうに見えたことだ。彼はきっと長い距離ジョギングし,スポーツをし,ありとあらゆる健康的なことをしているだろう。だが,こうしたことをするたびに車を運転していることも確実だ。ばかげている。私の知人はいつも地元のジムの外の駐車場を見つけるのは大変だと嘆いていた。彼女はそこに週数回,ランニングマシーンで歩くために通っていた。ジムは玄関から歩いてせいぜい6分もかからない距離だ。私はなぜ,彼女は歩いてジムへ行って,マシーンでの運動を6分減らさないかと聞いてみた。彼女は私の事をおそろしく単純な人かのように見て言った。「でも,ランニングマシーンにはプログラムがあるの。距離とスピード,カロリー消費率を記録していて,難易度に応じて調整できるの」彼女の論理は私には全く理解できない。

 

新聞の最近の社説によれば,アメリカは250億ドルのハイウェイ予算の1%以下しか歩行者用施設に費やしていない。実は,そんなに多かったかと驚いた。過去30年間に開発された郊外のどこでもいいので,訪問してみなさい。どこにも歩道は見つからない。一つも横断歩道が見つからないこともある。事実は私たちはこの国ではどこでもあることをもうしないばかりか,どこにも歩いて行かないのだ。そのことが悲しいことでないとすれば,何が悲しいのかわからない。

 

【Ⅲ】

社会研究者は幸福の本質と人間はなぜ幸せになるのか本当に理解しているのか,ということに関して哲学的な疑問に興味を示してきた。最近研究者の中には,人々はあまりに自分と家族のために幸福状態を達成することに焦点をあてすぎ,このゴールに強く到達したがっていることに懸念を表明する学者もいる。実際,ますます多くの専門家たちが現代社会で喜びを求めるアプローチの仕方によって,実際には惨めに感じていると今では信じている。

 

西欧世界では,「自助」の大変長い伝統がある。人々は意識的思考と行動の変化によって情緒的,知的,財政的に自己を改善しようとしている。自助理論は平均的な人が読書を含む余暇時間を獲得するのにつれて20世紀中により顕著になった。しかし,自助運動が本当に盛んになったのは1980年代のことだった。これは西欧社会で社会的,経済的,技術変化の困難な時代から起きた,鬱率の上昇を受けたものであった。

 

運動の発展をかき立てた善意の意図にもかかわらず,オーストラリアの社会学者Hugh Mackayのような批判的立場の人は社会に害を与え始めていると信じている。自助運動は「産業と化した」と感じている。なぜならば非現実的な人生観を示し,幸福を商品として売ろうとしている講演者や作家たちに取って代わられたからだ。Mackayによれば販売されている支配的な考えは人々は常に明るく,幸せで楽観的でなければならない,なぜならそれが自然の状態だから,というものだ。その結果,人々が,もし自分が幸せでなかったら,自分の精神に問題があるのだと考えるのがますます一般的になっている。医師で作家のRuss Harrisの意見では,近年,「いつでも望むものを得られるわけではないということを認めることを拒否している」彼の近著「幸福の罠」で,Harrisは幸福に関する最近の一般的な考えが深酒や薬物使用,肥満の比率が上昇している原因の一部だと主張する。本当の満足を見つけられなければならないほど,短期間気分をよくしてくれる不健康な行為でギャップを埋めようとする。しかし,悲しみ,失敗,失望の気持ちを取り除こうとするとき,私たちの気分の落ち込みと不安の率が上昇し続ける。

 

現代の自助産業によって促進された「気分よく,前向きに考えよう」という態度の広まりとともに,関連した「自助運動」が登場していることにも専門家たちは気づいている。この見方によれば,両親が子どもたちのためにできる最も重要なことは子どもたちに自尊心と自己への自信を与えることだ。ゆえに親たちは人生の指南役の「幸福産業」によって,子どもたちが自分は賢く,特別だ,と感じるために,あらゆる機会で子どもたちを褒めるようにせき立てられている。

 

世界有数の幸福専門家の中には自助運動によって将来の世代は人生の失望するような事態には絶望的に準備ができていないのではないか,と心配している。研究者たちは一生懸命努力することの価値を学ぶのでなく,もし本当に欲しかったら,手に入るという信念を獲得しているのではないかと懸念している。スタンフォード大学心理学教授Carol Dweckは親たちは子供に努力させていないという事実に困惑している。難しい問題を解こうとする子どもたちの観測に基づく彼女の研究では人を褒めること(たとえば「才能があるね。特別よ」)は子供を不安にするだけだった。子どもたちは与えられて賞賛に答えようとするプレッシャーのために動揺したり,やったことについてウソをついたりする。しかし,過程を褒められる(「よく集中していたね,一生懸命やったね,いい戦略を使ったね」)子どもたちは難しい問題を楽しむ。この場合努力と戦略を適用し,強い意志を示すことができる。Dweck教授は親たちに子供に勝利についてだけでなく,苦労したことについても話すことを求めている。Harrisと同様に,彼女は失望することや不快な感情を遮断するよりは受けいれることが強い自己を作る重要な鍵だと主張している。

 

すでに精神健康専門家たちは自助運動の最初の犠牲者がセラピーに入っているのを見ている。2011年,アメリカのセラピストLori Gottliebは多くの若い世代,主に幸福で,愛情に満ちて,裕福な家庭の出身であるが,幸福にあまりに焦点を当てすぎ,子どもたちを困難なことから守った,保護的な子育てのために混乱と不安,空疎感を感じていた。本当の世界に出てからは,ちょっとした障害でもこうした若者にとっては大惨事になった。

 

若者の中にはこのような問題と取り組んでいるという事実によってHugh Mackayは人生の主な目標としての成功と幸福の追求を超えたところを見なければならない,と書く気持ちになった。Mackayによれば,もっとも重要なことは他の人々とその人たちの幸福のための私たちの責任との関係を作りだすことだ。そうすることで共同体の成長は支えられる。共同体は人生を生き延びるために必要不可欠なものだ。もし私たちが幸福にしか焦点をあてないとすると私たちは幅広い感情の豊かさを無視していることになるだろう。実際,悲しみを知らなければ,幸福のありがたみもわからないだろう。