2006年度入試

【大意】

【旭川医科・後期】

文化の性質

 人類は文化を創造し,維持する能力において動物王国の全ての生き物の中で類がない。人間社会それぞれには独自の際だった文化があり,それゆえにある社会の成員は他の成員とは重要な点でことなった行動をとる。たとえばインド洋にあるアンダマン諸島に人々は久しぶりに友人や親戚と会うと儀式風に大げさに泣く。フランス人は仲間の両頬にキスをする。一方我々は相手の右手を持って上下に動かす動作で満足する。

 状況はこれらのどの例でも同じだ。ちょうど社会的機能としての行動がそうであるように。すなわち,2人の間に存在する特別な絆を強調し,再構築することだ。しかし,アンダマン諸島の人,フランス人,アメリカ人は異なった行動洋式を求め,生み出す。

 これは文化様式の一例にしかすぎない。しかし,文化とは単なる孤立した行動の寄せ集め以上のものである。文化とは明白で,社会の成員によって共有される学習によって身につけられる行動の総合されたものである。

 身についた行動という要素は極めて重要である。文化の概念には本能,生来の反射行動,それに他のいかなる生物学的に伝えられる行動の形態は排除されることが必要不可欠である。文化とは,したがって,全面的に社会による発明の結果であり,教えによって新しい世代に伝えられるので,社会遺産として考えてもいいだろう。さらに,その連続性はその文化の中でおかれた行動様式に従うことを拒絶する社会の成員に対する罰によって守られている。

 このような社会生活と文化的な過程を混同してはいけない。人間の他に多くの動物たちが社会生活を経験し,社会組織を所有しさえしている。蟻社会の複雑な構造は女王,働き蟻,戦士,オス蟻といった興味深い労働の分化を示している。ある種の蟻は捕まえたアブラムシを食料源として巧妙に利用するが,これは社会組織に補助的な人口を付け加えている。(?)しかし,こうした複雑さにもかかわらず蟻社会の社会組織は文化ではなく本能によっている。私たちが知る限り,学習を通じて行動の転移はない。一連の蟻の卵が,大人の蟻がいないところで適切に孵化したとすれば,多数の蟻を生み出し,その蟻は成長すれば,その蟻に先立つ無数の世代の行動の全て,詳細な点まで再現するだろう。

 人間の赤ちゃんが大人の監視,世話,教育から遮断されたら同じことが起きるだろうか。もしこの赤ん坊が生き残れるとして,そうはならないだろうが,私たちは彼らが親を特徴づける行動の特別な性質をはっきり示すとは思わないだろう。彼らには言葉,複雑な道具,用具,火,芸術,宗教,政府,人間を他の動物と区別するありとあらゆる人生の特徴がないだろう。彼らは食べ,飲み,大人になったらつがいになり,おそらく住む場所も見つけるだろう。というのもこれらは基本的な生物学的欲求への直接的な反応だからだ。彼らの行動は衝動的で,だいたいにおいて行き当たりばったりだ。しかし何をどのように食べるのか,ということは今私たちが知っているような特化した人間の嗜好や好みにはよっていない。また彼らのつがいはそれぞれの人間社会に現在の性的特徴を与えている制限された決まりに呼応してもいないだろう。自信の本能的な機能に全面的に任されれば,人間の子どもたちは未発達の野蛮人に見えるだろう。もっとも互いに発見したことを学習するうちにこの行動を標準化するだろうか。原始的な文化がまもなく形成されるだろう。一般化された衝動への具体的な反応はすぐに具体的な文化の様式になるだろう。

 文化に対する人間の能力は人間の複雑で想像力に富んだ神経組織の所産である。この能力によって人間は自己の生体の生物学的な修正をへずに行動における調整ができるのだ。現在の姿は,神経組織を含む,生体の複雑さを増す方向に動いてきた無生物,生物的進化の全過程の最終的な初産である。人間においてのみ,神経組織は文化の創造と維持を複雑な推論,詳細なことを長期にわたって記憶できること,そして言葉の記号の使用,すなわち言語を通じて可能にしている複雑さと適応性の段階に到達しているのだ。

 もし私たちが文化を創造できる能力は人間のレベル以下ではおきないと考えたら,自己賞賛をはらむ間違いであろう。霊長類の親戚は動物心理学者による実験によって出されたより単純な問題を解決することで新しい行動形式を作り出すことができる。彼らはみたところごく初期のレベルでの思考ができるのだ。ウォルファング・コーラーの有名な実験で初めて自分たちの目標物,通例バナナだが,を得るために棒きれをつなぎ,箱を積み上げ,そして鍵をはずすことで,チンパンジーの創造性と知性を示した。さらにチンパンジーは互いに新しい発見や他のメンバーの発明を学び会えることができるし,そうしていると十分に証明されている。発見は真似によって伝えられる。新たに学習された行動パターンは一時的にチンパンジーの社会で共有される。それは初期の文化の要素である。

 

文化とはある集団に共通して存在し,他とは異なる行動様式の集合体だ。後天的に身につけられ,学習によって伝えられるもので,動物の社会的行動とは決定的に違う。初期の文化の形態は他の類人猿でも見られる。

 

 

2つの診察

 14歳の時,母が私を顔と首にできた皮膚病について医者に診せるために連れて行った。医師は町一番の名医だという評判があった。彼の病院で私たちは診察料を払い列に並んだ。私たちの前には彼に見てもらうために10人ぐらいの人がいた。約20分たったところで誰かが私の名前を呼び,医師の部屋に入るよう言われた。診察の間,私は問題全てを彼に説明した。彼は拡大鏡で私の病気を調べ,素早く処方箋を書き,それを手渡し,1週間立ったら継続管理のために来るように言われた。彼が私たちを見送る野に1分もかからなかった。

 私はそんなに短い診察を予想しておらず,彼が私の病気と治療について詳しく説明する十分な時間与えてくれなかったと感じた。彼は処方箋をくれたが,安心させたり,励ましたりすることができなかった。私は母も同じように感じていたと思う。家に帰るとき二人とも何も言わなかったが。私は彼が処方した薬を使い,その薬のおかげでよくなった。しかし私は二度と彼の所へ行くことはなかった。

 1年前頃,私は病気の母を伴ってまったく違う診断のために別の医者のところへ行った。まずはじめに母は詳しく自分の問題を説明した。医師は注意深く聞き,そして十分に診察した後で彼は彼女の病気について全てを話し,彼が行う治療について話してくれた。最後に彼は母に全てわかったか尋ねた。母はうれしそうに頷いた。私は彼女の顔からこの診察の後どんなにうれしく,ほっとしたかみてとれた。

 現在,私は医学部の最終学年である。この二つの診察を思い返すと,私は医師と患者のよい関係と悪い関係を縮図的に示していると思う。私は多くの患者に日常的に会う。学生として私は安心感,励まし,希望それに患者の苦しみに耳を傾ける時間を与えることしかできない。私はそれが患者に役立つと思う。また,先生たちが患者を診察するのを見る。診断の後うれしそうに戻る患者もいれば,医師が十分に病気と治療について説明する時間を与えなかったと感じたとき不満げに見える患者もいる。このことは患者に対する最高の扱いは医師と患者のいい関係の強い基盤に置かれればさらに強固になるという私の信念を強めるものだ。

 

2つの診察:よき患者と医師の関係とは

私は医師の診察について2つの対照的な体験がある。この体験から,私は医師は十分時間をとって患者に病状や治療方法を説明し,安心感や励ましを与えることが患者とのよい関係を築くのに重要だと考えている。

【名工大】

X ほぼ2.7メートルでハイイログマと同じくらいの大きさである,タイ北部で釣られた巨大なナマズは史上最大の淡水魚かもしれない。

 何人の漁師がこの生き物を引き上げるのに1時間以上格闘した。はかりでは293キロを指した。メコン川の巨大魚を生かそうとしたが,死んでしまい後で村人たちが食べてしまった。メコン川の巨大ナマズ(パンガシアノドン・ギガス)種は国際自然連合による重大な絶滅危機種に挙げられているが,そのことは野生での絶滅の可能性が極めて高いことを意味している。チャング・コング地区でとらえられた珍しい標本はタイが1981年に記録を取り始めてから最大のものだ。

 巨大ナマズは現在,地球上最大の淡水魚を確定し,研究する世界野生生物基金とナショナルジオグラフィック(NGS)のプロジェクトの焦点である。最大の淡水魚は重量100キロ,長さ2メートル以上に成長する。

 「このような巨大魚が世界の川のどこかで今でも泳いでいると考えると驚きだ」とナショナルジオグラフィックの研究者であり,WWF保全科学員であるプロジェクトの主任ゼブ・ホーガンは語った。

 「このナマズは現在の記録保持者だと思っています。すごい発見です」ホーガンは付け加えた。「ブルガリアの3メートル超のナマズ,東南アジアの500キロのアカエイ,アマゾン川の5メートルのラパイマのことを聞いたことはあるが,これまでのところ,こうした報告の確認はとれていない」

 世界一の淡水魚タイトルを目指す他の相手には中国のヘラチョウザメやdog-eatingナマズ(メコン川のもうひとつ巨大魚)が含まれる。ホーガンはこのような巨大種は研究が貧弱で保護の緊急の必要性があると語る。「多くの場所では,現在ではそれらは大変稀少なので記録や研究の機会はすぐに失われてしまう」と彼は言った。写真家Suthep Kritsanavarinはラオスの対岸,メコン川のタイ側で記録的な捕獲を目撃した。「もう生涯二度とこのようなものは見れないかもしれない」と彼は言った。

 クリストナバリンは今年はメコン巨大ナマズは4匹しか陸揚げされていないと語る。タイの漁業職員は捕獲養殖プロジェクトのために魚卵をとったあとメスの成魚を川へ放すことを期待していた。残念なことに,この魚は受難に生き残ることができなかった。

 メコンジャイアントナマズは4月と5月,産卵場に向かってのぼっている時にチャング・コングで捕まえられた。

 猟師たちは釣りシーズンの初めに恒例の式を開く。この時に川の神に魚を釣る許可を頼む。「船上で鶏の生け贄が行われると」Kritsanavarinは言った。

 タイとラオスではナマズ漁の長い伝統がある。ホーガンはタイ北東部の魚の洞窟画は千年以上もの間メコン川沿いの人々の想像をとらえていることを示している。「メコンの人々はそれは神聖な魚だと考える。なぜなら植物を食べ,メコン川の深く,ごつごつした水たまりで「瞑想」しているからだ。それは仏教僧のようだ」この魚には高い値段が付く,というのもそれを食べると幸運が舞い込むと考えられているからだ。中国人は魚肉は知能を高め,寿命を延ばすと信じている。

 「私が聞いたところによると,魚はすこし泥っぽい味がする」とホーガンは付け加えた。「カンボジア人は,魚を食べることが幸運をもたらすということは信じていないが,まずくて,安いと言っている」保全主義者たちは魚の将来を懸念している。ホーガンは歴史的な捕獲数から魚はかつて現在より100倍から1000倍いたと考えられる。数の減少の理由ははっきりとしていない。もっとも可能性のある要因として,乱獲,生息域の悪化,魚の動きを阻むダム建設が含まれている。メコンナマズは黄金の三角形,タイ,ラオス,ミャンマー,中国の国境が接する地域で産卵する。WWFのロブ・ショアはカンボジアのフノンペンに本拠を置くLiving Mekong Programに取り組んでいる。彼はメコン川下流域の政府は種を保全する施策を導入していると語る。

 カンボジアでは主流に設置されている網で捕獲された数種のメコン川の巨大魚のタッグをつけて放すプログラムが行われている。こうした種の中には巨大バーブ(鯉の一種),巨大な淡水エイそれに川ナマズが含まれる。

 魚はタッグが付けられ,計測され,それから放される。猟師たちはこうした魚を野生に戻すことで保証金を受け取る。ゼブ・ホーガンがこのプロジェクトを行っている。「報告ネットは大変よく機能しています。それはメコンジャイアントナマズに対する尊敬されている地位によるのです」とショアは付け加えた。

 タイ北部では,巨大ナマズの漁は研究と保全目的のために許可されている。魚精と卵がタイ政府による再導入計画のために取られる。2001年,最初の子孫が捕獲,養殖された親から育った。こうした人工的に育てられた幼魚が野生で成功するかどうか依然としてはっきりしていない。ショアはメコンジャイアントナマズの保全は同じ環境に依存する多くの他の移動する魚の種にとっても重要である。「代わって,こうした種は何百万という人々の命と生活を維持している。

 ゼブ・ホーガンは魚を守る国境を横断しない戦略はないのでメコン川全域の種保全活動計画が緊急の課題だと語る。現在一つのアクションプランがMekong Wetlands Biodiversity Programによって行われている。他の優先事項には環境破壊せずに維持できる漁業方法,重要な生息域の改善,産卵場の確認,淡水区域の保護の創設などが含まれる。ホーガンは世界中の他の深刻な危機にある大きな淡水魚の情報を集めることを期待している。The WWF-NGS巨大淡水魚プロジェクトはアフリカ,南アメリカ,アメリカ合衆国へ向かう前に中国とオーストラリアを訪問する予定だ。「やるべきことははっきりとしている。こうした種と生息域を守る方策を見つけることだ。今行動することで,メコンジャイアントナマズのような動物を絶滅から守ることができる。

 

近絶滅種,最大の淡水魚メコンオオナマズ

記録上最大の淡水魚で近絶滅種のメコンオオナマズが捕まった。現在カンボジア,タイなどでは,古くから生活に密着したこの魚の産卵場などの研究,養殖や研究以外の捕獲禁止などによる保全の努力がなされている。

【明星】

T スーザン・B・アンソーニー(1820年2月15日---1906年3月13日)はニューヨークでクゥエーカー教徒として育てられた。彼女はクゥエーカー教の神学校で数年教えそこから学校の女子部の校長になった。29才でアンソニーは奴隷廃止論,それから節酒運動に没頭するようになった。アメリア・ブローマーとの友情からエリザベス・キャディ・スタントンと出会った。彼女は政治組織,特に女性の権利と女性参政権において生涯の同志となるのだった。

 エリザベス・キャディ・スタントンが既婚で,何人かの子どもがいて作家とidea-personとして活動したのに対して,スーザン・B・アンソーニーは一度も結婚しなかったが,組織者であり,旅行をし,荒々しくスピーチをし,対抗する世論の矢面に立った。

 南北戦争後,「黒人」の参政権のために働いていた人が女性を投票権から引き続き排除するのを知って失望して,スーザン・B・アンソーニーは女性の参政権により焦点をあてるようになった。彼女は1866年の全米男女同権協会の設立に助力し,1868年にはスタントンとともに編集者として革命の編集者になった。スタントンとアンソニーは全国女性参政権協会,ライバルになる全米女性参政権協会よりも大きい,設立した。1890年には2つが合同した。

 1872年に顕著な事件が起きた。憲法は女性の投票を許可すべきだと主張するために,スーザン・B・アンソーニーはニューヨーク州ロチェスターで大統領選挙の試験投票をした。彼女は逮捕され,有罪となった。しかし,彼女はそれに伴う罰金を払うのは拒絶し,彼女に強制的にしようとする働きかけもなかった。

 彼女の著作で,スーザン・B・アンソーニー時々堕胎について触れた。スーザン・B・アンソーニーは女性にとっては安全でない医学手続き,女性の健康と生命を危険にさらすこともある堕胎に反対した。彼女は男性に法律,女性には他の選択肢がないため堕胎に追いやる「二重基準」を責めた。彼女は,彼女の時代の男女同権論者の多くがそうであったように,女性の平等と自由の達成のみが堕胎の必要性に終止符を打つと信じていた。アンソニーは女性の権利の他の論議にも半堕胎の著作物を用いた。

 1979年にはスーザン・B・アンソーニーの肖像が新しい1ドルコインに選ばれ,彼女はアメリカ通貨に描かれる最初の女性になった。しかし一ドルの大きさは25セント硬化に近く,アンソニーのドルは一度も人気が出ることはなかった。1999年アメリカ政府はスーザン・B・アンソーニーのドルとサカジャウェアの肖像を中心にしたドルに代えることを発表した。

 

 私たちは農業を種を植え,作物を収穫するものとしてしばしば考える。しかし多くの作物は種からできるわけではない。木や植物の多くの種類はすでに存在している木や植物から切り取られた破片から育つ。これは接ぎ木と呼ばれている。

 農家の人々は木や芽と呼ばれる成長したてのものをある植物から切り取り,関連種のこれらを植える。接ぎ木をされた枝,もしくは芽は「穂木」と呼ばれる。接ぎ木を受け入れる植物は「接ぎ木の台木」と呼ばれる。

 時間が経過すると2つの植物からの部分は共に成長する。接ぎ木された植物は台木ではなく穂木の葉や実をつけるようになる。

 接ぎ木はいくつかの方法で切ることができる。例えば割接ぎはいくつかの芽を出している穂木を必要とする。穂木にそこはV字型に切られる。穂木を受け入れるために台木には台座が削られる。それから穂木が台座の切り込み部分に置かれる。成長媒体と呼ばれる材料が接合部に,接合部が湿って成長を助けるように置かれる。

 接ぎ木は要求する性質を持った穂木を病気や昆虫に耐性のある強い台木と結びつけることができる。小さな木がより古い穂木と接ぎ木することができる。アメリカの環境保護局は接ぎ木は作物への殺虫剤の必要性を軽減できると言っている。EPAはより強い接ぎ木は化学物質を使うより費用がかからないことを発見した。そして,毒は人々や環境に危険な可能性がある。

 農業は接ぎ木なしでは私たちが知っているような形では存在できないだろう。多くの果実や木の実はこの方法によって改良されてきている。セイヨウミザクラやリンゴといった一般的な果樹は接ぎ木をする必要がある。

 たとえばビング種チェリーはチェリーの中では最も一般的なものだ。しかし,ビングチェリーの木は種からは育たない。ビング種チェリーをつける枝は台木に接ぎ木されなければならない。市場に出ている全てのセイヨウミザクラはこのように栽培される。

 そしてそれからネーブルオレンジのような種なし果実や種なしスイカがある。どうやってこうしたものを農家では栽培しているか不思議に思ったことはあるだろうか。答えは接ぎ木をつかってだ。

 ぶどうの木は再生に接ぎ木に頼るもう一つの植物だ。ぶどう,リンゴ,洋なし,それに花は接ぎ木を通して改良できる。高度技術の農業の時代にあって,接ぎ木は依然として極めて重要な低技術の方法だ。

 

種からではなく接ぎ木から作物を収穫することも多い。接ぎ木とは台木に穂木をつなぐこと。穂木の果実や葉をならす。接ぎ木によって,台木の強さの上に,穂木の持つ果実をつける。殺虫剤も軽減でき環境に優しい。チェリーやりんご,種なしの果物は接ぎ木によって栽培されている。接ぎ木によって品種改良ができる。接ぎ木は重要な技術だ。

 

病気に対する耐性の強い台木に育てたい木を接ぎ木することで,チェリーや種なしぶどうなど様々な果物が栽培されている。接ぎ木は殺虫剤の量を減らし,環境に優しく,品種改良に置いても重要な農業技術だ。

 

果実栽培の重要な技術接ぎ木

【龍谷大】

T 文化は国によってかなり違う。同じ国内でも,様々な地方,民族グループ,会社にはそれぞれ独自の文化がある。ほとんどの多国籍企業が70以上の様々な国でビジネスをしてるという事実を考慮するとこのことはさらに複雑化する。文化を考慮することは言葉や,交流しなければならない全ての文化の細かいことを意味すると考える人もいる。無数の細かいニュアンス,風習,習慣などを。実際に,もちろん,これは無理だ。

 実用的なビジネスツールとしては,文化の知識は効果的なビジネス交渉を実現させる分野を含むべきだ。もっと徹底した観察と専門知識の収集は文化人類学者の分野だ。ここでは私たちはビジネスを行う過程にもっとも影響を与える価値観を選び,それらがどのようにして大切な人対人の交流に影響を与えるのか説明する。目標は問題になりそうな場面を特定し,読者にビジネスに対してある種の価値や態度を共有する幅広い文化と対処する感触を与えることだ。

 幸いにも,多くの文化の価値観は違った国でも共有されている。全ての国は唯一無比であるが,様々な文化を横断する共通の糸がある。例えば,集団中心の文化はラテンアメリカでビジネスをしようが中東でビジネスをしようが態度,信念においてある種の類似点を共有している。見方において一般的には個人主義的なアメリカ人はすぐに商談に入ると快適に感じる。アジア,アフリカ,ラテンアメリカ,中東といったところで見られる集団中心の文化出身のビジネスマンはたいてい人間的な要素を認め合うために,すなわち親交と信頼感を築くために関係の始まりには多少の時間をさくことを期待する。重要な点はこうした異なった集団中心の文化は働く関係を築くときに同じようなアプローチを持っているということだ。この文化の性質が重なり合っているということは海外でのビジネスをすることをかなり簡略化させてくれる。

 文化について学ぶことはまた蓄積する。一つの外国の文化でのやりかたを身につければ,次の文化を理解することはずっと楽になる。さらに重要なことに,どんなことに気を付ければいいのかわかるようになる。国際的な旅行が経験豊かな人はほとんどどんな文化的な状況においてもリラックスできる。たとえその場所がそれまでにほとんど経験ないような場所にいても。その理由は文化的な相違への対処をする一般原則を身につけているからだ。

 もちろん,あなたが対処するそれぞれの国の背景や歴史についてできるだけ知っていることは価値がある。しかし,ビジネスの観点から最も重要なことは他の文化のビジネスのアプローチの仕方に影響を与える中核的な価値観を学ぶことである。ある文化の表面的な特徴は海外で成功することとなると,こうした深い価値は全く重要ではない。国際的な交渉に熟知している人が私に話してくれたように,「握手の仕方とか足を組まないとかいったエチケットは体面を保ったり,信頼を築くといった深い文化的信念ほど重要ではない。結局人々はあなたは自分たちの習慣を必ずしも知らない,ちょうど彼らがあなたの習慣を理解していないように,ということを理解している。だからかなりの忍耐力が必要とされるのだ。

 

U

 日本人は地球上の誰よりも長生きする。彼らの平均寿命は女性は驚くべき84才,男性はほぼ80才である。この長寿はいくつかの要因からきているように思われる。まず第一に大多数の日本人は彼らを健康で,痩せさせている,健康的で,低脂肪,高繊維の食事をする。第2に国民は健康に意識が高い。最後に日本には大変に安い受診料で全ての市民に第1級の医療を提供する保険制度がある。

 一方,平均的な日本人女性は1.3人しか子どもを産まない。この長寿と低出生率があいまっていわゆる日本人口の老齢化をもたらしている。事実,日本は急速に老齢化しているので,2030年までには,国民の30%が65才以上という世界でももっとも老齢化した国になるだろう。このことがもちろん問題を引き起こしている。健康保険制度と経済全体の両方に圧力をかけている。そして,いくつかの困難な社会的問題を提示している。たとえば誰がこうした老人の面倒をみるのか。若い世代は義務感を感じていないように見える。そしてますます多くの妻たちが,伝統的にはこの仕事をしていたが,現在では家庭の外で働いている。

 しかし,この老齢化人口はまた急成長の新しい産業を生み出している。すなわち老人介護だ。日本には比較的老人施設が少ない。そこでこのような施設が開設され人員が配置されている。したがって,近い将来には,「介護施設の介護士」は新しい職機会になることが約束されている。すでにいくつかの単科大学や総合大学はこの分野の課程を開設している。そしてひとつの会社は老人介護教育の部署を拡張している。すでに何千という卒業生を誇っている。こうしたこうした「ホームヘルパー」と呼ばれる人々は専門職ではない。多くの人は家で親族の世話することになる主婦たちだ。いずれにしろ,日本の老齢化人口によってこの国をある種のリーダー,一種のテストケースになっている。最終的には,他の国も人口の老齢化が進むかぎり日本に追いつくだろう。かれらもまた似たような問題,難題に直面するだろう。そこで現在他の先進国は日本での事態がどのようになるのか見守り,日本が先の道を示してくれることを期待している。

 

 

日本は長寿と低出生率で急速に人口の老齢化が進み医療問題や社会問題が懸念されている。老人介護は新しいビジネスチャンスとなり介護士の教育も始まっている。日本の老齢化対策は世界の注目のまとだ。

 

【南山】

【南山大】

(A)

 ディエゴ・リベラは1886年にグアナジュアトに生まれたが,8才の時にメキシコ・シティーに引っ越した。彼はサン・カルロス美術学校とホセ・グラダルプ・ポサーダの工房で学んだ。ホセは彼に多大な影響を与えることになった。ヨーロッパ留学の奨学金をもらい1909年にパリに旅行した。そこで,キュービズムと後期印象派の影響を受けた。彼は特にピカソのキュービスムの作品に魅了されるようになった。自身のキュービズムの試作をしたのち,イタリアへ行きルネッサンス芸術の勉強をした。

 メキシコに戻ると,すぐに自分のルーツを再発見した。彼は一般の人に直接語りかける絵画を創造したかったのだとわかった。メキシコで社会主義革命にたずさわり,彼は芸術は歴史についてメキシコ人を教育することで,このことで役割を果たせると感じた。彼の公共の壁画はヒスパニック文化の誇らしいコロンバス以前の過去,スペイン人による征服,土着の宗教からカトリックへの改宗,労働者階級の富裕な土地所有者への屈服,それにメキシコ革命を表している。メキシコの歴史と革命のイメージに加えて,ディエゴはより小さな絵画で普通のメキシコ人を描くのを好んだ。こうした絵では,鮮やかな色と簡略化された構成物を用いた。彼の絵画の一般的な主題は大地,農夫それに労働者だった。

 1932年,ディエゴはエデセル・フォードの契約を果たすためにアメリカへ行った。委託された壁画はデトロイト芸術学院の庭園に生み出され,フォードの自動車工場の労働者を描いた。翌年までに,壁画は完成した。共産主義者のリベラがその時代の最大の業界人のために芸術作品を創造するとは皮肉なことだったが,その絵画は自身の政治的信念に満ちていた。リベラは産業革命を労働者の解放者と見ていた。彼の絵画の中の労働者は全て大きな機械のギヤのように一緒に働いていて,みんな同じように役割を果たしている。絵画の上には,白人,東洋人,ヒスパニック,黒人の姿を結びつけた人々の力に関係したイメージをさらに作り出した。

 リベラの次の作品はニューヨーク市のロックフェラーセンターで作られた。この作品は論争になる歴史をもつことになった。「交差点の人」として知られる作品は,リベラの長い絵画が題は「希望と高い展望で新しくよりよい未来の選択を見ている交差点での男」というものだった。絵画のほとんどの部分はうまくかかれ,受け入れられるものだったが,ロックフェラーはレーニンの顔を入れ替えるように頼んだ。代わりにリベラはエイブラハム・リンカーンや他の19世紀のアメリカの人物を絵画に含めることを提案した。満足のいく妥協点に到達できずに,リベラは契約を解除された。絵は破壊された。1934年,リベラはメキシコ・シティーのPalacio de Bellas Artesの壁に一回り小さい絵を復元した。

(B)

人々に貼られるレッテルのほとんどは世界共通の傾向がある。たとえば,天才,ホモ,巨人など。このようなレッテルはそれを持つ人の判断,反応に影響を与える傾向がある。私はこの影響を大学の心理学科での研究中に気づくようになった。人々が医院のドアを通って入ると,自分に「患者」というレッテルを貼り,その時に,私も同様の見方をする。その人々が問題だと見ているある行動や感情について話し合うとき,私は「患者」というレッテルに符合するように彼らの行動を見ていた。後に,治療からはなれて,全く同じ行動(例えば,決定をしたり,約束することが困難だとか)や感情(失敗したことへの罪悪感や,失敗への不安といった)を知り合いの人の中に見いだしたとき,その状況では完全に普通なことで,理解できることのように思われた。

 レッテルとの影響力を調べるために,心理学者であるロバート・アベルソンと私は普通の外見の男性がインタビューを受けているビデオテープを使う実験を考えた。その男とインタービューアーが互いに向き合い肘掛けイスに座り仕事について話した。私たちはこのビデオを心理療法家に見せた。半数の心理療法家には,私たちはインタビューを受けている人を「求職者」と呼んだ。残りの半分には,彼のことを「患者」と呼んだ。テープを見せた心理療法家には2つの異なった経歴を持っていた。半数は様々な伝統的な方法で教育を受けており,一方,残りの半数は特にレッテルを避けること強調して教育を受けていた。

 テープの男性を求職者と呼んだときには,心理療法家の両グループから彼は十分に適応していると判断されることがわかった。彼が患者というレッテルと貼られると,レッテルを貼ることを避けるように訓練された心理療法家は依然として彼が十分に適応していると見た。他の心理療法家の多くは一方,男性は深刻な心理的な問題を抱えていると見た。

 私たちのほとんどは自分と同じような人々と成長し,時間を過ごすので,私たちは他人も自分と同じ特徴があると考える傾向にある。一つの具体的な点ではっきりと異なっている人に対したとき,私たちはその前提を捨て,代わりにより多くの相違点を探す。しばしばこのように近くされた相違点は識別できる相違点とはなんら論理的関係がない。例えば,脳性麻痺人の変わった仕草のために,私たちは知能の差異を仮定するかもしれない。このような間違った過程は「普通」の人々と「変わった人々」の間の認知された相違を大げさに言う傾向がある。このことによりある種の集団の人々に対して偏見を作り出すことになる。

 

(C)

 1968年5月,米潜水艦スコーピオンが北大西洋で姿を消した。海軍は潜水艦の最終報告の位置を知っていたが,スコーピオンに何が起きたのかは全くわからず,最後の無線連絡をしてからどのように移動したのかほんのわずかに理解していた。その結果,海軍が捜索を開始した区域は円形の幅20マイル,何千マイルもの深さだった。これ以上の骨の折れる仕事は想像しにくいだろう。考えつくかもしれない唯一可能性のある解決策は潜水艦,海流に関する一線の専門家を見つけ,スコーピオンの場所を聞き,そこを探すことだった。しかしシェリー・ソンタークとクリストファー・ドリューは彼らの本「目隠しをした男の絶壁」で,ジョン・クレイブンという名前の海軍将校は違う計画があったことを説明している。

 まずクレブンは一連のシナリオを考え出した。スコーピオンに起きたかもしれないことを説明するいくつかの説明を。それから,数学者,潜水艦専門家,引き上げ業者を含む幅広い知識を持つ人たちのチームを結成した。答えを出すために互いに相談し合うことを依頼する代わりに,彼は一人一人にそれぞれのシナリオはどのくらい可能性があるのか,自身の一番の推測を提供するように頼んだ。仕事をおもしろくさせておくために,推測は商品としてスコッチウィスキーを与える賭の形で行われた。そしてそこでクレイブンの部下は潜水艦がトラブルに陥った理由,海底に向かった速度,降下の傾き度などについて賭をした。

 言うまでもなくこうした情報のどれもクレーブンにスコーピオンの場所を教えることはできなかった。しかしクレーブンはもしこうした推測を全て一緒のして,スコーピオンがどのように死んだのかイメージを作れれば,それがどこにいるのか最後にはわかるだろうと信じていた。そしてこのことが彼がしたことだ。クレーブンは終了すると,大まかにグループ全体の潜水艦の推定場所が手に入った。

 クレーブンが手にした場所はグループの個々のメンバーが選んだ場所ではなかった。言い換えると,クレーブンが全員から集めた情報を使って作り上げたシナリオに合致するシナリオを頭の中に持っていた人はグループ内には誰一人としていなかった。最終的な見積もりは全体としての集団が作った純粋に集団の判断であり,集団内のもっともすぐれた人々の個人の判断を代表とするものとは一線を画している。それはまた純粋にすぐれた判断だった。スコーピオンが姿を消してから5ヶ月後,海軍の軍艦がそれを見つけた。それはクレイグのグループがあるだろうといった場所から220ヤードの場所だった。

 この物語で驚くべきことはグループがこの場合頼っていた証拠は何にもならなかったことだ。それは本当に小さなデータだった。誰もどうして潜水艦が沈んだのか知らなかった。誰もそれがどのように移動したのか知らなかった。誰もどのくらいの角度で海底に落ちたのか知らなかった。そしてグループ内の誰もこうしたことを何も知らなかったにもかかわらず,集団全体としてそのこと全てをわかっていたのだ。

【成蹊大】

X

 ビル・クリントンが大統領に選ばれた1ヶ月後,秘密諜報機関は,所員2051人全員にファックスを送り,本部を通さずにマスコミと話しをしないように警告した。1993年1月15日に宣誓した後,もう1通のファックスが出された。秘密諜報機関は「声明の一元化方針」をとる,とメッセージにはあった。言い換えると,報道機関に話すように任命された秘密諜報機関の職員だけがそのようにできるということだ。4月,ニューズウィークが,ヒラリー・ロドハム・クリントンが夫にランプを投げつけたと語ったと秘密諜報機関職員を引用した後で,秘密諜報機関は3通目のファックスを送り,これまでの警告を繰り返した。通告ははっきりしていた。マスコミに話しをしているところを見つかったら,解雇されるだろうと。

 懸念の度合いは前例を見ないものであったが,理解はできた。クリントン夫妻の結婚は冷え切っていた。夜にはホワイトハウスの1階の警備は2階から叫び声が聞こえてきて驚いたが,そこは3階と共にホワイトハウスの居住区域であった。叫び声は築201年の建物全体に響き渡った。さらに,ヒラリー・クリントンが夫にランプを投げないときは,彼に打ち合わせに使うノートを投げつけていた。このような詳細が秘密諜報機関を通じて漏れれば,機関そのものが危機に陥る可能性があるだろう。

 しかし,大統領と大統領夫人が,映し出したいと思っているイメージとはかけ離れている生活を送っていることにはとりたてて珍しいことはなかった。私生活では,公のイメージと一致するような現代の大統領や,その家族は存在していない。実際,どの大統領も本当の性格や言動を隠すために外見を繕っている。現代の大統領は本当の顔に仮面をかぶり,マスコミをコントロールしてきている。「大統領のたそがれ」で,ジョンソン大統領の報道補佐官であったジョージ・E・リーディーはホワイトハウス内の大統領の「素晴らしい孤立」は大統領制を王政に変えている,と語った。「20世紀までに,大統領制はガウンと「笏(しゃく),王冠」以外の王政という全ての衣服をまとっていた,とリーディは書いた。

 ホワイトハウス内で本当に起きていることを知る人は秘密諜報機関の職員とホワイトハウスのメイド,警備員である。ビデオモニターのカメラのように,この政治に関与しない助力者たちはそこにいるが,気づかれずに,記者会見と演説が終わると何が起きているのか観察している。というのもホワイトハウスは舞台で,そこではスターは巧みに自分たちの役を演じている。プロデューサー,ディレクター,舞台裏の人たちだけが男優や女優の本当の姿を知っている。大部分で,この構造は政権から政権へと継続する。自分たちの権力を維持することに専念して,恒久的なスタッフは大統領が誰であろうと,ほぼ変わることのない組織に君臨している。

 「もし一般大衆がホワイトハウス内で起きていることがわかったら,叫び出すだろう」ある秘密諜報機関職員が語った。「アメリカ人は大統領について理想化した概念と,それに符合する正直さといった道徳観を抱いている。それは真実からはほど遠いことだ」

Y

 「戦争は人類と同じ歴史があるように思われるが,平和は近代の発明だ」と19世紀半ばにヘンリー・メイン卿は書いた。彼が間違っていると示すことはほとんどない。残存する全ての文書の証拠は戦争,すなわち,組織された政治集団間の武装闘争は人類史上の普遍的な法則であることを示している。これが人類の攻撃性の結果かどうか調べる必要はほとんどない。ルソーが自然状態の人間は臆病で,社会的な関係に入って初めて戦闘的になる,というのは正しかったかもしれないが,社会的関係は生存には必要だった。

 平和は「近代の発明」かもしれないし,そうでないかもしれない。しかし,戦争よりはるかに複雑な事象であることは確かだ。ホッブスは戦争が差し迫っていないか,実際に戦われていない時間だと定義したが,この定義はほとんど汎用性がない。せいぜい,これは消極的平和と通例定義されるものでしかない。しかし,今日理解されているような平和はこのこと以上のことを含んでいる。積極的平和は一般的に公正として受け入れられる社会的,政治的社会の秩序も含意する。このような秩序の創成には達成には何世代もかかるだろうし,社会的変化によって数10年の間に破壊されるかもしれない。矛盾しているように思われるかもしれないが,戦争はこの秩序の必要不可欠な部分かもしれない。実際,人類の歴史の大部分で,そのように受け入れられている。戦争がなんの役割もしない国際的な秩序が政治指導者によって望ましい目標だとみなされたのは,ここ200年ぐらいのことである。

 

 戦争は人間の心の中で始まるのだともっともらしく言われているが,。。。一部の(おそらくだいぶ部分の)人にとっては自分たちの期待に応えてくれれば,どんな秩序でも受け入れることができる。そして人類の歴史上,このような期待は大変基礎的なものである。この大多数は他の人への非道についてはほとんど関心を示さない。彼らにとって平和とは,手にしているものであって,とっておきたいものなのだ。常に少数派がいる。どんなに小さくても,社会の欠陥がわかっているが,このような認識に通例かなりの教育が必要となる。社会秩序に対して批判的な人が登場するのはこのような少数派からである。このような批評家にとって,現存する社会秩序の欠陥は大変不公正なものであり,それに対する戦争は正当化された。有史以来,人類は平和は維持されるべきだと考える人々と,平和は獲得されなければならないと考える人々に分断されてきている。

 

戦争は人類の歴史同じくらい存在している。近代の平和観は公正な社会秩序を含意するが,皮肉なことに,獲得された平和をよしとする多数派と不公正と感じる少数派が存在し,そのことがまた戦争の一因となっている。

 

平和は公正な社会秩序を含意し,それを公正と感じ守ろうとする人々と,あらたな社会秩序を獲得しようとする人の間で戦争が起きる。

【西南学院・文】

T ほとんどの経営者は緊急だが,相対的には重要ではないことをして,ほとんどの時間を費やしている。些細な緊急性に見えること,電話に出る,メモを書く,重要でない会議に出ること,こうしたことで経営者の一日が消費され,永続的な価値は蓄積されない。こうした活動は目前の緊急性があるように思われるが,重要性がない。専門家は人々が忙しい状態でいる必要性はある面では自尊心の欠如による。このことは人々は会社や組織で重要な役割をはたしていると感じたい要求があることを意味する。経営者は,「私がこんなに忙しいのなら,私は重要に違いない」と考える傾向にある。常に忙しく必要があると考えるもう一つの理由は工場で働いている人々の経験から生まれたかもしれない。工場の仕事では,全員が最終製品を作るのに,自分の役割を果たしている。工場を円滑に機能させておくためには,全員が同じペースで働く必要がある。ゆっくり過ぎたり,ついて行けない人は誰でも製造過程全体のペースを落とすだろう。このことで,人々は効率的であることは,常に忙しいことを意味すると考えるようになり,忙しいこと自体が目的になってします。

 専門家は効率的にはなるには,私たちの努力にははっきりとした方向性が与えられなければならないと強調する。このことが私たちに意味するのは,私たちがする努力は具体的な目的に焦点を与えられるべきだ,ということだ。賢明な時間の使い方の目標は自分の時間のほとんどを本当に大切だが,実際には緊急でない仕事に使うようにすることだ。重要な仕事に焦点を当てる極めて実際的な方法の一つは電話をとらなかったり,いかなる形でもじゃまが入らないような時間を毎日とっておくことだ。この時間に,最も重要な課題をしなさい。必要なら別の部屋に移動しなさい。でも,本当に緊急なことで必要とされていないなら,部屋を出ないようにしなさい。

 1日,1回のこの仕事を集中する時間は生理的に「最高の時間」に配置するようにしなさい。あなたが朝型人間であろうと,夜型人間であろうと,最も重要な活動にあたるのにもっとも精力的な時間帯の1時間をあてなさい。

 より効率的に時間を割り振ることで,2つのこと,あなたの組織にとっても,自分にとってもいいことを達成できる。まず第一に,本当にする必要がある真に重要なことに集中することでより効率的な経営者になるだろう。このことに加わる恩恵はよりより時間管理を通して,予期もせず持ち上がる重要なことに関わるを時間が持てるようになるだろう。第2に,重要でないことをして忙しい状態が減ることで,職場関連のストレスがへるだろう。特に,あなたの仕事は仕事をきちんとすることだ,ということを知る満足感を持つときには。

 

U

 海のそよ風がサンフランシスコ湾から吹く。男の子の凧が舞い上がり,ぐるぐると回る。やっと歩けるくらいの女の子がお父さんとお母さんに手伝ってもらって小さなチョウチョ形の凧を飛ばす。北極熊の凧,ブロンズガエルの凧などで頭上の空は小さな動物園のように見える。

 バークリー・マリーナはアメリカ合衆国でも最高の凧を上げる場所の一つだ。太平洋からの風がゴールデンゲートブリッジとサンフランシスコのスカイラインを通過して吹き,凧をこの緑多い公園の上を舞い上がらせる。マリーナには,凧設計家タム・マクアリスターという地元の専門家もいる。彼はバンで凧を売ってここにいる。彼はまた助言をあたえる。いろいろな質問を受けて。例えば,「凧が木にからまったらどうするの」「飛ばすもっといい場所を探しなさい」とマクアリスター氏は言う。「理想的な場所は絶対的に平坦な場所だろう。何も障害物がない場所。特に風が吹いてくる方向には」風は平坦な場所ではまっすぐ,一定に吹く。木や家のような物は川の岩が水の流れを壊すように,風の流れを壊す。「凧は風が一定でまっすぐな場所で一番よく上がる」

 マクアリスターは凧が一番よく上がる速度は風速5マイルから12マイルだと言う。こうして風速では,木の葉がそよぎ,低木が動くのが聞こえる。もし,風が小さな木を傾けたり,揺らしたりするくらい強かったら,その風はほとんどの凧のタイプには強すぎる。

 凧は飛行機が飛ぶのとほとんど同じ形で上がる。両方とも空気の流れに頼って,重力という下方への力を克服するのに十分な空気力学的な浮力を生み出す。

 凧を上げるのは簡単だ,とマクアリスターは言う。「凧を上に持ち上げて,風に持って行かせればいいのです」もし上がらなかったら,ブリドルを調整する必要があるかもしれない。ブリドルとは凧の上と下につけられた短い糸のことだ。制御用糸はブリドルポイントのブリドルに結びつけられている。ブリドルポイントは凧の風に対する角度を決定する。正しい角度が見つかれば,空気中で凧は安定する。「弱い風には凧の上部にむかってブリドルを調整しなさい。そして,強い風に対しては下により近づけなさい」彼は言う。

 だから凧を上げるのに,持って走る必要はないのだ。マクアリスターは言う,「凧を上げ始めるのに走らなければならないとしたら,十分な風がないのです」しかし走るのと同じくくらい効果があり,より安全な,弱い風でも凧を上げ始められる簡単な方法がある。それは「延縄(はえなわ)」と呼ばれるものだ。凧を飛ばす人は,お手伝いが風下で凧を持っている間に100フィートぐらい糸を伸ばす。お手伝いが凧を放し,飛ばす人は地面に糸巻きを置き,素早く糸を引き込む。それは「走るのと同じなのです。風邪がおきるのです」とマクアリスター氏は語る。「風がより強い場所では凧は上がり始めるでしょう」

 凧揚げは若い人にも年寄りにも楽しまれている。マリーナを見回してみなさい。小さな男の子や女の子,白髪交じりの髪の毛が凧を上げるのはこれが初めてでないことをはっきりと示す人たちが見られる。この単純なおもちゃが何世紀にも渡って人気を保ち続けているのは,凧が空に舞い上がっているのを見ることの特別さに違いない。

 

【清泉女子・文】

W

 W 迷信は興味深い。英国や他のいくつかの国では,たとえば,はしごの下を歩いたり,塩をまくのは不吉だと考えられている。はしごの下を歩かないのは,常識的なことだ。というのも物が頭の上に落ちてくるのを避ける方法だからだ。しかし塩をまくのは不吉だと考えられている理由は中世までさかのぼる。当時塩は人々が魚や肉を長期間保存する唯一の方法だったのだ。このことで,人々は塩をまくのは不運をもたらすと言うようになった。

 私たちが時々使う英語の表現がある。それは塩が昔大変貴重であったことを示すものだ。これは「彼は『彼の塩に値しない』」というものだ。これは今日ある人は仕事をするのに与えられたお金に値しないという意味に使われる。このフレーズは従業員が雇い主と暮らし,塩を含む食料を労働の一部,あるいは全支払いで受け取っていた時代までさかのぼる。

 迷信について語る時問題を引き起こしそうなことに同じことが人によって不吉だと思われるが,人によっては幸運だと考えられることがあることだ。クロネコはいい例だ。イングランドの炭坑の公布は仕事に行く途中クロネコをみたら,向きを変えてまっすぐ家に戻るだろうと言われている。彼らにとってクロネコは災難の兆候で,猫をみたらすぐに炭坑を下るのを避けるためになんでもするだろう。

 一方,英語には「幸運なクロネコ」という言い回しもある。花嫁が幸運をもたらすために花束と一緒にクロネコの形に切った紙を持って行くことがある。多分クロネコが幸運だと考えられたり,不吉だと考えられる理由は伝統的にはしばしば魔女によってペットとして飼われていて,魔力があり,魔女はクロネコを悪にも善にも使えると考えられていたからだろう。

X

昔,私は休暇にイングランドへ帰り,ロシア経由で日本に戻った。まだ冷戦全盛の時代だった。ロンドンから東京までの全行程は1週間かかり,船,電車,飛行機がからんだ。私の旅行の第1ステージはイングランドのドーバーからベルギーのオステンドまで短い船の旅だった。それからモスクワまでの2日間の旅があった。

 私は土曜日の夕方5時頃電車に乗って,翌週の月曜日の午後4時にモスクワに到着する予定だった。電車はベルギー,東西ドイツ(当時はそうであったのだ),ポーランドを越えて,月曜日の朝3時頃,私たちはブレストでロシア国境を越えた。

 ロシアの税関職員が電車にやってきて,これからはロシアルーブルしか使うことができないので,もし何もなかったら降りて駅でお金を両替したほうがいいと言った。私はロシアのお金が全くなかったので,駅に行ってそうすることにした。夏で大変暖かかったので,ジャケットは着ずに,ワイシャツ姿で電車を降りた。

 プラットフォームは大変長く,駅ビルは広々としていたが,やっと両替のカウンターを見つけ待つ人の長い列に加わった。私の順番がやっときて,お金を少し変えた後で,プラットフォームへ戻り始めた。プラットフォームの前に電車がいないとわかったときの私の気持ちをわかってくれるでしょう。私の手荷物全部とジャケットまで電車においてあった。私は財布をパスポートしか持っていなかったのだ。

 私は急いでポーターの所へ行き,電車に何が起きたのか聞いた。彼は電車は駅の反対側にいると言った。私は彼に感謝し,駅ビルを通って,プラットフォームの反対側へ行った。電車はそこにもなかった。私は別のポーターに電車がどこにいるのか聞いた。彼女は笑って,心配しないように言った。電車は車輪の交換をしており,もうじき戻ってくるでしょう。

 私は駅に戻り,ロシアンティーとケーキを買って待った。私は約2時間待った。電車は私を乗せずにモスクワに出発してしまったのだと思ったとき,電車がプラットフォームへ入ってきた。私はその時以上に速く,電車に乗れたという安心感で電車に乗ったことはない。

【青山学院】

T

(かなりひどい訳です)

 グランドキャニオンへの心の準備なんかできない。それについて本を読んだり,写真を何回見たとしても,それでも本物を見ると息をのむ。あなたの心はこのスケールに対応できずに,動きが停止し,長いこと,抜け殻となって,息をすることも,話すこともできなず,ただ,この世にこれほど巨大で,美しく,静かなものがあるのだという深く,名状しがたい畏敬の念を感じるだけだ。

 子どもでさえ,それを見ると沈黙する。私はとりわけおしゃべりな子どもだったが,ぴったりとしゃべるのが止まった。私はかどをまわって,そこに静かに立っていたことを思い出す。私は7才で,寝るときとテレビを見るときのわずかな時間を除いて,私がおしゃべりを止めたのはその当時で2回目だと言われている。私を沈黙させたもう一つの時は,開いた棺の中に祖父を見たときだった。それはあまりに思いがけなかった光景だった。誰も祖父が見えるようになっているとは言ってくれなかった。私はただ息を飲んだ。そこで祖父は静かに黙って,おしろいをされ,スーツを着ていた。私は彼がメガネをかけていて,(メガネをかけさせた人たちは祖父がこれから行く場所で何をするつもりだと思っていたのだろうか)メガネがずれていたことだ。祖母が泣いて祖父に抱きついた時にメガネをずらせて,それから他の人は恥ずかしくて,それらを元の位置に戻せなかったのだと思う。もう二度と今後とも,祖父がテレビのコメディを見て笑ったり,車を修理したり,口にものを入れておしゃべりをする(これは家族には広く知られていたことだったが)ことがないと思うと私にはショックだった。私は畏敬の念を持った。

 しかし,私がグランドキャニンオンを見たときにはまったく及ばない。祖父の葬式を追体験したと思わないのは,明らかなのだから,グランドキャニンオンは私が追体験したいと思っている子どもの頃からの生き生きした経験であり,そして,長いことそのことを楽しみにしていた。私はフラグスタッフから50マイル離れてアリゾナ州,ウィンスロウーで夜を過ごした。というのも道路はほとんど移動不可能になっていたからだ。夜,雪は小降りになり,パラパラと降るくらいになって,朝までには完全に止んでいた。しかし,空はまだ暗かった。私は雪で白くなった景色の中グランドキャニンオンに車でむかった。これが4月の最終週だとは信じがたかった。時々前から来るヘッドライト以外には私に前方にも脇にも何も見れなかった。私がグランドキャニンオン国立公園への入り口に着いて5ドルの入場料を払う頃までには,雪がまた激しく降っていた。雪は大きく,一つ一つの雪には影ができるくらいだった。

 公園内の道路は30マイルに及ぶ渓谷の南の縁につながっていた。2,3回止まって,縁まで行き,渓谷がそこに広がっている,私の鼻先にあると知って,静かな暗闇の中を希望を持ってのぞき込んだが,何も見えなかった。霧がいたるところにあった。木々の間,道路脇,舗装道路から湯気のように立ち上がって。霧は大変濃かったので,蹴れば穴があくくらいだった。私はグランドキャニンオン村まで進んだ。そこには訪問客センターとホテル,点在する施設があった。駐車場にはたくさんの観光バスやRVがあり,人々は入り口でぶらぶらしたり,雪の中道を選びながら建物から建物へと移動していた。私もすすみホテルのレストランで高めのコーヒーを飲んだ。私は気分が沈み,がっかりした。本当にグランドキャニンオンを楽しみにしていたのに。私は窓辺に座り,雪が積もるのを見た。

 しばらくして私はゆっくりと200ヤードほど離れていたビジターセンターへと歩きはじめたが,そこに着く前に,森を抜けた小道沿いに反マイル離れたところに展望場所があると示す雪が積もった看板に出会った。私は衝動的にその道を進んだ。主に空気を吸おうと思い。道は滑りやすく,移動には時間がかかったが,途中で雪は止み,空気は澄んで気持ちよくなった。とうとう私は渓谷の端を示す岩のプラットフォーム出た。端からはなれておくようにする柵はなかった。そこで私は用心深く歩いて,見下ろしたが,灰色のスープ以外何も見えなかった。中年の夫婦がやってきて,なんてがっかりするような経験だと立ち止まっておしゃべりしているときに,奇跡が起きた。霧が割れた。静かにひいていった。ちょうど,劇場のカーテンが開けられるように,そして突如,少なくても千フィートはある深みの縁にいることがわかった。「なんということだ」私たちは言い,ジャンプして後ずさりした。そして渓谷の縁沿いに人々が,「なんということだ」と伝言が長い通りを伝えられるかのように言われているのが聞こえた。そして,長い静寂があった。雪のわずかな動きの音以外は。というのも私たちの前には,この世に存在するもっとも畏敬の念を起こさせ,もっとも黙らせる光景が広がっていたからだ。

 グランドキャニンオンの規模はほとんど理解を超えている。10マイルの幅があり,1マイルの深さ,180マイルの長さだ。そこにエンパイヤー・ステート・ビルを置いて,さらに数千フィートその上にある。実際,マンハッタン全部を中に置いて,私たちはそれでも高い位置にいるので,バスは蟻のように,そして人々は見ることができないだろう。物音一つ届かないだろう。あなたを虜にするのは,みんなを虜にするのは沈黙だ。グランドキャニンオンは音を飲み込む。空間と虚無感は圧倒的だ。そこでは何も起きない。足下の渓谷の床,ずっとずっと離れた,にはそれを彫り込む物がある。すなわちコロラド川だ。300フィートの幅があるが,渓谷の縁からでは細く,とるに足らない物に見える。ふるい靴ひものように見える。この巨大な穴では全ての物が小さくなってしまう。

 そしてそれから,霧が離れたように素早く,静かに,それは再び閉まり,グランドキャニンオンは再び秘密になってしまった。私はそれを20〜30秒しか見なかったが,少なくともそれを見た。半分満足して,私は振り返り,車に向かって歩いた。移動を続けるのに満足して。途中,縁にむかってくる若い夫婦に会った。彼らは私に運があったのか聞いたので,霧が数秒間晴れたことについて話した。彼らはショックを受けたように見えた。二人はオンタリオからはるばるやってきた。新婚旅行だったのだ。生まれてからずっと,グランドキャニンオンが見たかった。過去1週間,毎日3回,防寒靴をはき,ハネムーンの冬服を着て,手に手を取って渓谷のはずれまで歩いたが,これまで見たのは晴れることのない霧の壁だけだった。

 いい面を見るのを手伝おうと,私は同情の声を出し,天気についてなんということか言い,幸運を願った。私は感傷的な気分で車にもどった。かわいそうな夫婦のことを思いながら。父が私によく言ったものだ。「いつだって,自分より不運な人はいるもんだぞ」

 そして私はいつも,「だから?」と思ったものだ。

U

 St. Andres Universityの創設によってスコットランドの若者(もちろん男性だけだが)は外国へ行かなくても教育を延長できるようになった。15才まで通い,それから学部の一つを神学,教典(すなわち,教会)法,民法,医学それに一般教養(これは哲学,修辞法,論理学から音楽,算術,幾何学,天文学まで幅広かった)から一つ選んだ。18ヶ月以内に,もし運がよければ,学士の学位を受けた。さらに2年研究を続ければ修士の資格を得た。卒業生の数は今日には遠く及ばす,15世紀前半には1年に10ぐらいで,1500年までには30人まで上昇していた。当時はほとんどは教会へ入り,そこで,精神的に,貴族の家庭で書記として尽くす世俗的の両方で自分たちの技術を十分に活用した。

 しかし,自分の大学を設立した十分な理由に加えて,初代学長のヘンリー・ワンドロー司教にはもう一つの理由があった。すなわち教会の異端を追い出す必要性だ。1410年までは,西欧のキリスト教社会は分断に耐えていた。2人の敵対する方法が別々の場所で会議を開いていた。異端は広まっており,スコットランドにも到達しかけていた。

 ワードロー司教の創造が道を開いた。1451年,グラスゴーのターンブル司教は彼の大聖堂の都市で同じことをした。グラスゴーはセント・アンドリューズをまねるのではなく,法学研究に特化することで,敬意を払った。そして,Bishop Elphinstone of Aberdeenが1495年2月キングズ・コリッジを創立したときにはさらに2つの道標に達した。まず第一に聖職者と同じく平信徒も学生として受け入れられた。第2にスコットランドはイングランドより1校多く大学を有することになった。

 それ以来さらに11の大学が加わった。Edinburgh(1583), Strathclyde(1964) Heriot-Watt(1966), Stirling (1967), Dundee(1967), Paisley (1992), Robert Gordon’s, Aberdeen(1992), Glasgow Celedonian(1993) as well as the Open University(1996)である。さらに革新的なUniversity of the Highlands and Islandsは様々な地区をオンラインで結ぶ大学だ。こうした高等教育機関はこれらわくわくするような初期の時代以来の全ての認識から変化してできてきた。1889年の大学令を可決した後女性を受け入れ初めさえした。しかし,全てのことはワードロー司教の展望と6世紀前にスコットランドの最初学生たちに送った開講の話術のお陰である。

【摂南】

 遺伝子組み換え食品を生産する会社はこの技術には多くの利点があると主張する。作物は殺虫剤や病気に対して耐性を持つ事ができる。果物や野菜が悪天候や劣悪な土壌でも栽培することができる。また,魚が2倍の速さで成長させることもできると主張する。すべて素晴らしいことに思えるが,誰が本当に利益を得,その危険は何か問うことが重要だ。評論家は遺伝子食品産業は利益のためであって,消費者や世界中の貧しい人のために動いているのではないと言う。彼らは消費者は遺伝子組み換え食品によって危険にさらされる可能性があると主張する。

 遺伝子工学は異なった植物の遺伝子を結合したり,移動したりする。この過程で私たちの食品の中に毒性のある物質を作り出す可能性がある。それはまた,一般的な食品に対する既知のあるいは未知のアレルギーを作り出す可能性もある。例えば,ある有力企業が大豆のタンパク質の量を増やそうとした時,その企業ではブラジルナッツの遺伝子を用いた。しかし,新しくできた製品は販売できなかった。なぜなら科学者はブラジルナッツにアレルギーのある人(そして多くの人がそうであるが)は遺伝子組み換え大豆に対してもアレルギーになることを発見したからだ。

 こうした危険性にもかかわらず遺伝子組み換え食品が急速にスーパーマーケットに入り込んでいる。最大の関心事は現在の試験では遺伝子工学の健康への危険を全て検知することができないことだ。ほとんどの検査は短期間実験動物に対して行われ,したがって,長期にわたる人体への影響に対しては適切な答えを提供していない。もう一つの問題はほとんどの試験は製品を作るのと同じ会社によって行われていることだ。自社の製品の欠陥を発見することはこうした企業の利益とはならないので,こうして検査の客観性には問題がある。

 表示をすることは消費者が自分たちが食べているものに対して意識する一つの方法だ。国によっては全ての遺伝子組み換え食品は表示されることになっている。しかし,実際には,これは達成するのは容易ではない。食品生産者と提供者が遺伝子組み換え作物や食品を非遺伝子組み換え作物や食品と区別する必要があるからだ。多くの食品生産者と提供者はこれに関わる費用の高さから,動きが鈍い。食品大企業は表示は製品価格を押し上げ,商品が消費者にとって魅力的でなくなると主張している。

 こうした問題は依然として解決してない。消費者が危険性について情報を与えられ,遺伝子組み換え食品への関心をわかってもらうことだ。長持ちし,殺虫剤に対して耐性があり速く成長する恩恵は健康を危険にさらす価値があるだろうか。

【明治・政経】

T

 空に漂う雲のように,戦争は私が生まれたときにはすでにそこにあった。私はそれを知るようになる必要はなかった。代わりに戦争が私の誕生と共に私と一心同体になったのだ。15年の間,毎日私は戦争がゆっくりと流れゆくのを見上げていた。私は不運な子どもではなかった。というのもそれらの雲のほとんどはピンクだったからだ。嵐の雲が現れても,それによって,次に来る雲はもっと愛らしいピンク色に見えた。

 私は1960年代と1970年代ベトナム北部で生まれ,育ち,戦争を生まれながらの,そして彩り鮮やかな生活の一部としてさえ経験した。それは私たちが爆撃から逃れる場所がなくなったり,腕や足を失った友だちや旧友が見分けられなくなった時でさえ,そのような状態のままだった。戦争中死は閃き,私にウィンクをした,まるで,「また明日ね」と語りかけるかのように。もし予期せぬ変化がなければ,戦争は空の雲のように永遠に続くかのように思えた。

 赤色がいたるところにあった。それは南部を急激に覆ったので,私の順番が来ないのではないかと心配した。4月27日,私は他の人みんなと同じように泣いた。しかし,私の涙は勝利の涙ではなかった。私は勝利の代償については何も知らなかった。私の涙は別れのそれだった。戦争は私のことを知っていてくれた。今度は私が出発に慣れる番だ。戦争の代わりに誰が私にウィンクしてくれるだろうか。戦争の後誰が残るだろうか。

 戦後の10年は戦時補助金制度の継続,私たちの日常生活の厳格な構成,強硬な思想の支配によって特徴づけられる。また,1978年から79年にかけての西部国境でのカンボジア,北部国境での中国との軍事衝突でも特徴づけられた。このことや,冷戦の継続によって私たちの新たに獲得した国の独立は国際的な孤立となり,最近統合した国,北も南も同様に貧困,後進そして抑圧の状態へと追いやった。

 1980年代半ばに刷新政策(ドイモイ)が導入された。勝利は食べれるものではないと勝者がわかるのに10年かかった。1994年には,ベトナムに対する貿易制限取り下げられ,ベトナムとアメリカ合衆国との正常化が加速し始めた。アメリカ合衆国が,自らの過去と平和条約を結ぶのに20年かかった。今日のアメリカにとって,ベトナム戦争は過去のものだ。それは4年に一度大統領候補の道徳と愛国心の実りのない試験として使われるか,アメリカ合衆国が戦っている,あるいは将来戦いそうな戦争と比較する重要な点として使われるだけだ。

 戦後30年たった現在人々は戦争は傷跡と残し,その傷はそっとしておくべきだというしばしば言う。「現在の関連のない問題を再訪する理由はない。将来を見据えよう」私は簡単にはそんなことは言えない小さなグループ(おそらく少数派)に属している。

 30年後,400万人の死,戦死した100万人の兵士の死は歴史に属す。ちょうど,1千万人,肉体的,精神的に傷を負った人。7千6百万リットルの毒物,1千300万トンの爆弾や銃弾もそうであるように。

 そしてこの恐ろしい戦争は別のもの,もっとずっと頑固な問題,克服しなければならない戦争関連の問題のいつものリストに入れられたことがないというだけで,残っている問題を置き去りにしてきている。30年後,国はいまだ100万人の南ベトナム人の痛々しい損失,外国で住むために自分の国を立ち去った「ボートピーピル」のことを認めていない。まるで彼らはベトナム人ではなく,統一国家とはなんの関係もないかのようだ。国は一つのベトナム人のグループに所属し,もう一方には所属していないようだ。米が溝から生えてくるように,国家意識は分割と憎しみの深い穴から自然と芽生えてくるかのようだ。

 「戦争によって残された傷跡は癒え始めている。それを深くほじり返すな」というのは簡単だ。しかし,それは傷ではない。それは時間が奇跡の治癒には必要とされていない癌なのだ。戦争は国家の分離に起因している。そのような分離が戦後30年間も持ちこたえられるだろうか。ベトナム人とアメリカ人は握手できるが,ベトナム人が他のベトナム人に手を差しのばすのを拒んでいるのはどういうことだろうか。30年経っても,ベトナム戦争のもっとも暗い影はまだ私たちについている。それらは依然として,ゆっくりと,とどまることなく漂っている。空に浮かぶ雲のように。そして,何かが変わらなければそのままの状態が続くだろう。

 

私は戦争と共に育った。戦争が日常化し,そのことが気にならなかった。戦争に勝利したが私は戦争のない生活に不安を感じた。戦後10年間の厳しい共産政策。それに続く刷新政策。それからアメリカとの関係改善。一方の当事者アメリカではベトナム戦争は過去のものになった。戦後30年たち,戦争の様々な被害は過去のものになりつつある。しかし,戦争によって国を去った「ボートピーピル」のことは置き去りになっている。この問題に正面から取り組むことなくして真の戦後はない。

 U

 「単純な,日常的な科学」を継続できる発展に適用できることのはっきりとした例はバングラディッシュのグラミーン銀行が提供してしてくれる。この銀行は少額の融資を貧しい人まで拡大するのに先駆的な役割を果たした。この銀行はバングラディッシュの経済学の教授であるムハマド・ユーナス氏の考案によるものだった。ユーナスは,貧しい人々と大規模な貸付組織の伝統的な関係を逆転することから始めた。貧しい人をどのようにより信用がおけるようにするか問うかわりに,銀行が彼らの必要に答えられるものになるか問うた。

 いわゆる「貧困削減」プログラムにおける仮定は以前は(そしてしばしば現在でも)貧しい人たちにお金を預けるわけにはいかないというものだったが,ユーナスは彼らに預けることができるし,社会は彼らに自分たちは信用できると証明する機会を与えなかったことに責任があると考えた。この問題に対するグラミーン銀行の解決策の核心には,「貸し出しサークル」がある。これは共同して行い,ローンを保証する5人の女性からなるグループが典型的だ。こうしたサークルを通して,バンクはお金の管理と小規模の経済発展についてについて借り手を教育し,それから少額のお金を貸す。通例最初は20米ドル以下である。借り手が返済すると,より多額の融資の資格を得,最終的には数百ドルに及ぶ住宅融資を受ける。しかし,このどの場合においても,借り手は自分の能力でペースを決めて,貸し手の必要性で決めるわけではない。

 グラミーン銀行の人々への信頼と教育プログラム,貸し出しサークルへの依存が相まって,異例の98%の償還率を達成している。この数字は民間銀行の率,先進国のそれをも上回っている。事実,グラミーン銀行の貧困を減少させるアプローチは最近の開発の歴史上最も成功したものの一つである。銀行は20の世帯に50ドル以下の融資から始めたが,現在ではバングラディッシュの3万の村の半数で行われ,年間4億ドルの融資をしている。さらに,銀行のアプローチは他の多くの発展途上国(いくつかの先進国も含めて)でまねられている。グラミーンの基本戦略は銀行業の他に発展に新しいモデルを提供している。ユーナスと彼の同僚たちは集団での資源利用を様々な必要性に応えるように適用させる計画だ。この中には貧しい人々が現代の通信技術(例えば携帯電話やインターネット)を利用できる必要性や,孤立したり,無視された社会での太陽,風力の利用を支援するためにインフラストラクチャの必要性を含んでいる。もちろんこのようなプロジェクトはもちろん,ちょうどグラミーン銀行の貸し出し方針が最初そうであったように,疑問を呈されるだろう。実際,バングラディッシュの伝統のある銀行はグラミーンの方法の長期的な実用性については常に疑いを抱いている。しかし,時間が経つにつれて疑念はますます関係のないものになっている。グラミーンが貧しい人を含める技術市場への拡大は貧しい人がこのような技術を手に入れるのをさらに容易にしている。歴史的には,ハイテク機器の販売が倍になるたびに,機器の価格はおおよそ20%下落する。グラミーンは貧しい人たちの間での技術とサービスに門戸を開き,そのことが,融資の利用が改善したこととあいまって,地域で管理されている発展を刺激し,また地域の商業活動を刺激することになるだろう。

V

生徒:グローバリゼーションという言葉をよく聞きますが,本当の意味ははっきりしません。

先生:実際,使う人だけ定義がありそうな定義しにくい単語の一つだね。ほとんどの社会学者は資本や労働,資産,金融市場,資源の効率的な国を超えた流れがグローバリゼーションと定義するでしょう。

生徒:あなたの定義からすると,グローバリゼーションはいいものに感じますね。

先生:それは君の見方によるね。経済的な観点からすると,確実に有利な点があるけど,潜在的な問題もあるよ。

生徒:どうしてですか?お金は世界を回るし,文化も。それ以上にいいものはなんですか?

先生:そんなに簡単じゃないね。世界中の多くの人は地元の事業を多国籍の企業に代わることによって,グローバリゼーションは過度な統一性をもたらし,地元の言語や風習が被害を受けていると感じているよ。

生徒:こうした問題をおこさずにグローバリゼーションを持つことはできないのですか。二つの世界の最高の部分を持つことはできないのですか?

先生:それはいい感じだし,良さそうだし,いいみたいだね,でも,実際の状況での達成は難しいね。大企業はすでに中小企業を阻んでいる。英語の使用が増加し,世界の多くの言語がすでに絶滅している。

生徒:英語を使うことのどこが悪いのですか?

先生:英語の使用自体は悪くないよ。英語は表情豊かな,雄弁な言語だよ。でも,単一言語使用が広まりすぎると,他の言語,地元の文化の健全性に不可欠な言語を追い出し始めるんだよ。