お気楽、お四国巡り 札所の疑問・情報

えっ、ここが根来衆の根来寺。

おお、岩が波打ってますよ、強烈、強烈な造山運動?。
ここって、採石場かな、ふーん。
次のお寺、まだ遠いの?。
遠いみたいです、はは。
あれれ、お寺?。
こんなところにお寺?。
なんていうところかな、かな?。
「根来寺です。」
「・・・・・、えー、ここがあの有名な根来寺。
そうです、あの有名な、覚鑁さんが、立ち上げたお寺で、・・・・・・・・。」
「へー、戦国時代の、根来衆でしょ?。」
「ちょっと、私が解説しているのに、聞いてよ。」
「聞かなくても知ってるからいいです。」
「うっ、歴女だから?。」
「ふふ、そういうことで、ふふ、善住坊ね。」

真言宗の歴史的展開を紐解けば、必ず登場してくる根来寺。
西国巡礼の途中で、ずっと気になっていましたのでよってみました。
戦国時代をちょっとでも知っていたら、このお寺から連想されるのが、根来衆です。
僧兵ですね、鉄砲集団の傭兵集団だったそうです。
うーん、武装集団ね。

○信長を狙撃

根来衆(ねごろしゅう)は門徒?。
織田信長を狙撃したのは、杉谷善住坊(すぎたに ぜんじゅぼうでした。

○北向き不動

ここのお不動さんは有名です。
さらに、お堂の裏側にもお不動さんが居ますので必見?です。
お堂にいた、おばさんが話好きでした。

○縁起

 根来寺(ねごろでら)を開創された覚鑁(かくばん)上人は肥前国藤津荘(現在の佐賀県鹿島市)で生まれました。
13歳で京都 仁和寺の寛助僧正に従い出家得度し、奈良と京都を往復しながら仏教を学び、20歳になると高野山に登り、真言密教の復興に努力しました。
 やがて鳥羽上皇の庇護を受け、学問探究の場である「伝法院」、修禅の道場である「密厳院」を高野山上に建立します。
同時に根来近郊の岡田・山東・弘田・山崎の荘園を院宣により賜り、覚鑁上人を筆頭とする大伝法院は大いに隆盛しました。
しかし大伝法院方は高野山の一部の人たちとの間に確執を生じ、結局、保延6年(1140)に根来に移ることとなりました。
 その頃の根来には豊福長者(とよとみちょうじゃ)が建てた葛城山系の山岳信仰をおこなう草庵がありましたが、
覚鑁上人は、その草庵を建て直し豊福寺(ぶふくじ)と名付け、学問所として「円明寺」を、お住まいとして「密厳院」を造られ、
康治2年12月12日(1143)に根来にて49歳の生涯を閉じられました。
 覚鑁上人の入滅後、大伝法院衆徒の一部は高野山に戻りますが、
その後、正応元年(1288)頼瑜(らいゆ)僧正が再び高野山から大伝法院の僧侶を率いて根来に移ってまいります。
 頼瑜僧正の学風は聖憲尊師に受け継がれ「新義教学」として大成しました。
中世根来寺は多くの学僧を抱える「学山根来」であったことが、伝えられた多くの聖教資料から近年明らかになりました。
当時の根来寺境内を示す「根来寺伽藍古絵図」には、覚鑁上人の法灯を守る法会を営む堂塔伽藍と中性院に代表される教学を伝受する300~400の院家が描かれております。
戦国時代、大きな勢力を備えた根来寺は、当時の様子を書いたルイス・フロイスの『日本史』にも紹介されています。
しかし、こうした強大な寺社勢力を危惧した豊臣秀吉は天正13年(1585)3月に紀州根来に攻め入り、大塔・大師堂などの2~3の堂塔を残して全山焼き払いまいました。

○お寺情報

根来寺「http://www.negoroji.org/」

和歌山県岩出市根来2286
0736-62-1144