お気楽、お四国巡り お四国の仏様

四国四県4つとも、仲良く札所は国分寺。支店長は誰?。

「ここの札所、デカイね。」
「昔は、もっとでかかった見たいよ。」
「国分寺って、日本史の授業で習ったでしょ。
聖武天皇が、日本の全国に建立したやつだからね。」
「奈良の大仏さんの分身をお祀りしてたらしいよ。」
「えー、分身だったの?。
だからデカイいんだ、ふふ。」
「・・・・・・・、ふー。」
「奈良の大仏さんの分身だったから、支店だったの?。」
「うっ、うーん、支店ね、はは。」
「それじゃ、支店長さんは誰だったの?。」
「ここのご本尊薬師如来さま?。」
「いやいや、もともとは釈迦如来さんです。」
「えっ、儲からないから、左遷されちゃった?。」
「・・・・・、し、しつれいな。」
「はは、薬師さんの方が、よく働いたことは確かだね。」

四国四県に必ずある、国分寺は4ヶ所。
四つとも広々とした境内です。
なんでも、日本史に必ず登場するお寺です。
それが、札所になっていました。

○国分寺

聖武天皇が、仏教による国家鎮護(凶作と疫病から万民を救う)のため、
天平 9年(737)、66ケ国ごとに、丈六釈迦像1体、脇侍2体の造像と、大般若経各1部の写経を命じた。
天平12年(740)、七重塔1基、七尺観音像1?の造立と法華経10部、観音経10巻の写しを命じた。
天平13年(741)、「国分寺・国分尼寺建立の詔」、国分寺を二寺に分って、
僧寺を「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」、
尼寺を「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」とした。
また、大和国の東大寺・法華寺が全国の国分寺・国分尼寺の総元締めとして、は総国分寺・総国分尼寺とされた。
天平15年(743)10月15日、「盧舎那大仏造立の詔」
東大寺が盧舎那仏(るしゃなぶつ)、法華寺が十一面観音。

○国家の安定を図る。

「金光明最勝王経」の霊験には、四天王が国を護るとあり、
日本の隅々にまで国分寺を建て、釈迦像、金光明最勝王経を安置することが必要と考えた。

○盧舎那如来

宇宙全体(蓮華蔵世界)の仏を意味し、
千の釈迦を出現・説法させると言われ、仏教世界の中心にいる如来です。

○釈迦如来から薬師如来へ

天平17年(745年)9月、聖武天皇の病気平癒のため、京師と畿内の諸寺に薬師悔過(けか)法要の実施を命ずる。
また諸国に「薬師仏像七躯高六尺三寸」の造立を命じた。
七仏薬師は病気と怨霊の祟りを鎮めると信じられ、745年聖武天皇が重病になり、新薬師寺の本尊に七仏薬師が造立された、
こののち全国に造営中の国分寺は、本尊「釈迦如来」から「薬師如来」に変更された。

○縁起(霊場会hpより)

・第15番札所 薬王山 金色院 国分寺 

本尊 薬師瑠璃光如来
開基 行基菩薩

阿波国分寺には聖武天皇から釈迦如来の尊像と『大般若経』が納められ、本堂には光明皇后のご位牌厨子を奉祀されたと伝えられている。
開基は行基菩薩で、自ら薬師如来を彫造し本尊としている。創建当初は奈良の法隆寺や薬師寺、興福寺と同じ南都の学派に属する法相宗であり、
寺領は二町四方で、ここに金堂を中心に七重塔も建つ壮大な七堂伽藍が整っていた。

・第29番札所 摩尼山 宝蔵院 国分寺

本尊 十一面千手観音像
開基 行基菩薩

聖武天皇(在位724?49)が『金光明最勝王経』を書写して納め、全国68ヶ所に国分寺を建立したのは天平13年のころ。
土佐では行基菩薩が開山し、天下の泰平と五穀の豊穣、万民の豊楽をねがう祈願所として開創された。歴代天皇からの尊信が厚く、加護をうけてきた。

・第59番札所 金光山 最勝院 国分寺 

本尊 薬師瑠璃光如来
開基 行基菩薩

国分寺は天平13年、聖武天皇(在位724?49)の勅願により行基菩薩が本尊の薬師如来像を彫造して安置し、開創したと伝えられる。
伊予国分寺。伊予の国府があったところで、この地域は伊予文化発祥の地ともいえる。往時の国分寺はいまの寺から150mほど東にあった。
東塔跡とみられる遺跡には13個の巨大な礎石があり、国の史蹟とされている。
礎石の配置等から推測される七重塔の高さは60mほどで、豪壮な七堂伽藍を構えた寺観は、伊予の仏教界に君臨した天平の昔をしのばせ、その面影をいまに残している。

・第80番札所 白牛山 千手院 国分寺

本尊 十一面千手観音像
開基 行基菩薩

寺の創建は聖武天皇の時代。勅命を受けた行基菩薩が巨大な十一面千手観音像を刻み、本尊としました。
創建当時の遺構をよく残した寺で、旧境内の全域が国の特別史蹟。本堂は、全面と背面に桟唐戸のある鎌倉中期に再建されたものです。
また周辺には創建当時の本堂の礎石・33個が点々と配置されていて、唐招提寺の金堂に匹敵する規模を思わせます。
また、山門の右手には七重の塔の礎石も残っており、現存していれば京都・東寺の五重塔を超す大塔だったといわれています。