お気楽、お四国巡り 札所の疑問・情報

室戸の修行で、空海じゃないの。阿波の21番太龍寺。

うわー、穴が開いてる。
こえー、こえーよー。
恐いけど、楽だーよー。
「お遍路さん、子供みたいですね。
夏場の空気穴なんだけど、子供さんが喜ぶんですよね。」
「・・・・・・、私は子供かい?。はは。」
ま、お年寄り遍路からしたら、まだまだ若造だからね、はは。
はー、なにー、えっ、大滝岳で、修行して空海の「空」を思いついた?。
「はー、その解説ちがうんじゃない?。
室戸の修行で、「空」と「海」で、空海じゃなかったの?。
それ、違うんじゃない?。
だれが、それを言い始めたんですか?。
どこに、それ書いてます?。」
「お寺から、教えてもらったんですよ。」
「はー、お寺から教えてもらった?。
こんど、根拠になったところを聞いてみるかな?。」

弘法大師といえば、空海です。
空海といえば室戸です。
空海の著書「三教指帰」には、
「阿国大滝岳にのぼり、土州室戸崎に勤念す。谷響きを惜しまず、明星来影す」
とありまして、室戸が聖地になっています。
いま風に言うと、パワースポットです。
さて、空海という名前のいわれですが、聞き及んだ、書籍からも、ずーと、
ここで、「明星来影す」後に、眼前に広がる、空と海から、空海と名付けたと思っていましたが、
太龍寺のロープウェーのガイドさんの話が微妙に違うことに気がつきました。
いつから、この話になっているのか、わかりません。
このロープウェーにたくさんのお遍路さんが乗りますが、この質問されたことないのでしょうか?。

○解説が2パターンから1パターンへ。

2007年当時は、年配のガイドさん(パターン1)と若いガイドさん(パターン2)の話に違いがありました。

1.室戸の修行で「空海」と決めた。
2.太龍寺の修行で「空」を思いついた、室戸の修行で「海」を思いついた。

2011年は、年配のガイドさんも若いガイドさんと同じになっていました。
1パターンから2パターンにいつ決まったのか、だれが決めたのか、知りたいと思いガイドさんに聞いたら、
それは札所からの情報だそうです。
札所が2パターンで話せといっていることですね。
そこまでして、札所と関連付けたいのはなんでなの?。
もともと、1パターンも伝説で、根拠がないと言われればそれまでですけどね。

○切符の裏面に書いてあったけど、信用していいのだろうか。

ふつう、直線ラインはレイラインと呼ばれて、太陽の運行(夏至、冬至)に関係しているけど、はたしたこのラインはいかに?。

・石鎚・剣山・太龍寺ライン

四国最高峰石鎚山、次峰剣山、そして弘法大師空海の修行地、太龍寺、奇しくもこの三霊山は一直線で結ばれています。
この直線を延長すると東に津乃峰神社、西には伊予の名刹宝珠寺が位置し、四国の霊山大動脈を形成しています。

(「四国霊場立地の謎」対尾準三郎著より)

○燈明杉は、字のごとく灯台。

ロープウェーから見渡したら、和歌山まで見えます。
ここのスギは、夜間に御神灯をつけて、灯台のような役目をしていたそうです。
樹齢数百年の杉の古木「龍山杉」。
ここのスギに目を付けたのが、豊臣秀吉。
あの、「方広寺(大仏殿)」を建立するときの柱に、ここのスギを拠出させたそうです。
現代の物は2代目だそうです。

○大師堂は、いつも扉が閉まってる。

一見普通の大師堂と同じですが、ここのお大師様は、この建物の後ろにある建物に居ます。
この様式は、高野山の奥の院と同じ様式です。
奥の院のおつとめは、建物の裏にあるところで、行いますので、ここも奥の院と同じように裏手に回り、おつとめをするのが正式です。
ロープウェーで案内する人、先達さんが案内してくれればわかりますが、知らずに来たら、大きな建物の前でおつとめとなります。
旧暦になりますが、お大師さん入滅の21日、4月21日に、一年に一回のご開帳です。
ちなみに、この大きな建物の中に、鏡と真言八祖の絵があります。


○縁起

・「四国遍礼霊場記」寂本より

 当寺は、大師いまだ出家し玉はざりし時、此岳の霊験を御覧じて躋攀、勤操僧正に受給ふ求聞持の法を執行あそばしけるに、忽ち悉地の相あらはれて、空より宝剣壇上に降りけり、三教指帰の序にも、谷ひゞきをおしまずとのらせたまふ是なり。
 寺の啓迪、桓武天皇の御願として、当国の刺史藤原の朝臣文山勅命を承て営建せりといへり。然ば大師聞持執行の此寺ありしや、淳和天皇の御時寺領御寄付の勅書あるよし。その後御代々綸旨・院宣数通あり。其中の文とて、密教根本の聖跡一夫婦帰依の霊場とありとなん。其外将軍家の御教書おほし。
 国の太守先祖より代々崇敬ありて寺領寄付し、伽藍修補せらると也。
 本堂本尊虚空蔵。左に鎮守・宝塔・鐘楼・経蔵、すこし高き所に大師堂あり。壇の外に寺中相構ふ。天正十六年十一月天火の為に堂宇焼失す。太閤秀吉公高麗征伐の祈願として六間四面の堂をかりに造立あり、いまの堂は其規矩ときこゆ。
 南北両方に舎心の岳といふあり、断崖絶冥なり、幽橋をかけて通ず。不動明王の霊異の尊像あり、舎の字は凝とゞむるの心にて、此所絶境なるが故に人心をとゞむるにより、かく名づくといへり。遊方記等捨身と書。大師御童稚の時善通寺の捨身と同事に書非なり。
 是より三十町ほど辰巳の方にあたり岩窟あり。なかばより両へ相わかれ、一方は竜王の窟といふ。むかし大竜神棲る迹とて石面に鱗形など歴然たり。奥に至り溜水澄湛なり。一方の窟は不動の窟しいふ。此外霊窟ありときこゆ。他の記録を見ざるが故に詳かならず。惣じて真然僧正の書玉ふ当寺の記ありといへり。
 霊宝尤おほし。就中大師御所持といへる錫杖長五尺、御作の瑜祇塔、大師の真蹟などありときこゆ。

・「四国遍路日記」澄禅より

太龍寺、山号捨身山本堂南向本尊虚空蔵菩薩、宝塔御影堂求聞持堂鐘楼鎮守の社大伽藍所也。古木回巌寺樓の景無双の霊地也。寺領百石六坊在り。寺圭の上人礼義丁寧也。當寺牛王の板一年回録の時焼失したる迚、其牛王の文字を予に書せられたり、板行の料とかや。備前の衆聞持行者あり長寿院と云。
八月朔日寺を立て奥院岩屋なとを巡礼すへしとて同行衆八人云合て下法師に云、是も古来より引導の僧に白銀二銭目遣し、扨引導の僧松明を用意して出たり、此僧先達せさせて秘所とも巡礼す。先大師御影童形の時、身を捨玉ふ身捨山と云所在、深谷の上巌の指出たる所に九尺四面の不動堂在、運歩不自由にして恐き所也。其より丗町斗下り岩屋在り、先達共に九人僧共手に手に松に火を燃て慈救の咒を高声に唱て穴の奥え入、先(まづ)さかさまに成て、六七間入て少のひ上りて見は清水流て広々たる所也。蝙蝠幾千万と云数を不知、夫より彼水を渡て廿間斗も入つらんと思ふ所に高さ弐尺五六寸斗なる所在り、頭をさけて腰を屈てはい入て二間斗過て往事二ヶ所也、其先に横たて二間斗なる所在り、夫より奥えは不入、爰にて先達の勤にて各心経を誦す。夫より南の方かと思しき方に行、壁の如にてふみ所も無き所を岩のかとに取付て二間斗下る、其奥に高壱尺二三寸の金銅の不動の像在り。爰にても各慈救呪を誦して元入し流水を下り樣に渡りて穴の口え出、熱き時分にて在けるに穴の中の寒中々云斗なし。又さし下りて岩屋二つ在、是は何れも浅し。鐘の石とてかねの樣に鳴石在り、各礫にて打て夫より野坂を上り下りて荒田野の平等寺に至る、是迄三里也。


○辛酉革命

88ヶ所の札所を廻っていたら、お寺の解説がいろいろありますが、ここのお寺しかないのが、
多宝塔での、 60年に1度巡る辛酉(かのととり)年の除災祈願。
「辛酉革命」というものがあり、辛酉は天命が改まる年で、王朝が交代し、政治的変革が起るといわれているもの。
平安時代の昌泰4年(901年)、辛酉の年を「延喜」と改元したことから始まり、明治まで続けられたそうです。
901年
961年
1021年
1081年
1141年
1201年
1261年
1321年
1381年
1441年
1501年
1561年
1621年
1681年
1741年
1801年
1861年
1921年
1981年
2041年
2101年


○2011年7月18日 台風2号。

・お大師さんのご加護なし

台風の影響で、樹齢400年の杉が倒れ(先頭部分が折れて)、本堂を直撃。
20番鶴林寺でも、杉の巨木が倒れたけど、お大師さんのご加護で建物被害は無しです。
ここは、お大師さんのご加護が無かったと言うことでしょうか。
うーん、勝手に想像ですが、ここの聖地として、「龍王の窟」、「不動の窟」
この「龍王の窟」を、戦後セメント会社に売却したから怒られたんじゃないのかな。
ちなみに、太龍寺の龍、地名の和食(わじき)はわしゅきつ、鷲(わし)のわしゅきつ、みんな龍からきてますよ。
そう言えば、元「龍王の窟」への遍路道で遭難した人がいましたね。

*八大龍王の4番目「.和修吉龍王」(ヴァースキ、わしゅきつ)
別称「宝有(ほうゆう)」、「宝称(ほうしょう)」。「九頭竜王(くずりゅうおう)」。

・身代わり

被害が広範に及ぶところを、ご本尊が鎮座する本堂が、受け止めたからみんな無事だった。

△参照

2011年 台風6号、阿波の徳島へ上陸。 へリンク