もし国内を自動車での旅行を計画してたら,地図を持たずに出発するだろうか。あるいは地図を一度見て,それで忘れてしまうだろうか。もしそれがあなたの方法だとしたら,目的地に着くことは決していないだろう。しかし,できるだけ短時間に目的地に着きたいと固く決心していたら,地図を注意深く研究し,毎日の行き方の計画を立てるだろう。そして,途中で間違って角を曲がってしまったら,車を道の片側に寄せて,地図を見て,そして,進んでいる道に戻るだろう。
あなたが20歳の自動車旅行に出かける時,可能なことで最も重要なことはあなたの展望地図を見ることだ。地図はあなたの人生の展望である。それはあなたがどこへ向かっているのか教えてくれる。展望がなければ,その瞬間,瞬間に生き,その時の感情によって決定をすることになりがちだ。人生の異なった地域で,小さな目標を立てることで旅行を始めたとしても,少なくとも,どの方向へ進むべきかはわかるだろう。頭に入れておくべき決められた地点,すなわち,自分の望みを実現に近づけるために,方向を決め,とるべき手段を決定できる道標を持つためには,目標,展望そして夢を訪問し直す必要がある。
ドライブには道路地図,人生には未来図を
ドライブに出かける時,短時間で目的地に着きたかったら,地図を見て,修正しながら進む。人生においても展望を示す地図を持って,進むべき道を決め,行動を決定するためには,目標を常に確認する必要がある。(97字)
年をとるのにつれて時間はより早く進み,年月はあっという間に過ぎ去るように思えるとよく言われる。それは若い頃には,毎日が目新しく,わくわくするような印象が詰まっているためか,年をとるにつれて,1年は人に人生にとってだんだんと占める割合が小さくなっていくためだと言われている。しかし,もし年月がより速く過ぎ去るように見えるとしても,時間や分は違う。時間や分は昔と同じだ。
少なくとも私には(70代になるが)そう見える。たとえ実験によって若者が心の中で計って予測する3分間が大変正確で,一方,老人はよりゆっくりと数え,したがって,知覚した3分間は3分半から4分に近いようであるとわかっていてもだ。しかし,この現象が年齢を重ねるにつれて時間がより速く過ぎていくと心理的に感じることを何らかの関係があるのかははっきりとしていない。
1時間1時間,1分1分は退屈しているときには今でも恐ろしく長く見えるし,没頭している時は大変短く思える。子どもの頃,私は先生の話をただ聞かされて,学校が大嫌いだった。開放される時間を数えて,時計を見ると,分針も,また秒針さえ途方もなく遅く動いているように見えた。このような状況では時間の感覚に対して強調された意識がある。実際,人が退屈している時は,時間以外の意識がないのかもしれない。
これに対して,当時家に作った小さな化学の実験室での実験や試行の喜びがある。ここでは,今でも私はまる一日幸せな活動と没頭のうちに過ごせるかもしれない。そのときには私には時間の感覚という物は全くないだろう。
年齢と時間感覚
年をとると月日が経つのを速く感じると言われるが,1時間,1時間の感覚は昔と変わらない。時間の経過の感覚は活動と関係があり,退屈な授業なら恐ろしく長く感じるだろうが,好きな研究をしていれば速く感じる。
人がいる場所ではどこでも野生の動物がいることはまれな傾向にある。人々がいなくなると,増えてくる。ちょうど村の人口が減ったので,イタリアのいくつかの村にオオカミが戻っている場合のように。最近,オオカミが排除された地域にオオカミを戻そうという試みが行われている。農家の人たちは反対だ。オオカミのことを心配することオオカミの被害を心配することになんらかのバランスがとられなければならない。
もしある地域が種の種類が少ない場合は,それは絶滅,すなわち,そこに住む個体群全ての死滅が起きたためか,その地区がこれ以上の種を支えることができないかためか,いずれかの理由だ。
絶滅は一般に悪いことを考えられている。私たちが種や個体群を絶滅から守るべき4つの基本的な理由がある。たとえ蚊であっても。その理由を重要性の高い順に提示しよう。
まず第一に,私は全ての植物や動物を過去から私たちに残されて傑作としてみている。地上の全ての種はその背後には文字通り何十億年もの歴史がある。その祖先は危険を一日,一日,毎年毎年,そして世紀毎に,次から次へと乗り切ってきた。それらはいい時代の有利な点を効果的に利用し,悪い時代を何とか生き抜いた。それらは圧力に応じて変化し,他の圧力からは隠れた。人間の不注意な活動と無知のために種の歴史を終わりにすることは恐ろしいことだ。
第2の理由はより実用的なものだ。どんな種でも注意深く研究することで多くの学ぶべき点があり,注意深く研究された種はあまりに少ないので,ある種の絶滅,とくに研究されていない種の絶滅は,読まれる前に本を燃やしてしまうようなものだ。研究によってどんなことが学べるか,ということに関してはなんら保証はないが,もし研究されるべき種がそこの存在しなかったら,世界はより貧しい場所になるだろう。
第3の理由は多くの野生の種は人間にとって有益なものを生み出している。極めて実利的なレベルにおいて,種の絶滅は一般に医学や他の事業に対して悪いことだ。地元のショッピングセンターの健康食品売り場の様々な種類の薬草を見れば,どんなに多くの,そして珍しい効能が,比較的珍しい植物につけられているかわかる。
最後に,もし特定の種が地域社会で見つかれば,その社会で,何らかの役割を果たすのは明らかだ。もし万が一その種が抹殺されたら,その種の役割が何であったとしても,もう,正確にその役割が補填されることはない。たとえ様々な競争相手がその役割を担うことができたり,実際にしていたとしても。そして,ある種がある地域から排除されたら,通例はどういうことが起きるだろうか。その寄生動物もまた排除されるだろう。それを食べる動物は食料に困るだろう。食べられていた動物はもしかしたら増えるかもしれない。そして場合によっては他の影響もあるだろう。草はより高く成長して,より多くのネズミを隠したり,種を発芽させることができない木も出てくるかもしれない。
一つの種の絶滅がいつでもいくつもの種が連なって消えることをもたらすとは限らないが,種によっては,他の種よりより危険にさらされることになる。また,私はどの種でも実際に地球規模で絶滅すれば,世界の豊かさに本当に被害を与えるのだと強く信じている。種の絶滅を防ぐことは傑作を次の世代に手渡すことに等しい。
種を絶滅から守るべき4つの理由。
種が絶滅することは悪い。それは進化の歴史を重ねた傑作品を失うことであり,種の潜在能力を見つける機会や,人類にとって有益な資源を失うことになる。また一つの種を失うことは自然全体に影響を与えるからだ。
揚子江は世界第3,中国最長の川だ。中国を横断して約6300キロ流れている。チベットと上海河口の肥沃なデルタ地帯の中間で,川は三峡として一般に知られている渓谷地帯を流れる。この地域は,まもなく世界最大の水力ダムのある場所となるだろう。ダムは2009年までに完成する予定だが,全長1900メートル,高さ約185メートルになるだろう。その湖の水はほぼ1千8百万キロワットの発電能力を持つタービンを回すだろう。これはナイル川のアスワンハイダムの8倍,ヨーロッパのどの発電所よりも4倍大きい。日本の黒部ダムの50倍以上の発電能力を持っている。計画の費用の試算は170億ドルから300億ドルである。そのほとんどは中国政府によって提供されるが,約80億ドルは外国からの投資,たとえば外国政府や世界銀行といった組織による投資で必要とされている。
12億の人口を有し,その全員が冷蔵庫や他の便利な品物を欲しがっている急速に成長している国が環境に何らかのマイナスな影響を与えずに経済的な発展を促進することは大変難しいだろう。ダムの支持者,すなわちダムを支持する人たちは三峡は中国にきれいなエネルギーを提供する最善の方法だと主張する。現在中国は国が必要とするエネルギーの75%を供給するのに石炭を使っており,石炭はダムによって生み出される水力発電よりずっと多くの汚染を引き起こしている。実際,石炭を燃やすことがこの国の主な汚染源であり,そのために肺ガンがこの国の最大の死亡原因になっている。また石炭を燃やすことは酸性雨と温室効果の大きな原因である。これらの環境問題は,中国だけでなく世界全体にも影響を及ぼしている。
中国の石炭への大きな依存を減らすほかに,三峡はまたこの地区全体の発展において役立つだろう。まず第一に,ダムは中国内陸,中部―南部地区の緊急を要しているエネルギーを提供するだろう。第二に,それは産業化のエネルギーをもたらし,洪水の危険を減らし,したがって,この地区がよりビジネスにとって魅力的になる。第三にダムは揚子江沿いの進路を改善し,この地区を発展させるのに近づきやすくなる。
三峡ダム計画
中国,揚子江中流に世界最大のダム建設が進んでいる。ダムは増大する電力需要に応え,石炭の火力発電所への依存を減らし,汚染や環境問題削減が期待できる。同時に流域地域への経済発展への寄与も期待されている。(99字)
集団の成員が協力して働いている時,彼らは単一の個人が達成できることより明らかに多くのことができる。実際,何人かの人が,それぞれの働きをまとめる集団の過程を経て,初めて可能になる人間による成就もある。経済的,技術的,及び政治的な現代社会の複雑さ一人でそれら全てを習得できないよう多様な技術を要求している。ほとんどの産業,科学そして政府の事業は現在,多くの専門化を要求し,それぞれが様々な分野で専門的知識を寄与している。
しかし,集団過程の研究をしている研究者たちは集団の規模が多くなるにつれて,それぞれの集団の成員の貢献度は落ちる傾向にある。1920年代後半,研究者は人々が一緒にロープを引くと,一人一人は,自分だけでロープを引く時より,力を入れなくなると発見した。一人で働いていると,一人の人は63キロ近く引いたが,二人の人が一緒に引くと,126キロ(2x63)ではなく,118キロだった。そして3人では160キロ引っ張ったが,これは個人が引く時の2.5倍にすぎない。これや他の研究によって,人々は一人で働く時より,集団の一部として働く時のほうが働きが少ないという結論に達した。見たところ,共通した仕事に対して多くの貢献者がいる時には個人は自分たちの努力を弱めるようだ。
社会効果理論によれば,集団が大きくなればなるほど,一人一人の成員が作り出そう,という圧力が減る。この理論は個々の成員が努力を減らすのは集団の仕事に対する責任の分散であることを示唆している。社会心理学者であるStephen Harkinsは1980年代後半,怠惰を促すのは,特に成果に対する匿名性である,示唆した。個人が誰も,どのくらい自分が貢献しているかわからないだろうと信じると,全員の生産性が減る傾向にある。個人の貢献が特定できると,たとえば,実験者がどのくらい個人が貢献している計る時のように,怠慢さは減る。
研究者は他人に評価されることは人々を働かせ続ける唯一のことではないと発見している。人々が自分の働きを他の人が以前にした働きと比較することで,評価できる時,彼らは一生懸命働く,たとえ,実験者がどのくらい彼らが貢献しているか計算できなくても。自己評価はみたところ仕事に対する「標準的な」働きに達するとか,超えるといった満足感を与えているようだ。社会的な怠慢さは人々が自分がどのようにしているか知る方法がない時に起きるように思われる。
【要約】
集団内で一人一人の努力を引き出すには
現代社会では仕事の達成に集団としての協力が不可欠だが,一般に集団が大きくなると一人一人の努力の度合いが減る。集団内での個人の努力が評価されたり,自己評価ができれば,これを怠惰を減じることができる。(98字)
「おばあちゃん」幼いデジリーが叫んだ。「おとうさんの誕生日よ。どうやって誕生日カードを送ったらいい」
デジリーのおばあさんはデジリーを見て,ため息をついた。彼女はなんと言ってよいのかわからなかった。デジリーの父は9ヶ月前に亡くなっていた。デジリーにはわからなかった。彼女はまだ4歳だったのだ。
「考えがあるの」おばあさんは言った。「お父さんに手紙を書きましょう。手紙を風船につけて,天国に送ることができるよ。何を書こうかね」デジリーはおばあさんに書くように言った。「誕生日おめでとう,おとうさん。お父さんのことが好きで,いなくて寂しいです。1月の私の誕生日には手紙をください」
デジリーのおばあさんはデジリーの伝言と彼らの住所を小さな紙に書いた。それから,デジリーと彼女の母,おばあさんは風船を買いに行った。デジリーは素早くヘリウム風船を見て,言った。「あれよ。人魚の絵が描いてあるの」
彼らは人魚の風船を買って,デジリーの手紙をつけた。それから,デジリーが風船をはなした。
デジリーはカルフォルニアで風船をはなした。風船は風に乗り,東へと行った。4日後,6000キロ離れた金田東部の湖近くに落ちた。その湖のなまえは人魚湖だった。
カナダ人のウエィド・マキノンはデジリーの風船と手紙を見つけたとき,マーメード湖でかもを追っていた。彼はそれらを家の持って帰り妻に渡した。彼女はデジリーに誕生日プレゼントを贈ることにした。彼女はまた手紙も書いた。その手紙には次のように書いてあった。
親愛なる デジリー
あなたのお父さんより誕生日おめでとう。私は誰だろう,って思っているでしょう。そうね,私の夫のウェイドがかも狩りに行ってね,そして何を見つけたと思う?あなたがお父さんに送った人魚の風船よ。天国にはお店がないの。だから,あなたのお父さんは誰かに父さんの代わりに買い物をして欲しかったの。たぶん,彼は私たちを選んだの。だって,私たちはマーメードという名の町に住んでいるから。お父さんはあなたのことをすごく愛していて,いつもあなたのことを見守っていると思うわ。
愛を込めて
マッキノン家
デジリーのお母さんはマッキノン夫妻にお礼の手紙を書いた。それからの数週間,彼女とマッキノン夫妻はしばしば電話しあった。それから,デジリーとお母さん,おばあさんはマッキノン夫妻に会いに飛行機でカナダへ行った。マッキノン夫妻は彼らをマーメード湖に連れて行き,風船が落ちた場所を案内した。
今では,デジリーがお父さんのことについて話したい時はいつでも,マッキノン夫妻に電話をする。彼らと話すの,気分がよくなるのだ。
人々はよく言う。「なんという偶然だろうか。人魚の風船が人魚の湖に着地した」デジリーのお母さんはそれは単なる偶然だとは思わなかった。彼女は言う。「私は夫がなんらかの形でマッキノン夫妻を選んだのです。それがデジリーに愛を送るやり方なのです。彼女は今では,お父さんがいつも彼女と一緒にいてくれることを理解しています」
【人魚の風船と人魚の湖】
父親の死を理解できないデジリーは手紙をつけた人魚の風船を天国へ送った。それは人魚の湖に着地し,拾ったカナダ人との交流が始まった。これは偶然ではなく亡くなった夫がもたらしたものだと母親は信じている。
時間に他する態度は国によって,また文化によって異なる。たとえばラテンアメリカの人々は約束の時間やパーティーには,通知されたり,予定された時間より遅く通例やってくる。しかし,どのくらい遅れるかは,場合によって,また,特定の国によって変わる。これとは対照的に,ドイツ人,スェーデン人,それに北部出身のアメリカ人は人々が時間正確に到着することを期待し,時にはドアをノックしたり,ベルを鳴らす正確な瞬間まで時計を眺めてドアの外に立っていることもある。したがって海外へ出張したり,世界中を旅行中に良いマナーを見せたい人は誰でもその地方の礼儀作法にかなった新しい礼儀の決まりを身につける必要がある。ローマで礼儀正しいことがヘルシンキでは失礼だったり,フロリダ州,マイアミでは好意を持って見られることが,アイダホ州,ボイスでは不十分かもしれない。その地方の時間に関する礼儀を学ぶことは,主人を喜ばせたり,訪問客を快適にするばかりでなく,あなたはよき海外への大使となる。決まり悪さ,誤解,人を傷つける代わりに,訪れた国や自分自身の国際感覚に敬意を表すことになる。あなた自身が,特定の地域での時間に関する礼儀正しいことを学ばなければならないが,そのことはより広い地域での一般的な指針を獲得するのにも役立つ。概して,北部地域は時間に対してより正確で,南部地域はそれほど正確ではない。
【時間感覚の違いに学ぶ異文化理解】
時間に対する態度は国,文化によって異なる。文化によって約束の時間に対する厳しが違うことを学べば,旅行先でのトラブルを避け,訪問国に敬意を表し,互いの理解を深めるのに役立ち,貴重な文化交流となる。(97字)
18世紀の啓蒙の産物,ベンジャミン・フランクリンは全てのアメリカ人の中に愛情を込めて記憶に残っている。1706年,ろうそく職人の息子として,ボストンに生まれ,彼は政治家,印刷工,科学者そして作家になった。
植字工が職業であったフランクリンはフィラデルフィアに逃れ,そこで,「ペンシルベニア・ガゼット紙を発行,「貧しいリチャードの暦」を書いた。彼はまたペンシルベニア大学,アメリカ学術協会,アメリカ初の移動図書館の設立に助力した。科学者としては,雷に電気があることを証明した。
フランクリンは1757年から1762年までペンシルベニア代表として英国に滞在した。彼は政治的理由でアメリカに戻り,1776年7月4日独立宣言の起草を助け,署名した。彼は英国と和平交渉をするのを助け,パリ条約によって実を結んだ。フランクリンは1787年に憲法に署名し,後に奴隷制廃止に賛成した。
フランクリンは84歳でなくなった。彼は彼の倹約と勤労,良識,ユーモアで記憶されるだろう。
大問2-2
先にすすむまえに,おそらく話すことがまったくかかわらない通信システムについて少し見ておいたほうがいいだろう。まず第一に,もちろん,書くことがある。現代社会では,書くことが大変重要で,普及した他の人に考えを伝える方法である。
しかし,常にそうであったわけではない。昔は,それもそれほど昔でもなく,ほとんどの人が読み方や書き方を知らなかった。それほど遠い昔でもなく,興味深く思い出されるのは理髪店の看板柱とタバコ屋のインディアンである。それらは読むことのできない人々にその店ではどんな物やどんなサービスが受けられるか伝える役割をした。
もっとさかのぼると,文字がまだ発明されていない時代があった。にも関わらず,人々はその当時でも話すことなく互いに伝言を伝えることができた。今日,人々は,書いたり,話したりせずに伝言を伝えることができる。
たとえば,信号機のシステムを考えてみよう。どこの交差点でも,警官や標識はない。しかし,信号が赤になると,運転している人は止まる。青になると,また動き出す。信号はあたかも「止まれ」「進め」という言葉が話されたり,書かれたかのように,十分な意味を持っている。
目が認識する信号は様々な形をとる。火の信号,煙の信号がある。特に海でありとあらゆる複雑なメッセージを伝えるのに使われる旗による信号がある。アメリカ海軍が日光をとらえ,数マイル離れて人たちの目に目に映し,メッセージを伝える日光反射信号機がある。
それから何千という耳による信号もある。警官や審判が吹く笛,救急車や消防車のサイレン,玄関先や教室でのベル,こうしたものは全て,あたかも話されたのと同じくらいはっきりとメッセージを伝える。
私たちの種であるホモサピエンスは約20万年生きてきた。この時間99%の間は,人々は小さな集団の狩猟民族として生きた。この集団の中では,共有することが生活様式の一部だった。個人は集団に依存していた。共有することは集団と個人の両者にとって恩恵があった。さらに,所有物がきわめて限られていたので,共有することは簡単だった。集団は常に移動していて,特定の状況を除いて,自然の依存している部分を使いすぎることを避けていた。人々は持てる以上の所有物を持つことはできず,また,女性はしばしば子どもを運ばなければならなかった。通例,例外はあるものの,狩猟民族の集団は生態的に維持できる形で自然の支えてくれる物を利用した。集団は普通はボスや主人といった意味での指導を持っていなかった。時間はほとんど無関係で,匿名といった現象は考えられないことだった。
1万年前,推定世界人口が500万人であったころ,ある地域の人々は新しい方法で自分たちを支え始めた。すなわち,土地を耕作することで。農業革命が起きて,そして普及した。農業は定住することを意味した。人々はより多くの所有物を扱うことができ,それゆえに,所有権が普通の生活の一部となった。今度はそれによって,社会階層ができた。社会は,酋長,農民,兵士,奴隷などに分割された。自然が支えているくれる基地への態度は依然として,森林が耕作の空間を作るために切り開かれた物の,維持するものだった。農業社会では時間は関係するようになり,このことは四季と共に生きることを意味した。
約260年ほど前,推定8億人の世界人口で,次の大きな革命が起きた。すなわち産業革命だ。それは,燃料源に化石石炭を,移動エネルギーに蒸気機関,そして,世界中からヨーロッパへ資源をもたらす手段として植民地制度に基づいていた。狩猟社会は共有に,前工業化の農業社会は所有,そして産業社会は増え続ける所有権によって特徴づけられた。獲得と消費が産業システムを動かし続ける手段である。生態的に維持できる,すなわち,家を維持する生活様式が搾取する生活様式にとって代わられた。匿名が一般化し,犯罪に一役かった。
人類は長い世代を有しているが,子孫はほとんどいない。そのことは,自然淘汰によるゆっくりとした適応を意味している。人類は大都市を有す,産業社会での生活様式に生物学的に適応しなおす時間を持っていない。人々は生物学的には長期間にわたって続いた,すなわち,狩猟民族としての生活様式や状況によって形成され,適応されてきている。生物学的には人々は依然として石器時代の生き物なのだ。しかし,現在では,私たち石器時代の生き物は自然環境から遠くへと引き裂かれ,私たちの生態系の支えと分離し,大都会を持つ現代産業システムの中で暮らしている。私たちの多くは私たちの感覚を閉じなければならない騒音と汚染された環境で暮らしている。たとえば,どうやってすべての流される広告を吸収できるだろうか。多くの人は人混みの中で,名前もなく,ひとりぼっちで,急速に変化する状況で暮らしている。私たちは技術的,経済的,社会的に複雑で繊細な,理解困難で,疎外が一般的な状況に生きている。かなりの程度,人々は商業化された文化の消費者である。電話のある会社の机でのストレスは肉体的に使うことはできない。それで,ストレスは否定的意味になる。私たちは,いわば,私たちの本来の性質と生活様式の間にくさびが打ち込まれている。私たちはおおかれ,すくなかれ,様々な点で,忍耐の限界で暮らすことを強制されている。
人類は集団に依存し,自然と共存する狩猟採集民として生きてきた。農業学名によって社会に階層化が生まれ,時間に制約されるようになった。産業革命では,自然を搾取する消費者となり。大都会で個人は埋没し始めた。生物学的には狩猟採集民のままなのに,生活様式は劇的に変化した。複雑化する社会の中で,疎外感を感じている。
平らなパンは地中海地方での古代からある伝統だ。おそらく,古代ペルシャに起源を発し,このようなパンは初期ギリシャの植民者によってイタリア南部にもたらせたのだろう。紀元前3世紀にマーカス・ポルシウス・カトによって書かれた初めてのローマ史では,「オリーブオイル,薬草,密をのせて石の上で焼かれた平で丸いパン生地(パン粉と水を混ぜたもの)について触れられている。さらに古代都市ポンペイで証拠が見つかっている。今日のピザ屋に大変よく似ている店がここで見つかっているのだ。
トマトは最初,16世紀にヨーロッパに伝えられた時,毒があると信じられていた。しかし,18世紀後半までには,ナポリ市付近の貧しい人たちの住む地区ではトマトを平らなパンの材料として加えていた。そして,この料理は人気を博した。ピザは旅行者を引きつけるものとなり,ナポリを訪れた人たちは地元の特別な料理を食べてみようと,市の貧しい地区へと入っていった。
初期のピザ屋は1830年に開店し,今日でも営業している。ピザは最も有名がナポリのピザ職人であるラファエル・エスポシトがウンベルト一世とマーガリータ女王の前に呼び出され,地元の特別な料理を作るように命じられた1889年でも,「貧しいものの食べ物」と考えられていた。彼は伝統的なピザとそれに加えて,トマトソース,白のモッツレラチーズ,それに緑のバジルの葉でイタリアの国旗の色をしたピザを生み出したと言われている。女王は喜び,「マルガリータ・ピザ」が誕生した。
1897年,アメリカへのイタリアの移民者であるゲナロ・ロムバルディがニューヨークで小さな雑貨商を開いた。彼の従業員で,同じくイタリア移民のアントニオ・トトンノ・ペロが店で販売するようにピザを作り始めた。彼らのピザは大変人気になったので,ロンバルディは1905年にアメリカ初のピザ屋を開店し,単にロムバルディと命名した。1924年,トトノはロムバルディに店を去り,ニューヨーク郊外にトトノと呼ばれる自分自身のピザ店を開いた。この時点ではピザは依然として主にイタリア移民に食べられていた。
ピザが国際的に広まったのは第二次世界大戦後だった。現代のピザの生地であるナポリでさえ,地元のパン屋はアメリカ兵士の要求を満足することができなかった。イタリアでの戦争に関わったアメリカ軍が祖国でこの食べ物が好きになっている一方で,何百万というイタリア人が彼らの料理を残りのヨーロッパへ紹介することで,破壊された経済を立て直すのに手を貸した。
1950年代にピザの人気が出るのを受けて,特にアメリカでは,いくつかの大企業が主にピザの商業生産に関わるようになった。今日,こうしたピザチェーン店がしばしば地元の人に所有され,経営されているチェーン店と共存している。ピザは早くできて,簡単に運ぶことができるので,アメリカのほとんどのピザ店ではしばしば配達サービスを行っている。
ほとんどの先進国では,ピザは冷凍食品としてスーパーでも見られる。おいしい冷凍ピザを生み出すには多くの食品技術が投入されてきた。主な課題にはソースがパン生地と混じるのを防ぐこと,冷凍することができ,かつ固く,乾燥することなく,再加熱できるパイの外皮を作ることなどがある。典型的な例では,パン生地は前もって少し焼いておき,他の材料もまた時に,前もって調理しておく。最近では全く生の材料をのせて冷凍ピザも登場し始めている。
ピザの歴史
ピザの前身である平らなパンの歴史は古く,古代ペルシャに始まる。イタリアに伝えられ後,16世紀にトマト,19世紀には現在の原形ができたが,貧しい食べ物と考えられいた。イタリア移民によってアメリカへもたらされたピザは,第2次大戦後世界的な食べ物となった。現在ではピザチェーン店も誕生し,様々な技術を駆使した冷凍ピザもある。
歴史の古い平らなパンはイタリアで貧しい人の食べ物としてピザになった。移民によってアメリカに伝えられたピザは世界的な人気料理となったが,現在では全国チェーン店や,宅配サービス,冷凍ピザまである。(96字)
道具とは私たちが仕事をする時に役立つ私たちの体以外の物である。技術は道具を使うことに他ならない。私たちは科学技術を人類の発明だと考える傾向にあるが,逆のことが真実に近い。石の道具は私たちのサルに似た祖先がすでに技術を使えるようにしていたことを示している。専門家は道具を使うことはこうした生物が人類に発展することを助けたかもしれないと信じている。道具を使う社会では,手の技術と知能は野蛮な力よりも重要である。
私たちが発明した道具のほとんどは私たちの頭より体を助けてきた。こうした道具は私たちが持ち上げたり,移動したり,切ったり,形作ったりすることを助ける。やっと最近になって,大部分は,私たちは道具を頭にも同様に助けるものへと発展させた。
鉛筆と紙からテレビにいたるまで,コミュニケーションの道具は私たちの頭に役立つように設計されている。こうした機器は情報を伝えたり,保存したりするが,それをいかなる形にも変えることはない。こうした道具は重要であるが,私たちの現在の興味は情報を単に伝えたり,保存したりするのではなく,情報を分類し,変える機械にある。これをする機械がコンピュータや計算機だ。
人類は道具を使いこなすことで発達してきた。道具は人間の体の働きを助けると同時に頭の働きも助けるようになった。現在では情報を操作する道具に関心が集まっている。(78字)
自転車すでに発達の全サイクルを経験している。それはまずお金持ちのためにおもちゃとして始まった。それから,移動手段にであった。次にまたおもちゃになった。現在では自転車はもう一度移動手段として人気が出ている。
自転車の新たな人気にはいくつかの理由がある。車の燃料費は一つの理由だ。もう一つは環境をきれいに保つことだ。三番目の理由は運動への欲求である。アメリカ人は車を家に置いてくる人々の1グループだ。実際,30年間ほど,自転車は車以上に売れている。アメリカだけで1億台以上の自転車がある。
World Watchと呼ばれる研究機関が自動車の将来についての研究をした。研究者たちは述べた。「自動車は自転車よりずっと不便で,自転車はより多くのエネルギーを節約する」
さらに,短い市内での移動では,自動車と同じくらい速い。しかし,多くの人は今でも車を使っている。なぜか?時間が一つの理由だ。自転車に乗るより車を運転する方が依然として速い。人々が自転車に乗らないもう一つの理由は自信の欠如だ。新たに自転車に乗る人の中には自分を信頼していない人がいる。自転車を十分うまく乗りこなせるという確信を完璧に持てなければ,その人たちは自動車をとることにする。新たに自転車に乗る人は怪我をするのではないかと恐れている。少なくとも,車では,運転手の周りには鉄がある。
もっと重要な理由は乗り物に関する知識の欠如だ。たとえば,平均的な人は10段変速のギアの動かし方を知らない。ある驚くべき情報が自転車に乗る人の無知さ加減を示している。自転車業界が自転車利用の統計をとった。それによると,アメリカの10段変速の80%はギアチェンジをされたことがないのだ。もし,自転車に乗る人たちが正しい自転車の乗り方を知っていれば,おそらくもっとよく自転車を利用できるだろうが。
【100字】
自転車に乗る人,乗らない人
近年の自転車人気の理由は,省エネ,環境にやさしい,運動になる,だ。一方,自転車に乗らない人は,時間不足や自分の乗車技術の自信不足をあげるが,正しい乗り方を身につければ,もっと乗る人が増えるだろう。(98字)
世界中のほとんどの人々は右利きだ。この事実はまた,歴史始まって以来の事実に思われる。1977年に,科学者たちは紀元前1万5千年前の洞窟絵画に始めり,1950年代の絵画に終わる歴史上の様々な時期に作られた芸術作品を研究した。こうした芸術作品で示された人々のほとんどは右利きである。そこで,科学者たちは右利きは常に歴史を通じて,人類に共通であると推測した。誰も左利きの国家や大きな人々の集団の記録に出くわしていないので,科学者たちはまた,右利きが今日の人類の生まれつきの特質であり,世界人口のわずか10から15%の人が左利きだと推測した。
より多くの人が左利きというより右利きである理由を研究するうちに,いくつかの興味深い事実が見つかった。科学者たちは現在では人の両手はそれぞれ特別な仕事を持っていることを知っている。ほとんどの人にとって,左手はものを見つけ,持ち,あるいは支えるのに使われる。右手はものを扱ったり,それを使って仕事をするのに使われる。この仕事の分担は脳の二つの面がどのように働いているか,ということと関係しているように思われる。脳の右側,それは左手を制御するが,人の手と目を一緒に働かせることと関係した技術に強い。左脳は右手を制御するが,思考と問題解決の中心である。こうした発見はより多くの芸術家が左利きであることを示唆し,研究によって,左利きは他の職業より,芸術家の間では2倍一般的だとわかっている。
どうして人は左利きより右利きになるのだろうか。現在の所,だれも確かなことはわからない。科学者たちは生まれた時大きな脳の障害にあった人々のほぼ40%が左利きになったことを発見している。脳の損傷が小さい場合でも人が左利きになることがある。しかし,脳に損傷を受けた人が皆左利きになるとは限らない。したがって,科学者たちは人々が左利きになるには他の理由があるに違いないと推測している。一つの単純な考えでは人々は親から普通に右利きになるのだ,と提案している。もし人が右利きの遺伝子を受けなければ,その人は確率とその人の環境によって右利きにも左利きにもなるかもしれない。右利きが左利きよりより一般的であるが,現在,左利きの人は軽蔑されることもないし,異常だと考えられることもない。左利きの子どもたちは昔は他の子どもたちのように右手を使い始めるまで罰せられたが,現在ではどちらの場合も完全に受け入れられている。
人類の歴史始まって以来右利きが優勢であったが,近年の研究で,聞き手と脳の働きには関係があり,右脳は左手を制御し,手と目を同時に働かせる機能を持っている。そのために芸術家には左利きが多い。左利きになる原因は脳の損傷とか,遺伝とか様々な節がある。昔は左利きは直されたが,現在では聞き手による差別はない。
人類と利き手
近年の研究で,人類はずっと右利きが優勢であること,脳の働きと利き手に関係があることがわかった。なぜ,左利きになるかは不明で,所説あるが,すくなくとも現在,左利きが右利きに強制されることはない。(96字)
私は,私たちの栄養状況がごくわずか変化すれば,長い目で見ると大きな恩恵をもたらす,という考えを大いに信じている。したがって,犯罪を犯す若者に基本的な栄養素を与えると,犯罪傾向が劇的に減少することを示す最近のイギリスの記事を読んで大変興味を持った。
イギリスに蔓延する若者の犯罪の解決方法が地区の健康食品の店の棚に見つかるかもしれないという考えは,ちょっと突飛に見えるかもしれないが,これには真理をついた面があると信じる十分な理由がある。私たちの気分や行動が,ある程度は,脳が飲食物からから摂取する栄養に依存しているというのは事実だ。
だから,ますます多くの研究がこの臓器への燃料を変えることが,非行の傾向を減少させることを示唆するようになっているのは驚くにあたらない。
科学者たちがこの考えの研究を始めてから,今では20年になる。初期の研究によって,不健康な食餌をする人たちが比較的健康的な飲食物を摂取する人たちに比べて重大な犯罪を犯す傾向があることがわかっていた。
私の娘のオリビアは3歳になったばかりだが,チャーリー・ラビオリという名前の想像上の友だちがいる。オリビアはマンハッタンで育っているので,チャーリー・ラビオリもその地区の特徴をたくさん備えている。たとえば,彼は「マジソン通りとレキシントン通りのアパートに住んでおり,チキン,果物を食べ,水を飲んで暮らし,7歳半になったので,「年寄り」だと感じ,また考えられている。しかし,オリビアの想像上の遊び仲間のもっとも特に地域的なことは,次のことだ。すなわち,彼はいつでも忙しすぎて,彼女と遊べない。彼女はおもちゃの携帯電話を耳に当て,彼女のがそれにむかって話すのを聞く。「ラビオリ?オリビアよ。オリビア。遊ばない?わかった。電話してね。さよなら」それから,おもちゃをパタッと閉め,首を振る。「いつでも留守番電話よ」という言う。あるいは,「今日はラビオリと話したわ」「楽しかった?」と妻や私が聞く。「いいえ,彼は仕事が忙しかったの。テレビの」彼女は言う。チャーリーが電気器具を修理するのか,自分のトーク番組を持っているのかは,曖昧にしたまま。
いい日には,彼女は見えない友だちに「ばったりと会い」,喫茶店へ行く。「チャーリー・ラヴィオリに会ったの」彼女は夕食時,誇らしげに言う。(もちろん,家にいて,遊んで,昼寝して,お昼を食べて,セントラル動物園へ行き,そしてまた昼寝をした後で)「私たちはコーヒーを飲んだんだけど,彼は走らなくちゃいけなかったの」彼女は二人のスケジュールをあわせることができないことに,ため息をつくが,それは避けられないこととして受け入れている。ちょうど,人生がそうであるように。「私は今日チャーリー・ラヴィオリにばったり会ったの。彼は仕事をしていたの」彼女はそれから明るく付け加える。「でも,私たちはタクシーの飛び乗ったの」「それからどうなったの」私たちが聞く。「お昼を急いで食べたの」彼女は言う。
ラヴィオリは彼女の公園と遊び場という小さな限られた生活の外で進んでいる大きな,魅力的な生活を送っているロマンチックの人物であることは明らかに思えた。特に,彼女の母親が友だちと,一日について話す時に使うのを耳にする,ほぼ完璧なオウムのような言葉の繰り返しから,描かれた。(「今日はどうだった?」ため息をついて「メグと会おうと思ったんだけど,連絡がつかなくて,留守番電話に伝言を残したの。それから,ソーホーでの会議の後でエミリーにばったりであったの。それで,コーヒーを飲んだけど,彼女は走らなくちゃいけなかったの。その時にはメグが携帯電話に連絡を入れてくれて,それで決めたの…」)しかし,私はチャーリー・ラヴィオリはもしかしたら,空想の形で映し出されたオリビアの生活に潜む孤独,「トラウマ」の兆候でもあるかもしれないと心配になった。「いつも忙しすぎて,遊ぶことができない想像上の遊び友だちを持つなんて奇妙ね」妻のマーサが私に言った。「想像上の遊び友だちは秘密を打ち明けたり,一緒に歌を歌うような人じゃないのかしら。いつもタクシーに飛び乗るような人じゃだめだわ」
親の友人関係を映し出す娘の友だちごっこ
3歳の娘には架空の遊び友だちがいる。彼は娘の環境や母親の友人とのつきあい方の影響を受けて想像されている。娘が彼とゆっくりと遊べないのは大人たちのあわただしい人間関係が影響しているかもしれない。
アメリカはかつて英国に属し,多くのアメリカ人は英国人を祖先に持つ。そこで,アメリカ人が英国人について考える時,彼らは大変よく知っているように思われる場所を多い浮かべる。アメリカ人はイギリスのテレビ番組,特に時代劇を見,ジェームズ・ボンドの映画を見,アガサ・クリスティーの探偵小説を読む。子どもの頃,くまのプーさんのようなイギリスの本を読む。こうした経験は,イギリス系の人でない人にも共通しているが,その経験にもとづき,ほとんどのアメリカ人は,他のどこの国のことよりも,イギリスのことを知っている。ごくわずかな人しかイギリスへ旅行に行かないが,ほとんどすべての人がイギリス人について意見を持っている。
イギリスの地図を描くのに苦労するアメリカ人は多いだろう。彼はその国はロンドンと自分たちの祖先のひとりの出身のスコットランドの村から成り立っていると考えている。ロンドンそのものは霧に覆われている。平均的なイギリス男性は山高帽をかぶり,傘を持っている。彼はバスに乗るのに列に入って待ち,フィッシュ・アンド・チップスを食べ,多量の紅茶を飲む。彼には召使いがいて,―イギリス人みんながそうである−女王を大変尊敬している。
アメリカ人はイギリス人の行動を褒め称える。自分たち自身はそんな社会規則が欲しいなんて決して思わないが。アメリカ人はイギリス人を完璧に礼儀正しく,きちんとして,常にどのナイフとフォークを使うか知っていて,常に,「どうぞ」「ありがとう」「すいません」という言うものだと考えている。サッカーの試合に関係する暴力はアメリカでは広くは知られていない。イギリス人はまた,彼らの控え目,「物に動じない」すなわち,自分の意見を言わず,人前では自分の感情を出さない,ことでも有名だ。このために,イギリス人はかしこまっていて,よそよそしく見える。
アメリカ人はしばしばイギリス人は「風変わり」,これは古めかしいという意味の単語だが,だというが,これはいい意味でだ。この印象は両国の英語の話し方の違いに一部起因している。イギリス英語にはアメリカでは長いこと使われていない語や構造がある。そして,それは旧式か,あらたまって響く。イギリス人の好きな形容詞は「すばらしい」だ。これは天気を含む何にでも描写するのに使われる。他にholiday, smashing, brilliantといった単語を聞くとアメリカ人はニコリとしてしまう。
みんなが不思議だが,好ましく振る舞う国としてイギリスを見ることは現実的ではなく,イギリスへ行ったことのあるアメリカ人は肯定的な印象に加えて否定的な印象を持つ。イギリス人は俗物的で,友好的には見えない。よく知られたイギリス人の控え目さは,あけひろげで,熱の入ったコミュニケーションの仕方により慣れているアメリカ人には冷たく見える。イギリス人は自分の考えていることを言わずに混乱を引き起こす。彼らは「問題ないですよ」という言う。大変な問題になるだろうとわかっていても。そして,アメリカ人がそのことを理解しないと動揺する。調理しすぎた食べ物,家が小さく,シャワーの代わりにバスがあり,いつでもどんより曇っているか雨模様の天気,これらは「古い国」を訪れるアメリカ人が好んで口にする不満だ。しかし,こうした否定的な事柄にもかかわらず,アメリカから見たイギリスは一般に,肯定的で,多くのアメリカ人にとって,イギリスへ行くことはほとんど祖国へ帰るようなものだ。
イギリスはアメリカ人のとってもっとも親しみのある国だ。
アメリカ人はイギリスは最も近い国だ。アメリカ人の持つイギリスのイメージ
アメリカ人はイギリスに対して,子どもの頃から固定的なイメージを持っている。
アメリカ人のイギリス人観
アメリカ人はイギリス人は礼儀正しく,控え目で,ちょっと古めかしいといった固定イメージを持っている。イギリスを実際に訪れる人は,よそよそしい,といった不満を口にすることもあるが,全体としては肯定的だ。
インターネットは他の活動の時間を奪い,娯楽や情報を提供するという点でテレビに大変よく似ている。しかし,良書を読むという暖かい,個人的な体験とは比べようもない。これはインターネットが決して本ととって代わることがないという唯一の理由ではない。というのも本はコンピュータのディスプレイの前に座っていては得ることのできないテーマについて十分な知識を提供してくれるからだ。私たちはインターネットから文章を移せるが,移行された文章の芸術的な質には大きな開きがある。よいデザインの本は読書体験を大切なものにしてくれる。
本は今でも便利な包みに入って,最もコンパクトで経済的な多量の知識を伝える方法であり,そのために人気がある。固いカバーに包まれて,ポケットに入れてシェークピアの戯曲,チャールズ・ディケンズの小説や聖書を運べるという考えは信じがたいものだ。私たちはこのような並はずれた便利さを,本自体は1455年のグーテンベルグの制作や1623年のシェークスピアの本以来,かなりの進歩を遂げているということも,理解せずに当たり前のことだと思っている。
印刷,製本技術が何世紀にもわたって改善されてきたばかりでなく,本で多種多様な話題を読むことができるのは,控え目に言っても,驚くべき事だ。実際,インターネットは研究や学習に便利な道具になる情報を獲得するために著者やその本をネット上に載せることを求めている。
もう一つのインターネットが本にとって代わることのできない重要な理由は作家になりたいと思っている人は自分の作品を本として永久に出版された形で見たがる。手に持って,見て,触り,目を通し,そして好きな時にランプ以外の電気を必要とせず読めるものとして。作家はペンと紙の代わりにコンピューターを使うかもしれないが,完成品は最終的には読者に対して価値を持つとするなら,本にならなければならない。作家は主題の研究のためにちょうど図書館のようにインターネットを使うかもしれないが,最終作品はそれでも本だろう。
本に取って代わるというより,インターネットは現在ネット上で世界的規模でますます多くの本を売るために書店によって使われている。そして,インターネットはどんな書店よりもずっと多くの蔵書を消費者に提供しているが,読者がページをこころゆくまでめくって,快適な椅子に座って,閉店まで本を読むことができる書店にとってかわることは決してないだろう。新しい大型書店では,コーヒーやケーキーを出し,著者による朗読をし,遅くまで開店している。
インターネットは古本屋で本を見たり,古書バザーにいって実際に100年前に印刷されたページに触るといった圧倒的な楽しみにとって代わることはないだろう。本は過去への,私たちの前に経験し,その人生経験によって蓄えられた英知を残してくれた人たち全員へのかけはしを提供する。本当に歴史を知りたかったら,それを生き抜いた人の実際の言葉を読まなければならない。
インターネットは実際より劣っていると言うものではない。インターネットは成長し続けているように,人類史上もっとも優れた技術発展の一つであることは確かだ。私たちを世界全体と結ぶ能力のためにインターネットはすばらしいものになっている。たとえば,オーストラリアの新聞の朝刊の見出しや天気予報を読んだり,ブエノスアイレスの地下鉄路線を探求したり,アメリカでずいぶん会っていない友人を,彼らに電話があれば,捜したりもできる。eメールを通じて,eメールアドレスを持ってる人なら誰とでも,どこででも,連絡を取ることができる。あなたが読んだ最新の本について話し合うことさえできる。しかし,インターネットは本にとって代わることはできるだろうか?おそらくできないだろう?
インターネットが書籍に代われない理由
インターネットは急速に発展しているが,本に代わることはないだろう。本にしか伝えられない感性があり,作家も本として出版を希望している。読書の喜び,読書から学べることはインターネットでは補完できない。
大恐慌はアメリカ全土と世界中に広がる貧困と恐怖の時代であった。危機は株式市場が崩壊した1929年10月に始まった。1932年までには,アメリカの10万以上の企業が破綻し,全労働者の4分の1が失業した。将来の生活の希望はないように思えた。大恐慌中,アメリカ人は逃避のために娯楽に頼った。ある評論家は,「アメリは映画に夢中になった」と言ったが,ほとんどアメリカ人にとっては,当時はラジオが依然として安く人気のある娯楽の形態であった。また,人々の考え方に影響を及ぼすことができる強力な力でもあった。ラジオがどんなに強力になれるかということを示す逸話がここにある。
歴史上もっとも有名なラジオ放送は1938年10月30日,午後8時に起きた。それはハロウィン前夜で,何百万人ものアメリカ人がオーソン・ウエルズが主演する人気番組を聞くためにラジオをつけた。その晩の番組は「世界戦争」というSF小説に基づいた話しだった。火星人が地球を襲うのはハロウィン前夜にはいい話しだろう。しかし,ウエルズはもとの話しを少し変えることにした。たとえば,彼は1890年代のロンドンから現代のニュージャージーに舞台を変更した。ウエルズはまたより現実的に思えるようにするために本当の火星からの攻撃を放送する実際のニュースに聞こえるようにショーをした。
番組はダンス音楽を演奏するオーケストラから始まった。数分してから,音楽は「巨大な燃えさかる物体」がニュージャージに着地したと伝える「臨時ニュース」で中断された。音楽は継続したが,「臨時ニュース」は現場からの「生の」報告で中断され続けた。このショーの間,ニュースアナウンサーや警官役の人々が詳細に火星からの危険な攻撃について説明した。
ショーの始めにアナウンサーは番組はSF小説に基づいていると述べた。不運なことに多くの聴取者は番組が始まってからスイッチを入れ,その説明を聞き逃した。彼らはショックを受け,火星人がアメリカに着陸したのではないかと怖くなった。彼らは本当の臨時ニュースを聞いていると思った。何千というおびえたアメリカ人が火星からの地球への実際の攻撃が起きていると信じた。番組は大変真に迫っていたので,彼らは本当に火星人の話すのを聞き,毒ガスをかぐことができると思った。スーツケースで荷造りをし,車に乗り込んで,非難する人もいた。また,地下室に隠れ,銃に玉をこめ,火星人の毒ガスから身を守るために濡れたタオルを頭に巻いたひともいた。
ラジオ番組が引き起こしたパニックの話しは世界中に伝えられた。翌日,ウエルズは記者会見を開いた。彼は放送が多くの人にパニックを起こしたことを詫びた。
オーソン・ウエルズの「宇宙戦争」
大恐慌の時代,娯楽の中心だったラジオ番組は大きな力を持っていた。オーソン・ウレルズが制作した「宇宙戦争」は,火星人が地球に襲撃した現場を臨時ニュースで流すという設定で,当時の人々にパニックを起こした。
6人の姉妹たちと育つことは簡単ではなかった。長年にわたって私たちはそれぞれ違う意見を持っていた。私の両親はお金をたくさん持っていたことはなかったので,時々私たちは食べ物がなかった。私たちは胃袋がまんぱんになれば幸運だった。もし夜ごちそうがあれば,それはまれなことだった。
私は1969年の夏を決して忘れないだろう。両親は新しい家を建てていたので,資金は大変厳しかった。古い家は小さすぎて,父が稼ぐお金は1文残らず新しい家に注ぎ込まれた。給料日前の最後の数日間は最悪だった。まわりに食べるものがなかったのだ。給料日を休日のように待ちわびていたことを思い出すことができる。父は仕事から家に帰る途中,母が家に帰ったら買い物に行けるように銀行に立ち寄ったものだ。私たちは全員母と食料品店に行くのを楽しんだ。私たちは食料品の通りを歩きながら店全部を家に持ち帰ることを夢見たものだ。ちょうど子どもたちがおもちゃ屋を歩くように。食料品を持って家に帰ると,姉妹や私は買い物袋を食い破るオオカミの群れのようであった。給料日には私たちはおなかが破裂しそうになるまで食べたものだ。週がすすむと食料が手に入りにくくなることを知りながら。
学校へ通うのも楽ではなかった。私たちは決してお昼のお金は持たなかった。両親は誇り高くて私たちに無料の昼食を申し込むことはできなかった。もし私たちが幸運なら,私たちは1週間に数日お昼用に何か持って行けただろう。私たちは一度もきちんとした学校用品や着る服をもったことはなかった。それはおそらく私にしろ姉妹にしろ耐えなければならなかったもっともつらいところだったろう。他の子どもたちはしつこく私たちをからかっていた。スクールバスに乗った他の子どもたちは私たちのことを笑いものにした。私は本当に恥ずかしかった。それは私にはどうにでもなることではなかった。
ある日,父が家に帰ると私たちに野生のブルーベリーがなっている場所を知っていると話してくれた。私たちはそれを摘む許可を得たので,行きたいかと父は私たちに聞いた。私たちは大変興奮した。私たちはしばしばどこかへ行くということはなかったし,ブルーベリーを摘むのは本当のごちそうだ。私は一日中,暑い日差しを受けてブルーベリーを摘んでそこにいたことを覚えている。私たちは家に持ち帰られる以上に食べたと思う。家に着くと母はブルーベリーパイを作ることにした。彼女はパイを自分で作って,半日をそれに費やした。私たちは待ちきれなかった。オーブンでパイが焼けるにおいが,私たちを気が狂いそうにした。私たちは台所をうろうろし始めて,母は動揺し始めた。彼女はパイを私たちが夕食を食べてる間冷ますために一番上の棚に置いた。
その晩は夕食から離れるのがつらかった。というのもみんなパイが台所で私たちを待ってると知っていたからだ。私たちはその晩ポテトスープを食べたが,だれも食べたがらなかった。しかし,母はみんなが食べ終わるまで席を立つことを許そうとはしなかった。母が私たちに十分食べたと言った時,それは台所に直行するのは家畜が突進するようだった。私がカウンターに並んだ最初だった。母が来る前に,キャビネットの一番上の棚に手が届くように私はすでに飛び上がっていた。私はパイをとって,降り始めた。そから起きた!私は濡れたカウンターに滑って,パイを放してしまった。私は今目を閉じて今でもはっきりとパイが空中でゆっくりとひっくり返り,床に反対になって落ち,見上げて,驚いた姉妹たちの表情をみているのを思い浮かべることができる。私にはその日一生懸命働いたこととそれがどんなに速くに台無しになるのかということしか考えられなかった。母は私にめちゃくちゃな状態を片づけさせた。これはこれまでに私がしなければならなかったもっとつらいことの一つだ。
思い返すと,私はその晩のことを決して忘れない。私の家族はいつでも休日にはその話を持ち出す。その当時の生活は苦しかった。そしてその生活が私に現在てにしているもののありがたさをもっと教えてくれた。
ブルーベリーを摘んだ日
大家族で,家を建設中の私は食べ物に不自由する貧乏暮らしをしていた。ある日,家族でイチゴ摘みをして,パイを作ったが,私の不始末で台無しにしてしまった。子ども時代の貧乏生活がものありがたさを教えてくれた。
経済学は近代の学問分野である。今日,全ての人が景気循環について知っているように思えるし,一方,需要と供給,インフレに景気停滞といった言葉は日常的なものだ。しかし,18世紀後半の,アダム・スミスがイギリスの産業革命の始まりを目の当たりにし,富国論を書くまでは,商業の機能の仕方についてはほとんど体系的には考えられていなかった。にもかかわらず,それより半世紀以上前に,スコットランド人のジョン・ローは一人で,現代の産業国家の財政機構と大変類似した機構を生み出していた。その中心はお金の供給を制御する中央銀行と紙幣の使用,投資を促進する信用貸しである。このことはスコットランドではなく,自分の乱費で国を財政破綻の瀬戸際においつめたルイ14世の死後,摂政,オルレアン候フィリップ二世のもとフランスで行われた。最初,このスコットランド人の考えは大変うまくいき,すぐにフランス一の金持ちで有力な人物になった。おそらくヨーロッパ大陸すべてでも。しかし,ローが時代の先を行っていたのははっきりしていた。というのも,5年もしないうちに,彼の野心的な経済計画は破綻したからだ。
ジョン・ローは1671年,裕福な金細工商人の息子として1671年,エジンバラに生まれた。,当時,金細工商人は銀行と金貸しの役割も兼ねた職業であった。というのも希少金属は唯一の通貨だったからだ。若い頃,ローは数学の才能だけでなく,しゃれたギャンブラーとしての名をはせていた。1694年4月ロンドンで,彼は決闘で人を殺し,国を逃れなければならなかった。彼は繁栄の都市アムステルダムへ行き,そこで銀行業と財政上の取り決めを詳しく研究した。それから20年間,彼はヨーロッパ大陸を広く旅行し,自分の時間を賭博場で運と技術によってかなりの財産を稼ぐのと,研究で,「貨幣および商業に関する考察」(1709)を含む財政,金融問題に関する小冊子を書くのに過ごした。同時に,彼は多くのヨーロッパの政治家と交流を持ったが,彼らに自分の経済理論を実行に移す試みには何回となく失敗した。同じことは生まれ故郷でもいえた。スコットランド議会は彼の国立銀行設立の計画を拒絶した。
しかし,ルイ14世が亡くなると,ローはフランス摂政から,壊滅的な公的負債の負担を減らし,フランスの貿易,産業を刺激することを約束する計画に対して,支援を取り付けた。ローの国立銀行の提案は拒否されたが,1716年3月,彼はその後フランスで設立されることになる銀行の一つである,自分の私立銀行General Bankの設立の許可を受けた。このようにしてローは特に有利な状況下で紙幣に関する暖めていた計画を試すことができた。当時フランス政府は頻繁に貨幣の含む希少金属の量を減らして価値を変えていた。ローは自分の銀行紙幣を発行した日と同じ基準,重さの通貨に払い戻しができるようにした。General Bankの評判は政府が税金の支払いにローの銀行券を受け入れるのに同意した1717年に高まった。ローの紙幣は金や銀の硬貨より人気があったため,彼は自由に低利率でお金を貸し出し,その結果,フランスのあらゆる産業が刺激された。
不運なことに自分の賭博癖と摂政が自分の贅沢な生活のための資金提供の圧力を受けたため,このスコットランド人は少なくとも1歩進みすぎなければならなかった。ローは紙幣を発行し,投資を促すだけでなく全ての国の貿易を制御する銀行が欲しかった。従って彼は北米,ミシシッピー川流域の土地を開発する計画を思いついた。1717年,彼は新しいミシシッピー公社の株を発行しはじめた。彼の代理人はルイジアナで得られる富について楽観的な報告を保繰り返した。当時はそこは沼地に毛が生えた程度だったが。政府の後ろ盾を得て,彼は会社を銀行と合併させ,たばこと奴隷貿易の独占を獲得した。後にローの会社は東インド,中国,それにアフリカ会社を引き継いだ。このようにして,フランスのヨーロッパ以外の貿易の全てが彼に手に落ちた。
さらに,ローはフランスの税金を集め,金,銀貨の製造権を得た。1719年の春までに,ローの計画は大変うまくいったので,彼はフランス政府のフランス財務総監に任命された。同時にローは国家の地位を得て,王立銀行と命名された銀行での,株を発行する権利を与えられた。株券は急激に上昇し,最初の販売価格の3600%以上になった。騰貴は追加株券を買うための銀行ローンが容易なことで加速され,先物買いによって,価格はさらに上昇した。1719年秋には,銀行は国の全負債を引き受けたが,それは巨額の紙幣を印刷しなければならないことを意味した。
その時までには,ミシシッピーバブルははじける寸前であった。抜け目のない投資家たちは市場から静かに手を引きはじめ,巨額の利益を得た。1720年初頭,価格は下がり始め,人々は多量に株を捨て始めた。ローは株を決まった価格にするように買い戻さなければならなかったので,彼はあふれんばかりの紙幣の印刷を余儀なくされた。5月には王立銀行への取り付けによって,当局は国の金,銀の量は流通している紙幣の総額の半分しか価値がないと認めなければならなかった。まもなく支える株と紙幣は無価値に等しかった。政府はまず金,銀の囲い込みを防ごうとし,それから銀行券と株式証書の価値の切り下げを試みたが,それは手遅れだった。ミシシッピーバブルは1720年,10月にはじけ,ローの全金融システムは崩壊した。多くの投資家は全てを失い,摂政の率いる政府は長い危機に陥った。ロー自身は国から逃げ出すことになり,10年後貧困の内にベニスで亡くなった。
最も重要なことは,目がくらむような騰貴によって,紙の通貨と国立銀行に対して,長期にわたる不信感を招いたことだ。しかし,ローの金融計画は短期的な結果としては大失敗だったが,彼の通貨理論を養護する現代経済学者が現れ,彼らは18世紀の最初の20年がたたないうちに,ローは近代銀行と証券制度の多くを導入したのだ気づいていた。もしローがミシシッピーバブルを引き起こさず,彼がGeneral Bankの着実な発展だけに注力したら,産業革命は18世紀半ばまでにフランスで起きていただろうと主張する人もいる。その場合,フランス革命は回避でき,今日英語でなくフランス語を学んでいた可能性が大きかっただろう。
不遇の財政家,ジョン・ローの生涯と功績
紙幣と中央銀行の可能性に着目した18世紀のスコットランド人ジョン・ローはフランスで銀行,貿易,国家財政を統合するシステムを作ったが,騰貴の対象となり破綻した。成功したら歴史は変わっていたかもしれない。
突然,イギリスのほとんど全員が携帯電話をもっている。しかし,これは新しい,慣れない技術なので,こうした電話がいつ,どのように,どんな形で使われるべきか,というきまった礼儀作法がない。私たちは使いながらこうした決まりを作らなければならない。これは観察するには大変魅力的な過程であり,社会科学者にとっては,大変わくわくするものでもある。というのも新しい暗黙の社会的ルールが形成されるのを研究する機会はそれほど多くはないからだ。
たとえば,ほとんどのイギリス人は,聞かれれば,乗車中に仕事や家庭のことで大きな声で話すのはぶしつけで思慮がないことに賛成する。しかし,かなりの少数派が依然としてこのようにしており,一緒に乗っている乗客はため息をついたり,目を回したりするが,このルール違反者に直接挑む人は滅多にいない。というのもそうすると,別の,浸透しているイギリスの見知らぬ人に話しかけたり,騒ぎを起こしたり,自分に注意をむけさせるといったことに関する決まりと禁止を破ることになるからだ。この話題については公衆で議論されているが,決まりを破っている人は,自分たちが見られていないことはない,ということを忘れて,車の中で,鼻をほじくったり,脇の下をかいたりするのと同じように,自分たちの行動の影響について気づいていないように思われる。
この問題はどうやって解決されるだろうか。公共の場での携帯電話使用に関するルールが現れる予兆がある。そして,「今,電車に乗っているんだ」という大声の会話,あるいは劇場や映画館で電話が鳴ることは最終的には,「列の割り込み」と同じくらい受け入れられなくなるかもしれないが,まだ,確信は持てない。特に違反者と対立を事をしないというイギリスの禁止を考えると。電車や他の公共の場での不適切な携帯電話の使用は少なくとも,現在みんなが意識している社会的な問題だ。しかし,もっと曖昧で,議論が分かれる携帯電話のエチケットに関する側面がある。
たとえば,商談中の携帯電話の使用についての礼儀作法では合意はない。あなたは商談の前にそっと電話のスイッチを切りますか。あるいは,「あなたがどんなに大切か見てください。私はあなたのために電話のスイッチを切っているんです」という相手を喜ばせるメッセージを伝えるものとして,電話を取り出して,あからさまに電話を切るだろうか。それから,あなたの礼儀とあなたの顧客あるいは同僚の地位を思い起こさせるものとしてスイッチを切った電話をテーブルの上の置くだろうか。電話のスイッチを入れたままにしておくなら,あからさまにそうするだろうか,あるいはブリーフケースに入れたままにしておくだろうか。あなたは会議中に電話をうけますか。私の予備的な観察によれば,下級の英国重役は礼儀に欠ける傾向があり,会議中電話を切らず,呼び出しに応じ,自分自身の重要性を吹聴する傾向があり,一方,何も証明する必要もないより地位の高い重役はより思慮深い傾向がある。
では,昼食はどうだろうか。ビジネスランチ中に電話のスイッチを入れるのは受け入れられるだろうか。理由を言う必要があるだろうか。謝るだろうか。ここでまた,私の最初の観察とインタビューによれば,同様な傾向が示される。地位が低く,不安定な人々はビジネスランチ中に電話を受けたり,また時に電話をすることもある。しばしば謝って理由を言うが,それは,「謝罪」は本当は形を変えた自慢である「私は大変忙しく,なくてはならない人物だ」式のやり方でだ。より地位が高かったり,安定している同僚は電話は切ったままにしておくか,何らかの理由で電話を入れた状態にしておかなければならない場合は,こころから,しばしば決まり悪い思いをして謝る。
さらに多くの,そしてずっと些細な携帯電話の社交の場での使用がある。その中にはまったく電話で話すことに関係ないこともある。たとえば,ステータスシンボルとして携帯電話自身を競争して使うとか。これは特に若者のあいだであるが,また,場合によってはより年上の男性間では「私のはあなたのよりいいですよ」ということを示す手段として車に取って代わっている場合もある。それは昔からある異なった車のスピードやデザインについての会話にとってかわって,ちがったブランド,ネットワーク,特徴について相対的な長所についての会話となっている。
私はまた女性たちが,以前は新聞や雑誌を使って,近づかないで,というサインをだし,個人的な「縄張り」の印にする代わりに,喫茶店や他の公の場で一人だけでいる時に,「境界線信号」として携帯を使っていることにも注目している。使っていない時でも,テーブルに置かれた携帯は効果的な象徴的なボディーガード,望まない社交的な接触から身を守るものとして機能してる。女性は「ちん入者」になりそうな人が近づくと,電話に触ったり,電話を取り上げたりする。ある女性は説明した。「テーブルの上や自分の手の横にあると安心なの。実際,新聞よりはいいです。それは本当の人だから。電話の中には本当の人がいて,したかったら,呼び出したり,メールを送れるから。安心するわ友だちや家族の社会的なネットワークが携帯電話の「中に」なんらかの形で存在する,という考えは電話を触ったり,持つだけで守られている感じることができ,他人には私はひとりぼっちで,弱い存在ではない,という信号を送っている。
携帯使用の観察は礼儀がどのように形成されるか観察する絶好の機会だ。公共の場で,携帯を利用していても人前でのもめ事を嫌うイギリス人は注意しない。一般的には電車内などでの携帯使用はマナー違反になりそうだ。会議中に携帯使用をする人は地位の低い人の傾向がある。より非公式の場でも傾向は同じで,携帯をかける人は,そのことで,自分の重要性をひけらかせているようだ。
携帯は話すためでなく,ステータスシンボルになったり,自動車に変わる若者の話題になっている。
人にじゃまされたくないために,携帯を使う女性もいる。
携帯電話に関する社会的規則
携帯電話の社会的規則が形成されている。車内での使用はマナー違反になりそうだが,会議での使用は不透明。地位が低い人ほど使用する傾向がある。携帯は若者のステータスシンボルや一人の女性を守る役割もしている。
スコットランド人ジョン・ローは現在の金融システムの原形となる紙幣,銀行のシステムを提案,産業革命前夜,フランスで実行に移した。ローのシステムは紙幣の乱発で破綻したが,その先見性は評価されるべきだ。
先駆的財政家,ジョン・ローの生涯と功績
英国での携帯電話をめぐる社会的ルール
携帯電話のマナーが確立しつつある。電車内ではマナー違反になりそうだが,ビジネスの場面では未確定。携帯使用と地位には関係がありそうだ。若者や独身女性は携帯電話に対して新たな価値,用途を見いだしている。
成し遂げたという自己へのプライドは違う,自分の仕事に対する,自分がしている事への1種のプライドがある。それはソクラテスを非難するアテネ人の前で彼が示したような種類のプライドだ。ソクラテスは貴族的なプライドはみじんも示さなかった。彼は自由に政治家,労働者そして奴隷と誰にでも話しかけるだろう。彼は自分自身にプライドを持つこともなかった。自分のことを「偉大な人物」だと思うこともなかった。彼が思いとどまるように求められる時,彼はそうすることを拒絶した。たとえ死を目の前にしても。ソクラテスにとって大切なのは,自分自身ではなく,仕事であった。このことを私たちは「古典的」態度として適切に考えているだろう。
「古典的な」プライド,技量に対するプライドは文明のまさに要諦である。しばしば,おそらく,それは客観的には正しいとはされていない。人は自分のしていることに誇りを持つかもしれない。自分たちのしていることが本質的には価値がない時,全ての障害に対峙して辛抱強く続けていく。もし「謙遜」が批判から学ぼうとする能力にほかならないのなら,それには間違いなく価値がある。しかし,もし「謙遜」が権力に自ら屈する,自分がしていることを単に聖書の教えに合わないとか,毛主席の考えに合わないというだけで,捨てたり,変更するということだとすれば,それは精神の死である。実際,それに対する適切な名前は「奴隷根性」だ。不可解な完成できるという考えが技量へのプライドを破壊し,人に人間の仕事はそれ自体は価値がないのだと確信させようとする限り,それによって著しく非人間的になる。
自分の仕事に対するプライドはそれとともにその仕事が課す要求を受け入れる決意をもたらす。哲学の場合は,議論が行き着く先まで議論を追うこと。歴史の場合には,実際に起きたことを発見すること。文学の場合は,あるテーマをその深層まで探ることだ。要するにこの種のプライドは自由を要求する。自由はいかなる権力国家でも下位に置かれなければならない。このような制度では,歴史家は過去に対する公的な解釈に従わなければならない。哲学者は教義に,作家は人間の行動の固定観念に,職人は「納期」に。より巧妙なところでは消費社会でプライドを下位に置く試みがなされている。映画監督,小説家,職人は技量に対するプライドを犠牲にして「もうかるもの」を作るように求められる。全てが代わりがある使い捨て社会の理想である「計画的廃用化」ほど職人気質に対するプライドに反対するものはないだろう。実際,作家が片目を常に「市場」に置いている社会よりも,作家が出版される希望もなく書いている権力社会からよりよい小説が登場するかもしれない。しかしながら,長い目で見ると,社会の質は主に社会が職人気質に対するプライドを奨励し,促進する度合いによって決定されるだろう。そのプライドが軽視される社会は安っぽい,中古の社会となるだろう。
自分のしていることに対する誇りを「古典的誇り」という。これは文明の本質である。謙虚さが他から学ぼうとする態度であれば,いいが,外圧によって自分の信念を曲げて仕事をすることがあれば,それは精神の死だ。それは奴隷根性だ。仕事に誇りがあれば,それにともなう義務が伴う。これを可能にするためには社会の自由が必要だ。
自分自身や業績に対してではなく自分の仕事に対するプライドが分明では大切だ。自分のしていることに誇りを持てずに外圧に屈すれば,それは辱めだ。仕事に誇りがあれば,それに答えるべき課題も生まれる。課題を達成するには自由が必要だが,独裁国家ではしばしば自由が束縛され,独裁国家の要求に屈する。消費社会では利益が優先され,仕事そのものを大切にしないことがある。仕事への誇りをもつことを奨励することが
個人の技量に対する誇りと社会
自分の仕事に誇りを持つことが文明社会の要諦だが,独裁国家では権力が,消費社会では市場が仕事の質をおとしめている。社会は個人が自分の技量に誇りを持ち,追求できるような自由を保障する必要がある。
人類の文化は歴史,遺伝的特徴,物理的な環境や情報環境を含む様々な要因に影響を受けている。こうした要因の一つである情報環境はデジタル技術によって大きく変化している。情報の伝播を宣言することによって人類の文化を分離してきた歴史的障壁が壊れつつある。もちろん,フィンランドはパナマに比べて寒いままだが,こうした両国の市民が利用できる情報はますます同質なものになりつつある。地球規模のネットワーク上では,コミュニティーが切手収集,核エネルギー,女性の権利といった話題に興味をある人たちを形成し,こうしたコミュニティーは国境からは独立している。
グーテンベルクの印刷技術は発達の可能性のある発明であった。なぜならこの発明によって,本の出版者が多数の読者に情報を伝えること,すなわち「1対多」のコミュニケーションの形態が可能になったからだ。デジタルネットワーク上の「多対多」のコミュニケーションの到来は印刷技術の発展に劣らず人類史上における分岐点となる出来事である。
デジタルの世界では,みんな地球規模の市場に,販売者と購入者の両方の立場で参入できる。みんなが情報,商品,サービスを要求することができ,こうした要求を多くの人たちに伝えることができる。みんなが相互に接続されたコンピュータの「世界図書館」にアクセスでき,他の人が見られるように図書館に題材を寄付することもできる。デジタル技術によって人々は自分たちだけの私的な「現実」に閉じこもるのが難しくなっている。意見や優先事項は違うかもしれない,そして,世界の図書館は確かに不正確で,誤解を招き,人を傷つけるたくさんの題材を確かに含んでいるだろう。政府や他の機関は世界図書館の内容を制御し,人々の利用を制限しようとするだろう。しかし,10年の長さの単位では,全体的な傾向は情報の流れの障壁が減り,人々が自分たちが一番有益だと思う考えを見つけ出せる自由な世界市場へと向かうだろう。
デジタル市場は世界的な能力社会を生み出すことによって,地球規模の生活水準に一様な影響を与える傾向にあるだろう。たとえば,時間の経過によって,インドのコンピュータ・プログラマとカリフォルニアの資格を持ったコンピュータープログラマーの収入レベルは,1点に収束していくだろう。なぜならデジタルによる情報はある場所から他へと大変速く,安価に流れることが可能だからだ。いたるところに存在するデジタル情報によって教育はより世界的に利用できるようになり,世界中の個人自分の技術や野望に応じて世界経済に参加することが可能になる。こうした変化は既成の政治,経済団体によって遅らされ,人の一生の尺度ではゆっくりと起きるかもしれない。しかし,宇宙史的な見通しで計れば,それらは大変速く起きるだろう。
デジタル技術がもたらす情報環境の大変革
人類の文化に多大な影響を与える情報環境は,印刷技術の発明以来の大きな変化をデジタル技術によって遂げている。多対多の情報が国境を越え伝わり,情報格差は減少している。今後大きな変化がもたらされるだろう。(99字)
アメリカ合衆国のアジア系アメリカン人のグループは,類型化を経験している。これは肯定的であるが,コミュニケーションを妨げている。アジア系アメリカ人という用語はアメリカ合衆国で共通の歴史と苦労を共有したという信念からアジア系の全ての人々を指すために作り出された。そして1970年代までは,アジア系アメリカ人はアメリカ合衆国で主に生まれていた。1955年の移民,国籍修正法がそれぞれの国に割り当てられた移民総数を決める古い政策を放棄し,アメリカに住む血縁者を優遇する新しい制度が確立された。その変化によって1981年から1989年のアジアからの移民が多数にのぼった。アジア人が大挙してアメリカへ移民してきた。こうした移民は中国,フィルピン,日本,インド,韓国,ベトナムといったアジアの多くの国から来たが,アジア系アメリカンという言葉が引き続き使われたので,約800万のアジア系の人々を単一の社会とする固定概念が持たれたままだった。
1960年代の公民権運動時代に,「アジア系アメリカ人」が勤労,忍耐,寡黙な禁欲的態度,強い家族の絆そして教育への強い支援を通して成功を達成した「模範的な少数派民族」という固定概念と結びついた。こうした固定概念がどんな集団でも,その成員が「十分一生懸命働けば」,アメリカン・ドリームを達成できるという信念を継続させているように思われる。そして,この固定概念はマスメディアでも継続している。全てのグループの中でアジア系アメリカ人が出版界では勤勉で知的,積極的で礼儀正しく,強い価値観を持ち,学校や事業,科学技術で成功している人として描かれる。
この固定概念はアジア系アメリカ人の学生は白人学生より数学テストの点がはるかに高く,アジア系アメリカ人でアメリカの科学者の割合は全人口のアジア系アメリカ人の比率の2倍から3倍だというニュース報道で強化される。
全ての背景を持つアジア系アメリカ人の学生は先生たちがしばしば数学と理科をとるように勧めると不平を言う。先生の中には意味が言葉の問題で苦労する必要がないようにそうしているのだと答える人もいる。アジア系アメリカ人は先生の中には英語が流ちょうな人々に対してまで続ける人がいて,先生がこうするのは彼らがアジア人を自由な志向ができず,外向的ではないと認識しているためだと主張する。「模範的な少数派民族」という固定概念は狭く,限定されすぎだ。アジア系アメリカ人のごくわすかな人たちが芸術,舞台,あるいは経営分野といった創造的な分野へ進むことを奨励されている。
固定観念化によるマイナスの影響
アジア系アメリカ人には60年代に作られた勤勉と忍耐で成功を勝ち取った「模範的で」優秀な少数派民族という肯定的イメージがつきまとっている。このイメージのために,進路が限定されるアジア系の学生もいる。(98字)
1992年,沖縄県名護市の遊園地が新鮮なパイナップルからジュースを作る製造工場の操業を始めた。この飲み物は遊園地の来客に大変人気を博し,営業的も大成功だった。しかし,生産されるジュースの量が来客の需要を満たすために増大するにつれて,パイナップルの皮のゴミが増えた。数年のうちに,パイナップルのあまった皮は年間100トンに達し,公園経営者はどうやってそれを廃棄するのか途方にくれた。
それから,2002年の夏,公園の社長が,東京での菓子製造機のフェアに出席中,炭製造機を示すブースに出会った。それは様々な生産物から炭を作ることができるいくつかの機械を展示していた。園の増大するゴミ問題を思い出して,社長はパイナップルの皮も炭に製造できるのかブースの営業員に聞いてみた。しばらくその問題について話し合った後,ブースの営業員はパイナップルの皮も炭にできると確信した。
この後すぐに園はパイナップルの皮から炭を作るための必要な機械を購入した。機械は600キロのパイナップルの皮から18キロの炭を作り出すことができる。これをするためには,パイナップルの皮は摂氏600度で14時間熱し,それから12時間冷ます。パイナップルの皮は90%が水なので,焼くことで,大きさは元の半分,重さは97%減る。
できた炭は空気清浄機としての効果を試験した時,パイナップルの皮でできた炭は木や竹からできた炭より大気中の多くの有害物質をずっと多量に吸収できることがわかった。炭はまた悪臭を取り除き,空気中の湿気をとるのにも大変有効である。
現在,公園はパイナップル栽培のために3.3ヘクタール所有している。公園はジュースに加えて,乾燥パイナップル,スポンジケーキといったパイナップル製品の隣に土産物店でいわゆる「パイン・タン」(パイン炭)を展示している。現在,空気クリーナー,フレッシュナー,ボディシャンプーを含む,パイン炭を主原料とする10種類の製品を売っている。また,840円パイン炭を缶詰にした冗談商品まである。それはスーパー売られている缶詰のパイナップルに大変似ている。それが開けられると,焦げたパイナップルのようなおもちゃがカンから飛び出る。この製品が冗談だとわかるのは,人々にこれは食べ物ではない,と伝えるラベルの注意書きだけだ。こうした商品の人気が大変でてきたので,月間売り上げは400万円を現在超えている。
パイン炭は公園にとって良いばかりではなく,地元の農家にとってもよい。新鮮なパイナップルは地元の主な産物である。しかし,地域の販売は安い輸入品との厳しい競争のために低下している。この新しい製法によって公園は地元の農家からパイナップルを購入することができる。値段がより高く,パイナップルが国内市場の水準に達していなくても。園の職員はパイン炭を農地の改善を含む他の用途に使うことを期待し,同時に天然製品と地域資源のリサイクルをしている。
パイナップルの再利用が地元に貢献
名護市のパイナップル園はジュースの販売と同時に,無駄となった皮から炭を作り出し,それを主原料とするいくつも製品を販売している。農作物を再利用するパイナップル炭は園だけでなく,地元農家も助けている。
40年前,チョーリーウッドの「短時間パン生地」パン法が考案された。目的は安いパンを大変速く,大量に製造することだった。この行程はパン焼きを台所や小さなパン工場から取り出して,工場へと持ち込んだ。それはパン焼きを手作り技術から工業行程に変えた。
伝統的ないつものパン焼き行程では,麦は必要なだけ挽かれ,澱粉細胞のほとんどは破壊されない程度である。このあと,天然イーストと水が小麦粉と混ぜられ,パン生地は12時間から16時間膨らむまで放置される。この時間の間,ほとんどイースト菌が発酵する。それからパン生地は手で練って,再びイースト菌が十分に発酵するように少なくとも50分は放置される。最後にパン生地はパンに焼かれる。
チョーリーウッド製パン法では,麦は通常のひき方よりはるかに徹底的に挽かれる。このため澱粉細胞のより多くが破壊され,そのため小麦粉はより多くの水を含むことが可能になる。また,伝統的なパン焼きに必要な量よりずっと多くイースト菌が,酵素に加えて,使われる。これはパン生地が膨らむにかかる時間を減らすためだ。材料を機械で混ぜた後,最初のパン生地のふくらみには4分かかる。2回目の機械的な混ぜ合わせ,これは通常の手でこねるかわりであるが,2番目のふくらみに50分かかる。パン焼きが始まる時にはイースト菌のごくわづかしか十分に発酵していない。
チョーリーウッド製パン法のもうひとつの結果は栽培される,その結果としての食べられる麦の種類の数が少なくとも先進国内では,きわめて少数になったことだ。1800年代と1900年代初頭には何百という種類の小麦が栽培されていた。しかし,チョーリーウッド製パン法での機械的な混合に使うため,小麦はタンパク質を多く含まなければならない。このことによりパン生地はより硬く,強くなる。このことは機械的な混合には必要なことだ。タンパク質を多く含む種類のうち3種が現在小麦粉市場を支配している。
一つの結果はこの数十年間の内に,パンアレルギーを起こす人の数が大幅に増加していることだ。これ以前には,小麦に対する不耐性といったものはまれであった。現在,パンを食べるとアレルギー反応を起こす子どもが日本にもたくさんいる。なぜ,このようなことがありうるのだろうか。たいてい,このような食べ物に対する不耐性は小さな子どもが体が十分に消化できないくらい小さい時にある食べ物を食べ過ぎると引き起こされる。そして,もう少し大きくなると,それに対してアレルギーになる。しかし,日本の子どもたちは他の多くの産業国家に比べると,パンや他の小麦製品をほとんど食べない。では,なぜパンアレルギーになるのだろうか。
日本では,ほとんど全てのパンはチョーリーウッド製パン法を使って作られ,ほとんどの人々はこの製法によって製造されたパンしか食べない。伝統的な製法のパンもチョーリーウッド製パン法のパンも同じに見えるが,後者はイースト菌が適切に発酵しておらず,小麦粉はタンパク質をより多く含んでいる。また,パン生地はより多くの砂糖を含む傾向にあり,パンはより柔らかい。そのためかむ必要が少ない。こうした理由で,チョーリーウッド製パン法で作られたパンは消化が難しく,人々,特に子どもたちに旧式の方法で焼かれたパンよりも不耐性を引き起こす可能性がある。実際,小麦粉不耐性を経験する人々が,伝統的な方法で適切に作られたパンを食べると,それに対するアレルギー反応はない。
パンの大量生産を目的に考案されたチョーリーウッド製パン法は,時間をかけて焼き上げる伝統的製法に比べ,高タンパク質のパン生地を不十分な発酵で焼く。このためパンアレルギー増加の原因と考えられている。
1991年西ヨーロッパの人たちは、まだ目の十分に覚めていないドナウ川沿い小さな町ブコバルに爆弾が雨のように落とされ,「アドリア海の宝石」ドブロブニクや世界遺産から煙が立ち上る映像を見て震撼した。1991年から1999年までに,旧ユーゴスラビアの国々は戦争にさらされた。この戦争中に言葉が生まれた。ボスニア・ヘルテェゴビナのモスタルやサラエボといった都市への爆撃を指す「都市攻撃」,モスク,教会,記録保管所,図書館,学校などの運命を指し示す「文化的浄化」「文化大虐殺」だ。こうした言葉はある意味ではプロパンガンダ戦争であったことは避けられないことだが,それはあまりにもクロアチア,ボスニア,やヘルツゴビナ,さらに最近ではコソボの新しい光景を映し出している。
戦時中に文化遺産を意図的に破壊することは歴史的に珍しいことではない。時には破壊は利益を得るための略奪であった。また,ある時は敵を全滅するための権利として広く認識された一部であった。第1次世界大戦中,教会と古い町の中心は軍事的必要性から瓦礫と化した。第2次世界大戦中はドイツの大きな都市の中心部が英国連邦空軍による戦略的な「地域爆撃」の一部として姿を消した。
旧ユーゴスラビアの場合は,純粋に軍事的な理由で破壊された遺産地域は極めて数が少ない。歴史を振り返ると神聖な建物はバルカン地域でたびたび破壊されてきている。19世紀には征服したハプスブルク軍とカトリック教会はいくつかのモスクを教会に変え,残りを破壊した。より最近では,第2次世界大戦中,セルビア聖教会の大量破壊がクロアチアのファシスト集団ウスタシャによるクロアチアとボスニア・ヘルツゴビナ一部で行われた。東スラボニアとクライナ地方の廃墟はこの時代を鮮明にはっきりと思い起こさせるものとして立っている。
しかし,より最近の出来事は際だって異なった性質を有している。私たちは外国軍が領土に侵入し,それに続いて全てのものを片づけているのを言っているのではない。私たちはある程度まとまっていたが,崩壊の過程にある古い社会の存在の中にいる。クロアチアのクライナに住むセルビア人は1991年にはそこに初めて来た人々ではなかった。クロアチア人,ムスリム,セルビア人は16世紀からずっとボスニア・ヘルツゴビアに共に暮らしてきている。そしてより最近の20世紀には都市や町での人種間を超えた婚姻が社会の布を織り込むのに重要な役割を果たした。田舎では,人々は人種によってしばしば住みついているので,状況は違った。従って戦争中,ムスリム,クロアチア人,セルビア人,あるいはコソボのアルバニア人が村から追い出され,彼らのモスクと教会が爆弾を仕掛けられたり,焼き払われる一方で,その地域から排除されたのは他者,よそ者だった。
ボスニア・ヘルツゴビアの都市や町では,破壊は異なった意味を持っていた。サラエボやモスタルでユダヤ教の礼拝堂,キリスト教の教会やモスクは互いに100メートルしか離れていない,と聞くのは普通だった。このことは実際には本当ではなかったかもしれないが,人々の心の中では,そうだった。都市は偉大な宗教基盤を享受し,オスマントルコ帝国の最高の神聖な遺産の本拠地であった。調和の感覚が共通に場所につき,空間を共有することで育った。宗教的な伝統が共存することで,人々に神聖な遺産を共通に所有しているという感覚ができた。セルビア人,ムスリム,クロアチア人はサラエボ国立,大学図書館といった非宗教的な建物に等しく誇りを持っていた。
こうしたこと全てが戦争によって変わった。私たちは破壊を野蛮だと思うが,加害者からの目では創造の行為として見られる。クロアチアとボスニア・ヘルツゴビアの田舎では,望まぬ他者の象徴,地平線からミナレットや教会の尖塔が排除され,架空の田舎社会の創造,あるいは解放であった。しかし,ボスニア・ヘルツゴビアの都市では共通の市民のアイデンティティは破壊され,それとともに人々のうちにある「他者」も破壊された。世俗的な遺産や神聖な遺産は民族化した。戦前は,モスタルの誰も古い橋が「ムスリム」の祈念碑だと言わなかっただろう。クロアチアの戦車による破壊がムスリムの祈念碑にした。ボスニア・ヘルツゴビアでは,戦後都市の貧困化はおどろくべきものがあるが,それは単に他の民族集団がほぼいなくなったとか偉大な神聖な建物がなくなったという理由だけではない。残っている建物が,たとえ完全でも,単なる他の時代からの亡霊だ。「他者」が人々の中でも,通りにでていても,あらゆるレベルで排除されている。
この文脈では,文化遺産の復興,再建は政治的で全く軋轢を生むような様相を持ちうる。それは共通に持っていたものを再建する,という問題ではなく,「昔私たちのものであったもの」だけを再建するという問題だ。再建の技術的な問題は遺産の「非民族化」の問題に比べたらどうということはない。そして,どのようにバルカン社会がこの問題を克服できるのか想像することは難しい。かつて共通にもたれていた風景を復興する唯一の希望は犯罪を犯した民族あるいは国家の集団がその目的に関わるかどうかにかかっている。
私たちは全員痛みを感じる。私たちは指を切ったことがある。やけどをしたことがある。あるいは頭痛になったことがある。滅多に痛みを感じない人もいるし,いつでも痛みに襲われる人もいる。なぜ痛みは様々な形でくるのだろうか。それをとめるいろいろな方法とは何か。科学者は痛みについて何を発見し,医師たちは痛みと闘うためにどのように手助けをしているだろうか。
フランス人医師でノーベル賞受賞者である,アルバート・シュヴァイツアーはかつて,「痛みは死そのものよりもひどい人類の霊長である」といった。これは私たちが苦痛を感じることができるからだ。
苦痛は私たちの体と心を完全に支配下において,動くことや,考えることさえ不可能にさせることができる。にもかかわらず私たちには苦痛が必要だ。それがなかったら,私たちは自分自身を気づけているかどうかわからないだろう。痛みは私たちの体の警報システムである。痛みは私たちに私たちが怪我をして,それに対して何かしなければならないと教えてくれる。
痛みは私たちが医師や,他の治療師の所へ行く最も一般的な理由だ。私たちが薬を飲む最も一般的な理由だ。しかしつい最近まで,ほとんどの医師たちは痛みを止めるごくわづかな薬しか知らなかった。医師たちは痛みの進行についてほとんど知らなかった。しかし,痛みの進行に関する新しい知識によって痛みをよりよく制御するしかたを学ぶのを助けている。
どうやって私たちは痛みを感じるのだろうか。たとえば何か思い物が足の上に落ちた時何が起きるのだろうか。
科学者たちは痛みの感覚は化学信号と電気信号の両方から成り立っていることがわかっている。こうした信号は傷ついた区域の神経細胞から脊髄を通って脳に伝えられ,再び戻ってくる。科学者たちはまた神経組織は2種類の異なった痛みの伝達を脳に送る,一つは大変速く,もう一方はゆっくりしたメッセージを。
最初のメッセージは警報信号だ。秒速30メートルの速度で移動する。1秒以内に,脳は体の一部が傷つき,どのくらいの怪我か理解する。
もう一方のメッセージは秒速わづか1メートルの速度で移動する。これは治癒の第一段階だ。大変強力な物質がこの過程で重要な働きをする。それはプロスタグランジンと呼ばれる。プロスタグランジンは必要な時にほとんど全ての種類の体内細胞で作り出される。これらは多くの反応に関わっている。たとえば,科学者たちはプロスタグランジンは血圧を下げたり,上げたりする。それはまた熱を引き起こす。
私たちは傷つくと,傷ついた組織がアラキド酸と呼ばれる化学物質を作り出す。この酸がプロスタグランジンに変わる。プロスタグランジンは組織が赤く腫れ上がるようにする。そして,それは2番目のよりゆっくりとした痛みのメッセージを脳に送る。このメッセージは私たちに負傷した部分が癒えるまで使わないように命令する。
科学者たちは現在では薬が負傷した箇所で直接痛まないようにすることを知っている。その薬はアラキドン酸がプロスタグランジンに変化するのを防ぐことで痛みを抑えている。プロスタグランジンがなければ,痛い腫れもゆっくりとした痛みのメッセージもない。こうした鎮痛剤の最も一般的なものが長年にわたって使われている。それがアスピリンだ。他の薬は痛みを減じるが,腫れをなくすことはない。従って科学者たちはその薬は負傷した箇所に直接働く代わりに体の他の部分に作用しているのだと信じている。
速い痛みのメッセージとゆっくりとした痛みメッセージは体の分かれた神経を伝わる。しかし,両方とも後角と呼ばれる脊髄の部分を通過しなければならない。角は負傷した箇所からの電気信号を脳が理解できる化学物質に変える。脳がこうした信号を受け取ると,脳はいくつかの特殊な物質を作り出す。こうしたものの2つがエンドルフィンとエンケファリンだ。
エンドルフィンとエンケファリンは自然の鎮痛剤だ。それらの一部は直接脳で働く。それらはちょうど鍵が鍵穴にぴたりとはまるように信号を受け取る神経細胞にぴたりとはいることで,痛みの信号をさえぎる。ケシから作られた鎮痛剤は同じように神経細胞に働きかける。他の脳の化学物質と同様にエンドルフィンとエンケファリンは脊髄をくだって後角まで戻る物もある。それらはそこでまた痛みのメッセージを遮る。
想像できるように,後角は同時に大変多くの痛みや痛みを消すメッセージが通過しようとすると大変混雑した場所になる。ますます多くの科学者たちは私たちの神経組織は限られた数の神経信号しか処理できないと信じるようになっている。そして,このことがひょっとしたら,事実,体が痛みと闘うもう一つの方法かもしれない,という。
たとえば,もし私たちが足を痛めれば,私たちは手を伸ばしてそれをさするかもしれない。それは何も考えずにやっているように思える。しかし,脳が手の筋肉に信号を送るまでは実際には動くことはできない。こうした信号が足から脳へと移動する痛みの信号と競争する。まだ完全には理解されていない方法で,神経組織は一つのグループの信号だけを認識する。もし神経組織が手へのメッセージを認識すれば,痛みのメッセージは遮られるだろう。そして,私たちの感じる痛みは減る。
科学者たちは神経組織に関するこの考えは人々が怪我をしている時に,信じられないようなことをどのようにできるのか説明するのに役立つかもしれないという。もしある人が大変怖かったり,興奮していると,たとえば,神経組織は痛みを作り出す信号の代わりにこうした感情を作り出す信号を認識するかもしれない。私たちは皆,ひどく負傷した兵士が戦いを続けたり,怪我をした運動選手が試合を続けたりすることを聞いたことがあるだろう。
科学者たちが痛みのプロセスをより学習するにつれて,医師たちは痛みの治療を改善することができる。
私たちの多くは時々しか痛みを味わわない。私たちはプロスタグランジンの生産を防ぐ薬で痛みを軽減できる。アスピリンのような薬で。しかし,何百万という人たちが常に痛みに苦しんでいる。
彼らの痛みは神経の圧迫,関節炎あるいは癌によって引き起こされるかもしれない。時には痛みを医学的には説明できないかもしれない。それでも痛みは感じる。彼らにとって,簡単な薬が脳にいく痛みの信号を遮ることはできない。彼らはより強力なより長続きする治療が必要だ。治療のほとんどは体自身の痛み止めの物質を生み出す神経細胞を起こそうとしている。
痛みは体への警報だ。痛みは2種類の信号によって脳に伝えられる。一つは怪我の状況を伝え,もう一つは痛みの箇所でできたプロスタグランジンが伝える痛みのメッセージだ。プロスタグランジンができなければ痛みもない。そのような働きをする薬がアスピリンだ。痛みの信号は後角という部分を通過するが,その信号が脳に伝わると自然の鎮痛剤が作り出される。これらは脳に直接働き痛みを軽減する。後角は様々な信号を処理しなければならないので,痛みの信号を全て伝えられるわけではない。痛み以外の信号があれば,痛みは軽減される可能性がある。
大変眠くなり始めた時には寝た方がいい。なぜなら休息を不当に扱うと健康を失いかねないからだ。睡眠をなくすることで支払わなければならない代償があることを知るのに科学者も研究も必要ない。昼食後元気がなくなったり,単に気分が悪くなったりする。親たちが「睡眠が必要だから,寝るのよ」といってあなたをベッドに追いやったことを思い出しなさい。両親は自分たちが知る以上に正しかったのだ。
研究では規則的な十分な睡眠は正しい食事と運動にならんで必要不可欠なものの一つであると示唆されている。最近の実験によれば,睡眠を軽視すると,人間の免疫システムが感染症に対する抗体の生産が減少し,病気にかかりやすくなることがわかっている。シカゴ大学の研究者たちは6日間連続で夜4時間眠るボランティアを研究した。彼らはホルモン,代謝が乱れることを発見した。結論は「慢性的な睡眠の損失は糖尿病,高血圧,肥満の発症をはやめ,深刻さを増す」ということだ。別の研究では睡眠不足と心臓発作の危険性が関連づけられた。
また脳にも益がある。カナダでは,研究者たちは「複雑な認識過程」の思考への睡眠の影響を試験するためにある論理ゲームを用いた。寝る少し前に酔っぱらうと,午後ゲームを学んだ後で,彼らは酒を飲まなかった人たちより次にゲームをした時は40%悪かった。一つの説明はアルコールがREMサイクルを抑制しているということだ。REMサイクルは学習が十分できるのに必要だ。ハーバード大学での同様の実験では,作業を学んだ日の夜6時間ぐっすり眠ると記憶テストは良いことを示された。貧弱な睡眠は学習,記憶能力を害する可能性がある。
記憶は脳細胞のネットワークのつながりを強化することによって生み出される。睡眠は脳がこうしたつながりを作り出す方法かもしれない。起きている瞬間瞬間は感覚,思考,感情で脳を痛めつける。もし脳がそれら全てを記憶として脳に蓄えようとしたら,過負荷を経験するかもしれない。睡眠はこうした印象の一部を削るのに役立つかもしれない。
どのくらいの睡眠が必要だろうか。1世紀前,人々は一晩に9時間ぐらい寝ていた。研究者は私たちのほとんどは8時間は必要だという。現在私たちは平均して7時間ほど寝ている。っして私たちの3分の1は6時間以下だ。電球に一部責任がある。あなたの体内時計は明暗のサイクルに反応する。目覚まし時計と体内時計が一致しないときは多くある。夜働く人にとっては,これは慢性的な問題になる。最近の研究では人工的に照明された夜は睡眠を妨害し,人によっては睡眠に関する病気を引き起こすかもしれないとわかっている。年齢ももう一つの要因だ。私たちは年をとるにつれて,この体内時計が変化する。十代の若者にとっては,「遅く寝て,遅く起きる」ようにセットされてる。何年も睡眠をしていると,私たちは日が暮れると寝て,日の出に起きるようになる。年をとると睡眠量が減るというのは正しくないが,眠れなくなるのは確かだ。理由は,痛み,気分の落ち込み,投薬,夜トイレに行く,などだ。
どうやった電気が入った,仕事が加重な,現在の生活で,より睡眠をとることができるだろうか。いくつかの簡単にできる方法がある。夕食時のワインはリラックスするのに役立つだろうが,睡眠サイクルを妨害し,真夜中に目がさえるかもしれない。睡眠薬代わりにアルコールを使わないように。通常の睡眠パターンを壊すことになる。ベッドは寝るためだけの場所であるべきだ。多くの食べ物や飲み物にはカフェインが隠れている。カフェインは睡眠をかく乱する物として働く。午後になったらカフェインの入ったコーヒー,お茶,ソフトドリンク,ココアは避けなさい。より基本的には私たちの態度を変える必要がある。睡眠は怠け者の形態ではない。睡眠によってより賢く健康になる。私たちは睡眠を健康な生活に必要な要素として推進する必要がある。睡眠は時間の無駄ではない。それは脳を機能させ,健康全体にとって極めて大切だ。
睡眠の大切さ:よく寝て長生きを
規則的に十分な睡眠を取ることは食事,運動とならんで健康な生活に大切だ。睡眠不足は体に悪いだけでなく,脳の学習や記憶のとっても悪影響がある。睡眠の重要性を認識して,十分な睡眠がとれるように努力すべきだ。