2008年度入試

【大意】

【大阪・全学】

 アメリカ合衆国の人々は両親を2日の特別な日,すなわち5月の第2日曜日の母の日と6月の第3日曜日の父の日で讃える。この2日は両親への愛と敬意を表すためにとっておかれる。両親は子どもたちを育て,責任ある市民となるように教育する。親たちは愛と気配りを与える。この2日は母親と父親たちの変化する役割について考える機会を与えてくれる。より多くの母親たちが現在,家の外で働いている。より多くの父親たちが子育てを手伝う。

 

 この特別な2日は様々な形で祝われる。母の日には,人々はカーネーションを身につける。赤いカーネーションは生きている母親を表し,白のカーネーションは母親が亡くなっていることを示す。多くの人々が親たちを讃える宗教的な式典に参加する。その日はまた,親を亡くした人々が墓参りをする日でもある。こうした日にはレストランや家に集まる。父の日には外でバーベキューをすることも多い。こうした日は楽しく,気持ちよく,また想い出の日である。

 

 もう一つの伝統はカードと贈り物をすることだ。子どもたちは学校で製作する。自分の贈り物を作る人も多い。こうした贈り物は店で買ったものより大切にされる。大切なのは贈り物の価値ではなく,重要なのは考えだ。グリーティングカードの店や花屋,キャンディー屋さん,パン屋,電話会社等々,この休日中には大変繁盛する。

アメリカの「父の日」と「母の日」

アメリカでは「父の日」と「母の日」は両親への感謝の気持ちを表す大切な日だ。カーネーションを身につけたり,親戚で集まったり墓参りなど様々な形で祝われる。贈り物も盛んで,関連の商店もにぎわう。

 

【東海・文】

 地球温暖化はすでによく知られた問題であり,汚染の問題として主に議論されてきていた。人々は地球温暖化を私たちが吸う大気の浄化をする兆候として見てきた。しかし,私たちの呼吸している大気が悪化しているばかりか,世界の災害の数が地球温暖化のために増加している。

 

 ワシントンD.C.Worldwatch Instituteによれば,1980年代の同期間に比べて1990年代にはほぼ6倍の災害があった。実際この組織は1990年から1996年にかけて16に自然災害を記録した。サウスカロライナ州,チャールストンにあるもう一つの信頼できる機関,SIMSハリケーン観測所は1995年は過去「60年でもっとも熱帯気候の活発な季節であった」と報告した。このことはこうした災害が大規模にそしてより頻繁に現在おきていることを示している。例えば,バングラデッシュを襲った1991年のサイクロンが14万人以上の死傷者を出し,100万軒以上の家が破壊された。1998年の中国の洪水で200万ぐらいの人が家を失った。

 

 もし地球温暖化が続けば,将来はかんばしくないように見える。2000人以上の指導的な科学者を代表する「気候変動に関する政府間パネル」によれば,洪水や干ばつ,山火事,熱波などの件数は場所によっては,気温の上昇に伴って増えると考えられている。単純化して見れば,理解は大変簡単だ。暖かくなるにしたがって,山の雪がより急速に溶け出す。雪が解けるにつれて,そして水が山の斜面を流れ出るにつれて,川を制御するのが難しくなる。高い気温はまたより多くの雨雲を生み出し,大雨をもたらす。その結果,1994年にイタリアを襲ったひどい洪水のような氾濫が起きる。

 

 地球温暖化と自然災害の別のひどい副作用は病気だ。気温が高いと虫やネズミが繁殖し,病気を広げる。1994年,北部インドでは,モンスーンのあと,3ヶ月連続で記録的な暑さ(毎日摂氏35度以上)が続いた。このことでネズミの数が増加し,病気をもたらした。100人近くの人がこの期間に亡くなった。そして,病気の蔓延にはかならずしも自然災害は必要ない。たいてい,地球温暖化によって生み出された高い気温だけで,蚊のような昆虫の数を増やすことがある。気温がわずか2度上昇するだけで,蚊はより活発に,従ってお腹が空くようになる。熱帯地方の国では,お腹を空かせた蚊のためにマラリアが大きな問題になっている。もちろん蚊はマラリアを人や動物に感染させる昆虫だ。さらに,暖かい水と下水(家庭や工場からでる汚水)が一緒になると,自然と人工が組み合わさった災害を引き起こす。暖かい水に流される下水はコレラのような病気の完ぺきな培養所を生み出す。このような致命的な組み合わせによって1990年代に引き起こされたコレラの発症例がラテンアメリカにあった。

 

しかし,現在の最大の関心事は竜巻やハリケーン,モンスーン,洪水といったものの上昇だ。科学者によれば,地球温暖化の問題が解決されない限り,自然災害は世界各地で日常的な出来事となるだろう。

 

 

地球温暖化による災害の増加と副次的影響

地球温暖化のために自然災害が増加している。地球温暖化は洪水や干ばつといった直接的な災害をもたらすと同時に,高い気温によって,病原菌を運ぶ媒体となる動物や昆虫を増加させ,事態をさらに悪化させている。

 

【和歌山・前期】

 1947年,母のデボラは英文学を専攻するニューヨーク大学の21才の学生だった。彼女は本や思想に情熱を注ぐ美しい女性だった。彼女は熱心に読書し,いつの日か作家になることを希望していた。

 

 父のジョセフはウエストサイドの中学で美術を教えながら自活する野心に燃える画家であった。土曜日には,家かセントラルパークで一日中絵を描き,外食をするのが常であった。問題の土曜の晩に彼はMilky Wayという名の近くのレストランを選んだ。

 

 Milky Wayはたまたま母の好きなレストランでもあり,その土曜日には,朝から午後までずっと勉強をした後で,古本のディケンズの「大いなる遺産」を抱えて夕食に出かけた。レストランは混雑しており,彼女に最後のテーブルが与えられた。彼女はグーラーシュと赤ワイン,それにディケンズでその晩を過ごすことにした。そして,まもなく,周りのことを忘れ去った。

 

 30分もしないうちに,レストランは立食コーナーだけになった。疲れたような顔をしたウェートレスがやってきて,私の母に相席をしてもらえるか聞いた。本からほとんど目を離さずに,母は同意した。

 

 「かわいそうなピップの悲劇的な人生」父はぼろぼろになった「大いなる遺産」を見て言った。母は彼を見て,そのとき,後で回顧しているが,彼の目になにか親しみを感じた。後年,もう一度のその話をするように母に頼んだ時,彼女は甘くため息をつき,「私には彼の目の中に私が見えたのよ」と言った。

 

 父は彼の前にいる人物にすっかり魅せられて,頭の中にことばが聞こえてきた。「運命の人だ」声は言った。そして,その直後に彼はつま先から頭のてっぺんまで走るゾクゾクっとする感覚を感じた。父がその晩,見たのか,聞いたのか,感じたのか,それがなんであれ,二人はなにか奇跡が起きたのだと感じた。

 

 長い間会わなかった親友同士が,その間のことを埋め合わせるかのように,二人は何時間も話しをした。あとで,その晩が終わった時,母は「大いなる遺産」の内側のカバーに電話番号を書き,その本を父があげた。父は別れを告げ,額に軽くキスをし,それから,夜の待ちは反対方向へと歩いていった。

 

 二人とも眠ることができなかった。目を閉じた後でさえ,母は一つのこと,すなわち父の顔しか見えなかった。そして,父は彼女をことを考えるのを止められず,母の肖像画を描きながら徹夜した。

 

 翌日の日曜日,彼は両親を訪問するためにブルックリンへ出かけた。彼は地下鉄で読むように本を持っていったが,一睡もしなかったために疲れ果てており,数段落読んだところで,うとうとし始めた。そこで,彼は本をコートのポケットに入れ,そのコートは自分の脇の椅子に置いてあったのだが,目を閉じた。彼はブルックリンのはずれのBrighton Beachに電車が止まるまで目を覚まさなかった。

 

 電車にはそのときにはもう誰もいなくなっており,彼が目を覚まして,持ち物をとろうと手を伸ばした時には,コートはすでにそこにはなかった。誰かが盗んだのだ。そして,本はポケットの中にあったので,本もまたなくなっていた。それは母の電話番号もまたなくなったことを意味していた。必死になって,電車の中を探し始めた。全ての座席の下を見た。自分の乗っていた車両だけでなく,両側の車両まで。デボラにあったことで,興奮していて,ジョセフは馬鹿なことに彼女の名字を聞くことを忘れていたのだ。電話番号は彼女とつながる唯一の手段だった。

「大いなる遺産」が結んだ運命の出会い

文学少女の母と画家志望の父は運命的な出会いをした。二人は互いを運命の人と思ったが,父の不注意で,唯一の連絡方法をなくしてしまった。あきらめかけた二人はヨーロッパで同じような劇的な再会を果たした。

 

 固定観念とは世界に関する一種のうわさ話,私たちが実際にその人たちを見る前に予断させるうわさ話である。固定観念の評判がよくないのは驚くにあたらない。ほとんどの先入観を調べれば,その中核には恐ろしい固定観念を見つけるだろう。

 

 私たちがそのような不合理で,傷つけるような形で世界を定型化するのはなぜだろうか。部分的には,私たちは子ども時代の早い時期に人々を型に入れ始める。幼年期に,子どもがテレビを見たことのある親なら誰でも知っているように,悪者といい人を区別するようになる。数年前ある社会心理学者は大変明確に子ども時代の見方のこうした固定観念がどんなに強力なものであるか示した。彼は小学校で一番人気のある子供たちに体育の授業中に間違いをするように密かに頼んだ。あとで,クラスの子どもに体育の授業中に何か間違いに気がついたか聞いた。はい,子供たちが言った。しかし,踏み外したと覚えていたのは,クラスで人気のない人たち,「悪いやつ」だった。

 

 私たちは内面で形成された標準化したイメージとともに成長するばかりか,大人になったとき,私たちはそのイメージに常に影響を受けている。中には,義理の母親や田舎に住む人々,政治家の半分冗談で,半分真面目な固定観念のように,聞いたり,繰り返す手持ちの冗談によって心の中に植え付けられているものもある。実際,そのような固定観念がなければ,ジョークはずっと減るだろう。さらに目にする宣伝,見る映画,読む本によって永遠に植え付けられる固定観念もある。

 

 最後に,私たちは大変混乱した世界を理解するのに役立つので,定型化する傾向がある。もし,私たちが見ているものがわからなかったら,私たちは文字通り見ているものを見ることができないのは,奇妙な事実だ。工場を訪れる人には,工場長が完全に同期した作業の流れを見る場所に騒々しい混乱しか見えない。ある哲学者が言ったように,「大部分は最初は私たちには見えない。それから定義する。まず定義し,それから見るのだ」

 

 固定観念は世界を見るためにそれを定義する一つの方法だ。固定観念は無限にある種類の人間を便利な少数の私たちは定型化した方法で行動するようになる「型」に分類してくれる。もし私たちが人と接触するたびに全く初めからしないとしたら,人生は大変疲れる作業となるだろう。固定観念は 

先入観の功罪

先入観は評判が悪い。先入観は様々な経験を通して,小さい時に形成され,大人になっても影響を受ける。先入観は冗談の種にもなるが,一方,人間を取り巻く周りの世界を整理し,理解しやすいものにもしている。

 

 

 人間を動物界の他のものと区別するのは言語だと言うことは,何より明らかだ。一時期,人間を考える動物と定義するのが一般的だったが,ことばなくして思考を思い描くことはほとんどできない。すくなくとも全く正確な思考を思い描くことはできない。もっと最近では,人間は道具を作る動物と定義されてきたが,ことば自体が人間が発明した最も素晴らしい道具で,他のことをほとんど可能にするものだ。最も原始的な道具はことばより先に生まれたことは認めざる得ない。高等な類人猿は初歩的な道具として棒きれを使い,この目的のために棒きれを折ることさえもある。しかし,より複雑な道具にはことばなくしてほとんど不可能な人間の協力と労働の分担を要求する。実際,ことばは人間の文化を可能にする偉大な機械の道具だ。

 

 他の動物が互いに意志を伝えたり,少なくとも鳴き声で行動を起こすように互いに刺激を与えるのは本当だ。多くの鳥は危険が迫ると警告の鳴き声を発する。求愛の鳴き声を上げる動物もいる。サルは怒りや恐怖,喜びを表現するために違う鳴き声を発する。他のコミュニケーションの手段を使う動物もいる。多くの動物は競争相手からの攻撃を防ぐために服従の姿勢を持つ動物も多い。ミツバチは有名なミツバチのダンスによって巣から蜂蜜までの方向と距離を示す。イルカは音と体の姿勢をの両方を使う伝達システムを有しているように思われる。

 

 しかし,こうした様々なコミュニケーションの方法は人間のことばとは重要な点で異なる。動物の鳴き声は音節や単語に分けられていない。このことは基本的に構造を持たないことを意味する。たとえば,鳴き声には母音と子音の対照のよって与えられる種類の構造がない。また,人間の発声をことばに分けることを可能にさせるような構造もない。私たちは単語を入れ替えることによって発声を変えることができる。見張りが「戦車が北から接近中」と言うこともできるし,1語を代えて,「飛行機が北から接近中」とか「戦車が西から接近中」と言うこともできるが,鳥には「危険!」を意味する一つの警告の鳴き声しかない。このために動物ができる信号の数は大変限られている。シジュウカラは約30の異なった鳴き声を持っているが,一方,人間のことばでは,可能な発声の数は無限だ。

 

人間を他の動物から区別するもの

人間を定義するのは道具や思考ではなく言語だ。動物も意志を伝えるための鳴き声を有しているが,動物の鳴き声はそれぞれ単一の意味しか表さない。人間の言語は音節と単語を有し無数の意味を表すことができる。

 

【佐賀・前期】

 私はいつも映画が好きでした。映画では,不可能に思えることはありませんでした。実際,画面上で起きていることは,私自身の実生活でも起きていると思うのが好きでした。言い換えると,私はもう,典型的な田舎の普通の16才の少女ではなく,画面上の女優のような気持ちで暮らしていました。私は勝利に導くチアリーダーのスターとなったり,19世紀のハンサムな紳士と恋におちいる若き婦人になりました。そして,そのあとずっと幸せな気分で過ごしたものでした。

 

  私が一番好きだったのは魅力的な登場人物ではありませんでした,また,その人たちがしたわくわくするような冒険でもありませんでした。私はハッピーエンド,完ぺきなハッピーエンドが好きでした。私は自分の生活もそうあって欲しかったのです。幸せで素晴らしいもので。私は家族や,友達,学校のストレスから逃れたかったのです。それはみんな大変強かったので,しばしば麻痺したような感覚になりました。私につきまとう現実から逃れる唯一の方法は映画館に逃げ込むことだったのです。

 私はいつもこのようであったわけではありません。小さい頃は,私は社交的で,親しみやすく,そして学校外の活動にも入っていました。でも,高校は違いました。私は静かで引っ込み思案になりました。

 私の両親は私のことを心配していました。両親は私に級友に電話をかけたり,もっと学校と関わるように懇願しました。二人には高校のプレッシャーがどんなものか理解していなかったのです。完ぺきな体を持ち,完ぺきな成績や完ぺきな友人を持つプレッシャーを。「完ぺき」は私ではなかったのです。私の理想の世界は実現不可能でした。私は平均で,それ以上でも,それ以下でもなかったのです。

 級友に電話をすると何回も両親に約束した後で,私はついに同意しました。私が覚えている唯一の電話番号はセラの番号でした。そこで,彼女に電話しました。セラ自身はほとんど完ぺきに近かったのです。オールAの生徒で,ルーム長,秋にはイェール大学に進学。美しく,やさしく,頭がいい。私たちはピザをお昼に食べることにしました。

 私たちは食事をし,おしゃべりをし,昔のことを思い出しました。彼女は彼女の生活でわかっていないところを埋めてくれて,私はにこりとして,私の生活はすべてうまくいっていると彼女に話しをしました。

「もう最高よ」私は嘘を言いました。

 「それは運がいいわね」彼女は心から言いました。「私が最近,どんなにストレスがたまっているのか言えないわ」彼女は抱えているプレッシャーを説明して,自分の将来に関わる不安なことについてまで話してくれました。

私は彼女にウソをつくことができませんでした。

「私も本当はもっといいはずよ」私は認めました。

私はセラに全てを話しました。私は彼女にここ数年がどんなに大変であったのか,プレッシャーがどんなに耐え難かったか言いました。

「私の人生が映画の中のようだったらいいのに」私はため息をつきました。「そうしたらずっと楽なのに」私は手を顔を当てて,指の間から下を見ました。

「わかるわよ」彼女が言いました。

私は見上げ,不思議な顔をして彼女を見ました。

 彼女はしばしば,暇な時間をテレビや映画で,自分の人生が単純な筋書きに追っていけると思って,埋めることで,現実から逃れることがよくある,と言いました。彼女はちょうど私のようだったのです。

 「それから,ある日」セラは説明しました。「私はなぜ私が見ている映画の中の人々のようになりたいのか考え始めるようになったの。その登場人物たちは私にない,何を持っているのだろうか。それから,思いついたの。あの人たちにはすでに書かれた台本があるのよ。それは本物ではないわ。それは誰か他の人の考え,誰かの計画なの。私には考えがある。私には計画がある。私には自分の台本を書く能力がある。もし私だけに自分の人生の映画の筋を決定できる力があるとしたら,それは感激するようなもの,ハッピーエンドの映画にしたらどうだろうか」

彼女は私の手を取った。

 「セシル,あなたは自分の映画のスターなのよ。自分の物語さえあればいいのよ」と彼女は言った。

 私は彼女の目を見て,うなずき,それから突然泣き始めた。彼女は正しかった。どの女優も私の役の代わりをすることはできない。誰一人として。自分の人生を演出,監督,編集するのは私自身なのだ。私はその時,その場で自分の台本を書くと決めた。私はこれからは自分の目標,私が達成できるだろう目標を掲げるだろう。失敗の可能性なくして,成功はありえない。失敗する確実な方法は挑戦を拒むことだ。 

友人の助言「自分の人生のドラマは自分で」

日常のプレッシャーから逃れるために映画の世界に逃避し,消極的になっていた私は,両親の助言で級友と会った。彼女との会話で,自分の人生は用意された映画のシナリオではなく,自分で作り出すものだと悟った。

 

【鹿児島・前期】

 親たちは自分たちが子どもの頃にはウィルスなんたものはなかったとあなたを信じさせたものだ。「今日では,気分が悪くなる時はいつでもウィルスだ。子どもの頃には,ウィルスなんてなかったのに」と言う。この話しを聞けば,ウィルスは20年ほど前に発明されたという考えを簡単に受けいるだろう。しかし,ウィルスは人類と同じくらい長い間存在している。ウィルスは地上で最初の生命であったかもしれない。しかし,最初に発見されたのはわずか70年前のことで,ウィルスとは何か,ウィルスがどのように働くのか理解するの進歩したのはここ30年ぐらいのことでしかない。

 

 今日,100以上の人間の病気がなんらかのウィルスによって引き起こされていることがわかっている。実際,ウィルスは現在人の全ての病気の半分以上を引き起こしていると信じられている。

 

 オランダ人の科学者,マルティヌス・ウィレム・ベイエリンク(1851-1931)が最初のウィルスの研究をした人物だ。彼はデルフト工科大学の研究所で教えていた。

 

 若い頃,植物のタバコの病気に興味を持つようになった。ベイエリンクのこの病気への興味から終生研究を続けることになるウィルスの研究をすることになった。

 

 20年間,彼はタバコの病気の原因の究明を指揮した。彼はバクテリアが病気を引き起こしているか知ろうとした。何回実験をしても,バクテリアの存在は確認できなかった。彼の研究の一部は病気を引き起こしている物質の大きさを見つけ出すことだった。彼は病気になった葉を挽き砕き,汁を圧迫して出し,その汁を濾紙に圧力をかけて通した。濾紙はバクテリアほどの大きさのものは通すことはなかった。彼は濾過した汁を調べた。それは透明に見えた。しかし,その液体を健康なタバコにつけると,その植物もまもなく病気になった。バクテリアより小さく病気を引き起こすのはなんだろうか?液体の毒素ということがあるのだろうか?そんなことはない。この物質のようには毒素は成長しない。この物質は広まって,葉っぱを食べて成長することができ,この新しい物質はまた,健康な葉を攻撃できた。

 

 多くの実験をし,思考を重ね,ベイエリンクは1898年,タバコの病気を引き起こすのは「生きた液体」だと報告した。彼はそれをウィルスと呼んだ。

 

ウィルスを発見した科学者ベイエリンク

ウィルスは古くから存在していたが,オランダ人科学者ベイエリンクがそれを発見したのはつい最近のことだ。彼はタバコの葉の病気の原因を解明する過程で,バクテリア以外の物質を発見し,それをウィルスと命名した。

 

 ことばは多くのことを学習する主な道具となる傾向があるので,その働きを見てみよう。もちろん,赤ん坊はなんら意味のない,すなわち考えを全く表現しない単なる音,雑音,音声から始まる。音は一種の反応を向ける刺激に過ぎず,あるものは気持ちを安らげる効果があり,またあるものはびっくりさせる傾向があったりと,様々だ。h-a-tという音は多くの人々によって参加される行動と結びついて発せられなければ意味のないままだろう。母親が子どもを戸外に連れ出す時,赤ん坊の頭に何かをかぶせながら「hat」と言う。お出かけが子どもの興味の対象となる。母親と子どもは物理的に一緒に出かけるばかりでなく,二人ともお出かけに関心を持つ。それを共通して楽しむのだ。活動の他の要因と結びつくことによって,「hat」という音はまもなく親に持っているのと同じ意味を子どもも持つようになる。ことばは相互に認識できる音から成り立っているという事実はそれ自体,その意味は共有された経験とのつながりに依存している,ということを示すに十分だ。

 

 つまり,h-a-tという音は「hat」というものが得たのと全く同じ方法で,特定の方法で使われることによって,その意味を得ている。そして,それらは大人と子ども両方による共通の経験の中で使われるので,大人と一緒の意味を子どもも持つようになる。同じように確実に使用されるということは物と音が初めには一緒の活動で,子どもと大人の間の能動的な結びつきを作り上げる手段として使われているという事実からもわかる。同じような考えや意味が出てくるのは,両者が仲間として一方がすることが相手のすることに依存し,影響を与える行動にたずさわっているからだ。もし二人のことばを持たない人が獲物を追って一緒に狩りをしていて,ある手振りがそれを発した人には「右に移動せよ」という意味で,それを聞いた人には「左に移動せよ」という意味だとしたら,二人が狩りを一緒にうまくすることはできないのははっきりとしている。互いに理解するということは,音を含む対象物が共通の目的を遂行するという点に関して両者にとって同じ価値を持つことを意味している。

 

単なる音がことばとなる時

子どもにとって単なる雑音でしかない音が,親がある特定の場面の,ある行動とともに使うことによって,意味を持つようになる。物が意味を獲得するのと同じように,音が共通の意味を獲得し,ことばとなる。

 

【成蹊・全日程】

 マルコ・ポーロはおそらく1250年頃ベニスに生まれた。彼は有数商人の家族に生まれた。父はすでに中国に行って,有名な皇帝,フビライ・ハンに会っていた。マルコは17才の時,20年以上に及ぶことになる中国への冒険に父と叔父と一緒に出発した。彼らはまずトルコを,それからイラン北部を旅行した。しかし,マラリアから回復する必要があったので,アフガニスタンに1年間留まらなければならなかった。回復すると,彼らは陸路でシルクロードを通って旅を続け,1275年ついにフビライカン皇帝の夏の首都に到着した。カンは若きマルコの才能を大変気に入り,広大な帝国の至るところに重要な任務で派遣した。しばらくしてから,帰国したくなったが,ポーロ家がそうできたのは17年後のことだった。皇帝はとうとう娘の一人をペルシャまで付き添ってくれたらイタリアに戻ってもいいと言った。彼らは中国とベトナムの東海岸を下る危険な航海であったにちがいルートをとった。彼らがついにベニスに戻った時は,ほとんど誰も彼らがまだ生きているとは信じなかった。

 

 ところでマルコ・ポーロの物語は海戦で捕らえられなかったら記録されることはなかっただろう。彼が捕らえられている間に,それを書き留めた仲間の囚人に自分の話をしたのだ。

 

マルコ・ポーロの中国への旅

マルコ・ポーロは若くして中国へと旅をし,中国では皇帝フビライハンの命で全国を旅した。長期滞在の後,帰国が許されたが,それは出発から20年後のことだった。この話は彼が捕虜となった時に記録された。

 

 

 私たちは皆人間とチンパンジーは大変似ていると知っている。実際,私たちはこの動物とDNA95%ぐらいが共通している。チンパンジーを見ると,私たちとは大変近い関係であることが簡単にわかる。しかし,チンパンジーと人間が似ているのは肉体的な外見だけではない。チンパンジーは多くの点で私たちがするような行動をとる。たとえば,研究者はチンパンジーは人間がするように道具を使うことを発見している。チンパンジーは注意深く長い棒きれを選び,木の深い所に住んでいる昆虫を捕るために使う。この発見以前には,人々はチンパンジーはこの最も単純な機械でさえ使えるような知能はないと考えられていた。人類とチンパンジーにはまた他の類似点もある。私たちと同じように,キスをし,抱き合う。人間と同じように,母親は長年にわたって子どもの世話をし,しばしば,10代になるまで面倒を見る。チンパンジーには強い家族の絆がある。チンパンジーが動物園で一頭だけで飼われると長生きしないのはこれが主な理由だと信じられている。チンパンジーは他のチンパンジーと一緒にいる必要があり,孤独感だけで死んでしまうのだ。この家族の強い絆は別の大変人間的な形で示される。もし母親が死に,赤ん坊を残していくと,年上のチンパンジー,たいてい,兄弟や姉妹がこの幼児の世話をするのが一般的だ。しかし,チンパンジーは他の部族の孤児の面倒は見ない。この行動は血と社会的なつながりを共有する子どもだけに限られているように見える。

 

 チンパンジーはまた鏡で自分を認識できるが,これは多くの動物にはできないことだ。考えや感情を伝えるのに使うある種の言語を持っている可能性もある。しかし,研究者が最近見つけた,珍しくもあり,大変動揺するような類似点もある。人間と同じように,チンパンジーも戦争をする。チンパンジーの異なった集団が互いに戦ったという事例がある。最近まで人間が全ての動物のなかで最も凶暴であると考えられていたので,この事実は驚くべきことだ。チンパンジーはこのことはもはや事実ではないと示している。食料のためだけに狩りをし,殺すトラやワニのような他の生き物と違って,チンパンジーは自分たちの部族が縄張りを増加するために自分たちと同じ種と戦い,殺し合う。さらに悪い知らせがある。チンパンジーの集団は敵の集団の一員を追いかけ,ゆっくりと,痛みが伴うように殺す。拷問もまたチンパンジーの行動の一部のように思われる。多くの科学者たちは戦争は人間社会の発展において重要な役割を果たしてきたと信じている。チンパンジーは人間の歩いてきた道を追いかけ始めているかのようだ。

 

人間との類似点:戦争をするチンパンジー

人間とチンパンジーの類似点は道具を使う,集団にいる必要性,肉親の面倒を見る,鏡の中の自分を認識するなどある。さらに最近の研究で,人間と同様に縄張り拡張のために同じ種と戦争し,捕虜をとることもわかった。

 

 私はこの簡単で実際的な方策によって多くの人々がより平穏でより意味のある生活を発見するのに役立っている例を見てきている。

 

 大変多くの人々が目を覚まし,急いで支度をし,コーヒーを掴んで,仕事に家を走り出ていく。一日中働いた後,疲れて帰宅する。同じことは子どもと家にいる男性や女性にもおおかた当てはまる。子どものためにすることを始めるのに間に合うように起きるのだ。実質的には他のことをする時間がない。勤めていようが,子育てをしていようと,その両方でも,大部分は疲れていて,個人的な時間を楽しめなさい。疲労の解決方法として,「できる多くの睡眠をとったほうがいい」という前提がしばしば作られる。したがって,自由な時間は睡眠に割かれる。多くの人々にとって,このことによって内面に深い切望が生まれる。仕事と子ども,睡眠のほかのことが人生にはあるはずだ,と。

 

 疲労を見るもう一つの方法は,成就感の欠如と圧倒されてしまったという感覚の両方が疲労につながる,と考えることだ。そして,一般に考えられている論理とは反対に,睡眠を少し削って,少しだけ自分の時間を持つことは疲労感を無くすのに必要なことなのかもしれない。

 

 一日を始める前に自分のためにとっておく1,2時間はあなたの生活を向上させる素晴らしい方法だ。私はたいてい朝3時と4時の間に起きる。静かに一杯のコーヒーを飲んだあと,私はたいてい少しヨガをし,数分間瞑想をする。その後で,たいてい2階へ行き,しばらく文章を書くが,また,読むのを楽しみにしているなんでもいいので,本を1,2章読む時間もある。数分間ただ腰掛け,何もしないこともある。ほぼ毎朝,私は山の向こうから登ってくる朝日を見るのを楽しむために,自分のしていることを中断する。電話は決して鳴らないし,誰も,彼らのために何かしてくれとは頼まないし,私は絶対しなければならないこと,というのは何もない。それは一日で群を抜いて静かな時間だ。

 

 妻と子どもたちが起きる頃には,私は丸一日分の楽しみを持ったように感じる。その日どんなに忙しくても,私の時間にどんなやらなければならないことがあっても,私は「私の時間」を持ったと思っている。私は決して,(多くの人が残念ことに思っているようには)自分の生活は自分だけのものだとは感じていない。私はこのことによって,仕事をしている業者や私を頼りにしている人たちと同様に妻や子どもたちに役に立てるようになっていると信じている。

 

多くの人たちが日常生活におけるこの一つの変化がこれまでしてきた中で最も重要な単独の変化だと話してくれる。今までで初めて,する時間が見つからなかったこうした静かな活動に参加できる。突然,本を読めるようになり,瞑想ができ,日の出を鑑賞できる。あなたが経験する成就感は取り逃がしてしまったどんな睡眠を補って余りある。

 

朝の一人だけの時間で生活に変化を

人々が疲労感を感じるのは睡眠不足のせいではない。朝早く起きて自分だけの時間を確保し,自分のやりたいことをやれば,成就感も得られ,家族や仕事に好影響を与える。朝の時間の確保で人生が変わった人は多くいる。

 

ルネサンスは古さ,ギリシャ,ローマの学問の「再生」を指す。それは14世紀のイタリア,フレンチェで始まり,16世紀まで続いた。1520年の偉大な画家ラファエロの死をもって終わる,という人もいるが。ルネサンスの芸術家たちは人間を自然で実物そっくりなものとして描く合理的な方法を探った。哲学的には彼らの芸術は人文主義に基づいていた。人文主義者は言語学(ことばの研究)と歴史に深い興味を持っていた。これは芸術と科学の合体の時代であった。

 

ルネサンスは2つの時代に区分できる。初期(1300年代と1400年代)と最盛期(1490-1520)。初期のルネサンスはフィレンツェの画家や彫刻家,建築家に占められた。その中で,ブルネレスキは線遠近法を生み出し,彼の建築物のなかで古典的なアーチや柱を復活させた。内園とアーケードのある長方形の宮殿がこの時代の建築物を表している。ドナテロのダビデ像はローマ時代以来造られた最初の大きな自由に建っている裸像であった。ジョットとサザッチョは本当の感情を表す現実味のある人物のフレスコ画を描いた。

 

フローレンスの有名な教会を修復中の1987年に,専門家は魅力的な発見をした。マザッチョのフレスコ画のアダムとイブのイチジクの葉は画家が描いたものではなかった。それではなく,2世紀後につけ加えられたものだった。マザッチョはアダムとイブを全裸で描いたのだ。200年後,教会は二人が全裸であることは罪であると判断し,それをイチジクの葉で隠したのだ。したがって,ある時代に受け入れられたものが,別の時代に常に受け入れられるとは限らない。

 

ハイ・ルネサンスはミケランジェロ,ラファエロ,レオナルド・ダ・ヴィンチによって占められた。ミケランジェロは歴史上最も偉大な彫刻家であるばかりか,画家,建築,詩人でもあった。彼はヴァチカンのシスティーナ礼拝堂の天井に最後の晩餐を描き,(現在,聖ペテロ教会にある)極めて均衡の取れたピエタ像を彫った。ラファエロの絵画はミケランジェロのそれより軟らかく,より指摘だ。彼のフレスコ画の1枚は偉大な古代ギリシャの偉大な哲学者と科学者を描いている。レオナルド・ダ・ヴィンチは歴史上最も好奇心に富んだ心の持ち主の一人だ。彼は芸術家であると同時に科学者であった。彼の4000ページ以上に及ぶメモに彼の知的好奇心を推し量れる。彼はひょっとしたらフレスコ画の「最後の晩餐」と肖像画のモナ・リサで最も有名かもしれなさい。

 

モナ・リサの身元は長いこと絵画学者の謎であった。彼女はFrancesco del Gocondoの妻だったのだろうか,あるいは男爵の未亡人,メジチのめかけだったのだろうか。1986年,コンピュータによる分析家Lillian Schwartzは絵画はレオナルド自身だと主張した。画家は同性愛者でこれに関するヒントを自分の芸術に残したかったのだと信じられている。モナ・リサは女装した男性ということがあり得るだろうか。誰にもわからない。1987年の前半,別のコンピュータの分析家は微笑んでいる婦人はかつてネックレスをしており,遠くに山並みを望む背景に立っていた,という「証拠」を捜し出したが,ネックレスも遠くの山脈も絵画修復者によって消されたと言った。真実はなんであれ,この絵画はこれまでに創造された作品の中で最も話題に上って作品の一つであることは確かだ。

 

 

ルネサンスを担った芸術家たち

古典文化の「再生」を意味するルネサンスは14世紀から16世紀まで続いた。初期は建築家ブルネレスキ,彫刻家ドナテロ,画家マザッチョなどに代表され,後半はミケランジェロ,ラファエロ,ダビンチに代表される。

 

科学と宗教の緊張は古く,よく実証されている。おそらく最も有名な例はガリレオとカトリック教徒の衝突だろう。1633年,教会はガリレオに公にコペルニクス的な見方を引き下げるよう強制し,それによって後年,フレンチェの自宅に軟禁されて過ごすことになった。教会はコペルニクスの理論が伝統的な見方を侵害しているので反対した。最近では,もっとも顕著な科学と宗教の衝突はアメリカ合衆国の進化論論者と特殊創造説信者の激しい論争だ。ここでの焦点となるテーマだが。

 

ダーウィンの進化論に対する神学的反対はなんら目新しいものではない。1859年に「種の起源」が出版された時,それはイギリスの協会関係者の批判の的となった。理由は明らかだ。ダーウィンの理論は人間を含む全ての現在の種は長い時間をかけて,共通の祖先から派生してきたと提案している。この理論は明らかに「創生期」と矛盾する。なぜなら,それには神は6日間で全ての生き物を創造したと書かれているからだ。そこで,選択は簡単に見える。すなわち,ダーウィンを信じるか,聖書を信じるか,であって,両方を信じることはできない。にもかかわらず,何人もの傑出した生物学者を含む多くの誠実な進化論者は自分たちのキリスト教の信仰を進化の信念に合うようにした。一つの方法は単にこの衝突についてあまり考えないことだ。もう一つの方法はより知的で,正直な方法は「創世記」を文字通りに解釈すべきではない,と論じることだ。というのも,結局,ダーウィンの理論は神の存在や他の多くのキリスト教における信念と共存できる。進化論が排除するのは聖書の創造の物語の文字通りの解釈でしかない。したがって,キリスト教をうまく適合して解釈したものは進化論と共存できるのだ。

 

しかし,アメリカ合衆国では,特に南部の州においては,多くのキリスト教徒が科学的な発見に合わせるために自分たちの宗教的な信念を曲げることに消極的だ。彼らは創造の聖書の物語は文字通り本当であって,ダーウィンの進化論はしたがって完全に間違っていると主張する。この意見は「特殊創造説」として知られ,イギリスやヨーロッパよりはるかに高い比率である全米の成人人口の約40%によって受け入れられている。特殊創造説は強力な政治勢力であり,科学者にとっては大変残念なことだが,アメリカの学校の生物の教育に大きな影響力を持っている。1920年代の有名な「サル裁判」で,テネシー州の教師は州法に違反して生徒に進化論を教えたとして罰しられた。(この法律は1967にやっと最高裁判所によって覆された)部分的にはサル裁判のために進化論の教科は何十年にもわたってアメリカの高校の生物のカリキュラムから完全に削除された。このために,最近のアメリカの子ども世代はダーウィンについて何も知らずに育っている。

 

進化論を信じないアメリカ人

宗教と科学の衝突は数多くある。アメリカではダーウィンの進化論と聖書の「創世記」を信じる「特殊創造説」が鋭く対立。過去の裁判のため,進化論が教えられない時期もあり,未だに進化論を信じていない成人も多い。

 

【鳥取・前期】

 ある日曜日,私はサンフランシスコで姉の2人の娘と一緒にテレビで漫画を見ながらリビングの床に座っている。画面では蟻の一軍が現れて,忙しそうに熱い太陽の下,食料を運んでおり,野原の蟻たちの隣にはキリギリスが歌を歌っている。季節が変わり始めると,私はその物語がなんであるかわかる。他ならぬイソップの有名な寓話の一つ,アリとキリギリスだ。

 

 面白い。私は思う。日本で育っていた時,おばあさんから聞いた物語では,歌うのはキリギリスではなくセミだ。私は物語のアニメ版を見続ける。アリは冬のための穀物に仕事を続け,キリギリスは歌い続け,秋の葉が落ちる。それから,冬の雪,ひとりぼっちの疲れたキリギリスがアリ塚の上に飛び乗る。そこで,キリギリスは食料を求めてアリに呼びかける。

 

 他のアリよりも大きな一匹のアリが出てきて,キリギリスに自分の冬用の蓄えはどうしたのか,と尋ねる。キリギリスは夏の間歌を歌うのに忙しくて,蓄えはない,と言う。これを聞いて,アリは応える。「今年の夏,歌うのに忙しかったのだから,今年の夏は食べ物をもらうためには踊らなくちゃいけないと思うよ」アリは全員笑い,キリギリスは腹を空かせて立ち去る。

 

 この時点で,私の二人の姪はキリギリスは飢えて死ぬことになるだろうという意味を全く意に介さず笑い出す。しかし,私はそこで驚いて座っている。それは単にこの寓話で伝えられた残酷な教訓のためばかりでなく,それは奇妙に思えるからだ。私が覚えている物語の結末は全く違う。

 

 私が子どもの時,祖母が読んでくれた話では,アリはアリ塚にお腹を空かせたセミが現れる時,アリたちはセミを迎い入れ,物語は「夏中,アリたちは一生懸命働き,セミは力の限り歌った。今,アリとセミが冬の宴会に一生に加わる時だ」という道徳的教訓で終わる。

 

 2つの物語は同じ原典から生まれたが,全く違ったたとえ話だ。あるいはそうだっただろうか?アメリカのアニメの物語は働き者のアリへのご褒美とキリギリスの怠惰さへの罰を示している。子ども時代からの記憶にある日本の物語は両方の集団の良い点を例示している。すなわち,アリの食料を蓄える勤勉とセミのアリたちを応援した生き生きとした歌を。そうだとすれば,イソップは安心して休むことができる。なぜなら両方の物語は勤勉を推奨し,それがイソップのもともとの教訓と考えられているからだ。

 

 しかし,もっとよく見てみると勤勉に対するそれぞれの物語は異なった教訓を本当は教えている。アメリカの物語は自分の面倒を見ることの重要性を示している。アリはキリギリスに立ち去れ,と言う時,アリは「夏中遊び回っていれば,バチがあたる。自業自得だ。」と言っている。アメリカの物語の重要な点は人はそれぞれ自分の運命に責任がある,ということだ。一方,勤勉に関する日本の話しはどのようにみんな,社会でそれぞれの役割を持っており,必要な時にはお互いに頼り合うという考えを勧めている。祖母がセミとアリの教訓を繰り返す時,祖母は私に厳しい冬を乗り切る唯一の方法は互いに助け合い,互いの援助をあてにすることだとでも言っているようだ。日本の話しの教訓は人は皆他の人にも責任がある,というものだ。したがって,二つの物語はそれぞれが促進する関係の種類は異なる。アメリカの話しは自立を促し,日本の話しは依存を促す。

 

 それぞれの物語やまた,違った形で話されている。自立に関するアメリカの物語では,自分で自立することと他の誰かに頼ることの違いは際だっている。自立したアリには生を,依存するキリギリスには飢えとおそらく死を。相互依存に関する日本の物語では,セミの鳴き声は仕事とみなされ,アリの仕事と一緒に褒美を受けるので,この対照は消えてしまう。セミが招待されたアリと一緒に冬の宴会を楽しめたのは,セミが一生懸命努力し,心の底から歌ったからだ。

「アリとキリギリス」と「アリとセミ」

アメリカの「アリとキリギリス」は日本で聞いた「アリとセミ」とは違う結末だった。勤勉がテーマであることは同じだが,前者の教訓が自立と個人の責任を問うのに対して,日本のそれは依存と協力の大切さだった。

 

 あなたがバーで,あるいは喫茶店やパーティーで,座っている。そして突然孤独を感じる。「この人たちはみんな,どんな大切なことを話しているのだろう」と思う。たいてい,その答は何もない,だ。重要なことは何もない。しかし,人々は話しをするための何か重要なものができるまで,待つことはしない。

 

 私たちが口に出す単語で表現される情報はしばしばそれほど重要ではない。しかし,そのことが,おしゃべりは重要ではない,ということを意味しているのではない。それは,互いに関わっていて,その関わりについてどのように感じているのか示す方法として,極めて重要だ。私たちのおしゃべりは私たちの関係について言っているのだ。

 

 ことばの意味によって運ばれる意味はメッセージである。関係,例えば,互いに対する態度,機会,私たちが言っていること,に関して伝えられることはメタメッセージである。そして,私たちが最も強く反応するのはメタメッセージだ。もし,誰かが,「怒っていない」と言い,あごがはって,声が緊張していれば,怒っていない,というメッセージを信じはしないだろう。彼の言い方によって伝えられるメッセージ,すなわち,怒っている,ということを信じるだろう。「あなたの言ったことより,その言い方だ」とか「どうしてそんな風に言ったの」といった感想はおしゃべりのメタメッセージへの反応である。

 

 私たちの多くは重要な情報を伝えないおしゃべりは価値がない,意味のないおしゃべりとみなしている。「おしゃべりはやめなさい」「要点に入ろう」とか「言いたいことを言ったらどう」と言うことは道理があるように思われるかもしれない。しかし,情報だけが重要であるという場合だけ,こうしたことばは道理がある。おしゃべりに対するこの態度は人々は互いに感情的に関わり,話しをすることは私たちが関係を築き,維持し,監視し,調整する主な方法である。

 

 ことばは情報を伝える一方で,ことばの話し方,例えば,声の大きさ,話す速さ,使う抑揚や強調などが,私たちがしゃべる時使用とすることを伝える。私たちは何かを説明しようとしたり,ただ,楽しもうとしているかもしれない。私たちはより親密になろうとしているかもしれないし,離れようとしているかもしれない。私たちは幸せかもしれないし,悲しいかもしれない。こうしたことは全て社会的意味で,私たちが話すことの言い方が社会的な意味を伝えている。

 

 私たちは絶えず会話での社会的意味に反応しているが,私たちはそれについて話しをするのにふさわしいことばを知らないことが多いので,それについて話すのに苦労する。私たちはその影響の強さを感じていたとしても,それを表す適切な名前がないことについての力や過程について話すこと,あるいはそれに気づき,考えることでさえ常に難しい。コミュニケーションの過程を説明する用語を学び,そしてそれゆえに見たり,話したり,考えたりすることが可能になる。

 

 メタメッセージの概念に加えて,コミュニケーションを動機づける人間共通の必要性がある。お互いにつながると同時にひとりぼっちにされておく必要性だ。この二つの相反する必要性を尊重しようとすると,私たちにはジレンマおきる。私たちは話しの中で,メタメッセージを用いてこのジレンマに対処するために礼儀正しさを用いる。

 

 哲学者のショーペンハウエルはしばしば引用されるヤマアラシが寒い冬を乗り切ろうとする例を挙げた。ヤマアラシは暖を求めて寄り添うが,その鋭い針がお互いを指すので,互いに離れる。しかし,それから寒くなる。ヤマアラシは凍えないことと,仲間の針に刺さらないように,すなわち,快適さと痛みの両方の原因である,近しさと距離を調整し続けなければならない。

 

 私たちは帰属感を持ち,私たちはこの世界でひとりぼっちではないと感じるためにお互いに近くなる必要がある。しかし,他の人たちが入り込まないように,自立を保つために互いに距離を置く必要もある。この二面性は人間の状態を映し出している。私たちは個人であり,社会的生き物なのだ。私たちは生きるためには他の人が必要だが,個人として生き残りたいのだ。

 

 この二面性を見るもう一つの方法は,私たちはみんな同じで,みんな違う,ということだ。理解されることに安らぎがあるが,完全に理解されることは不可能だということに苦しみがある。しかし,違うこと,特別で他にないことにもまた安らぎがあり,他の人全員と同じことにも苦しみがあるのだ。

 

 

言外の意味を伝えるメタメッセージ

会話はことばによる情報だけでなく話し方などで社会的メッセージも伝える。このメタメッセージは人との関係を築くのに大切で,社会的動物であり,個人でもある人間には相手との適度な距離を保つのに必要な手段だ。

 

 

南山,山口,静岡県立,関西,上智,和歌山,大分,金沢,創価,秋田,筑波

 

【一橋・前期】

 妹を最近なくした女性が,自分の妹を数年前になくしている男性の友人から電話をもらった。友人はお悔やみのことばを述べ,女性は妹が苦しんだ長い間の病気について痛々しいことを詳細に話した。しかし,話しをしていくうちに,電話線のむこうでコンピュータのキーボードを打つ音が聞こえた。ゆっくりと,彼女は友人が苦しんでいる彼女と話しをしている時でさえ,e-メールの返事を打っているのだとわかってきた。会話が続くうちに,彼のことばはだんだんと空虚なものになり,見当違いのものになってきた。電話を切った後,彼女は大変惨めな気持ちになったので,いっそのこと電話なんかくれなければ良かったのに,と思った。彼女は哲学者のマルティン・ブーバー呼ぶところの「我−それ」という関わりを経験したところだ。

 

 我―それ関係では,ブーバーは書いた,相手の主観的に現実に気持ちの同調,すなわち理解はない。言い換えると,その人は相手の人に対してなんら,本当の共感を持っていないのだ。つながっているという気持ちの欠如は受け手の見方からは大変明白だろう。(1)友人は電話をして,妹が亡くなった女性に自分の気持ちを表現しなければいけないと感じたかもしれないが,十分に気持ちがつながっていないために電話は空疎な見せかけの態度となってしまった。哲学者たちはこのような他者への冷たい接し方を表すのにagenticという用語を使う。私はあなたの感情を全く気にかけず,あなたから望むものだけに気にかけているとき,私はagenticである。その自分本位のモードは「心の交流」,あなたの感情の方がずっと私には大切で,それによって私は変わる,という高度な相互の共感の状態とは一線を画する。私たちが共感している状態にいる時,私たちは互いにフィードバックしあう輪の中に留まる。しかし,agencyの時間には,私たちは分断している。

 

 他の仕事や関心事があなたの注意を削ぐと,私たちが話しをしている人のためにとっておいたshrinking reserve(減る残高?)によって,私たちは自動的に行動し,会話をかろうじて続けられるくらいの注意を払う。もう少しの存在感を求められたら,その結果は「切断された」と感じる関係になるだろう。関心が複数に及ぶと,きまりきった範囲を超えるどんな会話にも被害を及ぼす。特に感情的に苦しんでいる部分に入り込んでくると。慈悲深くあるために,色々なことをしながら電話をする人は気づける気持ちはなかったかもしれない。しかし,私たちが同時に色々なことをして,おしゃべりに私たちの他の活動が混じり合うと,私たちは簡単に「それモード」に入ってしまう。

 

 また別の関係がある。レストランで私が耳にした話しを例にとろう。「お兄さんは女性に本当に運がないの。技術的にはすごいのに,人付き合いが全くだめなの。最近,スピードデートを試していて。それは独身女性がテーブルにつくと,男性がそのテーブルを回って,正確に5分を過ごし,今後つきあいたいか示すためにお互いを採点する。もし,つきあいたかったら,次に会うのを決めるためにe-メールアドレスを交換する。でも,兄はチャンスを台無しにしちゃうの。兄が何をしているのかわかるわ。席についたらすぐに自分のことをしゃべりまくるの。きっと女性に一つも質問をしないと思うわ。女性にもう一度会いたいと言ってもらったことはないの。」

 

 同じ理由で,オペラ歌手のAllison Charneyが独身だった時,「デート試験」をした。彼女はデーとした相手が「あなた」という単語を使った質問をするのにどのくらいの時間がかかるか数えた。1年後に結婚したAdam Epsteinとの最初のデートでは,時計を測り始める時間さえなかった。彼は即座に試験に合格した。その「試験」は人の協調する能力,相手の内面の現実に入り込み,理解したいと思う能力を求めている。この種の共感的なつながりは「われーなんじ」と呼ばれる。

 

 ブーバーが関係の哲学について彼の著書で説明したように,「われーなんじ」は特別な社会的なつながり,しばしば,もちろん常にというわけではないが,夫婦,家族,親友の間に見られる協調した近しさだ。日常の「われーなんじ」モードは単純な尊敬の念,礼儀正しさから愛情,賞賛,私たちが自分の愛を示す無数の方法までカバーする。

 

 「われーそれ」の関係の感情的な無関心と疎遠さは協調した「われーなんじ」モードと対極をなす。私たちが「われーそれ」モードにいるとき,私たちは他者をなにかしらの目的のための手段として扱っている。対照的に「われーなんじ」モードでは私たちのその人たちとの関係はそれ自体が目的となる。

 

 「それ」と「なんじ」の間の境界線は流動的だ。すべての「なんじ」は時に「それ」になるだろう。全ての「それ」は「なんじ」になる潜在的可能性がある。私たちは「なんじ」として扱って欲しいなら,「それ」で扱われることはひどい気分になるだろう。あの空疎な電話で起きた時のように。そのような瞬間に,「なんじ」は「それ」にと減じられる。共感は「われーなんじ」の関係への扉を開く。私たちは表面だけでは反応しない。ブーバーが言ったように,「われーなんじ」は「体全体でしか話されることはできない。」「われーなんじ」の関わりの典型的な本質は「感じられていると感じること」。ある人が本当の共感の対象になった時の際だった感情である。そのような時に,私たちは相手が自分がどのような気もちでいるのかわかっていてくれると感知し,それで,わかってもらっていると感じるのだ。

 

 

"I-It"と"I-You"関係について

哲学者ブーバーは相手との関係を”I-It”と"I-You"の関係に分けた。相手の立場になったり,共感できず,相手を手段として扱う前者の関係は相手のことを思い共感しよう体全体で表現する後者とは対極をなす。

 

 一つの種,すなわち私たちの種だけ,新しい技術が進歩した。すなわち言語だ。言語は私たちに全ての話題に関して,知識を共有する広い通路を提供している。会話は言語が異なっても私たちを一体化してくれる。私たちはみんな,ベトナムの漁師や,ブルガリアのタクシー運転手,80才の尼僧,生まれた時から目の見えない5才の少年,チェスの名人,パイロットであることがどういうことか,ということについて多くのことを知ることができる。私たちが地球上に点在し,お互いにどんない違っていても,私たちは自分たちの違いを探求し,それについて伝える能力がある。牛たちが群れの中に肩を並べながら立って,どんなにお互い似通っていようとも,違いはもちろんのこと,自分たちが似ていることについてほとんど知ることができない。なぜなら牛たちは感想を語り合うことはできないからだ。牛たちは,一緒に似たような経験を持つことができるが,私たちがしているようには経験を共有することはできないのだ。

 

 私たちの種においても,私たちが私たち自身のアイデンティティーを知る重要な鍵を見つけ始めるのに何千年ものコミュニケーションがかかった。私たちがほ乳類だと知って数百年,他の生物と一緒に,単純な始まりからどのように進化してきたか,詳細に理解するようになって数十年しかたっていない。地球上では,私たちの遠い従兄弟である蟻より数の上では私たちは少ないし,さらに遠い親戚であるバクテリアより重さの上では少ない。私たちは少数派に属するのに長い距離に及ぶ知識の能力によって,私たちはこの惑星上の他の全ての生物の力に君臨する力を得ている。今や,惑星の数10億年に及ぶ歴史上初めて,惑星は先見の明がある守衛,衝突起動にある彗星や地球温暖化といった遠い将来の危機を予想し,それに対して何か手を打つ計画を作ることのできる,守衛によって守られている。惑星はついに自分自身の頭脳,すなわち私たちを育て上げたのだ。

 

 私たちはその仕事にふさわしくないかもしれない。私たちは惑星を救う代わりに破壊するかもしれない。私たちは自由な思考をし,創造的で,活動的な探検家で,冒険家であること,私たちが私たちを構成する何十億もの細胞,すなわち,私たちが誰であるのか,その点では自分はなんなのか,ということを知らずに,また,気にかけることもなく労働を続ける奴隷労働者,とは大変異なっていることがその主な理由だ。頭脳は未来を予測するためのものだ。時期を得た対策が良い方向に向かってとられることができるように。しかし,動物の中でも最も賢いものでさえ,展望は極めて限られ,取って代わる世界を想像する力となれば,ほとんどない。私たち人類は,それに対して,私たち自身の死とその後についてさえ考えることができる混在した天の恵みを発見した。過去1万年にわたり,大部分のエネルギーは人間だけが有するこの不安定な新しい展望によって誘発された懸念を緩和するために消費されている。

 

 取り込む以上のカロリーを消費したら,まもなく死ぬだろう。もし必要以上のカロリーを提供する技を見つけたら,それに何に使うだろうか。多数の個人による何十年もの労働を寺院や墓の建造に捧げるかもしれないし,生け贄として最も大切な所持品の一部,そして自分の子どもの何人かさえも破壊する火に捧げるかもしれない。一体なぜそんなことをしたがるだろうか。こうした奇妙で恐ろしい消費を考えると,私たちの高められた想像力の隠された代償の一部についてヒントを得られる。私たちは労せず知識を得たのではない。

 

地球の頭脳として人類

動物と違って,人類だけがことばを有し,それによって経験を共有し,自分たちの存在を理解し,未来を予見,対策を立てる能力を身につけた。しかし,地球の頭脳としての人類が地球を守る任務を果たせるか疑問だ。

 

【青山学院・文】

 劇的な再現はラジオからニュースや娯楽を得ていたテレビの前の時代までさかのぼる。何回か,あるアメリカ前大統領はラジオアナウンサー時代に野球の試合を再現して楽しんだことを話した。初期の時代には野球の試合の詳細がラジオ局に電信で送られ,ラジオアナウンサーは試合を見ることもなく,試合を再現したものだ。情報が来るのが遅い時には,アナウンサーは詳細を埋めるのに自分の想像力を使わなければならなかった。たとえば,投手が審判が投げた新しい球を調べてどのように時間稼ぎをしているか説明したものだ。

 

 言い換えると,ラジオアナウンサーは電信による詳細が再び到着し始めるまで時間つぶしをしていたのだ。ラジオアナウンサーが言ったことは真実ではなかったかもしれないが,よい上演だった。もっといい上演にするために,アナウンサーはバットがボールを打つ音をまねるために木の棒を棒きれでたたくこともあった。それは本物のような音がしたが,そうではなかった。それはラジオアナウンサーによって想像された野球の試合,すなわち,再現,ドキュメントドラマと呼んでもいいだろう。

 

 再現は野球の試合以外にもラジオ番組で時々使われた。例えば,「時間の行進」と呼ばれたプログラムはヒットラーやチャーチル,ルーズベルトといった歴史上の人物に扮した俳優を使うドキュメンタリードラマだった。その伝統は「あなたはそこにいる」というテレビ番組に伝えられた。それは1953年から1957年まで,それからまた1971年に1シーズン放送された。番組はそれまで誰も聞いたことのないような会話でさまざまな歴史的事件を再現した。テレビ番組のホスト,有名なテレビキャスターは,歴史の再現はニュース分野では全くなく,実際には楽しませるためのものであって,他の何のためでもない,と信じていたと伝えられる。

 

 しかし,それは昔のことだ。ニュースと娯楽の境界線は曖昧になる,ニュース番組の製作が簡単な金儲けになる以前の。何も映っていないテレビ画面を埋め合わせる必要性は再現を驚くべき形でもたらした。アナウンサーがカメラで事件について話す代わりに,再現によって俳優やセットを作る人は昔の事件に近づけるような場面を作り出している。何も映っていない画面の代わりに私たちは現実のシミュレーション,すなわち再現を手にしている。

 

 再現は視聴者が本当のことの記録を見ていると誤解させると主張する批評家もいる。ひょっとしたら,誤解を与える再現の最も有名な例は1989年の7月に起きたかもしれない。ABSの「今夜の世界のニュース」アメリカの外交官がソビエトのスパイにブリーフケースを渡している場面を示した。この場面は再現とタイトルが付けられていなかった。「シミュレーション」とか何か他の,「あなたの見ているものは,私たちが創作しました」といった警告文がたまたま画面から抜け落ちていて,視聴者には実際に撮られた時間を見ている,という印象を残した。場面全体はたった10秒しか放送されなかったが,その衝撃は大きかった。それは現実を「再現する時に」問題に注意を集中させた。

 

 こうした問題は再現が適切に表示されている時でさえ消えることはない。たとえば,あるCBSのニュース番組はAbbie Hoffmanの近況について伝えた。さまざまな道義のために活動家として華々しい職歴があるホフマンは自殺をした。番組はホフマンの人生の最後の瞬間を明らかにしたと主張した。もちろん,視聴者はホフマンはすでに死んでいて,彼の最後のことばを聞くことは出来ないと知っていた。しかし,多くの人々は誰かが出来事を記録し,番組は彼の最後のことばを使ったと信じ,また,信じる権利もあった。そうではなかった。そのことばはインタビューをつなぎ合わせ,それから,作家によって台本が書かれたことばだった。

 

 ニュース番組の短い部分に再現を使うほかに,テレビプロデューサーは疑似の現実のまるまる一本の番組を作り出している。それがドキュドラマと呼ばれている。こうした番組では,最初に,本当のニュースを使い,それから,作家によって創作された出来事に入り込んでいく。こうした出来事は本当かもしれないし,そうでないかもしれないが,プロデューサーは視聴者は実際の出来事をみているのではない,と理解していると主張してドキュドラマを擁護する。研究によれば,視聴者は情報のデモとを忘れても,テレビからの情報を鵜呑みにする傾向がある。しかし,そんなことはドキュドラマ制作者をなやませはしない。

 

 制作者はいくつもの理由でドキュドラマを好む。一つには,コマーシャルの「休憩」をはさんで,最初,中盤,終わりがある劇場のような出来事の形態をとる。実際のニュースの出来事はいつもそんなにきちんとしているわけではない。現実のドラマでは,主人公が殺され,捕虜が解放されないこともあり,悪者が常に法に裁かれるわけでもない。ほとんどのニュースになる事件は30分とか60分のきちんとしたまとまりに含まれるわけではない。ドキュドラマは不幸な,あるいは不公正な結末をより魅力的に飾り付けをして,修復することができる。

 

 制作者がドキュドラマを好むもう一つの理由は低コストだ。再現した1時間のドキュドラマは40万から50万ドルかかるかもしれないが,人気のある俳優,優れた作家,舞台制作者,監督を使う似たような劇がかかる費用のおおよそ半分だ。再現と現実の境界線は大変混乱しているので,ニュース番組の中にはニュースを説明するのにハリウッドの映画を使うものさえある。ニュース放映になにもないこと,例えば,アナウンサーがコメントに重ねる映像がなく,テーマについて話すような場面以上に制作者やニュース監督が恐れていることはない。

 

 一つの解決方法はハリウッド映画の抜粋を単に使うことだ。あるCBSのニュース放送では,有名なジャーナリストがタイタニック号の残骸の新たな探査について報道した。画面の映像はびしょぬれになった俳優たちが救命ボートに乗り込む場面をつけた,タイタニック号の沈没を表す映画のものだった。まじめなジャーナリストに沈みゆく感じを与えるには十分だった。「トム・バコーとのNBCニュース」では,記者はロシアからアメリカへの脅威が消えつつあるようにみえるので,CIAの変容する役割を説明するのに,映画「寒い国から帰ってきたスパイ」の場面を使った。次に来る論理的な段階は第2次世界大戦やその点ではイラクでの戦いを論じる時用いる先頭場面はジョン・ウェインの一場面をながすことになるだろう。

ドキュドラマの歴史と功罪

ニュースに劇的効果を加えて放映するドキュドラマの歴史はラジオ時代に始まる。歴史的事件に脚色を加えたり,ニュース報道に映画の場面を使うことは制作者には好まれるが,仮想と現実の境界線を曖昧にしている。

 

 

 ほとんどのヨーロッパ言語では「物語」と「歴史」は同じ単語だ。もし,英語でも同じような一致があったらずいぶん苦労が減るだろう。そうであれば,ひょっとしたら,歴史は本質的には物語の形態だと認めることを恥ずべきではないかもしれない。今日,歴史家はもっと高い目標を持っている。彼らは過去の社会を分析し,人間の本質について一般化したり,現在に教訓を与えてくれるだろう政治や経済行動に関する教訓を引き出そうとしている。中には将来を予言すると主張する学者もいる。これらは大変質の高い成果を生み出してきた素晴らしい大きな望みだ。しかし,歴史家の元々の仕事は子どもの「次に何が起きたの」という疑問に答えることであるという事実から逃れることはできない。

 

 過去,もっと正確に言えば,文字を持った人類の過去は私たちの原資料である。この過去において,出来事は時間の順番で互いに続いていく。この時間の認識は人類の意識のかなりあとにやってくる。文明によってはないものもある。初期のインド(?)(インディアン?)の記録者はどれが最初に起きたのか気にせずに無作為に逸話を入れた。このような基礎では本当の歴史を書くことはできない。もちろん,私たちや私たちの情報源が誤りをしていない限り,時間の順番を変えることはできないし,そのことはかならず明らかになる。私たちは現実のある通り以外の出来事を持つことはできない。歴史家の中には,「もし違う形で起きたらとしたら」という遊びが好きな学者もいる。これは,こういう人たちは夢が叶うロマンチックな小説を書いていた方がいいだろう,ということがはっきりするだけだ。

 

 歴史は単に鉄道の時刻表のように正しい順番に並べられた出来事のカタログだけではない。歴史は出来事を改訂したものだ。出来事と歴史との間には絶えず相互の関わりがある。歴史家は出来事にある種の合理的なパターンを課そうとする。歴史家で,陪審員に要求されるような先入観を全く持たずに始める人はいない。歴史家は子どものような純粋な気持ちで公文書や古文書にあたり,忍耐強くそれらが結論を出すのを待つわけではない。その全く反対だ。

 

歴史家のビジョンすなわち出来事の解釈は書き始める前に,あるいは研究を始める前でさえ,できあがっている。私は科学者がほとんど同じことをしていると聞いた。科学者は自分の考えを確認するために実験をする。科学者はじっとそこに座って考えが空から降ってくるのを待つのではない。同様に,歴史家は自分の描いた像を密度を高くし,それがより説得力があるように見せる詳細なものを求めている。たいてい,歴史家をそれを見つける。時にはその反対が起きることがある。歴史家は最初に描いていた像を覆す出来事に出会う。その像は歴史家はそれがそのように変化していると気づかずにしばしば自分の手の元で変化する。

 

語り部としての歴史学者

歴史家の仕事は,歴史上の事件を時間順に説明することだが,歴史上の出来事とその記述は相互に関係している。科学者と同様に,歴史家は想定にしたがって,詳細を求めるが,その発見によって理解に変更も加えている。

 

【中央大学・法】

 不安は私たちの他人の判断の仕方に影響を与える。しかし,不安がそのような判断に影響を与えるまさに,その仕方は全く意外だ。不安な心理にいる時は,見知らぬ人を否定的に見るというよりは,実際にはその人たちにより身近に感じることがあるのだ。少なくとも,このことは1970年代に行われた有名な実験の結論のように思われる。高く,かなり怖い吊り橋の上で,男性たちが若い女性に呼び止められて,調査に協力してくれないかと,頼まれた。女性はそれから電話番号の書かれた名刺を渡し,もし良かったら,もっと詳細に調査について話してくれたらと思います,と言った。同じ日の後になって,もっと低くて,安全な橋で同じことをした。それから数日の間,安全な橋で会った人より,怖い橋で女性と会った人からずっと多くの電話がかかってきた。不安によって,男性たちはずっと親しみを感じ,もしかしたら恋心さえ感じたように思われる。

 

 この不安の互いを結びつける効果がひょっとしたら捕虜が捕獲者に対して深く気にかけるようになる奇妙な現象を部分的には説明してくれるかもしれない。この一部は単に捕虜と捕虜をとらえる人々がつかの間の関係の間,一緒に暮らす親近感のためだろうが,そうであっても,そのような愛情は捕虜が感じる不安によって強められるように思われる。

 

不安心理が与える他者への判断への影響

不安な心理状態は他人への判断に影響を与える。実験によると人は不安な時の方がより他者に対して親近感を覚える。このことで,捕虜が捕獲者に対して同情的になる現象も部分的には説明がつくかもしれない。

 

 

 私は初めての船を69才の時に買った。私は釣りをしなかった。船乗りでもなかった。泳がない。海が怖かった。船のどこにもいったことはなかった。しかし,それにもかかわらず船を買ったのだ。

 

 私は借金をしており,お金の節約に努めていたが,船に2000ドルを使った。それは状態は良かった。経験者が私のために調べてくれたので,知っていた。結局,恋に落ちたら,誰かが,常識を持って,事態を調査しなければならないのだ。そして,私は黄色い船と恋に落ちた。他の人は誰にもわからなかったが,会った瞬間,買わなければならないと思った。船は私に話しかけてきた。「勇気を出しなさい。あなたにはできますよ。あなたの目に見て取れますよ。興奮が。私が誰のものかわかるでしょ」

 

 私の成長した息子のスティーブは釣りが好きだった。彼の父親が生きていた時は,二人は自分たちの船で海に出て行く日のことを一緒に夢見ていた。私の夫は二人のいつの日かの夢が実現する前に亡くなった。そして,今や,それは息子の夢になっていたのだ。

 

それはスティーブの40才の誕生日だった。私は彼に何か特別な物をあげたかった。彼の父親によって残されて穴を埋めるような物を。私は彼の痛みを取り除くことはできなかったが,それを癒してあげたかった。スティーブと父親は親友だった。二人は私が取って代わることのできないたくさんの父と息子の時間を持っていたが,多分,私たち自身の時間をつけ加えることはできるだろう。そういうわけで,私は彼の40才の誕生日に船を贈った。

 

 船は私の庭に置いておくことになるだろうと思っていた。海と川,湾が近くにあった。船をステーションワゴンにつけて水辺まで運んでいくのは簡単だった。このようにして,黄色い船を見るようになった。毎日,私はそれを見るたびに,微笑んだ。微笑むのがやさしくないことあった。未亡人であることは楽しいことではない。それに癌で命拾いしたことも。生活をしていくことも。どれも私に喜びをもたらすものではなかった。しかし,船は喜びを与えてくれた。このような喜びを私に与えてくれた理由の一部はボーナスとして,息子を私の元によこしてくれたことだった。

 

 小さな子どもを抱えて家族と仕事で忙しかったが,彼は1時間30分かかる私の家への訪問をできるだけやっていてくれた。

 

 しかし,今や庭には船があった。呼んで。誘惑して。船は磁石のように彼を私の海岸にある家にと引きつけた。「お母さん。釣りをしにいくからね」ということばは聞き慣れた電話の伝言となった。時には2人の息子と妻を連れてきた。友人と一緒に来ることもあった。そして,時には一人で来ることもあった。そして,私たちは一緒の最良の時間を過ごした。庭で。船の上で。彼が汚れを落としたり,修理の必要箇所を直す間,彼は教師としての仕事について話してくれた。船の上で話しをすることは簡単だった。生活について。二人とも懐かしがっている彼の父親について。お茶を買ってあげることもあった。お昼を食べることもあった。

 

私には私を航海に出させる海は必要なかった。息子とのこうした時間がそのことをしてくれた。

 

母と息子の絆を深めたボート

息子の40才の誕生日に私は一大決心で息子と亡き夫の夢であったボートを購入した。それ以来,息子や家族が私の家を頻繁に訪れるようになり,私と息子は亡くなった父親の空白を埋める大切な時間を過ごすようになった。

 

 「最初のことば」は子どもの発達の最初の大きな一歩であり,両親をそれを今か今かと楽しみにしている。しかし,聞いたことに驚くことがしばしばある。両親は自信を持って,そのことばはお母ちゃんとかお父ちゃんだと思っているかもしれないが,それはクマちゃんだったり,飲み物やオーッ!だたりすることが多い。動揺する必要はない。赤ちゃんは大人と同じように,はっきりわかっていることについて話のではなく,珍しかったり,印象的なことについてコメントする傾向がある。両親より生活にはもっとおもしろ物があると考えるのは10代の若者たちだけではないのだ。

 

 こうしたことは全て生後12ヶ月前後に起きる。「最初のことば」が発話されるだいたいの時期だ。8ヶ月と9ヶ月といった早い時期にはっきりとした単語の発話が聞かれる子どももいる。多くの子どもたちはずっと後までそのことはとっておき,時に2才にまで遅れることもあるが,それから急速に追いつく。言語の発達に問題を抱える子どももあり,ことばの学習が進む前に特別な援助が必要な子どももいる。

 

 最初の単語の段階を完全に飛ばして,すぐに単純な文章に入る子どももいる。マコーレー卿は話し始めるのが大変遅かったと言われている。彼については,3才頃にやっとことばを話すようになった時,なぜ,そんなに遅く最初のことばを話すようになったかと問われて,次のように答えたとかんがえられたという話しがある。「これまでは,私の言語的注意を引くに十分な大切なことはなかった」このことを信じようが,信じまいが。

 

 最初のことばが現れると,常に他のことばも出てくる。生後12ヶ月から18ヶ月にかけて,ほとんどの子どもは50語ぐらい話す。ある研究では,10語から50語まで増えるのにかかった平均時間は4.8ヶ月,すなわち,1ヶ月に10語の新しい単語ということになる。生後18ヶ月から2才までの間に,その割合は月25語ぐらいまで増える。

 

 それからは,単語の増加を数えるのははるかに難しくなる。2才までに,能動的な語彙は200語ぐらいまで増加している。3才までには,その数字は3000〜5000語ぐらいである。ある研究では,3才半の子どもがまる1日を記録し,この子の使う全ての単語を数えた。彼女は合計37000語話し,4000語以上の違う単語だった。時に,1分100語の速さで話していた。

 

 合計は素晴らしい物に思える。実際におしゃべりな4歳児の話しを聞いて,ことばを挟めるように黙ってくれないか,と願うようになるまでは。1000語を話すのにそれほど時間がかからないことも気にとめなさい。それは5分間の会話で見つけられる数字なのだ。一定の速度でさえ,ラジオのニュースアナウンサーによるような,あなたが思う以上に言語背景が含まれている。ニュース報道はたいてい毎分200語ぐらいで通例読まれている。

 

 もし子どもが生後18ヶ月まで50語(能動的な語彙)ぐらいまで話せるなら,どのくらいの語(受動的な語彙)を理解できるだろうか。これは研究が難しい分野だが,研究によれば,この進歩はもっと印象的なものだ。2才の最初の数ヶ月の間に,子どもたちは毎月20以上,1日にほぼ1語,の新語に注意を集中する。生後18ヶ月までに,ほとんどの子どもたちは250語ぐらい理解する。話す語1語に対して,5語を理解しているように思われる。

 

 子どもたちが成長するにつれて,徐々に減少するのは割合だが,能動的な語彙と受動語彙の不均衡は,その後の人生にずっと残る。大人になって,私たちの受動語彙は通例,能動語彙の3倍である。私たちは日常使うよりはるかに多くの単語を理解している。この例の他に,私がtelemetry「遠隔測定法」という単語を使ったことはないと思う。どの音節にアクセントがあるのかもはっきりしない。でも,この単語の意味は知っている。

 

 

子どもの単語習得過程

子どもは個人差はあるが,生後1ヶ月前後には最初のことばを話し始める。その後単語を徐々に学習し,3才までには数千語の能動語彙を身につけ,話す速度も成人並になる。受動単語と能動単語の差は終生残る。

 

 

【東京電気・全学】

小さい頃から「大きく」なったら,何になりたいか知っている人もいるが,ほとんどの人はそうではない。11歳の時になりたいと思っていることは,成長過程に,さまざまな仕事を経験するにつれて,変わるかもしれない。

 

 職業計画は重要である。なぜなら,選んだ仕事は人生の多くの面に影響を与えるだろうからだ。仕事の選択はどのくらいお金を稼ぐとか,労働時間,余暇の時間などを決定するだろう。どこで働くかということは,また,どこに住むかという決定にも影響を与えるだろう。

 

 人はなぜ働くのだろうか。皆,働くことには個人的な理由がある。こうした理由は個人の価値観や目的,資質によって異なる。働くことの最も基本的で現実的な理由はお金を稼ぐことだ。しかし,多くの場合,自分の必要や欲望を満足させる十分なお金を稼ぐ人でも働く。何故だろうか?働くことは役に立つ人になりたいという人間の基本的な必要性を満足させているように思われる。仕事が,楽しめ,うまくできることであれば,それから満足感を得られる。自分の時間を前向きに使っていると感じる。

 

 こうした要因全てが,選択する仕事同様,何故,あなたや他の人々が働くのかという理由に影響をしている。

 

 仕事を決める時にお金が唯一の考慮すべきものであってはならないが,ある程度の額のお金は最低限の食料,衣料品,家,医療,交通の必要性を満たすのに必要だ。必要性に加えて欲求があれば(ほとんどの人はそうだが),こうしたことが,また,たいてい,たとえ少額であっても,ある程度のお金を必要とする。養う家族がいれば,責任も増すために,収入の必要性はさらに増す。退職した時の収入の必要性のための蓄えは考慮すべきもう一つの要因だ。

 

 あなた考慮するかもしれない仕事の種類はたくさんある。人生の段階と,変化する目標や,価値観,資質に応じて。

 

 若い時は,多分,いくつかの一時的な,すなわちアルバイト的な仕事を経験するだろう。それは長期的な仕事の目標とは関係するかもしれないし,しないかもしれないが。例えば,ベビーシターや店員として週に数時間働いて遊ぶお金を稼ぐ必要があるかもしれない。働く時間が学校の日程と合っているという理由だけで,金銭的な必要性を満たすために一時的な仕事を受け入れるかもしれない。この仕事を長年にわたってすることはないだろうと知っている。それは楽しむ仕事かもしれないが,必ずしもあなたの職業計画の一部ではない。

 

時に,一時的な仕事が頭の中にある長期的な職業で選ばれることがある。例えば,多くの学校では生徒が職業として考えている仕事で働けるように,職業/学習プログラムを提供している。この場合,一時的に働き,職業にむけて経験を積む機会を持つ。この短期の職業経験の結果,もしその仕事が気に入らなかったら,なるつもりだった職業について気持ちが変わるかもしれないし,楽しければ,その目標に向かってさらに一生懸命勉強するかもしれない。このような一時的な仕事によって,あなたは,その仕事について本を読むだけでなく,直接,その仕事を経験してみられる。これは貴重な場合がある。

 

 永久的な仕事とは,あなたが,正規に長期にわたってする仕事だ。これは,あなたの職業として,あるいは職業計画の一部として選んだ仕事だろう。この種類の仕事は目的志向である。すなわち,あなたの職業目標を達成するのに役立つ仕事だ。どんな永久的な職業を選ぼうとも,それをするにはある程度の訓練,教育を受けなければならないだろう。

 

職業選択にあたって

職業選択は人生全体に大きな影響を与えるので重要だ。選択には金銭面も考慮すべきだが,金銭以外の満足感,達成感など人生観に応じた要因も大切だ。長期的な職業決定には,学生時代の短期の職業体験も役に立つ。

 キーンと音がして,それから大きな衝突音がした。私の前の古い黒いトラックが止まった。私は止まらなかった。私はトラックの後部に強くぶつかり,私の車のフェンダーをつぶし,運転手側のドアを曲げてしまった。ただ,私の車ではなかった。それは父の車だった。私は運転しているべきではなかった。そして,今,それを壊してしまった。

 

 農家の人が注意深く車から降りてきて,被害を見た。私は座って泣いていた。唇を噛んだところが血を流しながら。彼は私のことを心配してくれた。私たちは再び,走り始める前に名前と電話番号を交換した。家に帰る勇気はなかった。本当に困ったことになるだろう。

 

 それは私の卒業式の日だった。私は車で学校へ行き,助手席から降りた。傷を見ると,涙がほほをつたって流れた。私は自分を落ち着けたかったので,体育館のはしごを登った。そこで,私は飾り付けに色紙をつるし始めた。噂はすぐに広まり,まもなく先生が私の足下に立って言った。「おそかれ,はやかれ,卒業式の支度をしなくちゃいけないんだから。早いほうずっといいよ。両親に言わなくちゃね」私はとうとう納得して,ゆっくりと車で家に帰った。

 

 母は私の顔を見ると叫んだ。「どうしたの」また涙が出てきた。「お父さんの車ぺちゃんこにしちゃったの」母や父さんがハンバーグを焼いている裏庭に飛び出て,叫んだ。「料理は止めて!食事はしないわよ。あなたの娘があなたの車をつぶしちゃったのよ。」彼は彼女を見ると,静かに言った。「怪我をしているの」

 

「いいえ。唇を噛んだ他わね」

 

 「じゃ,食事とは関係ないね」父はハンバーグを空中でひっくり返すと,他のハンバーグと一緒にお皿の上に置くと,庭を横切ってきて,私に腕を置いた。「中に入って,話しを聞こうじゃないか。大丈夫ならね」

 私は泣きやもうとして,頷いた。

 裏のドアに来ると電話が鳴っていた。農家の人が私が大丈夫で,他に怪我がないことを確認したかったのだ。その人はお父さんに車につけた傷の代金を払わせようとはしなかった。

 

 私は母が腫れた目にあてるための冷たい布を持ってきてくれる間,唇に氷を押しつけていた。私の父は私にほほえみかけて,ささやいた。「車は修理できるけどね....」

 

 私は家族に出席してもらって,その晩卒業した。私は卒業証書を手にしてうれしかった。しかし,最大の授業は父から受けたとわかっていた。高校は私に本で大切なことを教えてくれた。お父さんは人生で本当に重要なことを大切にするようにと教えてくれた。

 

父から学んだ教訓

私は卒業式の日に父の自動車で物損事故を起こしてしまった。台無しにした車のためにひどくしかられると思っていた私は,怪我のないことを知り,優しく接してくれた父から人生の本当に大切なことを学んだ。

 

【慶應義塾・環境情報】

【T】

 West Orangeのエジソン国立史跡は通常ならば避けるだろうNew Jersey州北部の気候の厳しい,産業が衰退した景観に何千という人々を引きつけている。ニューヨークから約45分ぐらいのところに位置している,エジソン研究所と博物館は東海岸では最も人気のある国立公園の一つである。公園部局は100周年にあたる1987年に5万人以上の人が訪問したと推計した。こうした入場者は全国から訪れ,また,海外からの訪問客も多い。エジソン研究所は日本人観光客に最も人気があるのは驚くにあたらない。日本人はエジソンの勤労態度と技術革新への関わりを共有しているからだ。

 

 今日のマイクロイレクトロニクスの「革命」の創造者たちは1880年代に始まり,1914年から1918年の大戦まで続いた「第2の産業革命」に関連を見いだしている。この期間の急速な経済成長は最初の産業化の波がアメリカ合衆国の経済と社会を変容し始めた後にやってきた。エジソンの白熱球の発明は第2の技術革新の爆発,いくつかの新たな主要産業を生み出した爆発を象徴した。この産業化の第2の波は第1の波ほど強力なイメージはない。蒸気エンジンと繊維工場は第1の大きな動きの象徴として広く認識されている。この動きはイギリスで始まり,19世紀初頭にアメリカ合衆国にと伝わった。1870年代と188年代の新たな産業は同様に,よく知られた象徴はない。マンハッタンのエジソンのPearl Street電力所は,最初の電機産業の建築物の遺跡であるが,もはや存在していない。しかし,West Orangeのエジソン研究所は訪れることもでき,適切なこの動きの象徴である。

 

 West Orangeの建築群は1880年代後半に立てられた。この時期には第2の産業革命がちょうど始まったばかりだった。アメリカ合衆国の最大の産業研究所として,この研究所は技術の新世代を生み出す場であり,20世紀の重要な新産業の出発地点であった。ここでエジソンは彼の電球システムを産業化した西欧に広めて,電球が全員に手にはいるまで電気の価格を下げることに取り組んだ。撮影機はこの研究所で発明された。同じくエジソンの蓄電池や口述録音機のような多数の重要な製品も発明された。エジソンはこの施設で蓄音機を完成し,近くの工場で何千台と製造した。20世紀の最も影響力のあったメディア産業の二つ,すなわち映画と音楽産業はこのレンガ作りの建物群から控え目に始まったのだ。

 研究所の実験室と機械工場はエジソンによって導入された複合的な技術を思い起こさせるものだ。印象的な図書館は第2の産業革命,いわゆる科学技術産業である,電気,鉄鋼,化学,通信の技術における科学の増す重要性の証拠である。陳列された技術的な記録(多くはアメリカ合衆国外からのものだ),学術書,製本された特許は情報時代は20世紀よりはるか以前に始まっていたこと,エジソンは科学技術の発展はどこで起きても,それについていくことの重要性がわかっていたことを示している。

 

 18872月に40才になった時には,エジソンは多くのひとがその生涯にすること以上のことを達成していた。商用電球の発展は彼に世界的な名声とばく大な財産をもたらした。彼の有名な白熱球の発明はNew JerseyMenlo Parkの研究所で起きていた。実験者の集団が電気照明を含む新製品群を開発した「発明」工場であった。電球の発明に続く年月は,エジソンと部下たちは中央発電所に基礎を置く最初の完全な供給システムを建設した。ニューヨークのPearl Street発電所は1882年に完成した。それはマンハッタンの商業地区,数ブロックに電気を配電した。これはニューヨーク市の最初の電気の証明ではなかった。というのもチャールズ・ブラッシュとエドワード・ウェストンがすでに公共の場にアーク灯を設置していたからだ。しかし,電気の商業配電の原型であった。Pearl Street発電所のみすぼらしい,店舗はこの歴史的な設置を十分に評価しなかった。というのも,大規模の電力供給が技術的に可能だということを証明したからだ。それはエジソンの勝利であり,偉大な新産業の小さな始まりだった。同じ発電所がまもなく大西洋をはさむ両地域で登場した。裕福な都市住民は先を競って新しい光を求め,実業家たちはエジソン電気会社の現地法人を作った。「メンロ公園の魔術師」として知られるようになっていたエジソンは同時代の人にとっては強力なビジネス帝国に君臨していた。

 

 技術革新はエジソンが使わなかった用語だ。彼は自分のことを発明家だと言い,彼が研究所でした仕事は発明を言った。しかし,エジソンを単なる発明家と位置づけるのは彼の天才と十分に評価していないし,彼が与えた大きな影響力も説明していない。発明することはアイディアの段階で,長い過程の最初の一歩にあたる。その正式な終了は特許が認めれて告げる。エジソンは発明のためのアイディアを得ることは一番簡単なところだと考えていた。大変なところは「それらを現実のものとし,商業的な製品を生み出す,骨の折れる苦労」だった。技術革新がエジソンの業績を規定しており,彼の仕事を研究所から商業界へと運んだ。技術革新はアイディアの基づいた商業活動の設立を含む。エジソンの記録的なアメリカ特許の数によっていくつかの産業を気づいた彼のさらに大きな業績を曇らせるべきではない。

 

 エジソンの見解では特許は何かを発明する苦労にはほとんど値しない。彼は経験から特許を実業家に売るとしばしば発明家は損をすると知っていた。しばしば,新しいアイディアから得られるものは資本家や製造業者にいき,発明家は裁判で自分の特許を守り,儲けの分け前を得るのに苦労した。特許だけでは十分ではないし,発明でも不十分だ。オリジナルなアイディアは特許以上に見える形のものに発展されなければならない。それは変容されなければならなかった。すなわち,稼働するモデルや原型,実業家が想像ではなく目に見えて,さわれるものに「完成」されなければならなかった。これは財政的支援を得るには必要不可欠だった。エジソンのことばを借りれば,「お金を持っている人」はお金を投資する前に,発明の中にお金を見なければならなかった。発明を完成することはアイディアを稼働するモデルや過程にする時に避けて通ることができず派生するバグ(欠陥と設計トラブル)を見つけ,直すことを含んだ。技術革新のこの段階は発明が工場で用意する原型に変わる時に終わる。アイディアは科学技術,アイディアと知識,ハードウェアの全てが実用目的にむけられて融合したものの中に具現化されたのだ。その価値は特許よりはるかに偉大だ。最終段階は技術を生産に移行し,その商業的な可能性を証明することで,技術に「先鞭をつける」ことだった。これは起業家に売れることができるまで,財政と製造を管理することを意味した。

 

 技術革新はエジソンが発明,完成,新技術の開拓と呼ぶものを含んでいる。技術革新の事業は意志決定,研究計画の技術目標を設定することから新製品の販売戦略を考案することまで含んでいる。それはまた研究管理,開発努力,全活動の資金繰りも含んでいる。19世紀の発明家はしばしば技術革新の事業を無視し,技術分野にとどまることを好んだ。これは貧困と無名の生活が気にならない人にはよかったが,発明工場を動かす人にとっては,資源の管理がまず重要だったのだ。

 

【現代技術革新の父としてのエジソン】

エジソンの研究所を保存する国立史跡は電気を中心とする第2次産業革命を象徴する貴重な遺跡だ。エジソンは発明家として以上にアイデアを具現化,製品化し,市場に送り出す科学技術の革新者として評価されるべきだ。

 

【U】

 2004年のアジアの津波に対する人道的な反応は素早く,世界的だった。しかし,外部の救援組織や外国の兵士が担った任務に比較すると,Banda Acehの地元のインドネシア人のボランティアに割り当てられた仕事は厳しいなんてものではなかった。彼らの任務,何万という犠牲者の威厳を保ち,生存者に疫病が蔓延するのを防ぐために群都から死体を片づけることだった。何週間も残骸となった町の地区をまわり,集団墓地の埋葬のために瓦礫から腐敗する遺体を取り除いた。「本当にびっくりしました」インドネシアの人権委員会のHasballa M. Saadは言う。「人々が自発的に来るなんて思っていなかったのです」

 

 ボランティアの犠牲は現代アジアで過小評価されていた力の象徴的なことだった。すなわち,社会的,経済的問題に取り組むために作られた集団の力だ。何回もこの地区の若者は金儲けに熱心な「自分優先」の人だと描かれている。すなわち,アメリカの第2次大戦後の “baby boomers” 21世紀版として。日本では,指導者たちは「パラサイト・シングル」,猶予された青年期を両親と家に住む25才以上の人々を批判している。シンガポールでは若い世代が子育ての費用と面倒を避ける傾向に悩んでいる。至る所で,アジアの「ミージェネレーション」が現れているという前提は,あったとしても,めったに疑問を持たれていない。結局,度重なる研究でこの地区での何百万もの新たな消費者の上昇が確認され,地球規模の経済成長は上海やジャカルタ,ムンバイといった場所の裕福な家庭の購買力によって加速されていると指摘されている。彼らがしたいこと,そして,世界がして欲しいと思っていることは,消費,消費,消費だけだと思うだろう。

 

 このような観察は間違っていると言うより,1面的である。歴史は産業化する社会は世代毎に進化,それもしばしば劇的にすることを示している。したがって,アジアの猛烈な現代化を考慮に入れると,価値観が急速に変化していることは不思議ではない。しかし,資本主義と際だった消費と同時に,この地区はまた新たな非政府組織の広まりと宗教的な復興,台頭するナショナリズムを経験している。インドには推計200万のNGOがあり,中国では現在1990年代の0から2000の登録された「環境」団体がある。インドネシアでは,国の上位3つの大学の学生たちが2004年に職業計画について調査を受けた。驚くべきことに73%が政府よりNGOで働きたいと答え,約半数が国の改善には政府より市民団体のほうができることが多いと語った。こうしたアジアの国は,たの国では,適切な代名詞は「私たち」である。これは共通の利益を高める集団の力なのだ。

 

 実際,個人主義と集団行動の総合作用がアジアの活力の主な背景となっている。一例は現代のバングラディシュだ。14500万を要するこの国はひどい当地と絶え間ない民衆不安で悪名高いが,開発途上国家では飛び抜けて伸びている。下降圧力をもろともしない経済は2006年には6.7%の成長が予測され,この国は貧困削減や男女平等,地方開発の開発目標達成に順調に進んでいる。

 

 しかし,どうやって?一つの成長起爆剤は条件なしで貧しい家庭まで広げられたローンによって資金を得た何百万という小規模企業である。もう一つは教育,医療サービスを支える活発な若者中心のNGO団体である。「政府は不安定で効果がありません」グラミーン銀行と呼ばれる少額融資(マイクロクレジット)のプロジェクトの創設者であり,今年のノーベル平和賞受賞者のムハマド・ユヌスは言う。「しかし,私たちのNGOは力強く,その力を増しており,私たちがして欲しいと必要としている問題に焦点をあてているのです」

 

 急速な経済成長が新しい社会構造ができるよりも速くに伝統的な社会構造を破壊すると,たしかに方向が定まらない変化によって自己中心的な行動と思われるものを鼓舞する可能性がある。一例は上海やホーチミン,バンガローといった新興都市がそれぞれの国で,もっとも優秀な若者たちに与える吸引力である。しばしば,都会で成功する田舎から出てきた人は自分が孤立し,ひとりぼっちだと思う。「最初は,多くの金持ちは利己的な欲求を満足することに奔走します」,とインドのムンバイの30才になる住民,インド地方開発大学でMBAを取ったシャラバー・サハイは言う。

 

 しかし,シャハイは続けて言う。「こうした人々の数が増え,より経験を積むと,多くの人は『これ以上のことをすべきだ』と言い始めます」これが2人の級友と一緒に2002年非営利団体iVolunteersを設立した時に彼が考えたことだった。4つの都市で活動している会員9千人を有するこの団体は若きエリートと適切な困窮している目標を結びつけようとしている。初めから,「仲を取り持つ」サービスは何千というボランティア,主に25才から35才のITの専門家や行員に,孤児の面倒を見たり,スラム街の子どもを自然探索の遠足に連れて行ったり,老人介護の施設を訪れたり,草の根環境団体に助言をあたる,といったことを手配している。

 

「私たちには大変頭がよくて,高額な給料を稼いでいる若者がたくさんいます」と団体のムンバイでの活動を指揮する27才のミシャ・バートは言う。「彼らは他の人たちと会って,問題の解決策についてブレーンストーミングをします。気持ちがいい,という面が大きいのです」良いことをしたいと思っている企業 

とのつながりを通じてサービスを広げているiVolunteerはインドでの変化を映し出している。村段階での慈善の施しという伝統が都市と新興富裕層から来る,企業,個人の施しにとって代わられつつある。

 

当然,この地区のそれぞれの国はそれぞれ違った段階にある。例えば,中国では環境問題以外に取り組む民間レベルの行動はまだ,大規模な形では社会には現れていない。もう一つの課題は職場内での共同体意識を作り出すことだ。現在いわゆる中国の一人っ子政策のもとで生まれた「小さな皇帝」の多くが働き始めたからだ。声を荒げたり,泣き叫んだり,他にも職業人らしからぬ行動が新規に採用された従業員の間で起きることもある,と報告する雇用主もいる。こうした従業員の中には「決まりは自分たちには適用されないといった感覚」を持ってくるものもいる,と中国を基盤とする経営コンサルタント会社であるSilk Road AdvisorsCEO,ウィリアム・ドッドソンは言う。

 

 一方,個人的でないことは必ずしもいいことではない。マレーシアでは,アドブラ・アームド・バダウィ首相は宗教的,民族的緊張によって,国は「他民族,他宗教国家」として失敗する可能性があると最近警告した。彼の発言に続いて,マレー人のイスラム教徒と華僑の対立があった。日本や韓国,中国のインターネットの掲示板では若き国家主義者たちが,日本の20世紀の帝国主義から北朝鮮の最近の核実験まで,ありとあらゆることで侮辱的な発言を交わしている。これは,経済統合が必ずしも暖かい外交関係につながるわけではないことを示唆している。

 

 しかし,少なくとも情熱は,アジアの人々は金儲け以上のことを心に持っていることを示している。将来の経済,政界の指導者のエリート養成所である,マニラのフィルピン大学イスラム学生協会を例にとってみよう。その会員の多くは,貧しいミンダナオ群の出身であるが,自分の故郷の地域に尽くしたいと思っている。22才のアブデル・ジャマル・デサンゴコパン会長は2人の医師の息子だ。彼はロースクールに通っているが,高給取りの企業弁護士になる夢は持っていない。「お金は付け足しに過ぎません。成就感がまず第一です」と言う。「私は人生で,誰の役にも立っていないような場所に留まりたくないのです」彼はミンダナオに戻り,低所得住民のための大いに必要とされている民間弁護士になろうとしている。イスラム学生協会のもう一人の学生は学位を得たら,ミンダナオに戻って医療を行いたいと言っている。3人目の学生は戻って教師になる計画だ。全員が自分の誓いで成功する可能性がある。自分の住む社会に小さいが,貴重な貢献をして。

 

【積極的に社会に関わろうとするアジアの若者】

 

アジアの若者はしばしば「私」中心で金儲け優先と考えられているが,経済的な豊かさに満足せず,ボランティア活動を通じて,「自分たち」で社会に関わり,変革し,精神的満足を得ようとする新富裕層が増えている。

【関西学院・神・法・経済】

【T】

 1960年代,アメリカ合衆国地質調査のボブ・クリスチャンセンは,イエローストーン国立公園の火山の歴史を研究している時に,それまでは奇妙なことに誰も悩ませなかったことに困惑するようになた。彼は公園の火山を見つけられなかったのだ。イエローストーンが自然界の火山であることは長いこと知られていた。それが間欠泉や他の蒸気を発する特徴を説明していた。それに火山に関して一つ言えることは,火山は一般に大変特徴的だということだ。しかし,クリスチャンセンはどこにもイエローストーン火山を見つけることができなかった。特に彼が見つけることができなかったのは,カルデラとして知られる構造だった。

 私たちのほとんどは,火山について考える時,富士山やキリマンジェロのような,古典的な円錐形を考える。この形は噴火するマグマが左右対称の小山に堆積する時に形成される。これは大変速く形成することがある。1943年,メキシコのパリクテンで,ある農家の人が自分の土地から煙が上がってくるのを見てびっくりした。1週間のうちに,かれは標高152メートル円錐火山の持ち主になったことにとまどっていた。2年のうちに,ほぼ430メートルまで上昇して止まって,それは直径800メートル以上あった。地球上にはこうした目に見える火山は1万ほどある。それらの数百を除き全ては活動をしていない。しかし,第2のそれほど知られていない,山を形成しない火山の型がある。こうした火山は大変強烈で,1回の大規模な噴火で爆発し,強大なくぼみ,すなわちカルデラを残す。イエローストーンはこの2番目の型であることは明らかだったが,クリスチャンセンはどこにもカルデラを見つけることができなかった。

 偶然,ちょうどこの時に,NASAは高いところからイエローストーンの写真を撮って新型の高度カメラを試験することに決定した。配慮のある職員がこの写真のコピーをビジーターセンターでのかっこうの展示物になるのではないかと考えて,公園幹部に送った。クリスチャンセンは写真を見るとすぐに,なぜカルデラが見つけられなかったかわかった。実質的に公園全体,9000平方キロメートルがカルデラだったのだ。爆発は直径約65キロ近くのクレーターを残していた。それは大きすぎて,地上レベルではどこからも認識できなかったのだ。過去のどこかで,イエローストーンは人類に知られている規模をはるかに上回る凶暴さで爆発したに違いない。

 イエローストーンは超火山だとわかっている。それは巨大な熱い場所,少なくとも地下200キロで始まる溶岩の蓄積の上に位置している。これはsuperplumeと呼ばれている。熱い場所からの熱はイエローストーンの間欠泉,温泉,ふきでる泥の池など全てに力を与えているものだ。表面の下には,直径約72キロ,ほぼ公園と同じ広がりで,一番厚い所では約13キロの厚さのマグマの部屋がある。イギリスの村の大きさで高さ13キロ,雲の中でも一番高いところに及ぶTNTの固まりを想像してみなさい。そうすれば,イエローストーンを訪れた人がどんなものの上を歩いているのかおおよそ想像がつくだろう。このようなマグマの池が上の地殻にかける圧力がイエローストーンを持ち上げ,そのまわりの領域をそうでない場合よりも0.5キロ高くしている。ロンドン大学教授のビル・マクガイヤーによれば,「噴火中はその1000キロ以内には近づけないだろう。その結果はさらに悪いものとなるだろう。

 イエローストーンが位置しているような型のSuperplumeはカクテルグラスのようなものだ。上の行くところは薄いが,表面に近づくにつれて,広がり,巨大な不安定なマグマのボールを作り出す。こうしたボールのいくつかは直径1900キロにも及ぶことがある。最近の理論によれば,いつでも,強力に爆発するわけではないが,時に巨大な継続した溶岩の噴出,洪水で出てくる。これは6500万年前インドのデカン溶岩台地で起きたことだ。こうした洪水が50万平方キロ以上の地域を覆い,おそらく有害なガスで恐竜の絶滅の原因となっただろう。Superplumeは大陸が分裂する裂け目の原因かもしれない。

 

(イエローストーンは公園全体が強大なカルデラだ。その地下にはスーパープルームと呼ばれる地下深くから地表に押し寄せる巨大な溶岩だまりある。このようなスーパー火山の噴出は地球規模の影響を与える可能性がある。)

 

【U】

 ある午後,おそくに,もう今日は十分働いたと思い始めた時に,ノックの音を聞いた。出てみると,驚いたことに,全く知らない人がそこにいた。彼は私の名前を尋ね,私は答えた。彼は,入っていてもいいですか,と聞いてきた。

「もちろん」

 私は彼を居間に通した。それから,座るように言うと,彼は感謝して,椅子に腰を下ろした。彼は少し決まりが悪いようだった。私は彼にタバコをすすめ,彼は帽子から手を離さずに火をつけるのに多少苦労した。彼が十分にタバコを吸うのを満喫した時,私は,帽子を椅子の上に置きましょうか,と申し出た。彼はすばやくそうし,それをしている間に,傘を落とした。

 「こんな風にお目にかかりに来たことがご迷惑でなければいいのですが」と彼。「私はスティーブンすといい,医師です。あなたも医療に従事していると思いましたが」

「えぇ,でも,開業はしていません」

「えぇ,知っています。あなたのスペインの本を読んだ所なんです。スペインのことを知っている人がまわりにいないんです。それで,もしかしたら,情報を与えて頂けれると思いまして。」

「喜んで」

 彼はこわばっており,しばらく黙っていた。彼は幾分恥ずかしそうに帽子に手を伸ばすと,それを片手で持って,所在なげにもう一方の手で帽子をさすった。そうすると自信が持てるのだろうと思った。

 「全く見ず知らずのものがこのような話しをすることを奇妙だと思わなければいいのですが」彼は言い訳めいて笑った。「私の自分の人生についてお話しするつもりはありません」

 人々が私にこのように言う時は,それがこれからすることだと常にわかっていた。私は気にならなかった。むしろ,それが好きだった。

 「私は二人の年老いた伯母に育てられました。私はこれまでの他の場所に行ったことはありません。何もしたことがありません。結婚して6年になります。子どもはいません。私はCamberwell病院で医務官をしています。もうそれに我慢ができません。病院の医務官のしなければならないことがどんなことかご存じですね。毎日がそっくりいっしょです。そして,これからも私が楽しみにしなければならないのはそれだけです」

 彼が用いた短くて鋭い文にはなにか,心を打つものがあった。その文には攻撃的な響きがあった。

 

突然の訪問者

ある日,見ず知らずの人が尋ねてきた。招き入れ,くつろいでもらうと,私にスペインのことを聞きたいと話しを始めた。内気そうなその男性は,短い言葉で,医師の単調な生活が我慢できないと身の上話を始めた。

 

【V】

 つい最近まで,鎮痛剤の中でも最も強力な一つ,モルヒネを手に入れることをほとんど不可能だった。家族や医師はモルヒネは中毒を起こすと恐れていた。モルヒネは麻酔剤で南北戦争中,さらに第1次大戦中によく使われていた。その時代には実際深刻な問題も引き起こした。現在では多くの研究で,適切に使用されれば,中毒になるとは限らないとわかっているが。

 しかし,ともかく,モルヒネが中毒性であろうとなかろうと,人々がすでに危篤ならば,ほとんど問題はない。しかし,どういうわけか,この小さな細かいことが心に留められることはなかった。そこで,長いこと,人々は不必要な痛みの中で死んでいった。というのも...えぇ,どうしてだろうか?

 答を理解は難しくない。それは習性だ。過去のモルヒネの使用過多によって引き起こされた中毒に反応して,医師たちはそれを避けるという習性が本能のようになってしまったのだ。また,モルヒネは他の麻酔剤と密接に結びついているということも役に立たなかったと思う。それで「ドラッグ」の持つ道徳的な意味合いが人々の心に宿ってしまった。

 そこで,そこが私たちのいた場所なのだ。すなわち,留まってしまった場所。現在では奇妙に思えるかもしれないが,古い習慣や連想が適用できないとはっきりしても(あるいは思っても),それらを打ち破ることはできなかった。長いこと,人々は危篤の人にモルヒネを使うことを拒否することのばからしさがわからなかった。習慣が人にものを見えないようにしていたのだ。最近では,この問題はもっとはっきり見えるようになり,モルヒネは依然として,ある条件の下であるが,受け入れられている。しかし,もちろん,他にどんな同じようなばかげたことが私たちに直面しているのかとあなたは思うだろう。

 心理学者はこの精神的な盲目性,こうした習慣や前提,決まった見方を説明する用語を持っている。「セット」という。セットはいつでも悪いわけではない。私たちは何かする必要がある時はいつでも最初から全てのことが理解できないわけではない。そうであれば,何もできないだろう。ほとんどの場合,やり抜くためには習慣に頼って,必要な時だけ,少し思慮をつけ加えている。ありがたいことだ。

 しかし,残念なことに,セットはまた私たちの新しい見方を阻害する。それは柔軟性と創造性を阻止する。時にこうした習性は大変根が深く,私たちはそのことを意識しないかもしれない。そして,それから,私たちは本当に身動きできなくなってしまう。

 この話しは私たちに「セット」を打ち破ったり,箱の外で考えるのに役立つ方法が必要だということを教えてくれる。ここに最初の方法,一つだけだが,「箱の外で考える」ための方法がある。まったく無作為のヒントから始めなさい。それから,自分の問題や疑問と一緒になったら,どんな新しい考えや発想が浮かぶか尋ねなさい。

 この方法を私は奇妙な考えを呼び起こす連想と呼んでいる。重要な点は,できるだけ本当に無作為な連想の源を探すことです。そうすれば,実際に「ヒント」,新たな,ふるいにかけられていない刺激を自分の思考に,すなわち,あなたの「セット」の外側から持てたことになります。なにか新鮮なものを。そして簡単に。無作為性こそ,私たちがたまたま陥っている,(それを実際に見ることはできないが)習慣から抜け出るのに必要とすることなのだ。

 

固定概念を打破せよ

モルヒネは医師や家族の先入観で長年使用されなかった。このように長年の習慣となって物事の本質が見えない精神的盲目状態をセットという。セットを打破するためには,「箱の外から考える」柔軟な発想が必要だ。

 

【W】

 日本人の大学教授が,日本での研究を終了するところの留学生と話しをしている。

教授:4年前に初めて日本に来た時は大変でしたか。

学生:えぇ,ことばが特に大変でした。日常会話は大丈夫でしたが,大学の授業で使われる日本語は私には本当に骨がおれました。それに加えて,日本での物事の仕方に慣れるのも少し大変でした。

教授:そうだね。言葉についてだけど,ここにくる前にはどのくらい日本を勉強していたの。

学生:高校で4年間勉強して,大学で2年間取りました。

教授:じゃ,合計で6年。それはいい。今度の4年間の経験を通してずいぶんよくなったと思うよ。ところで,私たちのやり方に慣れるのに難しいともいっていたね。

学生:そうなんです。日本に来る前に文化について勉強していましたが,教科書から得た知識を実際の日常生活に当てはめるのはむずかしかったです。

教授:う〜ん。よくわからないんだけど。例を出してくれない。

学生:えぇ。例えば,教科書で日本人は友人を訪れる時おみやげを持参すると学習しました。初めて日本に来た時会った私の友だちは僕がりっぱなおみやげを持ってアパートに行ったら本当に驚いていました。彼女は友だちを訪問する時にそんなことをするのはかしこまりすぎよ,と言いました。

教授:それはおもしろいね。でも,どんなおみやげでも持っていけば楽しんでくれたはずだよ。それじゃ,他には?

生徒:エ〜ト。何かしてもらったことのお礼に触れたり,そのことで1週間ぐらいしても,次にその人と会った時には感謝するやり方には本当に驚きました。私たちの文化ではそんなことはしません。

教授:私たちが「先週の日曜日に駅まで乗せていっていただいてありがとうございました」と言ったりすることですか?

学生:その通りです。私たちはたいていその場でお礼を言い,それで終わりです。

教授:大変興味深い観察ですね。いまでも私たちのやり方には違和感を感じますか?

学生:正直言って,最初はそうでした。でも今では慣れて,気に入っています。帰国しても続けようかと思っています。

教授:それはどうかな。私自身はその風習は気に入っているけれど,もしそんなことをしたら君の友だちは混乱するよ。『郷にいらば,郷に従え』って言うでしょ。

学生:助言ありがとうございます。そうかもしれませんね。ともかく,日本の国と文化について多くのことを学びました。日本に来て勉強するのは正しい決定だったと本当に思っています。

 

日本への留学生が語る文化の違い

日本での留学を終えて,帰国する学生と教授の会話。ことばの他に苦労したことは教科書では学べない日本の風習。例えば,留学生の国ではその場でのお礼で済むことも日本では,あとでもそれに触れてお礼を述べること。