お気楽、お四国巡り 遍路の一般常識

資料 第七章 遊行上人由来の事。

右衛門三郎再誕の事(与陽盛衰記 230頁より)

第七章 遊行上人由来の事

さるにても、藤沢陀阿上人かくまで河野の家を慕いて心底を労し、是非を顧ること、出家の身にてあるぺけれども、なお深き所以あリ。

昔、当国浮穴郡荏原村に八塚右衛門三郎と云う俗あリ。
家富み栄え、男女の子八人あって、その身分限不足はなかリき。されども、至って愚痴樫貧にして、遂に仏名をも唱えず、神社をも崇めす。少しの文字をも知リながら、聖賢の道をば異国の事のように覚え、毫厘をも貧リて、人の毀うことも構わず。米銭あるに任せて他人をあなどリ放逸無慚のことどもなリ。郡内に堂塔供養あって、諸人参詣し、或は施物作善のことを聞いては、「神と云い、仏と云い、銭金ある内のことなるぞや。大切なる宝を出して費をしたりと、いつに慥に仏になる請取を取リたる者なし。左様の者、末には必ず乞食にはなるぺし。古語にも”岸崩れ魚を殺す。その岸未だ苦を受けず。風起こって花を供える。その風豈仏にならんや。”と云うことを知らず。不便の次第なり。」と却って人をぞそしりける。
ある時、一人の行脚来て托鉢を乞いし。常のことなれぱ、「通れ。」と云って、納れざリし。彼の行脚重ねて請いしかども、なお入れず。また日を替え来たること三・四度に及ぷ故に、奴碑これを見知って、「さて懲もなき禅門かな。この家に、何時手の内にても仕たることやある。最早度々のことにして、施しはなきことを知リながら、何れ僻者なリ。」とぞ申しける。右衛門三郎これを聞きて、「我も兼ねて見知リ居れども、懲ず来たるは因果物ぞや。よき程にせよ。」とてにらみつける。その時、行脚の僧、「御辺因果を知るこそ嬉しけれ。」とて帰りけリ。また来たる程に、既に七度に及べども施行せず。

それより程あって、三月二十一日に彼の行脚前の如く来たリて、「少しは志をし給え。あながち此方への施しとぱかり恩い給いぞ。御用の為にもなることなり。」と云いければ、その時、右衛門三郎聞きて、「おのれ行脚にも乞食禅門にも非じ。盗人の引入せんずる奴ならん。」と云うや、「左に非ず。今日は空海上人の御命日なリ。施し給え。御身の目に盗人と見るは、御身の心の修行による。盗人たりと云えども、御身だに仏と見て志を施さぱ、皆仏なり。己心の弥陀、ただ心の浄土なるものを。」と云えぱ、右衛門三郎呵々と打ち笑い、側なる樫の棒を追っ取り飛んで出て、行脚の鉄鉢を微塵になれと打ち落とす。なじかは以ってたまるべき、鉢は八つに破れたリける。なお腹に足らずやあリけん。様々悪口して、「またこの後来たらぱ、已が頭甲をこの鉢の如くにせんずるぞ。」と云いしが、行脚はそれにも構わず破れたる鉢を捨いて、「これ見給え。八つになリけり。これこそ人間八分の肉団なリ。汝他の因果を知リて、自己の因果を知らざる故この如くぞや。」と云えぱ、「己にそれを習わんや。」とて、また棒引き上げ打たんとすれぱ、忽ち形も見えず消え失せけり。

右衛門三郎これを見て、「さては狐か狸の所為なリけるものを。」と笑いながら内に入リけるが、不思識や八人の子供その夜よリ煩いつき、同じ枕に伏しにけリ。なおも狐狸の為業なリとて、色々御符祈祷をぞしたリけるが、少しも験なくして、一月の内に日を重ねて、八人共に相果てたリ。

さすがの邪気偏執の右衛門三郎もこの時初めて驚き、八つに破れたる鉢のことを思い出し、「さては弘法大師我が悪心を憐み給い、仮に姿を化えて因果の道理を示し給うぞや。今漸く思い当たれるは我が身ながらあさましや。」と地を打って歎き悲しみ、八人の子供の死骸を並ぺて八つの塚を築き、「しぱらくこの悲しみを忘れまじきぞ。」とて、自ら八塚右衛門三郎と号し、「かく寵愛の子供八人まで残らず先に立って、何の浮世に望みあらん。されども、この因果の深き業障何の時か消えん。我今生こそかようなるぺけれど、繁念無量劫と云えぱ、悪心を翻る上は遂には仏智に至らずしてあるべきか。しかしながら、今までの悪業強ければ、一生の事にては尽きがたし。一念を以って重ねて生を受け、あわれ当国の太守の子族と生まれ替わって、無量の作善、無数の仏遺を修行せんものを。」とこれよリ貧欲を離れ、一向一念に仏縁に入って世塵の交わリを止め、それよリ家を忘れて、四国を遍歴すること二十一度に及ぴけリ。

既に二十一度目に当たって、阿州に於いて、或る出家に逢いて示を請けるに、この出家当来のことを請け合って一つの石を授けける出家の日く、「汝我を知るや。一とせ鉢を打ち破られし出家なリ。その石を飲めよ。弘法大師は我なリ。」とて、即ち、見えずになリにけリ。右衛門三郎アッと思い、有難くて頭を投げて礼をなし、石を戴き飲むよとせしが、消えて腹にぞ入リにける。

それよリ、大師の直の御結縁類なしと、信心骨髄に徹し、その所に印を立て置いて帰リし。日夜仏前に端座して先立ちし子供の菩提、その身未来生々の結縁の外はなかりけリ。年を経て病を得しが、病床静かにして、「我誤って既に地獄に堕ちんとせしなリ。財宝にめでて悪業日々に超過せし。釈尊の“みょうご(牧の下に斤)の尾を愛しむが如し。“と教え給えリ。経には諸苦・所因・貧欲本を為すと説き給えば、今は先立ちし子供は皆善智識なるぞや。これも仏の御慈悲なリ。」と一念成就して、散乱なく終焉をこそ遂げにける。(一説には阿州にて果てたる由、今にその所に塚あリ。印の杉もあリ。)

然る時、一年を経て別府七郎左衛門通広に男子出生せリ。この生まれ子、産屋過ぎるまでも右の手を開かず。不審して種々に開き見れども開かざりし故、近所に貴き出家を頼みて加持しければ、即時に開きけるを見れぱ、小さき石あり。皆々不思議をなしてよくよく見れぱ、先生は八塚右衛門三郎と云う文字あリありと見ゆる。かかることもあるやと、奇異の思いをなしにけリ。

この七郎左衛門通広は、河野四郎通信の末子五郎通尚の子なリ。この生子、幼名徳寿丸と云い、後に別府弥七郎通秀とて、即ち通信の孫にて、その頃、執権北条家へも親戚の因あリ。その後、二男出生す。七郎通高と申して、筑前長淵の庄を賜わりしなり。

通秀は前生右衛門三郎が事跡を詳しく尋ねて、「さては疑いなきことよ。」とひたすら菩捷心に傾き、先ず久米郡に一つの伽藍を建立し、出生の時手持ちの石を本ぞれに作リ篭めて、石手寺と号するはこのいわれなリ。

その外、堂塔を造立し、遂に仏遣に深く帰依し、武藤通実の子通平を養子として別府の家を載り(武藤通実は通信の弟甲曽五郎通経の子通盛、武藤の家へ養子となり、その孫なリ。)、その身は直ちに発心して智真坊と法名をつけ、諸国行脚を志し、暇乞いもなさずして何地ともなく立出でけるを追い掛けて、しきリに留めけれども、「今般人界に生じて、愛別怨憎の苦を受け、盛者必衰の悲を知らざるぞあさまし。妻子珍宝及ぴ王位臨命終時不随者と云えり。かく泡沫無常世に輪廻せし事いと恐ろし。再ぴ我を尋ねること勿れ。」とて、振り切って立ち出でける。

それより、心の行くままに、足に任せて国々を廻りけるが、ある時、紀州熊野三山に詣でて、「それ御神は日本第一大霊験済度昔海の教主・三身円満の覚王・南方補堕落能化の主、入重玄門の大士・或は東方浄瑠璃医王の尊衆病悉くこれを除く如来なリ。若一王子は娑婆世界の本主・施無畏者の太士衆生の所願を満ち給えリ。和光同塵の道に入らせ給いてよリ、神通自在にして、難化の衆生を誘い給うと聞けリ。仰ぎ願わくぱ、沙弥智真が六道三有の塵を払い、必得往生の本願に引接し給え。」と敬白再拝して、終夜法施を奉リける。

少しまどろみけるに、神殿動きけると覚しくして、熊野三所権現並びに飛滝大菩揺悉く現じ給い、「善哉ゝ。汝前生の悪心を翻して、忽ち善趣に志しより、今生なお怠らずして厭離穢土を願うの心深く切なり。当来必ず三界苦域の所住を遁れて、菩提の彼岸に至り、九品常楽の安養土に生ぜん事疑いあらじ。ここにまた、他力本願の功力なお重し。とても出離生死の身にならん者、衆生と共に浮かまん事こそ、真如実相の正理なリ。いよいよ諸国を行脚して自佗の執を捨て、六十万人決定往生の主願を成就すぺし。」とあらたに告げ給い、即ち夢はさめにけり。

有難く、悉なくて、「我従来未熟の身にて宗派を立つぺきことなし。ただ神託に任せ、超世の悲願に住して、五虜六欲の風は吹くとも、自他諸共に如来の教法に従い、欣求浄土に至るの念仏に如かず。大乗円頓の器何ぞ外に求むることあらん。」と建治元年(一二七五)なおも所住を定めず。六十万人決定往生の札を普く衆生に与えて、生涯念仏一偏の席を離れず。主願成就して相州藤沢に一寺を建てて、清浄光寺と云いて、弘通念仏の修行を付弟に授与し、彼の寺に安居して、正応二年(一二八九)心静かに終焉ある。

これを一遍上人と申して、時宗の開山なり。時の人称して時宗と云いし。この宗代々当住は衆生称念必得往生の御札を六十万人に与えて、諸国を遊行して住所定まらざる故、遊行上人とも、陀阿上人とも云う。願満ちて、後住に譲り、閑居したる人藤沢に住すなり。されども、諸国行脚の内は滞居の寺庵あリ。予州には殊に開基の地なれぱとて、道後に法厳寺と号して、廻国の砌この寺にいますなリ。(中略)

かかることにて、一派の仏法を興隆あリて断絶なし。諸民これを尊ぷことも、一遍上人開基ありし故なり。右の如く、上人は別府弥七郎通秀とて、河野の花族なリ。この由緒を以って、前段の如く通治の身の上を藤沢上人深く歎いて、種々心労をせられしなリ。ある時、一遍上人当国三島明神へ参詣、稽首再拝あって、

   西へ行く 山の岩かど 踏み見れぱ
        苔こそ道の 障なりけリ

と詠ぜられければ、風も吹かざるに幣帛やや暫く動きけるとなリ。六時不断の隙なき中にも、三島の事をぱ深く信仰あリしとなリ。