お気楽、お四国巡り お四国の仏様

うえー、やっぱり解説聞いたら恐った。安珍清姫伝説。

「龍と鐘?、鐘と蛇?なにかあるの?。」
「もー、いい加減にしたら、讃岐の81番国分寺の鐘のことでしょ。
伝説、伝説でしょ。」
「・・・・・・、そこを解きほぐすのが男のロマンでしょ。」
「はー、栗みたいな頭だから、マロン?。」
「・・・・・・、うう、女の人は食い気かよ、ふー。」
「ここかな、ここ?。
あんた、ここで有名な饅頭でも食べてたら、それじゃ。」
「えー、えー、なんでわたしが行ったらダメな理由あるの?。」
「・・・・・、ふー。」
「わたしも行くよ、えー、また階段?。」
「おっ、ご本尊ですか?。」
「そんなことより、解説聞きたいから、宝佛殿へ入るよ。」
「今日は、散策無しで、いきなり入るの、なぜ?解説?。」
「えー、なんですこれ?。」
「うえー、すげー、やっぱり女の人は、恐いよー。」
「・・・・・、うるさーい、あんたも、その鐘の中に入れば?。」
「はは、本物はここに無いから大丈夫でーす。」
「そう言えば、あんたの干支は、なんだっけ?。」
「龍です。」
「ふー、よかった、はは。」

讃岐の81番国分寺にある鐘。
これの由来に龍がかかわっていました。
そう言えば、和歌山にも、鐘と蛇の伝説があったことを思い出して、
西国巡礼中に寄ってみました。
リアル恐怖ですが、仏教のご加護はなかったというこしですね。

○お寺情報

天音山 道成寺「http://www.dojoji.com/index.html」

場所 和歌山県日高郡日高川町鐘巻1738
電話 0738-22-0543

○安珍清姫の悲恋物語(HPより)

 延長六年(929)、奥州から熊野詣に来た修行僧・安珍は、
真砂庄司の娘・清姫に一目惚れされた。
清姫の情熱を断りきれない安珍は、
熊野からの帰りに再び立ち寄ることを約束した。

 約束の日に安珍は来ない。
清姫は旅人の目もかまわず安珍を追い求める。
「そこなる女房の気しき御覧候へ」
「誠にもあなあな恐ろしの気色や」

 やっと安珍に追いついたものの、
人違いと言われて清姫は激怒。
「おのれはどこどこ迄やるまじきものを」
安珍は「南無金剛童子、助け給え」と祈る。

 祈りで目がくらんだ清姫、安珍を見失い更に逆上。
清姫の怒りと悲哀
「先世にいかなる悪業を作て今生にかかる縁に報らん。
南無観世音、此世も後の世もたすけ給へ」

 日高川に到った安珍は船で渡るが、
船頭は清姫を渡そうとしない。
遂に一念の毒蛇となって川を渡る。
この場面から文楽の「日高川入相花王」ができた。
舞台もいよいよ道成寺へ。

 道成寺に逃げ込んだ安珍をかくまう僧。
「その鐘を御堂の内に入れよ、戸を立つべし」
女難の珍客に同情しない僧も。
「ひきかづきて過ちすな」「ただ置け、これほどのものを」

  「この蛇、跡を尋ねて当寺に追い到り・・・
鐘を巻いて龍頭をくわえ尾をもて叩く。
さて三時余り火炎燃え上がり、人近付くべき様なし。」

 安珍が焼死、清姫が入水自殺した後、
住持は二人が蛇道に転生した夢を見た。
法華経供養を営むと、二人が天人の姿で現れ、
熊野権現と観音菩薩の化身だった事を明かす。

○今昔物語 巻第十四 第三

紀伊の國の道成寺の僧、窮法花救蛇語(ほくヱをうつしてじやをすくへること) 第三

 今は昔、熊野に参る二人の僧有けり、一人は年老たり、一人は年若くして形めう美麗也。
牟婁の郡に至て、人の屋を借て、二人共に宿ぬ。其の家の主、やもめにして若き女也、女の従者二三人許有り。
 此の家の主の女、宿たる若き僧の美麗なるを見て、深く愛欲の心をおこして、懃に勞り養ふ。
而るに、夜に入て、僧共既に寝ぬる時に、夜半許に家の主の女、竊に此の若き僧の寝たる所に這ひ至て、衣を打覆て並び寝て、僧を驚かす。
僧、驚き覚て、恐れ迷ふ。女の云はく、「我が家には更に人を不宿ず。而るに、今夜、君を宿す事は、晝、君を見始つる時より、夫にせむと思ふ心深し。
然れば、『君を宿して本意を遂げむ』と思ふに依て、近き来る也。我れ、夫无くしてやもめ也。君、哀と可思き也」と。
僧、此れを聞て、大きに驚き恐れて起居て、女に荅て云く、「我れ、宿願有るに依て、日来、身心精進にして、遥の道を出立て、権現の寶前に参るに、忽に此にして願を破らむ、互に恐れ可有し。然れば、速に君、此の心を可止し」と云て、強に辞ふ。
女、大きに恨、終夜、僧を抱て擾乱し戯ると云へども、僧、様※の言を以て、女を誘へて云く、「我、君の宣ふ事辞ぶるには非ず。然れば、今、熊野に参り、両三日に御明・御幣を奉て、還向の次に、君の宣はむ事に随はむ」と約束を成しつ。
女、約束を憑て、本の所に返ぬ。夜あけぬれば、僧、其の家を立て熊野に参ぬ。
 其の後、女は約束の日を計へて、更に他の心无くして僧を戀て、諸の備へを儲て待つに、僧、還向の次に、彼の女を恐れて、不寄して、思他の道より迯て過ぬ。
女、僧の遅く来を待ち煩ひて、道の邊に出で、徃還の人に尋ね問ふに、熊野より出づる僧有り。
女、其の僧に間て云く、「其の色の衣着たる、若く老たる二人の僧と還向しつる」と。
僧の云く、「其の二人の僧は早く還向して両三日に成ぬ」と。
女、此を事を聞て、手を打て、「既に他の道より 迯て過にけり」と思ふに、大にいかりて、家に返て寝屋に篭居ぬ、音せずして暫く有て、即ち、死ぬ。
家の従女等、此れを見て泣き悲む程に、五尋許の毒蛇、忽に寝屋より出ぬ、
家を出でヽ道に趣く。熊野より還向の道の如く走り行く。人、此れを見て、大きに恐れを成す。
 彼の二人の僧、前立て行くと云へども、自然ら、人有て告て云く、「此の後ろに奇異の事有り。五尋許の大蛇出来て、野山を過ぎ、疾く走り来る」と。
二人の僧、此れを聞て思はく、「定めて、此の家の主の女の、約束を違ぬるに依て、悪心をおこして、毒蛇と成て追て来るならむ」と思て、
疾く走り迯て、道成寺と云ふ寺に迯入ぬ。寺の僧共、此の僧共を見て、云く、「何に事に依て走り来れるぞ」と。
僧、此の由を具に語て、可助き由を云ふ。寺の僧共、集て此の事を議して、鍾を取下して、此の若き僧を鍾の中に篭め居へて、寺の門を閇づ。
老たる僧は、寺の僧に具して隠れぬ。
 暫く有て大蛇、此の寺に追来て、門を閇たりと云へども、超て入て、堂を迴る事一両度して、此の僧を篭めたる鍾の戸の許に至て、尾を以て扉を叩く事百度許也。
遂に扉を叩き破て、蛇、入ぬ、鍾を巻て、尾を以て龍頭を叩く事、二時三時許也。
寺の僧共、此を恐ると云へども、恠むで、四面の戸を開て、集て此れを見るに、毒蛇、両の眼より血の涙を流して、頚を持上て舌嘗づりをして本の方に走り去ぬ。寺の僧共、此れを見るに大鐘、蛇の毒熱の氣に被焼て炎盛也、敢て不可近付ず。
然れば、水を懸て鍾を冷して、鍾を取去て僧を見れば、僧、皆、焼失て、骸骨尚し不残ず、纔に灰許り有り。
老僧、此れを見て、泣き悲むで返ぬ。
 其の後、其の寺の上臈たる老僧の夢に「前の蛇よりも大きに増れる大蛇、直ちに来て、此の老僧に向て申して云く、『我は此れ、鍾の中に篭め置し僧也、悪女、毒蛇と成て、遂に、其の毒蛇の為に被領て、我れ、其の夫と成れり。
幣く稜き身を受て苦を受る事、量无し。今此苦を抜かむと思ふに、我が力更に不及ず。
生たりし時に法花経を持きと云へども、「願わくは聖人の廣大の恩徳を蒙て、此の苦を離れむ」と思ふ。
殊に、无縁の大慈悲の心をおこして、清浄にして法花経の如来壽量品を書寫して、我等二の蛇の為に供養して、此の苦を抜き給へ。
法花の力に非ずはヽ何か免るヽ事を得む』と云と返去ぬ」と見て、夢覺ぬ。
 其の後、老僧、此の事を思ふに、忽に道心をおこして、自ら、如来壽量品を書寫して、衣鉢を投げて諸の僧を請じて、一日の法會を修して、二の蛇の苦を抜かむが為に供養し奉つ。其の後、老僧の夢に「一の僧・一の女有り。皆咲を含て喜たる氣色にて、道成寺に来て、老僧を礼拝して云く、『君の清浄の善根を修し給へるに依て、我等二人、忽に蛇身を奔てヽ善所に趣き、女はたう利天に生れ、僧は都率天に昇ぬ』と。如此く告畢て、各別れ、空に昇ぬ」と見て、夢覺ぬ。
 其の後、老僧、喜び悲むで、法花の威力を弥よ貴ぶ事无限し。實に、法花経の霊験掲焉なる不可思議也。
新たに蛇身を弃てヽ天上に生るヽ事、偏に法花の力也。此を見聞く人、皆、法花経を仰ぎ信じて、書寫し讀誦しけり。
亦、老僧の心難有し。其れも、前生の善知識の至す所にごそ有らめ。
 此を思ふに悪女の僧に愛欲をおこせるも、皆、前生の契にこそは有らめ。
 然れば、女人の悪心の猛き事、既に如此し。此に依て、女に近付く事を佛強に誡め給ふ。此を知て可止き也となむ語り傳へたるとや。


○鐘は別の寺にあった。

妙満寺hpより

 「鐘に恨みは数々ござる」で知られる紀州道成寺の霊話は長唄、歌舞伎等の芸能に取り入れられています。その物語に縁あるこの鐘は数奇な運命で当山に伝わりました。
 正平14年(1359)3月31日、道成寺では安珍・清姫の伝説以来、永く失われていた鐘を再鋳し鐘供養を盛大に営みました。すると、その席に一人の白拍子が現われ、舞い終わると鐘は落下し、白拍子は蛇身に変わり日高川へと姿を消してしまいます。その後、近隣に災厄が続いたため、清姫のたたりと恐れられた鐘は山林に捨て去られました。
 それから200年あまり経った天正年間、その話を聞いた「秀吉根来攻め(1585)」の大将・仙石権兵衛が鐘を掘り起こし京都に持ち帰りました。そして、時の妙満寺貫首日殷大僧正の法華経による供養で怨念を解かれ、鳴音美しい霊鐘となったと伝えられます。

・「安珍・清姫」の鐘由来

紀州道成寺が文武天皇妃・宮子姫の奏上により、大宝元年(七〇一年)に建立されてから二百三十年余りが経ったときのことです。
醍醐天皇の延長六年(九二八年)八月、奥州白河(福島県白河市)の「安珍」という修験者が熊野へ参詣する途中、紀州室の郡・真砂の庄司清次の館に一宿を求めました。そのとき、庄司の娘「清姫」が安珍に思いをよせて言い寄りました。安珍は「熊野参詣を済ませたら、もう一度立ち寄る」と約束しましたが、その約束を破り立寄らずに帰途に就いてしまいました。
そのことを知った清姫は激怒して安珍の後を追いかけます。日高川にかかると清姫は蛇身となり、もの凄い形相で川を渡り、ついに道成寺の釣鐘に隠れた安珍を見つけます。清姫は、鐘をきりきりと巻くと、炎を吐き、三刻(約四〇分)あまりで鐘を真赤に焼き、安珍が黒焦となって死ぬのを見て、自らも日高川に身を投じてしまいました。
この後、正平十四年(一三五九年)三月十一日、源万寿丸の寄進で道成寺に二度目の鐘が完成した祝儀の席でのこと。一人の白拍子が現れ、舞いつつ鐘に近づきました。すると、白拍子は蛇身に身を変え、鐘を引きずり降ろすと、その中に姿を消しました。僧達は「これぞ清姫の怨霊なり」と一心に祈念して、ようやく鐘は上がったのですが、せっかくの鐘も宿習の怨念のためか音が悪く、また近隣に悪病災厄などが相次いで起こったため山林に捨て去られました。
この話が後年脚色され、長唄、舞踊、能楽など、芸能界最高の舞曲である「娘道成寺」となりました。
その後、二百年余りを経た天正年間、秀吉の根来攻め(一五八五年)の時、家来の仙石権兵衛がこの鐘を拾って陣鐘(合戦の時に合図に使う鐘)として使い、そのまま京都に持ち帰りました。そして、安珍・清姫の怨念解脱のため、経力第一の法華経を頼って妙満寺に鐘を納めました。
この鐘は何度か出開帳されていますが、現在でもこの妙満寺に安置されております。また、道成寺を演じる芸能関係の方々は、妙満寺に参詣してこの鐘に舞台の無事を祈ったそうで、かつては市川雷蔵、若尾文子などが訪れたほか、現在も芸道成就を願う多方面の芸能関係者がお参りに訪れます。

妙満寺「http://www.kyoto.zaq.ne.jp/myomanji/index.htm」

場所 京都市左京区岩倉幡枝町91
TEL  075-791-7171

○祟り

・二度目の鐘

 祝儀の席に一人の白拍子が現れ、舞いつつ鐘楼に近づき、蛇身に変わって、鐘を引きずり下ろし、その中に姿を消した。
道成寺の僧達は「これぞ清姫の怨霊なり」と必死に祈念して、鐘は上がったのだが、せっかくの鐘も宿習の怨念のためか、鳴る音がおかしく、近隣に悪病災厄が相次いで起こったため、山林に捨てられてしまった。

・二百年あまりを経た天正年間・戦国の世。

 豊臣秀吉の紀州攻めのおり、この戦に参加した侍大将仙石権兵衛秀久の軍勢が、この鐘を戦利品とばかりに拾って持ち去り、陣鐘(合戦の時に合図に使う鐘)にしようと京都まで運ぼうとしたが、行軍の途中、京洛の手前で重い鐘を乗せた台車が坂を登りきれず、やむなく土中に埋められてしまった。
 近隣にただならぬことが相次いだため、不審に思った村人たちによって掘り出され、天正十六(1588)年に経力第一の法華経を頼り、時の妙満寺貫首・日殷大僧正の供養によって、鐘にまつわる怨念は解け、鳴音美しい鐘となって今日に至るまで伝わっている。


○京鹿子娘道成寺(きょうがのこむすめどうじょうじ、日本舞踊 長唄)

花の外には松ばかり 花の外には松ばかり
暮れ染めて鐘や響くらん

鐘に恨みは数々ござる初夜の鐘を撞時は
諸行無常と響くなり

後夜の鐘を撞く時は是生滅法と響くなり

晨朝の響きは生滅滅巳
入相は寂滅為楽と響くなり聞いて驚く人もなし

我も五障の雲晴れて 真如の月を眺め明かさん


言わず語らぬ我が心
乱れし髪の乱るるも
つれないは只移り気な
どうでも男は悪性者(あくしょうもの)

桜々とうたわれて言うて袂のわけ二つ
勤めさえただうかうかと
どうでも女子は悪性者(あくしょうもの)

都育ちは蓮葉(はすは)なものじやえ

恋の分里 武士も道具を伏編笠(ふせあみがさ)で
張りと意気地の吉原
花の都は歌でやわらぐ敷島原(しきしまばら)に
勤めする身は誰と伏見の墨染
煩悩菩堤の撞木町(しゅもくまち)より
難波四筋(なにわよすじ)に通い木辻(きつじ)に
禿立ち[かむろだち]から室の早咲きそれがほんに色ぢゃ
一イ二ウ三イ四ウ 夜露雪の日
下の関路も共に此の身を馴染重ねて 仲は丸山
ただ丸かれと 思い染めたが縁じやえ


梅とさんさん桜は
何(いず)れ兄やら弟やら
わきて言われぬな
花の色え

菖蒲杜若は
何(いず)れ姉やら妹やら
わきて言われぬな
花の色え

西も東もみんなに見にきた花の顔
さよえ
見れば恋ぞ増すえ
さよえ
可愛らしさの花娘


恋の手習つい見習いて
誰れに見しょとて
紅鉄漿つけよぞみんな主への心中立て
おお嬉し
おお嬉し

末はこうじやにな

さうなる迄は
とんと言わずに済まそぞえと
誓紙さえ偽りか
嘘か誠か
どうもならぬほど逢いに来た

ふっつり悋気(りんき)せまいぞと
たしなんで見ても情なや
女子には何がなる
殿御殿御の気が知れぬ
気が知れぬ
悪性な悪性な気が知れぬ
恨み恨みてかこち泣き
露を含みし桜花
さわらば落ちん風情なり


面白の四季の眺めや
三国一の富士の山雪かと見れば
花の吹雪か吉野山
散り来る散り来る嵐山

朝日山々を見渡せば
歌の中山石山の
末の松山いつか大江山
生野の道遠けれど
恋路に通う浅間山
一と夜の情け有馬山
いなせの言の葉
あすか木曽山待乳山
我が三上山祈り北山稲荷山
縁を結びし妹背山二人が中の黄金山
花咲くえいこの この姥捨山
峯の松風音羽山
入相の鐘を筑波山
東叡山の
月のかんばせ三笠山


ただ頼め
氏神様が可愛がらしやんす
出雲の神様と約束あれば
つい新枕(にいまくら)
廓(さと)に恋すれば浮世じやえ

深い仲じやと
言い立てて
こちゃこちゃこちゃよい首尾で
憎てらしい程いとしらし

花に心を深見草
園に色よく
咲初めて紅をさすが品よくなりよく
ああ姿優しやしおらしや
さっさそうじゃいな
そうじゃいな


皐月五月雨(さつきさみだれ)
早乙女早乙女(さおとめ)
田植唄田植唄(たうえうた)

裾や袂を濡らした
さっさ
花の姿の乱れ髪
思えば思えば恨めしやとて

竜頭に手を掛け飛ぶよと見えしが
引きかついでぞ失せにける


謡うも舞うも法の声
エエ何でもせい何でもせい

春は花見の幕ぞゆかしき

夏は屋形の船ゆかし
ヨイヨイヨイヨイヨイ
ありゃりゃこりゃりゃ
よいとな

秋は武蔵野月ぞゆかしき

冬は雪見の亭ゆかし
ヨイヨイヨイヨイヨイ
ありゃりゃこりゃりゃ
よいとな

浮きに浮かれて
第一中有に迷うた
懺悔懺悔
六根罪障
南無不動明王 南無不動明王
ああ何でもせい ああ何でもせい
動くか動かぬか
曩謨三蔓陀縛日羅南
こりや動かぬぞ
真言秘密で責めかけ責めかけ
数珠のありたけやっさらさ やっさらさ

旋侈摩詞櫓遮那
何のこっちゃえ
婆姿多耶呼多羅
何のこっちゃえと祈りける


謹請東方青竜清浄(きんぜいとうぼうしょうりゅうしょうじょう)
謹請西方白体白竜(きんぜいさいほうびゃくたいびゃくりゅう)
一大三千大千世界の恒沙(ごうしゃ)の竜王

哀愍(あきみん)納受哀愍頻の砌なれば
何処に恨みの有るべきぞと
祈り祈られ飛び上り
御法の声に金色の花を降らせし其の姿
実(げ)にも妙なる奇特かや


○海女伝説

ここのお寺で知ったのが、「宮子姫伝記」。
讃岐の86番志度寺の「海女の玉取物語」で共通するのが、
藤原不比等と海女です。

志度寺では、海女と結婚して、「房前」が生まれた。
道成寺では、海女を養女にした、そして文武天皇の夫人となった。

○宮子姫伝記(HPより)

今から1300年前、
九海士(現在の和歌山県御坊市湯川町下富安)の
村長に娘が生まれましたが、髪の毛が全く生えませんでした。
時を同じくして、九海士の入り海に光るものが現れ不漁が続きました。
髪の無い娘の母が海底に探りに行くと、小さい観音様が光り輝いていました。

命がけで海底から引き揚げ、毎日拝んでいると、娘にも髪が生え始め、
村人から「かみなが姫」と呼ばれる美少女に成長しました。
その姿が都人の眼にとまり…
かみなが姫は藤原不比等の養女として奈良に召し出され、
宮子姫という名を貰い、宮中に仕えることとなりました。

宮子姫は、その美貌と才能を見込まれ、持統天皇十一年(697)に
文武天皇の夫人に選ばれました。
宮子姫は、黒髪を授けてくれた観音様と両親を粗末な所に
残してきた事を悩んでいました。

 文武天皇は宮子姫がご恩返しをするための寺を
建てることを命じ、大宝元年(701)道成寺が
建てられました。