|
「あれれ、なんですか、これ?。
河野氏って、村上水軍の親玉?。
えっ、河野氏って、海賊なの?。
えっ、陸地も支配してたの?。」
「そりゃ、瀬戸内海を支配していたら財力できるから、
陸地も支配できるよ。」
「だから、札所も支配したの?。
88ヶ所のいくつかの札所の縁起に、支配者河野氏が登場してるよ。」
「太古の昔から、その土地を支配した一族の祖霊を祀るしきたりがあったから、
支配というよりも、その土地を支配したから、自分達の祖先を祀ったんじゃないの?。」
「なーんだ、そういうこと?。
それって、いつもの勝手に解釈?」
四国88ヶ所の札所縁起を読み解いていたら、
伊予の海賊一族、河野(越智)氏が関係している、
札所が何カ所かあります。
これは、霊場成立に関係があるのでしょうか?。
札所が決められた?当時は、江戸時代ですが、
このころは、河野一族の勢力はほとんどなかったので、
河野一族の強権で札所が決められていないと言うことでしょうか?。
日本の怨霊信仰からしたら、河野一族の鎮魂でしょうか?。
右衛門三郎伝説も、河野一族ものですね。
霊場会HP等の縁起に明記されている河野一族について、HP等よりコピーしています。
◎37番 藤井山 五智院 岩本寺
越智(河野)玉澄(おち(こうの)たますみ)=越智玉純
縁起より
聖武天皇の勅を奉じた行基菩薩が、七難即滅、七福即生を祈念して、現在地より北西約3kmの付近にある仁井田明神の傍に建立したと伝えられる末寺七ヶ寺をもつ福圓満寺が前身とされる。仁井田明神の別当職(別当寺)であったことから、仁井田寺とも呼ばれていた。
弘法大師がこの寺を訪ねたのは弘仁年間。大師は一社に祀られていた仁井田明神のご神体を五つの社に別け、それぞれの社に不動明王像、観音菩薩像、阿弥陀如来像、薬師如来像、地蔵菩薩像を本地仏として安置した。
大師は、さらに末寺五ヶ寺を建立された。
このことから、福圓満寺等は七ヶ寺と合わせて十二福寺、また仁井田明神は仁井田五社と呼ばれていた。
仁井田大明神
越智守興(おちのもりおき)の子、越智(河野
)玉澄(おち(こうの)たますみ)が高岡郡仁井田郷に移り住み、一帯を開発して祖神と崇敬神を祀ったのが仁井田大明神である。
◎47番 熊野山 妙見院 八坂寺
越智玉興(おちたまおき)と8ヶ所の坂道。
縁起より。
修験道の開祖・役行者小角が開基と伝えられるから、1,300年の歴史を有する古い寺である。
寺は山の中腹にあり、飛鳥時代の大宝元年、文武天皇(在位697〜707)の勅願により伊予の国司、越智玉興公が堂塔を建立した。
このとき、8ヶ所の坂道を切り開いて創建したことから寺名とし、また、ますます栄える「いやさか(八坂)」にも由来する。
◎48番 清滝山 安養院 西林寺
越智(河野)玉澄(おち(こうの)たますみ)=越智玉純
縁起より
聖武天皇(在位724〜49)の天平13年、行基菩薩が勅願により伊予に入り、国司、越智玉純公とともに一宮別当寺として堂宇を建立した。
その地は現在の松山市小野播磨塚あたりの「徳威の里」とされ、本尊に十一面観音菩薩像を彫造して安置した。
大同2年(807)弘法大師が四国の霊跡を巡礼した際この寺に逗留した。
ここで大師は国司の越智実勝公と協議、寺をいまの地に移して四国霊場と定め、国家の安泰を祈願する道場とされた。
◎51番 熊野山 虚空蔵院 石手寺
越智(河野)玉澄(おち(こうの)たますみ)=越智玉純
縁起より。
神亀5年(728)に伊予の豪族、越智玉純が霊夢に二十五菩薩の降臨を見て、この地が霊地であると感得、熊野12社権現を祀ったのを機に鎮護国家の道場を建立し、聖武天皇(在位724〜49)の勅願所となった。
翌年の天平元年に行基菩薩が薬師如来像を彫造して本尊に祀って開基し、法相宗の「安養寺」と称した。
「石手寺」と改称したのは、寛平四年(892)の右衛門三郎再来の説話によるとされる。
◎55番 別宮山 金剛院 南光坊
越智(河野)玉澄(おち(こうの)たますみ)=越智玉純
縁起より
大宝3年、伊予水軍の祖といわれた国主・越智玉澄公が、文武天皇(在位697?707)の勅をうけて大山積明神を大三島に勧請し、大山祇神社を建てた際に、法楽所として24坊の別当寺を建立したことが創始といわれる。
これらの別当寺は翌々年、海を渡っての参拝が不便なことから現在の今治市に移されているが、和銅元年(708)に行基菩薩が24坊のうち8坊を「日本総鎮守三島の御前」と称して奉祭した。
◎62番 天養山 観音院 宝寿寺
越智(河野)玉澄(おち(こうの)たますみ)=越智玉純
縁起より
往時は伊予三島水軍の菩提寺として、また、大山祇神社の別当寺として栄えていたのが宝寿寺の沿革である。
天平のころ聖武天皇(在位724〜49)は諸国に一の宮を造営した。
その折、この地に伊予の一の宮神社が建立され、大和の僧・道慈律師(?〜744四)が勅命をうけて法楽所としての別当寺を創建したのがはじめとされる。
このとき天皇は『金光明最勝王経』を奉納され、寺名は「金剛宝寺」と称して、現在地ではなく中山川下流の白坪という地にあったと伝えられる。
弘法大師がこの地方を訪ねたのは大同年間(806〜10)で、寺に久しく留まり聖武天皇の妃である光明皇后の姿をかたどった十一面観世音菩薩像を彫造した。
これを本尊とし、寺名を「宝寿寺」と改めて霊場とされた。そのころ国司の越智公夫人が難産で苦しんでいた。
大師が本尊に祈願した霊水・玉の井で加持したところ、無事出産したことから安産の観音様としても信仰されたという。
ただ、中山川のたび重なる洪水の被害を受け、天養2年(1145)に堂宇を再建し、山号も「天養山」と改めている。
以後、大山祇神社の別当寺として栄えた。
大師は境内の玉の井の霊水で加持して夫人に与えると、夫人は玉のような男児を無事に安産したといわれる。夫人は子供に玉澄と命名し、嬉しさのあまり詠んで奉納した歌がご詠歌となり、それ以来このご詠歌を毎日3回唱えると安産すると言われている。
ご詠歌「さみだれの あとに出たる玉の井は 白坪なるや一宮かわ」
△一遍上人=河野氏一族
・45番 海岸山 岩屋寺
縁起より
弘法大師がこの霊地を訪ねたのは弘仁6年とされている。
そのころすでに土佐の女性が岩窟に籠るなどして、法華三昧を成就、空中を自在に飛行できる神通力を身につけ、法華仙人と称していたという。
だが仙人は、大師の修法に篤く帰依し、全山を献上した。大師は木造と石造の不動明王像を刻み、木像は本尊として本堂に安置し、また、石像を奥の院の秘仏として岩窟に祀り、全山をご本尊の不動明王として護摩修法をなされた。
一遍上人(1239〜89)が鎌倉時代の中期にこの古刹で参籠・修行したことは、『一遍聖絵』にも描かれている。
・50番 東山 瑠璃光院 繁多寺
縁起より。
天平勝宝年間に孝謙天皇(在位749〜58)の勅願により、行基菩薩がおよそ90cmの薬師如来像を彫造して安置し、建立したと伝えられ、「光明寺」と号された。弘仁年間(810〜24)、弘法大師がこの地を巡錫し、寺に逗留された際に「東山・繁多寺」と改め、霊場とされた。
その後、寺は衰微するが伊予の国司・源頼義や僧・堯蓮らの援助で再興、弘安2年(1279)には後宇多天皇(在位1274〜87)の勅命をうけ、この寺で聞月上人が蒙古軍の撃退を祈祷している。
また、時宗の開祖・一遍上人(1239〜89)が青年期に、太宰府から伊予に帰郷した際、有縁の寺に参籠して修行した。
上人は晩年の正応元年(1288)、亡父・如仏が所蔵していた『浄土三部経』をこの寺に奉納されている。
・78番 仏光山 広徳院 郷照寺
縁起より
郷照寺は神亀2年、行基菩薩によって開創された。行基菩薩は55センチほどの阿弥陀如来像を彫造し、本尊として安置され、「仏光山・道場寺」と称した。御詠歌に「道場寺」と詠まれているのもその名残である。
その後、大同2年(807)に弘法大師が訪れ、仏法有縁の地であると感得し、大師自身の像を彫造して厄除けの誓願をされた。この木造の大師像は「厄除うたづ大師」としていまも広く信仰されている。
京都・醍醐寺の開山として知られる理源大師(聖宝・832〜909)がこの寺に籠山し修行したのは仁寿年間(851〜54)とされ、また、浄土教の理論的基礎を築いた恵心僧都(源信・942〜1017)が霊告を受けて釈迦如来の絵を奉納し、釈迦堂を建立したのは寛和年間(985〜87)とされている。
さらに、仁治4年(1243)には『南海流浪記』の著者である高野山の道範阿闇梨が流罪となったとき、この寺を仮寓にした。
「時宗」の開祖・一遍上人(1239〜89)は、正応元年(1288)に3ヵ月ほど逗留して踊り念仏の道場を開くなど、真言・念仏の2教の法門が伝わることになり、八十八ヶ所の中で特異な霊場となる。
△「円珍俗姓系図」(円珍の自筆、承和(日本)年間ごろ作成)
円珍が、讃岐国の和気氏が伊予国の御村別(みむらわけ)から出ている証拠の家系図を作成している。
「和気公宅成」と空海の親族と(妹?、姉?、姪?)と結婚し、その子供が「円珍僧都(智証大師)」。
ちなみに、円珍は天台密教を完成すべく唐に渡たり、延暦寺第5代座主となり、そして園城寺(三井寺)を「寺門派」の拠点としています。
円珍の祖父「道善(別名:道麿)」は、76番「金倉寺」を開基、その弟「道隆」は、77番「道隆寺」を開基。
・76番 鶏足山 宝幢院 金倉寺
和気道善
縁起より。
金倉寺は、弘法大師の甥で天台宗寺門派の開祖「智証大師」が誕生した地。
縁起によると、弘法大師が生まれた宝亀5年に智証大師の祖父・和気道善(わけどうぜん)が建立し、
道善は「自在王堂」と名づけ、仁寿元年(851)11月に官寺となった際に開基の名をとって「道善寺」となりました。
その後、唐から帰朝した智証大師が唐の青龍寺にならって伽藍を造営、薬師如来を刻んで本尊に。
「金倉寺」になったのは928年、醍醐天皇の勅命で、地名の金倉郷にちなんだ寺名となったようです。
・77番 桑多山 明王院 道隆寺
和気道隆
縁起より。
和銅5年、この地方の領主、和気道隆公が桑の大木を切り、小さな薬師如来像を彫造し、草堂を建てたのが寺の初めといわれる。
道隆公は、周囲5メートル近い桑の大木が、夜ごと妖しい光を放っているのを見た。
この光を怪しみ矢を射ると、女の悲鳴があり、乳母が倒れて死んでいた。
嘆き悲しんだ道隆公は、その桑の木で仏像を彫り、草堂に安置して供養すると、不思議にも乳母は生き返ったという。
大同2年(807)、道隆公の子・朝祐公は唐から帰朝した弘法大師に懇願し、90ンチほどの薬師如来像を彫造、その胎内に父・道隆公の像を納めて本尊とした。
朝祐公は大師から授戒をうけて第2世住職となり、先祖伝来の財産を寺の造営にあてて七堂伽藍を建立、寺名は創建した父の名から「道隆寺」と号した。
第三世は弘法大師の実弟にあたる真雅僧正(法光大師)が嗣ついで二十三坊を建立し、
第四世の円珍(智証大師)は五大明王、聖観世音菩薩像を彫造して護摩堂を建立、
次の第五世聖宝(理源大師)の代には「宝祚祈願所」となっている。
○河野・越智一族
一遍上人、生誕地。
へリンク
文殊院八塚群集古墳なの?
。へリンク
|