お気楽、お四国巡り 札所の疑問・情報

平成の世の中まで、2つ札所があった。はー、どうして。


「なむ だいし へんじょう こんごう。」
「納経、納経、ちょっと待っててね。」
「こんにちわ、天気いいですね。
お遍路日よりですね。」
「あんたら、どこから来たの?」
「・・・・、○○からです。
あの、ここから31番竹林寺は、真南だから南下すれば、すぐですね。」
「そうそう、真南だから迷うこと無いよ。
最近の若い奴らは、知らないだろうね?。
あんたら知ってた?。
土佐の高知の30番は、昔二つあったの、知ってた?。」
「えー、知りませんよ。
明治の神仏分離、廃仏毀釈、廃寺、復活の時代ですか?。」
「いやいや、最近、平成の時代だよ。」
「えー、それ、ほんとです?。」

何十回もお遍路している方とお話ししたら、南国土佐の高知には、同じ番号の札所が2カ所あって、
お遍路さんは、ずーと、2カ所を打っていた聞かされます。
現在の30番善楽寺と、その奥の院「安楽寺」です。
これが、明治から、なんと平成の時代まで続いていたそうです。
さらに、双方が言い争いになって?、裁判まで発展したそうです。
はー、国家権力で分けられて、国家権力?でどうにかしてもらいたいと思ったのでしょうか。
双方で、話し合いができなかったのでしょうか、純粋に札所を巡られているお遍路さんに比べて、なにか、生臭いですね。

○札所のおつとめ、本堂の本尊、大師堂で大師像、この流転を記すれば。

・30番善楽寺が廃仏毀釈で廃寺(別当善楽寺と神宮寺)となり、
本尊と弘法大師像が、29番国分寺へ。仁王像が、24番最御崎寺へ。
・明治9年(1887年)、公許を経、本尊を安楽寺へ遷座(せんざ)し、30番札所を復興。
・昭和4年(1929年)、善楽寺が復興(埼玉県与野市(現さいたま市)にあった東明院を遷して)。
大師像や 一部の寺宝はもどった。
・昭和17年(1942年)、善楽寺を30番札所、安楽寺を奥の院とし、
3年以内に決定通りとするはすだったが、終戦で混乱し果たせず。
・昭和39年(1964年)、「弘法大師開創1150年」により、善楽寺を「開創霊場」、
安楽寺を弘法大師ゆかりの阿弥陀如来を安置する「本尊奉安の霊場」としたが果たせず。
・平成6年(1994年)正月、30番善楽寺、安楽寺は30番霊場奥の院の決着がついた。
これは、安楽寺の住職が善楽寺の住職を兼ねる事となり解決しました。

霊札所の綱引きが、平成6年まであったのは、すごいというか。なんなのと言いたいですな。
同じ、真言宗豊山派なのに、さっさと解決すればよかったのに、何があったの?。

何かの記事で、
「札所が札所といわれるゆえんは本尊」
「札所は大師の霊跡、遍路はその霊跡を巡ることにあり」とあったな。
裁判で決着が付いた、双方の話し合いが着かない、一悶着あったと有りました。
これからすると、この本尊は、いまも奥の院「安楽寺」にあります。

  安楽寺 善楽寺 疑問

廃仏毀釈

神宮寺が廃寺
明治9年(1887年) 30番札所を復興 何の縁で、安楽寺になったのか理由がわからない
昭和4年(1929年) 復興 復興した本当の理由
昭和17年(1942年) 奥の院に決定 30番札所に決定 なんで、決定に従わなかったの?
昭和39年(1964年) 本尊奉安の霊場 開創霊場 両方参拝してもOK?、なんで分けなかったの?
平成6年(1994年) 奥の院に決定 30番札所に決定

○寺宝の流転?。

縁起に出てくる寺宝ですが、いろいろまだ他の札所に残されている、返されていないものがありました。
29番国分寺の本堂に、板絵光明真言曼茶羅図が残されたままでした。
24番最御崎寺の仁王門、表と裏にそれぞれ、仁王さんがいるけど、どっち?。

  本尊(阿弥陀如来) 弘法大師像等 仁王像

廃仏毀釈

29番国分寺 29番国分寺 24番最御崎寺
明治 9年(1887年) 30番安楽寺 29番国分寺
昭和 4年(1929年) 30番安楽寺 30番善楽寺
昭和39年(1964年) 30番安楽寺 30番善楽寺
平成 6年(1994年) 30番安楽寺 奥の院  30番善楽寺

・高知県立歴史民俗資料館だより・おこうふうじつ〉第86号 2014年6月30日より

国分寺の本堂の外陣壁面には径2・155mの室町時代と推定される板絵両界光明真言曼荼羅( 胎蔵界) と
「文化十四年(1817)」の紀年銘をもつ径2・715mの板絵両界光明真言曼荼羅板絵(金剛界)があります。
大日如来の廻りには光明真言を配しています。板絵の裏には、
「本尊金剛界大日如来・・」、
「金色 光明大曼荼羅」、
「南無四国八十八ヶ所惣霊場為奉灌請當國」、
「南無四國八十八ヶ所霊場當國一ノ宮奉納金色光明真言」などとあります。
もとは土佐神社に懸けられていたもので、廃仏毀釈により撤去され、国分寺で守られてきたものです。

○大師の足跡?

「札所は大師の霊跡、遍路はその霊跡を巡ることにあり」とあるけれど、
原本を確認出来ていませんが、88ヶ所の札所で、大師堂が徐々に整備されてきたのは、
かなり、時代がたってからみたいです。

・ガイドブック等で大師堂が確認できる数。

承応2年(1653)澄禅大徳「四国遍路日記」、12ヶ所
元禄2年(1689)「四国遍礼霊場記」、35ヶ所
寛政12年(1800)「四国遍礼名所図会」、86ヶ所

○廃仏毀釈

慶応4年3月13日(1868年4月5日)の太政官布告「神仏分離令」
明治3年1月3日(1870年2月3日)の詔書「大教宣布」
によって引き起こされた、仏教施設の破壊。

○大真言宗

昭和17年に時の政府にまたまた翻弄されて、真言宗が統一化されたので、
このときに、善楽寺を30番札所、安楽寺を奥の院としました。
だけど、そのままでした。

宗教団体法
国家が宗教団体をを統制するため出されたもの。
昭和14年4月8日公布、昭和15年4月1日施行。


○一宮 百々山 神宮寺

・「四国遍礼霊場記」寂本より

 此宮は高鴨大明神ときこゆ。然れば、続日本紀に従五位下賀茂の朝臣田守等が奏を載るに、むかし大泊瀬の天皇葛城山に猟す、時に老人ありて、天皇と相逐獲えものをあらそふ、天皇これをいかりて、其人を土佐の国へ流す、神化して老夫となる、爰に放逐せらると。蓋此社ならんかし。大泊瀬天皇は雄略天皇なり。
 日本紀に、天皇神にあひ、名を問玉へば、一事主の神なりと、即轡くつわをならべて弛聘すとみし。葛城の神は、大己貴おおなむちの命の子八重の事代主の命なり。是を高鴨といふ、又味耜高彦えものあじすきたかひこの命を高鴨といふ。此神も大己貴の子にて、事代主と兄弟也。
 神宮寺の本尊阿弥陀・観音・勢至金銅の像なり。伝へいふ天竺より来れりと。

・「四国遍路日記」澄禅より

 一宮、南向本地阿弥陀如来宮殿楼門鳥居まて高大廣博なる大社也。前太守長宗我部殿修造せられたる儘也。當守護侍従殿時々修理を加らるゝと云、前代より毎年十月に於當社に千部の法華経を読誦せらる。当代猶以退転なく如此真言家百五十の僧徒集會して勤之々々。山号は百々山、社僧神宮寺、観音院とて両寺有り

○善楽寺と安楽寺の名前無し

神宮寺と観音院は、存在していたが、善楽寺と安楽寺という名前の寺が、係わっていた記録はなし?。


○百々山 東明院 善楽寺(hp縁起より)

当山は平安時代初期、弘法大師様が御巡錫の際、高鴨神社(今の土佐一宮神社)の森厳幽遠なる霊域が深く御意に適われ、北部一帯の渓谷が百谷あれば入定の地に定めんと谷々を検分されましたが、九十九谷しかなく、当山を開創されて一谷を補い、山号を百々山(どどざん)と名付けられ四国第30番霊場とお定めになられました。以後、長曾我部氏や山内公の帰依深く明治の廃仏毀釈まで法灯を維持していたと伝えられています。

霊場の中でも復興が遅かった善楽寺。 明治の廃仏毀釈で当山善楽寺は廃寺となり、明治9年にいち早く復興を遂げた安楽寺が、30番の万灯を絶やしてはならぬと公許を経て30番霊場の業務を代わりに行っておりました。善楽寺は昭和5年に心ある一宮村民の尽力により無事再興され、平成6年に四国第30番は善楽寺、安楽寺は30番の奥の院と相成り今日に至っております。
時代の波に翻弄された善楽寺。一時は、廃寺になった後に代行を務めた安楽寺と復興した善楽寺と、30番が2ヶ寺存在し「遍路迷わせの札所」といわれていたほどお遍路さんを困惑させていた時代もありました。

○妙色山 金性院 安楽寺(webより収集)

開基 菅原高視朝臣

・今を去る一千有余年前、延喜年中(901-23)菅原道真公の長子高視朝臣が、土佐の国に配流されて潮江高視の里に居住していた道真公の逝去の後、潮江に天満宮を祭る際、築紫菩提寺に因りて建立した寺である。当時は伽藍もすべて備わり、子坊12カ寺を有していたが、応仁・文明の兵乱(1467-77)で退転した。その後寛文年間(1661-73)弘法寺の僧栄俊大徳が高知市久万村に再興して、金性院と号した。久万の城主毛利豊前守吉政は、栄俊の知業兼備の徳に感銘し、菩提寺とした。また、藩主山内一豊公が入国の際、度々越前守に寺領地を給い、代々の信仰を得ていた。明治維新の変革により再び廃寺となったが、明治8年(1875)常宝上人により旧瑞応寺跡に再興された。

・延喜年間、菅原道真公の長子、高視朝臣が、土佐の国に配流されて潮江高視の里に居住していた。道真公の逝去の後、潮江に天満宮を祀る際、筑紫菩提寺に因りて建立した寺であるがその後、寛文年間、弘法寺の僧栄俊大徳が高知市久万に再興して金性院と号した。明治8年、常宝上人により瑞応寺跡に再興された


○歴史的流れ

1.神身離脱説(しんじんりだつ)

日本の神々も人間と同じように苦しみから逃れる事を願い、仏の救済を求める考え。
神社には、附属施設としての神宮寺、宮寺、別当寺、神願寺、神宮院が建立された。

2.護法善神説(ごほうぜんしん)

神が仏法を守護するための、護法神、護法善神。
そのために寺院の境内に鎮守社がつくられた。

3.本地垂迹説(ほんじすいじゃく)

元々は仏であったので、私たちに親しい姿になって現れて救済してくれる。