お気楽、お四国巡り 一般常識 人物

文殊院八塚群集古墳なの?。

ここらあたりかな、どこだ?。
知り合いに教えてもらったけど、どこかな。
目印が無いから、わからないぞ。
あれれ、これかな?。
看板がありますよ。
・・・・・・、「文殊院八塚群集古墳」。
えっ、古墳なの?。
衛門三郎の八人の子供を祀ったんじゃなかったけ?。

衛門三郎伝説で、お大師さんの鉄鉢が、
八っに割れて飛んでいったところが、この塚らしいです。
探し方によりますが、言われなければ、わかりませんでした。
「文殊院八塚群集古墳」とありましたから、学術的には古墳ということです。
この古墳は、木岐が生い茂っているもの、形が変形しているもの、お地蔵さん?、
祠があるもの、民家に隣接しているものなど、直線?に八っ並んでいました。
長い年月たっているから、ここのやつは、田んぼに侵食されているけど、
周りに家がせまてるけど、完全に破壊されていないということは、
大師伝説のおかげでしょうか。
ちなみに、衛門三郎の戒名は「光明院四行蓮大居士」。

○古墳

古墳時代終末期に築造された思われる、8基の古墳群になっています。
1、3、5、8号墳が円墳形、2、4、7号墳が方墳形。
松山市指定史跡で、昭和43年(1968年)10月25日に指定されています。

古墳群の解説看板より

「ここから西方の松山平野の南丘陵部には、土壇原(どんだばら)、西野、大下田南、釈迦面山等の古墳群が数多くあり、八ツ塚はそれらに続く平野部に位置する八基の群集古墳である。
文殊院所有の、これらの墳丘の形は、後世の開発によって変形しているが、一号・三号・五号・八号墳が円墳、二号・四号・七号墳が方墳である。円墳は直径約七メートルから十四メートル、方墳は一辺十メートルをやや超える程度で、墳丘高はいずれも約一.五メートルから三.五メートルの規模である。
石室は未調査だが横穴式石室、時代は古墳時代終末、農業祭祀の歳時墳と考えられている。
 この八ツ塚は、四国遍路の元祖といわれる衛門三郎の八人の子供を祀ったとの伝説も残っており、塚には小祠が置かれ、石地蔵が祀られている。古墳と伝説の関係が、いつごろから語り伝えられるようになったのかは、明らかではない。」

○札所情報

大法山 文殊院「http://monjyuin.com/index.html」

文珠院が衛門三郎の邸跡、ご詠歌「我れ人を救はんための先達に、みちびきたまふ衛門三郎」。
この邸跡から西に200mの所に八ツ塚があります。

場所 愛媛県松山市恵原町308番地
TEL (0899)63-1960


○疑問

・登場人物

お大師さん
文殊菩薩(十三佛から、三七日目(21日)の仏様)
右衛門三郎
越智息利候(6代目)
越智息方君(7代目)

・供養

法華経一字一石
延命子育地蔵菩薩

・数字

7日間訪ねて、8日目に割られた(祈願成就の7?)
8つに割れた(なぜ、8つに割れたのか?)
8人の子供(男5人、女3人)
8年で、20回巡拝
9年目で、21回目(西暦832年(閏年))(文殊菩薩の21?、祈願成就するときの21?)
3歳の桜の花見で手が開いた(なぜ、3才、なぜ桜の花見?)

・場所

文殊院(伝説から文殊菩薩の文殊ですか?)
杖杉庵(逆打ちだから、13番大日寺から12番焼山寺をめざしていたはずで、なんでここが終焉の地だったのか?。)

*この二つの点を結び、延長すると高野山の近くに繋がります。

8つに割れて、着弾したところが八窪で、8人の子供の墓は八塚。合計16ヶ所?。

・極楽浄土へ行っていないし、望んでいない

天長9年(832年閏年)10月30日?
また、人間に生まれ変わりたいということだから、六道の人間界から人間界へ。
六道の中で繰り返しなので、六道を抜け出していない、だから極楽浄土へ行ってない。

・一寸八分の石

縦長5.45cm?赤ちゃん握れます?。

参照 四国霊場開創1200年がありますけど、元祖お遍路衛門三郎1200年はいつ?。 へりんく

○21回も回っているけど、伝説がみあたらない

伝説を読み取ったら、

1.伊予で、お大師さんを邪険にした。
2.伊予から、お大師さんを追いかけた。
3.伊予の地元に帰ったら、みんなから毛嫌いされた。
4.阿波でお大師さんにあった。

衛門三郎の伝説と云われているけど、21回も四国をグルグルまわっていたら、
どこかに衛門三郎の伝説がありそうなものですが、見あたりません。
せっかく伝説があるのに、土佐と讃岐に作ればよかったのに、なんでなの?。
これって、伊予の地元向けで事足りた伝説って事でしょうか。

○金塊

ある解説本には、財産を売り払って金塊に変えて、それを担いでずーと回っていたら、
最後に石になっていた。
これどういう意味。
そのまま読んだら、強欲地主のままです。
お大師さんに渡そうとした?。
巡ったところに施ししなかった?

○誰に生まれ変わったの?。

越智(河野)玉澄(こうのたますみ 663年ごろ生まれ?)から6代目の、河野息利(興利)(こおのやすとし/おきとし)の長子、
河野息方(興方)(こおのやすかた/おきかた 832年7月)(伊予河野家=道後湯築の領主=7代目頭領)だそうです。
この方が生まれ変わりだとして、なぜ、生まれ変わり伝説が必要になったのかがわかりません。
越智(河野)玉澄は、札所に深く係わっている方で、ちなみにこの方の父親は越智玉興(おちたまおき)です。

○河野・越智一族

札所も支配してたの?。河野一族。へリンク
一遍上人、生誕地。 へリンク


○絵本

「お大師様と衛門三郎。」と題して、文殊院から発行されている絵本がありますので、ここに資料として掲載します。

資料 お大師様と衛門三郎。文殊院発行の絵本よりへリンク

○一遍上人

念仏=遍路?。
いろいろネットで調べていたら、
この上人と右衛門三郎が絡む資料がありました。
ネツト上から無くなる前に、資料として保存しました。

資料 第七章 遊行上人由来の事へリンク


◎八恊ゥ?

偶然なんだけど、八怩調べていたら、河野氏から八恊ゥが出現しています。
なにか、関係あるのでしょうか。
この姓の発祥が、あの「八塚群集古墳」が元になっているそうですが、そのままじゃないですか?。
それと、一遍上人も河野姓ですが、関係者に八恊ゥがみられます。