お気楽、お四国巡り お四国の仏様

お大師さんも来たの?。宇佐神宮。

「おー、ここが天下にとどろいた宇佐神宮?。
デ、デカー。
本堂まで遠すぎ、はは。
パワースポットのご神木はどこ?、どこ?。」
「はー、お遍路旅じゃなくなってません?。
パワースポットめぐり?。」
「これ、これなのー、ほー。
それじゃ、おつとめ、おつとめ。
仏説を省いて、「摩訶般若波羅蜜多心経」。
・・・・・・。」
「・・・・・・、あのー、ここはお遍路に関係ないでしょ。
神社ですよ、神社。
お寺関係なし、神社。
お大師さんにも関係ないでしょ、なんで来たの?。
マイルール違反じゃない?。」
「はは、ルール違反じゃないよ。
お大師さんも、最澄さんもここへ来てますよ、来てます。」
「どこに、そんなことが書いてあるんだよ。」
「ここです、ここです。」
「・・・・・、うっ、ほんとだ、解説に書いてますね。
うわー、お不動さん?、坊さんも一杯いますよ、なんじゃこりゃ。」
「はは、昔は神仏習合ですからね。」
「へー、この絵巻物みたら、如実にわかりますね、ふむふむ。」
「はは、でしょ、お寺と関係あったでしょ。
それじゃ、最後に、

南無八幡大菩薩。
南無八幡大菩薩。
南無八幡大菩薩。」

「・・・・・、それってあんたが困ったときに、唱えてるヤツじゃん。
ひっとして、ここのやつ?。」

マイルールで、お大師さんの足跡を訪ねてやってきました。
そして、日本の歴史にかならず登場する神社です。
さらに、個人的ですが、困ったときの呪文で、「南無大師遍照金剛」より、
「南無八幡大菩薩」の方が口からでやすい?から、
総元締め?のここへやってきました。

○お大師さんとの関係

・上宮にある、絵画館の解説に掲載されていました。
これは、神仏習合がよくわかる絵巻物でした。

(HPより抜粋)

804年(延暦23) 最澄・空海、渡唐安全を宇佐宮に祈る。 
814年(弘仁5)  最澄、渡唐を願い、八幡大神、香春神に法華経を講ずる。 
823年(弘仁14) 空海、八幡神を東寺に勧請する。致祭を始める。

・「弘法大師行状絵詞伝」にあり

八幡神との合体霊像を彫る
八幡神と向き合って絵を描く

○四国の遍路との関係

伊予の57番 栄福寺。(縁起より)

貞観元年(859年)、僧、行教(ぎょうぎょう)上人が、
九州の宇佐八幡の分社を、京都の男山に建立するため、
瀬戸内海を往来中に、暴風雨に遭いこの地に漂着しました。
そして府頭山が男山に似ている事に驚き、
山頂の阿弥陀如来を本地仏として、
八幡神を祀り、神仏習合の八幡宮を建立したと伝えられます。

御詠歌

この世には弓矢を守る八幡(やはた)なり
来世は人を救う弥陀仏(みだぶつ)

讃岐の68番・神恵院、69番・観音寺(縁起より)

開基したのは法相宗の高僧・日証上人といわれています。
大宝3年(703)この地で修行中、宇佐八幡宮のお告げを受け、
かなたの海上で神船と琴を発見。琴弾山に引き上げ、「琴弾八幡宮」を建立して祀りました。
このとき、神宮寺として建てられた寺が起源とされています。
(大宝年間に九州の宇佐八幡神が弾琴の船にて海辺に現われ、
神船秘琴を山頂に引上げ御社、本地堂を建立し神宮寺宝光院と称したと伝えられます。)

○神宮情報

八幡総本宮 宇佐神宮
「http://www.usajinguu.com/index.html」


場所 大分県宇佐市大字南宇佐2859
TEL 0978-37-0001


○礼拝の仕方がちょっと違う。

「二礼四拍手一拝」。
普通の神社の「ニ拝二拍手一拝」です。
調べたら、出雲神社も、この礼拝の仕方でした。
神宮の方に、なんで四拍手なのかと聞いたら、わからないと言われました。

○仏教との関係

・年表から

宇佐神宮のHPにある年表を見たら、一目瞭然です。

・構造物から

神宮寺・阿弥陀寺跡。
住吉神社、北辰神社

○日本史の教科書に必ず掲載されている出来事

・奈良東大寺大仏建立の協力(HPより)

奈良の大仏は聖武天皇の発願で天平17年(745年)に制作が開始され、
天平勝宝4年(752年)に開眼供養会(かいげんくようえ)が行われました。
大仏を作るために使われた金属は銅499.0トン、すず8.5トン、金0.4トン、水銀2.5トンです。
聖武天皇は疫病や社会不安から国を鎮護するための国家的大事業として東大寺を建立していましたが、
天皇が沢山の費用を使って仏教寺院を建立すれば、貴族からどんな反対の意見が出るかもしれません。

そんな心配のある時に、宇佐の八幡神から

「われ天神地祇(てんしんちぎ)を率(ひき)い、必ず成し奉(たてまつ)る。
銅の湯を水となし、わが身を草木に交(まじ)えて障(さわ)ることなくなさん」
(八幡神は天の神、地の神を率いて、わが身をなげうって協力し、東大寺の建立を必ず成功させる)

という協力の託宣が出されました。

八幡神は天の神、地の神を率いて、わが身をなげうって協力し、東大寺の建立を必ず成功させるというのですから、
聖武天皇にとって、これほど心強いことはありません。
大仏に塗(ぬ)る金が不足すると金は必ず国内より出るという託宣を出し、やがて陸奥国から金が献上されてきました。

・勅使・和気清麻呂(わけのきよまろ)公に国のあり方を正してゆく神教を賜った(HPより)

神護景雲3(769)年、女帝・称徳天皇 (復祚:孝謙天皇)の寵愛を受け、
しばしば政治に介入していた僧・弓削道鏡(ゆげのどうきょう)は皇位を狙い、
「道鏡を皇位に就かせたならば国は安泰である」とするお告げが
宇佐八幡大神よりおろされたと太宰主神(だざいのかんづかさ)習宣阿曾麻呂(すげのあそまろ)という者にうその奏上をさせます。

宇佐神宮を深くご崇拝になっておられた天皇は、真相を確認するため、
すぐに官僚であった和気清麻呂公を派遣します。公は出発に際して次のような歌をお作りになりました。

西の海たつ白波の上にして
なにすごすらんかりのこの世を

清麻呂公は都を立って10日余りの旅程で宇佐神宮に着き、
斎戒沐浴して神殿にぬかづき、神護景雲3年(769)7月11日、
「我が国は開闢(かいびゃく)以来、君臣の分定まれり。
臣を以って君と為すこと未だあらざるなり。天津日嗣(ひつぎ)は必ず皇緒を立てよ。
無道の人は宜しく早く掃除(そうじょ)すべし。」とのお告げを受けます。

そこで八幡大神託宜奏記二通を作り、一通は神宮に納め、一通を陛下へご報告するものにして、
同月の21日に都に帰り着き御所へ報告しました。このとき清麻呂公は37歳でした。

道鏡の怒りをかった清麻呂公は、別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させられて脚(あし)の腱(けん)を切られた上、大隅国へ流されました。

その途中、暗殺を謀って送られた道鏡の刺客(しかく)から、突然の天地雷鳴や300頭あまりの猪の大群が和気清麻呂を護り、
さらに宇佐へ詣でたところ、道鏡に傷つけられた脚が回復するなど、八幡大神のご守護により数々の奇跡がおきたと伝えられています。

翌年の神護景雲4年8月4日(770)天皇が西宮神殿で崩御、光仁天皇が御即位になって年号を宝亀と改め、
同年9月6日清麻呂公は召し返され、翌宝亀2年3月29日(771)には元の位に着き、
9月16日に薩摩の国員外の介に任ぜられたが、間もなく豊前の守(かみ)に還されました。

公は古事にも通じ「民部省例(みんぶしょうれい)」や「和氏譜(わしふ)」を著し、
当時の大事業である平安遷都の大功を残しました。又道鏡は冠位をはがれ、
下野国薬師寺別当として赴任(ふにん)させられましたが、宝亀3年4月7日にその生涯を閉じました。