2009年度入試

【大意】

【明海大・2月1日】

T

 北極の限られた地域にしか見られない巨大な動物,北極熊がアメリカ政府によって絶滅の危機に瀕した動物リストに付け加えられた,とThe Beaufort Gazette紙の記事が伝えている。最近,米国内務長官Dirk Kempthorneは地球温暖化のために海氷が溶けて,北極熊が直面している厳しい状況を示す発表をした。

 

 北極海の氷は北極熊の生息地と生存にとってきわめて重要だが,過去数10年で急激に溶けてる。絶滅危惧種法による新たな定義によれば,公式に危機に瀕していると考えられている北極熊は推定25千頭いる。

 

 北極熊保護の問題は動物が抱えている状況を認識することを意味している。しかし,Kempthorneはぶっきらぼうに絶滅危惧種法は「アメリカの気候政策を決める正しい道具ではない」と言った。北極海で油田掘削をやめる会社がいない,という事実によれば。

 

北極熊をさらに保護することが北極の氷の融解をもたらすのかどうか疑問を呈す環境保護論者が多い。「彼らは世界の環境に責任を持つ人もおらず,ただ,名目的にこのことを危険にさらされているリストに入れようとしているだけだ。これが機能することはない。」とDefenders of Wildlife「野生動物の守護者たち」に属し,前米国魚類野生動物庁,長官は語る。

 

絶滅危惧種リストに北極熊を入れることは地球温暖化による海の氷の溶解を祖阻止することはないと信じている人もいる。2007年には,北極は1970年と2000年の間の平均水位より39%低かった。夏期に溶ける北極海の氷はすざましい。科学研究によれば,全北極熊の約3分の2は海洋の氷が溶けることで2050年までに消えているだろう。アラスカからグリーンランドにかけての北極海の北極熊の頭数は1960年以来12千頭から25千頭まで倍増したが,現在,科学者は北極熊のきわめて重要な生息地の消失によって引き起こされる北極熊の大幅な減少を予測している。これによってますます地球温暖化問題と取り組む理由になっている。

絶滅危惧種の仲間入りした北極熊
北極熊がアメリカ政府によって絶滅危惧種のリストに加えられた。地球温暖化で急速に北極海の氷がなくなり,このことが北極熊の生存を脅かしている。北極熊保護のためにも地球温暖化阻止に取り組むべきだ。(95)

 

U

 人はいくつかの理由で嘘をつく。まず,他の人に自分のことをよく思ってもらう,とか自分を恥や認められないことから守るために本当のことを言わない。現代社会の嘘をつくことに関する研究では,ある少女は友人にある男の子は今でも彼女のことが好きだ,と言った。しかし,それはもう事実ではないことを知っていたが。彼女は彼が自分のことに興味をなくしたことを恥ずかしいと思い,このことを友達に言いたくなかったのだ。

 

 第2に人々は他の人に優位に立つためにウソをつく。たとえば,応募者は次の職でより高い収入を得るために面接試験で現在の給料を誇張するかもしれない。

 

 第3に人々は罰を逃れるためにウソをつく。たとえば,子どもたちは両親に夕食前にクッキーを食べたと言わないかもしれない。お仕置きをされないように。これまでに述べたすべてのうそは自分中心で,ウソをつく人をよりよく見せる,とか個人的な有利を獲得しようと意図されたものだ。ウソに関するある研究者のリサーチでは人々がついた約半数のウソは自分中心だった。

 

4番目に人々はまた他の人をよく見せるためにウソをつくか,ウソは他の人を助けるためになされる。たとえば,生徒は先生に友達が病気だと言う。友達は別の理由で学校を休んでいると知っていても。また,別の場合では,ジュディは友達のサリーに,以前のボーイフレンドが彼女のもとを去った後で,もう腹を立てるのをやめて,新しい,もっとやさしいボーイフレンドを見つけると言う。少女は友達の気分と自信を持たせるためにこの真実でないことを言ったのだ。こうしたウソは他者中心だ。人々がつくウソの約25%はこの分類に入った。

 

5番目に人々は個人的,職業的関係がうまくいくようにいわゆる「社会的なウソ」をつく。こうする人は,もし,人々がいつでも互いに本当のことを言ったら,会話や他の社会的な交わりが気まずい,失礼な,あるいは問題のあるものになってしまうと感じているようだ。同僚と適切な関係を保つためには,昼食に誘われたとき,その人が嫌いで,従って一緒に外食はしたくないのだというより,忙しくて出かけられないというほうがいいと感じている。同様に夫は妻がセールで買って,店に返却することができないと知ったとき,本当は気に入らない妻の洋服について肯定的なコメントをすることにするかもしれない。

人が嘘をつく5つの理由。
嘘の研究によれば,人のつく嘘には自分をよく見せたい,有利に事を運びたい,罰から逃れたいという自分中心の嘘と,他の人を助けようとしたり,相手との関係を良好に保ちたいと思う他者中心の嘘がある。(94)

 

 

【東京理科・工】

大問1

 近くのスーパーの数が減り続けているため,何百万人ものニューヨーカーが家から歩いていける距離で新鮮で,手軽な食料品を見つけるのが難しくなっていると,最近の都市研究が伝えている。近所のスーパーが不足しているのは,少数民族,貧困地区でもっとも激しい。

 

 食料品労働組合によれば,適度な大きさのスーパー(少なくとも一つが1万平方フィート)は都市には550しか残っていない。クィーンズ地区南東部の一角ではこの2年間で4つのスーパーが閉店している。イースト・ハーレムでは同時期に6つの小さなスーパーが閉店している。「この地区ではもう2店が瀬戸際にあります」と地区職員は語った。

 

 実際,この傾向は貧困地区に限られている。スーパーの閉店はとりわけ賃料の上昇,少ない利益から起因している。スーパーの閉店で住民は他地区の最寄りのスーパーまで行くのにバスやタクシーに乗らなければならない。住民によれば,多くの場所で,競争がないため,残りのスーパーでは価格上昇が起きている。

 

 手軽に新鮮な食料を手に入れることが減ったので,市,州の職員は一般の健康に及ぼす可能性のある影響を検討するよういくつかの対策委員会を立ち上げた。

 

 「低所得者区の多くの人々は新鮮な商品がないディスカウントストアーやドラッグストアで食料品を買う予算を使っています」と市の都市計画責任者Amanda Burdenは語った。「私たちの調査では,かなりの割合の人々が1日と2日新鮮な果物や野菜を食べていないと報告してきました。それはこの市では本当の健康危機です」

 

 スーパーの成長にはずみをつけるために,職員は都市所有の物件を提供し,経済的インセンティブを提供したり,要求の緩和をすることを検討できるだろう。

 

 「まずどうして店が閉まっているのか,障害は何なのかはっきりさせなければならない。こうした地域でのスーパー所有者の投資を刺激することはこの町の将来には必要不可欠です」とMs. Burdenは言う。

 

スーパーの閉店と住民の健康

ニューヨークの貧困地区ではスーパーの閉店が相次いでいる。新鮮な商品の入手が困難になり,市民の食生活が変化している。市関係者は現状を分析中だが,スーパーの地域の健康への役割の重要性を再認識している。

(98)

 

大問2

 ロボットはまだSF映画で見られるおしゃべりな仲間からはほど遠い。しかし,おもちゃのロボットの中にはただ複雑な機械以上になりつつあるものもある。最近試作機は高さ17センチしかないが,手足を動かすのに17ものモーターをもっており,驚くほど柔軟になっている。ロボット工学の教授,James Kuffnerによれば,ロボットは20個以上のモーターがあればほとんどの人間の動きをまねることができるだろう。このようなロボットが人間そっくりの形をしているのは偶然ではない。彼は言う。「人間の形は魅力があります。食器洗い器はお皿しか洗わないですが,人間型ロボットはもっとできます」ロボットがすることの中には戦いがあります。Kuffner教授はおもちゃのロボット産業の中心地である日本や韓国では,頻繁におもちゃのロボットバトルを開いています。

 

 2026年までには,日常生活の中で人間が危険だとか不快だと思う仕事の多くが商品化されたロボットができるはずだ,と見積もっている。ロボット設計,研究の指導的な会社は標準的な12才の子供の大きさのロボットがほとんどの家事をできるだろうという見通しを持っている。その大きさのロボットを作る障害は重さとコストと関係している。ロボットが大きくなると,より多くの動かすギアが必要となり,そのためロボットはより重く,より高くなる。

 

 ロボットはまたより人間に似るようになるかもしれない。顔の特徴ときめの細かい手を加えて,しかし,それは心理的な問題を提起している。すなわち,もし人間に似すぎていたら,ロボットが人間に与える奇妙な印象だ。実際,本当には人間ではない人間的なものに近づくと,怖いと感じることもあるだろう。しかし,Kuffner教授はおそれることはない,と言う。もしロボットが脅威になったら,「電池を抜けばいいだけです」

 

おもちゃのロボットに見るロボットの未来

人間とほぼ同じ動きをするおもちゃのロボットが登場している。重さとコストの問題を克服すれば将来的には危険な仕事や家事をこなすロボットが登場するだろう。あまり人間に似れば心理的な問題が起きるかもしれない。

【電通大・前期】

T

オーストラリアの絶滅の危機に扮した言語のための技術

 メルボルン大学のコンピューター研究者が何千という世界の絶滅の危機に瀕した言語をデジタルで保存する新たな国際的任務を率いている。言語学者は世界6000言語のうち90%が今世紀のうちになくなるだろうと見積もっている。こうした言語のほとんどは書き留めておらず,したがって,その文化は,何世紀もの時間をかけて発達してきたが,永遠になくなってしまうだろう。

 

 Steven Birdは最近ペンシルベニア大学からこの大学に加わった。ベンシルベニア大学では,言語技術,自然言語を使って意思疎通ができるコンピューターソフト,を研究するチームを率いていた。先月,彼はフィラデルフィアに戻り,OLACOpen Language Archives Communityを始めた。OLAC6カ国25のデジタルアーカイブの国際的ネットワークであり,現在3万以上の項目を有している。それは辞書,文法,研究ノート,文書による記録,音声記録などである。ネットワークは急速に成長しつつあり,より多くの学者が研究題材を収集,アップロードしている。Birdはこの企画にGary Simons博士とともに取り組んでいる。Gary Simons氏は世界最大の言語研究組織の副会長である。

 

 「私たちは人類史上これまでにない時代に生きている。デジタル時代の始まりと多数の世界の言語の終わりの狭間である。強大な量の言語データを音声,ビデオ,文書として集め,広めることは簡単だ。私たちは一度データを収集するだけでいい。そうすれば,すべての将来の世代が利用できるだろう。それが科学者であろうと,自分たちの祖先の言語を学習したいと願う現地の人であろう。しかし,その機会の窓は急速に閉じつつある。」とBirdは言う。

 

 残念なことに,デジタル保存は数多くの問題に直面している。ほとんどのデジタルメディアと保存フォーマットは5年もしないうちに使えなくなるそして,絶えず現在のメディア,フォーマットに変更されなければならない。多くの言語データは5年から10年後には(マイクロソフトでさえ)開くことのできないMicrosoftフォーマットで保存されている。にもかかわらず,Birdは楽観的だ。「辞書を作り,音声記録を文書に直す私たちの新しいソフトはUnicode円コーディングとXMLで保存できるだろう。こうしたオープン規格によってデジタル情報はいつでも読み取れるだろう。

 

 この楽観論にもかかわらず,より多くの資金が必要とされている。Oxford University Pressによって出版された「消えゆく声」Vanishing Voicesという最近の本の中で,NettleRomaineは次のように語っている。「オーストラリアの250の言語のほとんどがすでに姿を消し,長期的には生き残りそうな言語はほとんどない,ということを知っていたり,気にかけている人はほとんどいないようだ。」1998年以来,オーストラリア研究委員会(Australian Research Councilはオーストラリアの言語に関して13の企画にしか資金を提供していない。私たちはたくさんの言語学者を必要としている。デジタル記録と保存の技術をもって,現地語を話す人に協力を要請できる学者を。今日,ほとんどのアーカイブは届けられる新しい資料に追いつくことはできない。たとえば,キャンベラのアボリジニ電子データ文書局(Aboriginal Studies Electronic Data Archive)には1ヶ月に100時間の速度でデジタル化されている24000時間に及ぶ記録がある。こうした資料のわずか3%しか,文書の形式にはなっていない。加えて,その言語の話し手が死んでしまうと,資料は理解できなくなる。

 

 オーストラリアは独特の立場にある。私たちはこの地域(東南アジアと太平洋)2000の言語を有しているが,そのほとんどは実際には科学には知られていない。Ethnologue.comが集めたデータによれば,オーストラリアは他のすべての国を足したよりも,多くの絶滅の危機に瀕した言語を抱えている。(図1を参照)他の国では,基金を得るのがより容易だ。過去15年間にわたって,Birdは英,米政府からの研究補助を1700万ドル集めている。昨年だけで,イギリスの慈善基金は大規模な言語文書化プロジェクトに5000万ドル以上確保した。

 

 Bird自身のフィールドワークは西アフリカのカメルーンで行われた。カメルーンには270の異なった言語がある。Birdはまだ研究されていない言語を研究する最初の人物になったことに大変興奮した。特別なハードとソフトを使って,何千もの発話記録を含む大きな電子データベースを作り出し,言語を分析し,その中の言語一つの初の辞書を共同執筆し,他の人と協力して,10の新しい書き方の開発に取り組んだ。オーストラリアでは,オーストラリアの言語学者と現地の学者たちと密接に協力し,オーストラリアの言語のデジタル保存を支援する新しい技術に取り組むことを望んでいる。

絶滅の危機にある言語のデジタル保存
世界中の絶滅しつつある言語を収集,分析,デジタル的に記録,保存しようとする国際組織がある。最大の絶滅危機にある言語を抱えるオーストラリアで新たな技術を活用し,保存しようと活動を始めた科学者がいる。

 

U

最初の4分間

 

 ある人と友達になって,他の人とはそうならない理由は何かと思ったことがありますか。Leonard Zunin博士によれば,人々が友達になるか,ならないかは,少なくとも,二人が最初に会ったとき,すなわち,最初の「出会い」でのお互いの関わりあいかたで少なくとも部分的には決定されるそうです。彼が書いた本,「出会い:最初の4分間」で,Zunin氏は「見知らぬ人,友達,恋人,子供,上司,先生,政治家,あなたの個人的な世界での登場人物全体との出会いについて論じています。しかし,彼の議論のもっとも興味深い部分は出会いの最初の4分間がその後の関わりあいかた,ひょっとしたら,すべてを決定づけるのに重要である可能性があるという考えだ。

 

 Zuninの研究の一部は,見知らぬ人同士の関わり合い方を観察することで構成されていた。こうした観察によって,4分間が,見知らぬ人同士が関わりを継続するか,わかれるか決定する前にすぎる平均的な時間であったことがはっきりした。たとえば,2人に人が初めて紹介されたとき,彼らが誰か他の人と話をするために離れる前に数分間おしゃべりをすることは普通のことだ。ほとんどの人は無意識に行動しているが,彼らは新しい人と最初の数分間を過ごさなかったら落ち着かなく,失礼だろうと感じるだろう。しかし,3分から5分以上そうしなければならないとも感じていない。彼らはそうする何らかの理由があれば,出会いを続けるだろう。

 

 それが平均的な人にはどのような意味を持つだろうか。関係は両者がそれを求めるのに興味を持ったときだけしか発展しない。そこで,どうやって,あなたが誰かに興味を持っている,と伝えることができるだろうか。新しい友人関係を始めたかったら,Zuninは言っています。「社交の場で誰かに会ったら,その度に4分間個人的な興味をその人に持ちなさい。」たとえば,パーティーに行ったことがあるでしょう。まるで,もっと話がおもしろい人を探しているかのように,あなたの肩越しを,あるいは部屋中を見回している男性を紹介されるでしょう。Zuninの発見によれば,その人の行動のためにその人に興味を失い,友情を求めようとしなくなるのです。言い換えると,友達になりたいと思う人には出会いの最初の4分間に十分な注意をその人に与えることが大切なのです。

 

 最後に,Zuninは出会いの最初の4分間は家族にとっても大切だと主張します。私たちの家族とは長い歴史があるので,彼らが望むような態度をいつもとらなくても,理解して許してくれるでしょう。にもかかわらず,長いこと家族と会わなかったら,最初に会ったときに,すぐに問題やら不満について話し始めるのは賢明なことではありません。かわりに気持ちのよいことについて話したら,あなたに満足して,後で問題を対処するときもうまくできる可能性が高いのです。

 

 Zunin博士の助言の有用性について疑問があるのなら,少なくとも彼の提案を試してみなさい。次にパーティーや他の社交的な集まりに出席した時には,出会いの最初の数分間は自信があって,注意深く,自分に満足しているように見えるように全力を尽くしなさい。それはやってみるだけに価値があるとわかるでしょう。

出会いにおける最初の4分間の重要性
Zunin博士の近著,「出会い:最初の4分間」によれば,見知らぬ人同士のその後の関係は最初の4分間でほぼ決定される。初めて会った人には最初の数分間精一杯の興味を示し,真剣に向き合うことが友人を作る上で重要だ。(97)

 

【旭川医科・後期】

問題1

 メキシコに住むマヤ族の子孫は今でも自分たちのことを「トウモロコシの民」と呼ぶことがある。この言い方は比喩のつもりはない。むしろ,この奇跡的な植物,ほぼ9000年に及ぶ主食への長きに及ぶ依存を認めようとしているのだ。一日に一人のメキシコ人が食べるカロリーの40%は直接,主にトリティーアとして,トウモロコシから摂取される。そこで,メキシコ人が「私はトウモロコシだ」とか,「歩くトウモロコシだ」という時には,それは単に事実を述べているだけだ。まさにメキシコ人の体の物質はかなりの程度でこの植物を体現したものだ。

 

 私のような大変異なった植物連鎖に結びついて育ちながら,それでもはトウモロコシ畑に根を下ろしているアメリカ人にとっては,自分はトウモロコシ人間だと考えないことは,想像力の欠如か資本主義の勝利かいずれかだ。あるいは,両方の要素が少しずつ入っているだろう。実際,コーラのビンやビッグマックの中にトウモロコシを認めるには多少の想像力がいる。同時に,食品産業は私たちに,スーパーの45000種の品目すなわちSKU(最小在庫管理単位)(毎年17000の新しい品目)が,同じ植物から抽出された分子の巧みな采配列というより,純粋な種類を表していると説得するのを見事にやってきている。

 

 しばしば,あなたは食べたものそのものだ,と言われる。そして,このことが正しければ,私たちの体の大部分はトウモロコシ,より正確には加工されたトウモロコシだ。この主張は科学的な証明を受けることができる。ミイラの遺体から古代の食事の構成を詳しく調べる同じ科学者たちが髪や爪の一部を使って,あなたや私のために同じことをできる。その科学が機能するのは,人間の組織内にある安定した炭素の同位元素を確定することによって機能する。この同位元素を確定すると,もともと,大気中から摂取され,植物連鎖に組み込まれた様々な種類の植物がなんであったのかわかる。というのも同位元素は個々の植物の身元証明のようなものだからだ。これは大変複雑な過程であるが,やってみる価値はある。というのもどのようにして,トウモロコシが私たちの食事を制覇し,結局は,私たちを含む生存するどの種よりも地球上の表面を制覇することができたのか,少しはわかるようになるだろうから。

 

 水に次いで,炭素は私たちの体内,実際には地球上のすべての生物のもっとも一般的な元素である。私たちいわゆる地球人は炭素体である。もともとは,私たちを構成している炭素の原子は2酸化炭素の一部として大気中に浮遊していた。生命を維持するのに必要な分子,たとえば,炭水化物やアミノ酸,タンパク質,脂質といったもののために,こうした炭素原子を獲得する唯一の方法は光合成によってである。触媒として太陽光を使って,植物の緑色細胞は大気中から取られた炭素原子を土壌から取られた水や元素を結びつけてすべての植物連鎖の基礎にある単純な有機化合物を形成する。植物が「どこからともなく(希薄な空気から)生命を生み出しているというのは,単なる言葉のあやではない。

 

 しかし,トウモロコシの過程は他の多くの植物とは少し違っている。その相違によって,この植物は他のほとんどの植物より効率的になっているばかりか,それが摂取した炭素原子の特徴をずっと保ち続ける。それはGatoradeRing Dong,ハンバーグといったものになっても,もちろんこうしたもので栄養を摂取している人体内でもその存在がわかる。ほとんどの植物は光合成で3個の炭素原子を持つ化合物を生み出すが,トウモロコシは4つの炭素原子を持つ化合物を作る。すわなち,この恵まれた植物グループに与えられた生物学的な別称”C-4”で,これは1970年代までは確認されていなかった。C-4の特別な性質が植物に対する重要な節約術を表している。これによって,特に水が不足したり,気温が高い場所においては植物に優位性を与えているのだ。大気から炭素原子を集めるためには,植物は気孔(葉にある微少な開口部で,それを通して植物はガスを取り込んだり,排出したりする)二酸化炭素を取り込むために気孔が開くたびに,貴重な水の分子が漏れる。それは食べる食べに口を開けるたびに多量の血液を失うようなものだ。理想的にはできるだけ口を開けるのを控えて,一口ごとにできるだけ多くの食べ物を取り込むことだ。これこそがC-4植物がしていることだ。光合成の度に余分の炭素原子を取り入れることによって,トウモロコシ植物は水の損失を抑えて,他の植物よりより多くの炭素を「固定化」(すなわち,大気から取り込み,役に立つ分子のなかで結びつける)できる。

 

 しかし,この方法だけでは,まだ,科学者は人間の骨内の特定の炭素原子がどの植物の光合成の結果でもたらされているのか説明できない。すなわち,たとえば,レタスや麦ではなくトウモロコシの葉で行われた光合成の結果であると。科学者がこのことができるのはすべての炭素は平等に生まれていないからである。同位元素と呼ばれるいくつかの炭素原子は通例の6個の陽子と6個の中性子を超える数を持っており,わずかな質量の重さの違いとなる。理由はなんであれ,C-4植物が4つのまとまった炭素を探すと,普通のすなわち,C-3植物よりより多くの炭素13を取り込む。C-3植物はより一般的な炭素12を際だって好んでいる。人体中の炭素13の炭素12に対する比率が高ければ高いほど,自分の食べる食事に,あるいは人間が食べる動物の食事にトウモロコシが含まれていたことになる。(私たちに関する限り,炭素13を多く消費しようが,少なく消費しようが大きな違いはない)

 

 主食としてトウモロコシを選択している民族,もっとも知られているのはメキシコ人であるが,の体内に炭素13の割合が比較的高いと思うだろう。アメリカ人はトウモロコシよりも小麦をはるかに多く食べている。トウモロコシ粉11ポンドに対して,年間一人あたり平均114ポンドの小麦粉を食べている。アメリカを植民地化したヨーロッパ人は自分たちのことを小麦民族だと見なしていた。彼らが遭遇した原住民のトウモロコシ民族に対して。西欧での小麦は常にもっとも洗練された,すなわち文明化された穀物だと考えられている。選択を求められれば,ほとんどの人はおそらく自分のことを小麦民族だと考えるだろう。現在では植物と同一視するという考え方は少し古くさくなっているが。牛肉を食べる人という言葉はよりそんな感じを受けるし,鶏肉を食べる人という言葉は,それほどよい響きはしないが,この問題の本質にはおそらくより近いだろう。しかし,炭素13はウソをつかない。そして,北米の人の髪の毛や肉の中の同位元素をメキシコ人の同じ組織内のそれと比較した研究者たちは真のトウモロコシ人は北米に住む私たちだ,と報告している。「同位元素の比率を見てみれば,私たち北米の人々は足のついたトウモロコシチップに見える」とこの種の研究をしたバークレー大学の研究者Todd Dawsonが話してくれた。「私たちに比べれば,今日のメキシコ人はずっと種類の多い炭素食品を消費している。彼らが食べる動物は今でも草を食べる(つい最近まで,メキシコ人は家畜にトウモロコシをエサにするのは冒涜だと考えていた)タンパク質の多くはマメからとられる。そして,いまでも飲み物の甘味料にはサトウキビを用いている。

トウモロコシ人間である北米人
植物は大気中の炭素の取り込み方によってC-3C-4植物に区分され,その炭素の同位元素にはC-12C-13がある。C-4植物でC-13を多く含むトウモロコシが体内に多いことから,北米人は小麦よりトウモロコシ人間だといえる。(97)

 

 

U

心配をなくすために使っている5つの方法

T 24才の時,突然目の調子が悪くなった。34分読書すると,私の目は針をいっぱい突き刺されたかのように感じた。そして,読書していないときでも大変敏感だったので,窓を見ることができなかった。私はNew HavenNew Yorkの最高の眼科医に診てもらった。何も役に立たないように思えた。午後4時をすぎると,私は部屋の暗い場所の椅子にただ座って,寝る時間を待った。私は怖かった。私は教師の仕事を辞めて,西部に行って木こりの仕事をしなければならないかもしれないと思った。それから,肉体的な病気に与える奇跡的な精神的影響を示す奇妙なことが起きた。私の目がその不幸な冬の最悪期にあったとき,私は大学生のグループに話をする招待を承諾した。ホールは天井からつる下げられた強大なガス灯の火に輪に照らされていた。光は私の目を痛めつけたので,壇上に座っている間,私は床を見ざるえなかった。しかし,私の30分の講演中,私は全く痛みを感じず,瞬きひとつせずこの光を直接見ることができた。それから,集会が終わると,また,目が痛み出した。

 

 私はそのとき,もし私の精神を30分でなく,1週間何かに強く集中していれば,治るかもしれないと思った。というのも,それは肉体的な病気に精神的な興奮が勝利する事例であったことははっきりしているから。

 

 私は海を横断したとき似たような経験をした。私は歩けないようなひどい腰痛におそわれた。私はまっすぐ立とうとするとひどい痛みを感じた。そんな状態の間,甲板で講演をする招待を受けた。話し始めるとすぐに,すべての痛みの痕跡やこりが体からなくなった。私はまっすぐ立って,完全になめらかに動き回り,1時間話をした。講演が終わると私は特別室まで軽々と歩いていった。一瞬,私は治ったと思った。しかし,治癒は一時的なものでしかなかった。腰痛は再発した。

 

 こうした経験は精神状態の重要性を示してくれた。できる間に人生を楽しむ大切さがわかった。そこで,毎日,その瞬間が私が目にする最初の日で,私が目にする最後の日にように過ごしている。私は日々の生活の冒険

興奮しているおり,興奮状態にある人で,心配事に不必要に悩む人はいない。私は教師としての日々の仕事を愛している。「教えることの喜び」という題の本を書いた。教育は常に技術や職業以上のものである。それは情熱だ。私は画家が絵を描くことを,歌手が歌うことを愛するように愛している。朝,床から出る前に私は大きな喜びを持って,最初の学生たちのことを思い浮かべる。私は常に人生の成功の主な理由の一つは情熱だと感じている。

 

U 私は夢中になれる本を読むことで心配事を心から追い払えると思っている。59才の時,私は長期に及ぶ精神病になった。その時期,私はDavid Alec Wilsonの記念碑的Life of Carlyle を読み始めた。私は読書に没頭したので,落胆を忘れたので,私の回復期とは大いに関係があった。

 

V また,ひどく気分が落ち込んだ別の時には,私は毎日ほぼ1時間肉体的に活動的になろうとした。私は激しいテニスの試合を毎朝5,6試合行い,それからお風呂に入り,昼食を取り,午後にはご18ホールのゴルフをした。金曜日の夜には午前1時までダンスをした。私は汗をかくことの効用を強く信じている。気分の落ち込みや心配は汗とともに体内から出てくるとわかった。

 

W 私はずいぶん昔に急いだり,せいたり,ストレスの元で働くことのばからしさを避けることを身につけた。私はWilbur Crossの哲学を適用しようとしている。彼はコネチカット州知事のときに,私に言った。「一度にあまりに多くのすべきことがあるときには,1時間座って,リラックスし,パイプを吹かして何もしない」

 

X 私はまた忍耐と時間に問題を解決する方法があると学んだ。何か心配事があるときには,私はきちんとした視点から問題を見ようとする。私は自分に言い聞かせるのだ。「これから2ヶ月後には,このひどい失敗の心配をしていないだろう。だから,なぜ今そんなに心配するのか。2ヶ月後にとるであろう同じ態度を持ったらどうだろうか?」

不安をなくす5つの方法
私は精神が肉体的問題を克服した経験から職業的情熱を持つこと,気分の落ち込みの経験から読書に没頭すること,汗をかくこと,また,急がないこと,長期的な視点を持つことの5つ不安への対処法を身につけた。

 

一橋・後期

【一橋・後期・経済】

 Leonid Andreyevは彼の短編「沈黙」の中で,静けさ「単に物音がないこと」と「黙っている人が,もしそうしたいのなら話すことができた」沈黙を明確に区別している。従って黙っていることは単に行動が存在しないだけではない。というのも私たちが黙っている事柄が実際には積極的に避けられているからだ。たとえば,現在のアメリカのリベラルな談話での人種を表す語が注意深く排除されているのは,実際は人種意識を抑えようとする意図的な努力の産物である。皮肉なことに,このような意図的に避けることは実際には反対の結果を引き起こすかもしれない。Bing Crosbyが映画喝采(The Country Girl)のエンディング近くで彼の妻と親友が実際にはどんなに身近な存在になっているか突然理解して,「2人があこがれを持って互いに見つめ合っていることよりはっきりとしていることが一つだけある。それは二人がそれを避けていることだ」

 沈黙と同様に,否定も積極的な回避と関係している。単にあることに気づかないでいるというより,それに気付こうとしない意図的な努力を意味する。さらに否定は本当は気づいて欲しいと切望しているものの存在を認めることを拒むことと関係し,それによって,私たちに沈黙の共謀は私たちが単に見過ごしてしまう主に目立たない事柄に関連しているのではなく,それどころか,私たちが意図的に避けようとしているきわめて目立ったことに関連している。

  このような共謀の対象を表すのに象のイメージを使うことが一般的になっていることはこのことによって説明できる。アルコール中毒の子どもたちを助ける冊子,「居間の白い象」がある。これは大きな象をその強い存在がアルコール中毒を抱えている家族の生活が家族の人々によって否定されているアルコールの乱用の象徴として表されている。

 

 ふつうの居間を想像してみなさい。イスやソファ,テーブル,テレビがあり,中央には大きな灰色の象がいるのを。この家に暮らしている人々を想像しなさい。子供に,母親と父親,あるいそのいずれかに,ひょっとしたら兄弟たち。家族の全員は毎日何回も居間を通らなければならない。子供は彼らが部屋を大変,注意深く,象を避けて,横切るのを,見る。みんなが揺れる鼻や巨大な足を避ける。誰も象について話さないので,子供はそれについては話してはならないと知っている。そして,話さない。誰にも。

 

 「裸の王様」の王様の裸のように,「居間の象」は目を開けていようとする人には誰にもきっと見えているだろう。従って,もしそれに気づかないとすれば,それは意図的に避けていることの結果でしかないだろう。というのも,さもなければ,それに気づかないでいることは全く不可能だろうから。実際,象を無視することははっきりとしていることを無視することだ。

 

 「居間の象」はみんなが確かに認識しているのに,誰もそれを公に認めたがらないものや事柄を象徴的に示している。そのようなので,それは沈黙の共謀が典型的に関わっているあからさまな秘密をもっとも一般的な文化的表象になっている。

 

 ほとんど,逆説的であるが,沈黙はしばしば音によって隠される。いわゆるちょっとした会話,神経質なおしゃべり,「遠回しにしゃべること」はすべて,不快な沈黙を隠すことを意図した「雑音の共謀」の別の形態でしかない。「バックグラウンド」音楽も同様である。Randy Shiltsが彼の1980年代に広まった沈黙に満ちたAIDS発生の物語に「そしてバンドは演奏を続けた」というタイトルにヒントを与えたに違いないのはタイタニックが沈む間演奏を続けたバンドの忘れられないイメージだった。部屋に象がいる時,私たちは今起きていること以外の話題を見つける。

 

 しかし,沈黙の共謀がそれを隠すことよりはるかに危険にしているのは沈黙自体について実際には決して,共謀者の間では話し合われることがない,という事実だ。「それについては触れないでおこう」といったことを話さないことにオープンに決めるのと違って,共謀者がそれを避けているというまさにその事実が認められず,沈黙の背後にある微妙な社会的圧力が従って隠される。全員が話し合うのが危険だと理解し,したがって,全員が話すことが危険だと言う事実について話し合うことを避ける。沈黙に関する沈黙,すなわちmeta-silenceの完璧な例は秘密を取り巻いている秘密性だ。Mark Jordanが見識をもって述べたように,「カトリック教会に同性愛について一つの『秘密』があれば,隠されなければならないことは,何か知られていないこと,何か怖いことがあるという緊急の不安である。それは秘密にしておくための様々な配慮の背後にある恐怖の努力だ。

 

 実際,居間の象について話すのが大変難しい理由は誰もそれに耳を傾けないばかりか,誰も耳を傾けないことについて話したがらないことだ。言い換えると,象をさけるというまさにその行為そのものが象なのだ!私たちはそれを避けるばかりか,私たちが実際にそうしていると認めることなしにそうしているのだ。そこでは,否定を否定しているのだ。

 

 「見ないことにする決まりを見ないことにする決まり」があることに関して,話すことが禁止されているという事実について,あるいは「私たちが見たくないものを見ないし,見ていないことが見えない」という事実について話しあうことを禁じる」ことになっているように,このようなmeta-denialは特定の自己を欺く形態を前提としている。それは “doublethinking”,すなわち,「意識的に無意識を引き起こして,今行ったばかりの催眠行為を無意識にする能力」として「1984年」の中でGeorge Orwellによって認められていることはよく知られれている。したがって,小説の中では,誰かが突然,B国の敵としてA国の伝統的な役割を設定し,B国の人々はA国との長く続く戦争に触れられたことを即座に破壊し始めたとき,オーウェルは小説の中で,「その仕事はそれに関わるプロセスが本当の名前で呼ぶことができないために,それだけ有効だった」と述べている。

 

 沈黙の共謀は時間とともに大きくなると,ある特定の道筋をたどるように見える。このような共謀の全体像をとらえるためには,したがって,共謀が社会でとるパターンを検討する必要がある。

 

 「裸の王様」では,首相も王が信頼する大臣たちも存在していない生地を実際には見ることはできなかったが,それにも関わらず彼らは王を含む自分たち以外の人々はみんな見えると想定し,したがって,自分の面目を保つために繰り返し,たたえた。しかし,彼らの全く偽りの宣言は今度は王がそれを見えないのは自分だけだ,と結論することになる。「なんだって!」王は何もない機織り機を見ながら「私には何一つ見えない!なんてことだ。ひどい。私はバカなのだろうか。私は王にふさわしくないのか」そして,それにも関わらず「本当にすばらしい」と声に出して言い,それによって,実質的に避けることのできない間違った想定という悪循環を引き起こす。従って,物語が進行するにつれて,すべての議員,大臣,重要人物が何度も眺めては,王が見たもの以上のものを見えることはないのだ。にもかかわらず,彼らは王が言った「それはすばらしい」という同じことをいう。

 

 同様に,たとえば,一人のスタッフが他のスタッフが会議で,声高のはっきりとした発言を無視するのを目撃すると,それは重要ではない,という印象が2番目のスタッフの無視によって互いに強められる。実際,一人一人の共謀者の否定が他の人の否定を強め,そこで,互いの沈黙が3番目,4番目のスタッフが共謀に加わることでますます広がる悪循環が生まれる。Paul Simonは「沈黙はガンのように成長する」と述べている。それが,実際,社会全体がみんな指導者の無能,ひどい行い,緊急の環境破壊を否定するようになるかもしれないことなのだ。

 

 これが,主に沈黙が本質的に蓄積していくことの結果である。他のどんな否定の形と同じように,沈黙は自己強化型であり,沈黙が長ければ長いほど,さらなる沈黙によって沈黙を隠す必要性が,それゆえに高まる。今日の沈黙は明日,沈黙を破ることをより難しくするだろう。

 

 実際,「象」はたいてい時間とともに成長し,それゆえにその大きさは年齢を反映している。それらに気づかないふりをするのが長ければ長いほど,私たちの心の中にはより大きく見える。ホロコーストの生存者の子供が彼の両親のつらい過去を囲む沈黙も説明しているように,「毎年,それはだんだん成長し,その存在を,そして,それが風景の大きな部分を占めているのに,それについて決して語らないことの奇妙さをますます意識するようになった。

 

 このことを考慮に入れると,部屋の象が大きく(それ故に,その存在が顕在化)なりすぎて,無視できなくなるのに,人々はどのくらい気づかないふりができるだろうか?実際,見たところ,無限に続く否定のスパイラルを止めることのできるものがあるだろうか。実際,何が現実には沈黙の共謀を終わらせることができるだろうか?

 

 次のことがHans Christian Andersenが「裸の王様」の劇的な場面を伝えているものだ。

 

「でも,彼は何も身につけていないよ」と小さな子供が叫んだ。「純真な子供の言うことに耳を傾けなさい」と誇りに思った父が言った。そして,人々はお互いにささやきあい,子供が言ったことを繰り返した。「彼は何も身につけていない。何も身につけていない,言う小さな子供がいるよ。」「彼は何も身につけていない!」とついに全員が叫んだ。

 

 逆説的であるが,沈黙の共謀に参加しようというプレッシャは共謀がだんだん大きくなるにつれて,それらを終わりにする機会も同様に大きくなる。言い換えると,沈黙が重くなると,それが打ち壊される可能性もまた増える。実際,「王様の新しい服」の終わり方が示唆しているように見えるように,象の存在を否定しようとしない人が一人でもいれば,最終的には共謀者の集団全体がそのことを公に認めるようになるかもしれない。

 

 しかし,沈黙自体と同様に,それを打ち破るのは社会の制度全体に関わる集団の努力だ。部屋の象について触れる最初の人物はその存在を認める最初の過程を始めるだけで,「王様の新しい服」の中の小さな少年の父親が私たちに思い起こさせるように,誰か他の人がその人に続かなければならない。実際,沈黙の共謀が実際に終わるには,最終的には共謀を生き続けさせる共謀者がいないことが必要だ。

 

 私たちが思っているように,沈黙を保とうとする集団の圧力と戦うためには,たいていそれを打ち破るには,同様に数の力を使う。少数派にいて,沈黙の共謀を維持しようとする多数派の圧力と対峙している状況は共謀者の数が増えるにつれて,よりはっきりとしてくる。しかし,より多くの人が沈黙を打ち破る側に加わるのにつれて,状況の均衡が最終的には移動し,残っている共謀者たちも象の存在を認めさせようとする増加する社会的圧力が最終的にそれを否定し続けようとする社会的圧力に打ち勝つ「大きな転換点」に到達する。

 

 そのことが起きる前に,しかし,こうした共謀者たちは王様は服を着ていない,という子供の宣言を聞く心の準備が必要だ。いうまでもなく,その存在が認められるためには,象は積極的気づかれなければならない。このことは「背景」から象を引っ張り出し,それを意識的な注意を引く「人物」に変えることを前提としている。無視されているものに注意を向けることはそれ故に能動的な人物と背景の逆転を必要とする。沈黙の共謀を打ち破ることは,部屋の象を前景に置くことを含意している。

沈黙の共謀
互いに意図的に触れない沈黙,そのことさえ話さない沈黙に関する沈黙を打ち破るには「裸の王様」の子供のような存在,それに同調する機運,その動きが多数派となって,沈黙されたことが前面にでる転機が必要だ。

 

東京工業・前期

【東京工業大・前期・全学】

T

 歴史はあふれるような創造的なひらめきや,頭を悩ますような問題の解決策さえ,睡眠という無意識の働きから生まれることがあることを示唆している。

 

 ドミトリ・メンデレーエフは彼の周期律表の発見は分子をどこにおくべきか示してくれた夢のおかげだとしている。Friedrich Ausut Kekule von Stradonitsは自分のしっぽを噛んでいるヘビの夢からベンゼンの輪の形を見ることができた。さらにノーベル賞受賞者のOtto Loewiは化学的な神経伝達の概念を証明した賞を得ることになったカエルの心臓実験のアイデアは夢のなかで思い浮かんだ。

 

 レーヴィはよく知られているように,真夜中に目を覚ましてアイディアを書き留め,そして寝た。数時間後起きたが,自分の手書きの文字が判読できなかった。翌晩寝たときになって,ようやく2番目の夢でアイディアが戻ってきた。

 

 「今度は危険を冒すようなことはしませんでした。すぐに起きて,実験室へ行き,カエルの心臓の実験をし,5時には神経インパルスの化学伝達は証明されました」と後に書いている。

 

 こうした優れた事例は単なる幸運な出来事なのだろうか,それとも睡眠が洞察のドアを開くもっとも顕著な例なのだろうか。無視したかったらそうしなさい。しかし,科学によって提供される強力な説明は睡眠と夢には理解し始めたばかりの記憶をまとめ,蓄えるのに大きな効果がある,というものだ。私たちの記憶に意識的でも,無意識的でも蓄えられた情報に到達する能力は問題解決の重要な部分であり,こうした記憶に到達することに睡眠が関係しているようだ。

 

 睡眠中には,脳はたくさんの激しい運動をしている。記憶が合わされる。日中に見たことが新しい固定した記憶になる。そして,情報は短期的な保管から長期的な保管に移動され,そこでは,取組中の仕事のためにあとで,利用可能となる。睡眠中と夢を見ている間の脳波の活動のパターンを検討する研究がこのことを強く示唆しているが,それはより直接的な方法でも説明されている。

 

 最高の例の一つはいくつかの大学生の集団を記憶実験をするようにしたネイチャー誌に発表された2004年の実験だ。学生はそれぞれ8つからなる数字を新しい数字の並びに変換する2つの規則を学習し,それぞれのグループは訓練を受けた後一度テストを受け,その後8時間後再び試験を受けた。しかし,問題がすぐに解決できる計算の手順を少なくできる3番目の,隠された規則があることは教えられていなかった。

 

 休憩中に寝ることがゆるされた学生の60%が隠れた規則を見つけ出した。しかし,一晩中起きていたり,昼間起きていた学生の22%しかそれを発見することができなかった。同時に訓練を受けずに8時間寝たもう一つのグループは決して規則を見つけることができなかった。このことは睡眠は作業の記憶がまず形成された時だけ役にたつことを示唆している。

 

 この研究が十分に納得いくように証明したことは,新しい記憶は洞察を刺激するような形で睡眠中に操作され,それからそれが意識にのぼってくる,ということだ。このことがどのようにして起こるのか,また脳のどの領域が関わっているのか,まだ知られていない。科学者ははっきりとした記憶作業はたいてい睡眠の深いステージと関連していることがわかっている。しかし,いくつかの証拠は洞察は夢の中で獲得される。夢は睡眠の速い眼球の動き(レム)睡眠中に起きるのだが。

 

 創造的な睡眠の背後にあるメカニズムがなんであれ,大切な試験や大きな発表が近づいていたり,複雑な問題が気にかかっていたら,それについては一晩寝て考えるのが最高かもしれない。

ひらめきを助ける睡眠の役割
歴史上画期的なひらめきや問題解決が睡眠中に起きた例は数多くある。最近の実験では,ある作業から新たな解法を見つけるのに睡眠が役立つことが証明された。記憶は睡眠中に整理,定着し,次の活動に応用されるのだ。(100)

 

U

 反省は私たちが学習する重要な方法だろう。反省の仕方のいくつか考えてみよう。振り返る,夢想する,打ち明ける,先週の試合を見る,助言を求める,引きこもる,冗談を言うこともある。冗談は起きたことが何であれ,納得のいく,受け入れられることにする方法だ。

 

 不運なことに,しばしば,人々が自分の経験を振り返るのは,その人の失敗であることだ。順調にいっていて,すべてがうまくいっているときには,座って振り返りはしない。その時がまさに,それをすべき時だが。振り返る前に大きな失敗を待っていたら,二つのことが起きる。一つは,あなたが落ち込んでいるから,それから十分学べられない。そして,二つ目に,自分が正しかったすべての瞬間の代わりにその失敗だけを見る傾向がある。

 

 確かに,ほとんどに人々は肯定的な経験より否定的な経験によってより形成される。私たちには1週間の間に無数のことが起きるが,ほとんどに人はうまくいったことより,わずかな失敗を覚えている。なぜなら私たちは振り返らないからだ。私たちは反応しているだけだ。劇作家のAthol Fugardは自分に喜びを与えてくれる10の事柄を考えて毎日を始めることで,気分の落ち込みから抜け出している,と言った。自分の周りに小さな喜びを考えること,たとえば,海の朝日の輝き,新鮮なバラ,朝の散歩の終わりに待っている飲み物,エサをほしがっている犬でさえ,わかっている失敗について考えて時間を費やすより,はるかにいい対処法だ。落ち込んでいるときは,待ち遠しいと思っていることを考えなさい。失敗のショックから何とか立ち直ったとき,その失敗についてじっくり考える心構えができるのだ。

 

 実際,間違いは強力な教訓を含んでいるが,それは,冷静に間違いについて考え,どこで間違えたかわかり,自分がしていることを頭の中で補正し,それから,その補正に基づいて行動した場合だ。野球の試合で偉大な打者が三振をしたとき,その失敗を長くは引きずらない。その代わりに,構えや振りを改善し始める。そして,偉大な打者は実際三振をする。Babe Ruthはホームラン記録を樹立しただけでなく,三振記録も樹立した。偉大な打率を考えなさい。4割だ。これは偉大な打者でも半分以上打ちそこねていることを意味している。一方,残りの私たちは自分の失敗で固まる。私たちは失敗にとりつかれており,おそれているので,再び同じことを繰り返し,何をするのも怖くなってしまう。馬に乗る人が馬から振り落とされると,すぐにその馬にまた乗る。なぜなら,そうしなかったら,怖くて乗れなくなると知っているからだ。ほとんど人の恐怖はそれより小さいが,ほとんどの人は再び行動を起こす前に,考えて対処しなければならない。反省がまず来る。そしてそれから前向きな行動が来る。反省によって,私たちの感情を処理し,それらを理解し,疑問を解決し,自分の仕事に取りかかれるのだ。

 

 重要な点は感情の犠牲となって,整理のつかない感情に振り回されないことだ。私たちは経験によって使われるのではなく,経験を使い,それも,創造的に使うことだ。ちょうど作家が自分の人生の経験を小説や劇作に変えるように,私たちも自分の経験をなにか,実用的で,利用できるものに変えることだ。Isak Dinesenは「どんな悲しみでも,それを物語にできれば,耐えることができる」と言った。あなたの経験全体が人生となり,その基礎はそれについて振り返り,理解し,実行可能な解決に到達する程度まで堅く,健全だ。

振り返りの効用
反省は学習するうえで重要だが,失敗したときだけ反省する傾向がある。失敗時には冷静でなく,その経験を生かすのも難しい。まず気持ちを入れ替え,冷静になって,分析,対処法を考え次の行動に生かすことが大切だ。(100)

  

広島工業大

【X】

 コミュニケーションのスタイルはコミュニケーションをはかる様々な戦略を指す。全ての言語で,人々は不平,同意と不同意,賞賛,依頼,要求,明確化,耳を傾けていると示すことなどの意図を伝える。しかし,こうしたことがなされる方法は文化によって異なる。

 

 日本国内でのコミュニケーションスタイルで一般に認められている相違は関西弁と関東弁の違いだ。異なっているのはことばだけではない。お互いの関わり合い方でもある。また,若者と老人では違ったコミュニケーションスタイルを持っている。英語と日本語の戦略のある要素を比較すれば,異なったコミュニケーションスタイルのはっきりとした例が見つかるだろう。特に,率直さや沈黙の使い方,認識方法に違いがある。

 

 英語話者は日本語話者よりより直接的な傾向がある。同じ団地での2世帯間の争いにおいては,たとえば,英語話者は問題について話し合うために相手に直接会いに行く傾向が強い。日本語話者は仲介者,例えば,管理人を使う傾向が強い。直接的な争いを避けるために。英語話者にとっては,このことはこそこそしているか,不正直に思えるかもしれない。一方,アメリカ人は日本人には,過度に争い好きか,ぶっきらぼうに見えるかもしれない。ビジネスの交渉中には,英語話者(特にアメリカ人かもしれないが)しばしば,「テーブルに自分も持ち札を置く」こと,すなわち,自分の立場をはっきりと述べることを好む。日本語話者は相手の立場を間接的に探る可能性が高い。ビジネスの場面では,こうした違いは交渉中のみならず,雇用関係や顧客との対応に置いても深刻な問題を生み出す可能性がある。

 

 このことに関連しているのは沈黙の使いかただ。英語話者は日本語話者より,口数が多く,話者の語の選択を強調し,意味を正確に伝えるのに,そのことばに依存している。日本語話者は沈黙をより多く用い,文脈とを強調し,直接的には言われないことを埋め合わせる聞き手の能力を強調する。日本語の表現「位置を聞いて十を知る」はこの傾向をはっきりとさせ,一方,英語の表現「言うことがらは心底思うところであり, 心底思うことがらを言うようにしなさい」は英語話者のコミュニケーションスタイルをはっきりと表している。

日米のコミュニケーションの違い

コミュニケーションの方法は文化によって異なる。例えば,英語話者がより直接的な接触をし,ことばを大切にするのに対して,日本人は間接的で,沈黙を大切にする。この戦略の違いが深刻な問題を生む可能性がある。(99)

【Y】

 伝説によれば,お茶は紀元前2700頃より中国で知られている。1000年間,お湯で新鮮な葉をゆでて得られる薬湯であったが,紀元3世紀頃,日常的な飲み物となり,お茶の栽培と加工が始まった。800年頃,最初の種が日本にもたらされ,13世紀までには栽培法が確立した。オランダの東インド会社は中国茶の最初の船荷を1610年にヨーロッパに運んだ。1669年には,イギリスの東インド会社が中国茶をジャワの港からロンドン市場へ運んだ。後に,インドとセイロンのイギリス領で栽培された茶がロンドンの紅茶貿易のセンターであるMincing Lateに到着した。中国人は1810年に茶の栽培を台湾にもたらした。ジャワでの茶の栽培はオランダ人の元で始まった。オランダ人は1826年に日本から種を,そして,種と労働者,道具を1833年に中国から運んできた。1824年,アッサム地方のビルマとインドの国境沿いでお茶の木が発見された。イギリス人は1836年にお茶の栽培をインドに伝え,1867年にはセイロンに伝えた。最初,中国からの種を使ったが,後にアッサムの木からとられた種が使われた。

 お茶は出産地の地域によって分類される。中国,日本,インドネシア,アフリカといったように,また,もっと狭い地域,インドのダージリンやアッサム,日本の遠州というように。お茶はまた,加工された葉の大きさによっても分類される。大きな葉のグレード,小さな葉茶など。最も重要な分類は製造過程によるもので,3つの分類になる。すなわち,発酵しない(緑),発酵した(黒),半発酵(ウーロン)の3つである。緑茶はたいてい中国産の木から作られ,中国と日本で栽培されている。浸出した葉は緑で,液体は薄緑か黄色で少し苦い。紅茶は,最も一般的に生産されているが,アッサムかその混合種が最高だ。浸出された葉は赤茶色か銅褐色で,液体は明るい赤で,渋いが,苦くはない。ウーロン茶は中国南部か台湾で,中国植物の特殊な種類からほとんど生産されている。液体は緑茶のように色は薄いか,黄色で,独特ないぶしたような香りがある。

お茶の歴史と分類

お茶は中国で生まれ,最初は薬用,後に一般的な飲み物としてアジア各地,ヨーロッパへと伝わった。お茶は生産地,葉の形状,加工方法などで分類されるが,特に加工の違いで緑茶,紅茶,ウーロン茶が生まれる。(97)