お気楽、お四国巡り 一般常識 人物

えっ、お母さんが霊場開基?。あこう御前。

「おーい、おーい、カタパン買いに行くよ。
おーい、なにしてんの?。」
「金魚、金魚さがしてるの。」
「はー、なんなんだよ。
鯉しか泳いでないよ。」
「ふー、お大師さんいなかったね、残念。」
「・・・・・・・、お大師さん?。
はー、金魚と大師さん?。
そんな伝説聞いたこと無いよ、なんなんだよ?。」
「ふふ、お大師さんが赤ちゃんの時、金魚丸って名前だったんだよ。
知ってた?。」
「・・・・・・、知りません。」
「それで、お母さんと一緒に四国を巡ったんだよ。」
「・・・・・・、知りません。
ひょっとして、それって、お母さんが四国霊場を作った伝説?。
ま、まさかね、はは。」
「だって、ここに書いてるよ。」
「・・・・・・、なに?、説経「苅萱」の「高野の巻」?。
えー、これ知らないよ。」

お大師さんが42才の厄年に四国を巡り、
四国八十八ヶ所霊場を開いたというのは知っていましたが、
お大師さんの母親が開いたというのは、初めて知りました。
お話を読んだら、壮絶な出来事がありますが、これすごすぎ。
それと、「苅萱」物語の中にあるのも知りませんでした。
高野山の苅萱で、ゲットした「苅萱」物語を再読したけど、
このお話は載っていませんでした。なぜ?。

○「かるかや 苅萱」の「高野の巻」(web収集)

「苅萱」とは、苅萱道心と石室丸の親子の物語。

・「高野の巻」

弘法大師の母はあこう御前といい、大唐国のみかどの娘であったが、ゆえあってうつぽ舟にのせられ海に流されてしまった。
舟はやがて讃岐国白方屏風が浦に流れつき、とうしん太夫という釣り人に助けられた。
あこう御前はとうしん太夫の養女になったとも、下女として使われるようになったともいう。
やがてあこう御前は男の子を産んだ。
太陽に申し子をしようと願をかけ、西の海から黄金の魚が御前の胎内にはいる夢をみてはらんだ子たので金魚丸と名づけた。
ところがこの子の夜泣きが激しく、たえかねた屏風が浦の浦人たちは夜泣きする子は七浦七里をからすといって、ついに親子をこの浦から追いはらってしまった。
あこう御前は「この子ひとりまうけぬとて、なんぼう難行苦行申したに、捨てまいぞ金魚よ」とわが子をつれて四国のうちをさまよい歩いた。
「その数は八十八所とこそ聞こえたれ。さてこそ四国遍土は、八十八か所とは申すたり」というので、これが四国遍路のおこりとなったという。
しかしとうとう金魚丸は、思いあまった母あこう御前に、とある松の木の下にうめられてしまった。
けれどもおりよく讃岐国志度の道場へ説法にきていた和泉国槙の尾のたらん和尚が、松の木の下から読経の声がするのを聞きつけ、金魚丸をすくい出す。
金魚丸は和尚につれられて和泉国にのぼり、ついで京都御室で仏法と学間の道をさずけられ、成長ののちは唐にわたるのであった。

○金魚の伝来

そのまま読めば「きんぎょ」。
きんぎょは、室町時代に中国から伝来しているので、
お大師さんの生まれたときは、居ませんでした。
ここでは、金色に輝く魚のことです。


・「高野の巻」女人禁制

「いかに大師なればとて。父が種を下ろし。母が胎内はらを借りてこそ。末世の能化のうけとはなるべけれ。うき世に一人ある母を。いそぎ寺へ上がれとはのうて。里に下れとは情ない。」とて。涙をお流しある。
大師そのとき。「不孝にて申すではなし。」七丈の袈裟を脱ぎ下ろし。岩の上に敷きたまひて。「これをお越しあれ。」となり。
母御はわが子の袈裟なれば。何の仔細あるべきとて。むんずとお越しあれば。四十一にて止まりし月の障りが。
八十三と申すに。けしつぶと落つれば。袈裟は火炎となって天へ上がる。それよりも大師、しやうさい浄土にて。三世の諸仏を集め。両界くそんの曼陀羅まんだらを作り。
七々四十九日の御弔いあれば。大師の母御。煩悩の人界を離れ。弥勒菩薩みろくぼさつとおなりある。


○石童丸物語 (いしどうまるものがたり) hpより

平安時代も後期頃の話です。
九州の筑前(福岡県)は、刈萱荘博多というところに加藤左衛門尉(かとうさえもんのじょう)藤原の繁氏(しげうじ)という若い領主がいました。繁氏には、桂子(かつらこ)御前という美しい妻の他に、千里(ちさと)御前という二番夫人の側室もいました。加藤家は、こうした夫人達に囲まれて、春には華やかな花見をもよおすほど、それはそれは優雅な暮らしぶりでした。

憎しみ---

桂子と千里との間は、普段は仲良く平静をよそおっていましたが、桂子の方は、心の中で若くて美しい千里を憎んでいました。
ある夜、繁氏は、この二人が囲碁をしているのを薄明かりごしに見ることがありました。すると、どうでしょう。二匹のヘビが絡みあって戦っているように見えるのでした。
そうこうするうちに、正室である桂子の千里に対する憎しみがあらわとなり、ついには千里殺害の計画がくわだてられます。しかし家来の計らいにより、他人が身代わることによって千里自身の命は救われ、加藤家を逃れることになりました。

出家---

嫉妬(しっと)と憎(にく)しみというものは、時として人の命をも奪い取ってしまいます。繁氏はホトホト嫌気がさしてしまいました。
この事件は繁氏自身をもひどく後悔させ、またそのことで繁氏の妻に対する心はむなしいものへと変化していきました。
やがて、繁氏は誰にも行く先を告げず高野山の安養寺円慶を頼って登山し、出家してしまいます。その名を円空と改めました。時に、繁氏21歳でした。
それからというもの、蓮華谷に質素な萱(かや)の屋根の庵(いおり)を結んで一心に修行にはげみ、周囲からは刈萱道心(かるかやどうしん)と呼ばれるようになりました。

父を求めて---

一方、千里は加藤家より播磨の国の大山寺に逃れ、観海上人に身を寄せ、やがて男子を産みました。これが石童丸です。
繁氏が出家した折り、すでに身ごもっていたことなど繁氏自身は知る由もありません。
石童丸も大きくなった頃、高野山に刈萱道心というお坊さんがいるという噂(うわさ)が聞こえてきました。刈萱というのは筑前の刈萱荘にちなんだ名前であることはすぐに想像がつきます。
千里と石童丸は、父、繁氏を求めて高野山へと向かいます。

学文路の宿--

千里と石童丸の二人は、高野山の麓(ふもと)、学文路(かむろ)で宿をとりました。
この宿の主人、玉屋の与次兵衛から、高野山は女人禁制で女性は入山できないことを聞かされ、断念します。
それではということで、千里は、父の身体的な特徴を石童丸に伝え、独り高野山へと向かわせます。

独り高野山へ--

しかし、なれない足で不動坂まで来た頃には、とっぷりと日は暮れてしまいました。
仕方なく、不動堂(外の不動・清不動)で一夜を明かすことになります。

父との巡り会い--

翌日、高野山へ登った石童丸は、あちこち訪ねて歩きます。しかしなかなか遭うことがかないません。数日目に、たまたま奥之院の無明(むみょう)の橋まで来たときに、前から花筒を持ったお坊さんとすれ違います。
そこで石童丸は駆け寄って、「刈萱道心という方を探しています。どこにおいでかご存じありませんか?」と尋ねました。繁氏(円空)は石童丸の身の上を聞いて、たいそう驚くことになります。

伝えられた内容とは---

石童丸の話を聞いた繁氏(円空)は、自分が父であることを名乗りませんでした。
しかも、「繁氏という人物は去年の秋に亡くなった。その墓は、ちょうどそこに建っている墓である」と近くにあった適当なお墓を指し示して石童丸に伝えました。
それを聞いた石童丸は、その墓の前で泣き崩れます。

悲しみの下山---

繁氏(円空)は出家した修行中で身であることから、今さら石童丸が我が子とわかっても、すでにどうすることも出来なかったのでしょう。
繁氏(円空)は石童丸に「早く母の元に帰ってあげなさい」といいます。
石童丸はしかたなく、トボトボと母の待つ学文路の宿まで帰ります。

学文路で待つ母は---

石童丸が学文路の宿まで帰ってみると、なんと、母の千里はこれまでの長旅がたたったのか、発病して急に亡くなっていました。
石童丸の悲しみの程は、察しても余りがあります。しかたなく、この学文路の地で母を葬ることになります。

再び高野山へと--

父とも巡り会わず、さらに母にも旅立たれ、ひとりぼっちになってしまった石童丸。
そこに思い浮かぶのは、母から聴いた父の特徴によく似た高野山で遭ったあのお坊さんの事でした。
あの方なら私の相談にのってくれるに違いないと、再び高野山を目指すことになります。

出家---

そうして高野山に登った石童丸は、父繁氏(円空)の弟子となり道念と名乗りました。
しかし繁氏(円空)は、生涯、親子であることは石童丸には伝えなかったそうです。
その後30年以上、師弟として一緒に刈萱童で修行に励んだのだそうです。

親子地蔵---

その後、繁氏(円空)は信州の善光寺に赴き、御堂を構えて地蔵菩薩を刻み、建保2年(1214)に没しました。
追って石童丸(道念)も信州に移り、父と同じく地蔵菩薩を彫り上げました。
その地蔵さんは現在も、「親子地蔵」として信仰されているそうです。