*毎年のことですが,大意を書いたり,正確な解答を得るために全訳をざっくり書いていますが,正確を期していません。単なる大意で誤字/脱字も編集していません。機械翻訳よりちょっといいくらいのレベルです。あしからず。
① 私たちの周りには,不況下においても,20世紀初頭依頼,類を見ないくらいの個人的な富のレベルを目にしている。豊富な消費財の際だった消費,たとえば,家や宝石,車,衣類,ハイテクおもちゃなどがここ30年にわたって大きく伸びている。アメリカ合衆国やイギリスや他の数カ国では,金融取引が個人の財産の源として製品やサービスの生産に取って代わり,私たちが様々な経済活動におく価値観をゆがめている。貧乏な人々と同じく裕福な人々も常に私たちのまわりにいた。しかし,他の全員に比べて,記憶が許す限り,現在ほど裕福で目立っていることはない。個人の特権は理解し,説明しやすい。私たちが陥っている大衆の卑しさの深さを伝えるのはずっと困難である。
②私たちが沈んでいる深さ(どん底)を理解するためには,まず最初に私たちを襲った変化の大きさを測らなければならない。19世紀後半から1970年代までに,西欧の先進社会は全て不平等の度合いが減少していた。累進課税や貧しい人々のための政府の補助金,社会サービスの提供,突然な不幸に対する補償のおかげで,現代の民主国家は極端な富と貧困を減らしていた。大きな相違が残っていたことも確かだ。本質的に平等国家であるスカンジナビア諸国と南ヨーロッパの際だって多様性に富む国々の違いは残っていた。そして,英語を話す北米と大英帝国は積年にわたる階級の違いを反映し続けていた。しかし,それぞれの国家はそれぞれのやり方で節度のない不平等に対する不寛容の高まりによる影響を受け,個人の不適切さを補う公的な支援を開始した。
③ 過去30年間の間に私たちはこれら全てを捨て去ってしまった。確かに「私たち」は国によって異なる。個人の特権と公的な無関心のもっとも極端な例はアメリカとイギリスで表面化している。両国は規制緩和の市場資本主義をもっとも推進した中心国家である。ニュージーランドとデンマーク,フランスとブラジルのようにかけ離れた国々が規制緩和に断続的に興味を示したが,イギリスとアメリカが30年間たゆまず社会的な規制と経済監督の時代を解き放すことに関わったことに匹敵する国はない。
④ 2005年にはアメリカの国民の収入の21.2%がわずか1%の所得者に帰していた。ジェネラルモーターズのCEOが給料と利益で,平均的なGMの社員に払われた給料の約66倍もらっていた1968年と比べてみなさい。今日,Wal-MartのCEOは平均的な従業員の賃金の900倍稼いでいる。実際,2005年のWal-Martの創始家の富はアメリカの人口の下位40%,1億2千万人の富(900億ドル)と同じだと見積もられている。イギリスも収入や財産,健康,教育,機会において1920年代以来,もっとも平等でなくなっている。EUのどの国よりもイギリスにおいて貧しい子どもたちがいる。1973年以来,手取りの給料の不平等はアメリカを除くどの国よりも大きくなっている。1977年から2007年の間にイギリスで産み出された新しい仕事のほとんどは給料の幅の一番高いところか低いところのいずれかである。
⑤ その結果は明かだ。世代を超えた移動の崩壊がある。イギリスの現代の子どもたちは親や祖父母に比して,アメリカと同様に,自分が生まれた状態が改善するという期待がほとんどない。貧しい人は貧しいままである。圧倒的多数に対する経済的不利益によって,病気,教育機会の遺失,そして,(ますます),よく見慣れた気持ちの落ち込みの症状,すなわちアル中や肥満,ギャンブル,少年犯罪が生まれている。失業者あるいは不完全雇用者はこれまでに身につけてきた技術は全て失い,経済にとっては慢性的なやっかいものになっている。病気や早死にはいうに及ばず不安とストレスがそれに続くことが多い。
⑥ 収入の不均衡が問題を悪化させている。したがって,精神病の発生率はアメリカ,イギリスでの収入と密接に関係し,一方,ヨーロッパの全ての国において,この2つの指標は全く関係していない。私たちが同胞市民に持っている信念,信頼感でさえ収入の相違とは負の相関にある。1983年から2001年の間,不信感がアメリカ,イギリス,アイルランドで顕著に増大した。この3カ国では,規制のない個人の利益に対するドグマがもっとも徹底して公的な政策に適応された。これほどまでに相互の不信が増大した国は他にない。
⑦ それから,不平等は単にそれ自体が魅力的でないというだけではない。その根本的な原因に関わらない限り取り組むことのできない社会的な問題と明らかに関係している。幼児死亡率や余命,犯罪,囚人の数,精神病,失業,肥満,栄養失調,10代の妊娠,違法ドラッグ,経済不安,個人の負債,不安がヨーロッパ大陸のどの国よりもアメリカ,イギリスで顕在化している理由がある。少数の金持ちと多数の貧困者の差が開けば開くほど,社会問題は悪化する。これは貧しい国にも豊かな国にも当てはまるように思われる。問題は国がどのように豊かであるか,ではなく,国がどのように不平等であるか,ということだ。従って,一人あたりの収入,すなわちGDPにおいて世界で最も豊かな2国,スウェーデンとフィンランドはもっとも裕福な市民ともっとも貧しい市民を隔てるギャップが大変狭く,この2カ国が常に計測可能な幸福の指標において世界をリードしている。逆に,アメリカはその巨大な富全体にも関わらず,常にこのような指標では下位に来る。アメリカは巨額の医療費を使うが,アメリカの寿命はボスニアより低く,アルバニアよりわずかにいい,という状態が続いている。
⑧ 1970年代ぐらいでも,人生の目的は金持ちになることで,政府はこのことを実現するために存在する,という考えはバカにされたことだろう。伝統的に資本主義に批判的な人々ばかりでなく,堅固な資本主義擁護者によっても。富自身のために富に対する相対的な無関心は戦後の数十年間は広く存在していた。1949年に行われたイギリスの男の子たちに対する調査では,知能が高ければ高いほど,単に給料がよい職業より,適度な給料で興味のある職業に選ぶ可能性があることがわかった。現代の生徒や大学生は儲かる仕事を探す以外のことはほとんど想像できない。物質的富の追求に取り憑かれて,他のことには無関心な世代を育ててしまった償いはどのように始めたら良いだろうか。おそらく,今のような状態が常にあったわけではない,ということを自分自身にまた,子どもたちに想起させることから始められるかもしれない。私たちが初めて30年になる,「economistically」な考え方は人間本来のものではない。私たちは違った形で生活を形成していた時代があったのだ。
各段落の要旨
①現在ほど裕福な人が裕福な時代はない。一方で人はいやしくなってしまった。
②19世紀後半から1970年代までは,様々な施策で社会の不平等は減少していた。
③過去30年の間に特にアメリカ,イギリスにおいて規制緩和と市場主義を推進した。
④イギリスとアメリカでは貧富の格差が拡大した。
⑤貧富の格差により階級が固定化し,貧しい人は経済的不利益によって多くの様々な問題を抱えている。
⑥貧富の格差が諸問題の根源であり,格差の少ない国では貧富の差と多くの問題とは密接な関係がない。
⑦社会の問題の本質的な解決には貧富の格差の縮小にある。
⑧富だけに価値を置く世代を生みだしたことへの反省は,そうした価値観に全ての時代が支配されていたわけでない,ということを想起することだ。
貧富の格差と社会問題
アメリカ,イギリスでは過去30年間の規制緩和と市場原理主義によって貧富の格差が増大し,様々な社会問題が顕在化している。格差の少ない国から学び,問題解決のためにより平等な社会に回帰する必要がある。(97字)
①私たち二人は,10年以上前に,クリスがハーバード大学心理学科の院生で,ダンが新任の助教授として着任したばかりの時に出会った。クリスの研究室はダンの実験室の廊下の先にあり,私たちはまもなく二人とも私たちが視界の知覚,記憶,思考方法について興味があることがわかった。クリスが教授助手としてダンが教えた研究方法の授業で,学生達が授業の一環として実験を手伝い,その一部は有名になっている。1970年代に認知心理学の先駆者Ulric Neisserによって行われた視覚注意と認識に関する独創的な一連の研究に基づいていた。NeisserはDanがコーネル大学の大学院の最終学年の時に異動してきており,二人の度重なる会話によってDanはNeisserの初期の画期的な研究を積み重ねようと思った。
②学生を臨時の俳優に,心理学棟のあいたフロアーをセットにして,2つのグループが動き回って,バスケットボールをパスする短い映画を作った。1チームは白いシャツを着て,もう1チームは黒を着た。Danはカメラの配置と監督をし,Chrisは動きを作り,撮影に必要な場面をのがさないようにした。それから,フイルムをデジタルで編集し,学生はハーバード大学のキャンパスに出て,実験を行った。彼らはボランティアに黒いシャツを着ている人のパスは無視して,黒いシャツを着ている人のパスの数を静かに数えるように頼んだ。ビデオは1分もなかった。ビデオが終わるとすぐに,学生達は被験者に何回パスを数えたか聞いた。正解は34回,あるいは35回だったかもしれない。正直言うと,それは問題ではない。パスを数えるタスクは画面上の動きに注意を求めることをさせておくためのものだったが,パスを数える能力には実際の所興味はなかった。私たちは実際には別のことを実験していたのだ。ビデオの中盤で,黒の全身ゴリラの着ぐるみを着た女子学生が場面に登場し,パスをしている人の真ん中で立ち止まり,カメラに向かい,胸をたたき,歩き去る。約9秒間のことだ。
③パスについて聞いた後,驚いたことに,私たちの研究の約半数の被験者ゴリラの存在に気がつかなかったことがわかった。その後,実験は何回も,異なった状況,様々な被験者,複数の国で繰り返されているが,結果は常に同じだ。すなわちやく半数の人々はゴリラに気がつかない。どうしてゴリラが目の前を歩き,こちらを無期,胸をたたき,歩き去るのが見えない,ということがあり得るのだろうか。どうしてゴリラは見えなくなっているのだろうか。この認知の誤りは予期しないものへの注意の欠如に起因し,したがって科学的には “inattentional blindness”(不注意による見落とし)という言葉になる。この名前は損傷した視覚組織に起因する見落としと区別している。ここでは,人々はゴリラを見ないが,目の問題で見えないのではない。人は視界のある特定の範囲,要素に注意を傾けると,予期しないものに気がつかない傾向にある。たとえ,こうしたものが目立っていて,潜在的には重要で,見ているその場所に現れた時でも。言い換えると,被験者パスを数えることに集中するあまりに自分の眼前にいるゴリラが「見え」なかったのだ。
④しかし,私たちがもっとも興味を持ったのは一般論としての不注意による見落としでも,この場合のゴリラ研究でもなかった。人は物事を見落とすという事実は重要だが,さらに印象深かったのは自分たちが見落としたものが分かったときに示した人々の驚きだ。ビデオをもう一度見た時,今回はパスを数えることなしに,全員が簡単にゴリラを見ることができて,ショックを受けた。思わず「これを見落としたの!?」とか「ありえない!」という人もいた。ある男性は「最初の時はゴリラは通過しなかったよ」と言った。また,彼らが見ていないうちにテープを入れ替えたと非難する被験者もいた。
⑤ ゴリラの研究は,おそらく他のどの研究よりも劇的に「錯覚」の強力で広範な影響を説明している。私たちは思っているほど自分たちの視界を経験していないのだ。注意に対する限界が十分分かっていたら,この幻想はなくなるだろう。私たちが世界のある側面,特に注意の中心にあるような事柄については生き生きと経験することは確かだ。しかし,この豊かな経験によって私たちの周りの全ての詳細な情報を処理している,といった誤った信念につながるのは避けられない。本当は私たちの世界の一面を生き生きと見ていることは分かっているが,その注意が向けていない世界のことは全く意識していないのだ。私たちの生き生きとした視覚経験によって,顕著な心の盲目を気づかせないでいる。すなわち,私たちは視覚的に目立ったり,珍しいものは私たちの注意を引くものだと思っているが,実際には全くきずかれずにすむこともよくある。
⑥それでは,予期しないことを気づくのは誰だろうか。効果は大変印象的で,気づく人と気づかない人の数のバランスも印象的なので,私たちの人格のなんらかの重要な側面がゴリラに気づくか,気づかないか決定していると想定しがちだ。ゴリラのビデオを性格型を決定する重要な要素としたいという直感的な希望にも関わらず,注意力や他の能力の個人的な相違が不注意による見落としに影響を与えているという証拠はほぼない。例えば,ゴリラの実験を経験した多くの人は一種の知能あるいは能力試験だとみなしているが,ハーバード大学院で最初に行われた研究はそれほど有名ではない大学,学生ではない被験者でも同じ結果だった。同様にNokiaのオンライン調査によれば,男女の60%が女性はマルチタスクを得意としていると考え,女性のほうが男性よりもゴリラに気がつく可能性が高いのではないかと示唆している。残念なことにマルチタスクに関する一般の考えを支持する実験的な証拠はほとんどないし,男性の方が女性よりもゴリラを見落としやすいとする証拠も見つかっていない。
⑦もしこの錯覚がそんなに一般的ならば,私たちの種はどうやって生き残りそのことについて書けるのだろうか。なぜ,先祖候補の祖先は捕食者に気づかないことですべて食べられてしまわなかっただろうか。一部には,不注意による見落としとそれに伴う錯覚は現代社会によってもたらされたものだ。私たちの祖先は認識に対して似たような限界を有していたに違いないが,それほど複雑でない社会においては,認識すべきものも少なかった。というのも,直接の注意を必要とするものや出来事が少なかったからだ。これに対して,技術の進歩によって,私たちはずっと多くの注意を,それもますます頻繁により少ない時間で要求する機器を得ている。私たちの視覚,注意の神経回路は歩行者のスピード用に作られており,スピードを出した運転用ではない。歩いている時には予期せぬ出来事に気づくのが数秒遅れてもたいしたことにはならないだろう。しかし,運転しているときには予期せぬ出来事にたとえ10分の1秒遅れただけでも,自分があるいは誰か他の人が死ぬこともある。科学技術は私たちの能力の限界を克服するのに役立つ可能性があるが,それは,どんな科学技術にもまた限界があるということを認識している場合に限る。この意味において,私たちの注意の限界を克服するために使う補助具として錯覚を一般化する傾向にある。しかし,私たちは錯覚を認識することによってのみ私たちが見る必要のあるものを見逃さない方策をたてるのに役立つということを心にとどめておかなければならない。
各段落の要旨
①視覚注意と認識に関する実験
②実験の概要:注意が向けられないところにあきらかにおかしなゴリラを登場させる。
③パスの回数を数えることに注意を向けると,他に気がつかない人がいる。これを不注意による見落としと言う。
④自分があまりにはっきりしたことに気づかなかったことに驚く。
⑤視覚的には見えていても認知されない錯覚が存在する。
⑥明かなものに気づくか気づかないかは,教育,性差など関係ない。
⑦このような情報の取捨は昔からあったが,科学技術の進歩によるところが多い。
予期していないことを見落とすことが大きな事故になることは意識すべし。
錯覚の科学:見えないゴリラの着ぐるみ
ボールのパス回しを数えるという課題中に着ぐるみのゴリラを登場させても,そのゴリラに気づかない人がいる。あることに注意すると,他の予期せぬことを見逃す錯覚がある,という事実を認識しておくことは重要だ。