「ふー、ふー、賽の河原、賽の河原、ふー。」
「まだ、まだ、まだなの?。」
「赤い階段が見えてきましたよ。」
「うう、まだまだ、ですね。」
「鐘楼があるけど、突きます。」
「体力温存です、ふふ、ふー。」
「階段、ガタガタ、滑らないよね、ふー。」
「おーい、もうすぐですよ、もうすぐ。」
「えー、まだまだ、だよ、ふー。」
「絶景、絶景ですよ。」
「いいよね、そこで休めて、うう。」
「ふー、ふー。」
「おつとめするよ。」
「えー、呼吸困難です、ちょっとお待ちください。」
「「なむ だいし へんじょう こんごう」・・・・・・。
さとて、次は大師堂?。」
「あの、「へ、へ、へ」のデザインはなんです。」
「・・・・、えっ、あの磨崖佛?。」
「へ、へ、へ」?って、あれは、雨よけでしょ、風化防止じゃない?。」
「なーんだー、デザインじゃないの?、なーんだ。
ふふ、しらなくて、ごめんないさい、阿弥陀様。
なむあみだぶつ、なむあみだぶつ、なむあみだぶつ・・・・・・・。」
「あれ、あの仏様が阿弥陀様なのは知ってたの?。」
「これ、超有名ですからね。 ガイドブックに必ず載ってますよ。」
「へー、だったら、ここが極楽浄土って知ってました?。」
「えー、えー、えー、えー。」
讃岐の71番弥谷寺。
本堂手前に崖にレリーフされた阿弥陀三尊。
札所でもここだけじゃないでしょうか。
ここが極楽浄土を形成してるそうです。○比丘尼谷の磨崖佛(まがいぶつ)
鎌倉時代の磨崖佛、「比丘尼谷」と呼ばれる崖の面に、彫り込まれた舟形光背の中に、
阿弥陀三尊像(向かって右 観音菩薩、真ん中 阿弥陀如来、向かって左 勢至菩薩)が半肉彫りされています。
風化が激しく、舟形光背の彫り込み上部に沿って、コンクリートで補強されたひさしがありますが、致し方ないと言うことですね。
ここは、お墓なので、極楽浄土ということで、阿弥陀三尊ですね。
だけど、この札所のみどころといえばみどころですが、 写真はちょっとね。
みなさん普通、お墓で写真は撮りませんよね。
・県指定史跡 昭和四十三年六月指定(境内案内板より)
三尊像は南面する約十二米の岸壁に陽刻されて居り、中央の阿弥陀如来は約一米、左右の観音、勢至両菩薩共に約九十糎、全体によく整って温和な表情をたたえている。
この像の左右岩肌には南無阿弥陀佛と陰刻された、六字の名号九行あり、これに関連して上方本堂付近の岸壁には無数の納骨穴が彫られている。
この納骨穴に対する回向の為、下方の阿弥陀三尊及び六字の名号が刻まれたものと思われる。
従ってこれらは平安から鎌倉にかけてのものではないかと言われて居り、或いは大師の作かともいわれている。
・磨崖佛の印
よくよく見てみたら、阿弥陀様は、座像です。
そして手のジェスチャーは、両手とも足の上にあるみたいなので、 上品上生、上品中生か上品下生じゃないでしょうか。
風化が激しくて、肝心の手のところがわかりません。
・比丘尼谷
ここの場所が比丘尼谷とありますが、比丘尼とは熊野比丘尼のことでしょうか。 だとしたら、熊野権現が関係するところかな?。
○石仏(本堂の裏手)
石仏?が何体か、崖?の壁面に鎮座していました。 阿弥陀如来でしょうか?。
この祀り方は、どんな意味しているのでしょうか?。
○賽の河原
仁王門から、法雲橋(灌頂川(三途の川))までの参道に、お地蔵さんがいます。
お地蔵さんといえば、宝珠と錫杖を持っているものが普通なんですが、ここのお地蔵さんは合掌しています。
○大師堂の磨崖佛(下記の「四国遍路日記」澄禅の朱書き部分)
大師堂の奥にある獅子窟。 獅子が吠えているように見えるから、獅子窟と言われているそうです。
ここのそれぞれの壁に磨崖佛がありました。
ご利益
獅子が厄災罪科を食いつぶして、現世の安穏と後世の極楽を成就してくれます。
曼荼羅壇があり(お大師さんのお父さん、お母さん、お大師さんの三像石仏がいます)、
そして、磨崖佛は、「曼荼羅壇」を三方に囲み、
奥壁に
阿弥陀如来の二体の坐像
側壁に
金剛界と胎蔵界の大日如来坐像が二体 地蔵菩薩坐像が左右対称的に陽刻(浮き彫り)されています。
左の奥壁に
地蔵菩薩が二体あり、左右の側壁に対照的に陽刻(浮き彫り)されています。
○十王堂
賽の河原があれば次に閻魔様なので、探したらありました。
石積みの台に乗っているお大師さんの後方にありました。
○金剛拳大菩薩(解説より)
十六大菩薩の一尊で、十六大菩薩の最後に位置します。
衆生を輪廻の苦から解き放ち、安楽の境界へと結びつけるといわれ、 元禄年間に住持の覚林が造立したものといわれています。
・十六大菩薩
金剛薩堹、金剛王、金剛愛、金剛喜 金剛宝、金剛光、金剛幢、金剛笑
金剛法、金剛利、金剛因、金剛語 金剛業、金剛護、金剛牙、金剛拳
○参照
どこまで登れば本堂なのへリンク
○四国八十八ケ所の磨崖佛
讃岐の
71番弥谷寺(本堂の周辺の壁) 85番八栗寺(本堂左手の階段の、左手の壁)
○71番弥谷寺の磨崖仏。
有名なのが本堂へ至るところの岸壁に掘られた, 阿弥陀三尊ですが,写真を撮っている中で,
気が付いたのが,参道等にある巨大な岩石(岩盤)に掘られているのが, 三か所ほどあった。 ある意味,写真判定なんですけどね。
1.賽の河原
仁王門から階段を上ったところ。
2.赤い階段
たもと
3.びらんじゅ
多宝塔の近くにあるびらんじゅのよこ
4.本堂
裏手(ここは三尊と同じ岩盤)
○「四国遍路日記」澄禅
十日、寺(本山寺)を立ちて北へ行く事三里、弥谷の麓辺路宿に一宿す。子の刻より雨降る。十一日、天気故、巳の刻に宿を出で行く。
弥谷寺、劔五山千手院。先づ坂口に二王門在り、ここにりは少しでも高き石面には仏像或は五輪の塔を数知らず彫り付け給へり。
自然石に楷を切り付けて寺の庭に上る。 寺は南向き、持仏堂は西向きに巌に指しかゝりたる所を、広さ二間半奥へは九尺、高さ人の頭のあたらぬ程にいかにも堅固に切り入りて、
仏壇は一間奥へ四尺に是も切り入りて、左右に五如来を切り付け給へり。
中尊は大師の御影木像、左右に藤新大夫夫婦を石像に切り給ふ。
北の方の床は位牌壇也。又正面の床の脇に護摩木棚二段に在り。東南の二方にしき居鴨居を入れて戸を立てる様にしたり。
扨、寺の広さ庭より一段上りて鐘楼在り、又一段上りて護摩堂在り、是も広さ九尺ばかり二間に岩を切りて口には戸を仕合せたり。
内には本尊不動、其の外の仏像何れも石也。
夫れより少し南の方へ往きて水向在り、石の面に二寸五歩の刷毛を以て阿字を遊ばし彫り付け給へり、廻りは円相也。
今時の朴法骨多肉の筆法也。其の下に岩穴在り、ここに死骨を納る也。
水向の舟は中にきりくの字、脇に空海と有。
其のあたりに、石面に、五輪を切りつけ給ふ事幾千万と云ふ数を知らず。
又一段上りて阿弥陀の三尊、脇に六字の名号を三くだり宛六つ彫り付け給へり、九品の心持となり。
又一段上りて本堂在り、岩屋の口に片軒ばかり指しをろして立ちたり、片はえ造りとかや云ふ。
本尊千手観音也、其の周りの石面に五輪ひしと切りつけ給へり。其の近所に鎮守蔵王権現の社在り。 山中石面は一つも残らず仏像を切り付け給へり。
扨、札を納め、読経念誦し件の護摩堂へ戻り、北へ通りて猶ほ北峯へ上る。
○振り返ってはいけない?
ここは、死者の霊が帰る「仏の山」として、昔から近在近所、瀬戸内海の対岸からも信仰を集めていました。
最近、ここに、「振り返ってはいけない」と言われているのは、ちょっと間違っていますと解説書が貼ってありました。
イザナミとイザナギの黄泉の国の話しと、混同されていると言うことでしょうか?。
それと、解説書からみて、この山が「姥捨て山」だっということでしょうか?。
イヤダニマイリ(解説書より)
水場之洞窟へ参拝し、弥谷山に住む仏様に、後世利益や現世利益の願いが届くようお願いする儀式です。
「振り返ってはいけない」とは、悲しみのあまり下山できずにいると阿弥陀如来が現れ、
「振り返って悲しむばかりでは、母の身を安じ極楽浄土へ旅立てない。」と諭したという伝説が語つがれたもので、
実際に後ろを向いてはいけないという意味ではありません。
前を向き生きていく事が大切だという阿弥陀如来の説法をこの機会に、今一度、観じて頂ければ幸いです。
○山へ行く、帰る?。
カンナビ信仰でしょうか、このお寺には霊魂が山へ帰る、登るという考え方があります。 これに似たものが、何箇所かあるみたいです。
・阿波
11番切幡寺、12番焼山寺、18番恩山寺、20番鶴林寺、21番太竜寺、23番薬王寺
・土佐
23番最御崎寺、32番禅師峰寺
・伊予
45番岩屋寺、60番横峰寺、65番三角寺
・讃岐
71番弥谷寺、81番白峰寺、88番大窪寺
○岩窟の墓?
瑞巌寺(宮城県宮城郡松島町松島字町内91)にあるものが、霊気がただよって強烈だった。
大谷石で有名な岩石と同じ岩質だそうです。 ここの岩質も同じじゃないかな。
○四国八十八ヶ所霊場開創1200年 1月1日~H27年3月10日
四天王五鈷鈴がおいてあったけど、この五鈷鈴は五鈷の部分が猛禽類のツメ(龍のツメ)みたいだった、 さらに四天王の間にも仏様がいたけど、誰だろう。(よくよくみたら、五鈷の柄の部分が顔に見えたのでした)
大師堂本尊の厄除大師は320年ぶりのご開帳だそうです。
五色の綱が厄除大師の裏手の弘法大師と連結していて、ダブル結縁でした。
香川大学資料より
1.石と土の産業と文化の里
三豊市三野町は、新第三紀中新世の讃岐層群を山頂にいただく爺神山(とかみやま)などの孤立丘や天霧山(標高360.4m)や七宝山(標高390m)などの山塊に囲まれた古三野湾が陸地になった低地にあります。
古三野湾の奥には古代の藤原京の瓦を生産した宗吉瓦窯跡がありました。
また中世には弥谷山(いやだにやま)・天霧山山麓の凝灰岩(天霧石)が石造物の石材として採石されました。
近世以降この地域の石は忘れ去られましたが、戦後、爺神山,汐木山,天霧山などで安山岩が砕石として採掘され、山の形が大きく変わりました。
三豊市は古代から続く石や土を利用した産業と文化の遺産があります。
2.地形と地質
(1)爺神山
爺神山では標高60~70m付近に花崗岩と讃岐岩質安山岩との境界があります。この境界は貫入面で貫入面付近の安山岩は破砕され火道角礫岩となっています。
爺神山は汐木山と同じ円錐形の美しい山体でしたが、採石のため山体は大きく変わりましたが、爺神山をつくったマグマが貫入したダイナミックな活動を見ることができるようになりました。
(2)弥谷山・天霧山
弥谷山(標高381.6m)および天霧山の頂上付近では讃岐岩質安山岩(両輝石安山岩)が急斜面を形成し、その下の標高約100~250mには火山礫凝灰岩~凝灰角礫岩が分布し、
標高約100m以下の基盤は花崗岩類から構成されています。
弥谷山(標高382m)の南斜面は大規模な崩壊跡で、その中腹に71番札所弥谷寺があります。
弥谷寺は凝灰岩類の採掘跡を利用して建てられ、凝灰岩をくり抜いた洞穴や岩壁を刻んだ摩崖仏などの見どころが豊富です。
弥谷寺(いやだにじ)
③火山礫凝灰岩
道の駅北側斜面の切土法面では、火山礫凝灰岩~凝灰角礫岩が露出しています。
この凝灰岩類は、緩く傾斜した層理面があることから、水中で堆積したことがわかります。
同種の凝灰岩は天霧石と呼ばれ、中世の石造物などに利用されました。
④火山礫凝灰岩転石
弥谷山の中腹にある71
番札所弥谷寺の参道には凝灰角礫岩の崩落岩塊が点在しています。 弥谷山の南斜面は大規模な崩壊跡なのです。
⑤香川氏代々の墓
弥谷寺境内には天霧城主香川氏代々の墓があります3)。 墓石の凝灰岩(天霧石)は風化が著しく、400 年以上の風雪がしのばれます。
⑥獅子岩窟
弥谷寺は凝灰岩類の岩壁を利用して建てられました。
大師堂には凝灰岩を掘削した洞穴に阿弥陀如来、弥勒菩薩、大師像を安置した弥谷寺奥の院「獅子岩窟」があります。
⑦凝灰岩の磨崖仏
本堂に至る岩壁には磨崖仏が刻まれており、鎌倉時代の作と伝えられています。
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