「ふー、何回来ても遠いな、遠すぎる。」 「それが修行じゃないの?。」 「・・・・・・、ふー。」 「これ、前から気になっていたけど、これ、なんですか?。」
「えー、これ知らないの?。えー、お遍路の勉強してるの?。」 「・・・・・・、ふー。」 「見てのとおりです、「南無阿弥陀仏」です。」
「そりゃ、私でも読めますよ、はは。」 「この布切れをもってたら、閻魔大王様の前も素通りOKで、極楽浄土間違いなしってやつ?。」
「・・・・・・・、厄除け、病気平癒、それと安産です。」 「はー、極楽浄土の切符じゃないの?、なんだガッカリ。」
「もー、南無阿弥陀仏で極楽浄土は、「いいくにつくろう」の鎌倉幕府でしょ。」 「「なくよ平安京」のお大師さんのときと違いますよ。」
「だけど、これお大師さんの直筆じゃないの?。」 「・・・・・・。」 「それより、観自在って名前なのに、なんで阿弥陀如来がご本尊なの?。」
「・・・・・・、うーん、観音様が祟るから、阿弥陀さんにバトンタッチしたんじゃない?。」 「はー、どういうこと?。」
伊予の40番観自在寺。 本堂のお守り売り場に、薄汚れた布?があります。 「南無阿弥陀仏」とかかれています。
お大師さんとくれば、「南無大師遍照金剛」なんですが、「南無阿弥陀仏」と書かれているほうが、 ご利益があるということですね。
○縁起
・霊場会hpより
弘法大師が大同2年に平城天皇(在位806-09)の勅命を受けてこの地を訪れ、
1本の霊木から本尊の薬師如来と脇侍の阿弥陀如来、十一面観音菩薩の三尊像を彫造して安置し、開創したとされている。
このとき、残った霊木に「南無阿弥陀仏」と6字の名号を彫り、舟形の宝判を造って庶民の病根を除く祈願をなされた。
平城天皇はまた、勅額「平城山」を下賜し、次の嵯峨天皇(在位809-23)とともに親しく行幸され、
御朱印を下されて『一切経』と『大般若経』を奉納し、毎年勅使を遣わして護摩供の秘法を修された。
こうしたことから、この地方を「御荘」と称し、また勅額の山号に因んで「平城」とも呼ぶようになっている。
・「四国遍礼霊場記」
平城山薬師院観自在寺 宇和郡平城村 此寺大師乃開基薬師を本尊とす。本尊のわきに観音まします。観自在の寺号おもひあはす。
むかしは別に堂ありなんと云。 御影堂鎮守鐘楼あり。数千竿の竹藪の隣とし。山前にありて高からす。右に入海あり。
仁智乃愛乏しからず。これによつて太守監撫の余暇遊息乃亭を寺前に立らる茆を掩ひ清閑ときこゆ
・「四国遍路日記」澄禅より
十二日宿を出でて与州観自在寺に至る、寺山より七里也。 観自在寺、本堂南向き、本尊薬師如来。寺号は相違せり。
堂の内陣に観音の像も在り。香花供養の役者に法師の形の者一人在りけれども、由緒等無案内なり。 夫れより二里ばかり往きて柏と云ふ所に至る。
○「南無阿弥陀仏」の名号宝判
空海が爪で刻んだ「南無阿弥陀仏」の宝印があり、それを晒し木綿の布に刷り写した御守。
厄除けや安産、病気平癒に霊験あらたかといわれる。
○極楽浄土
この世が混乱し、現世利益が望めないなら、あの世は極楽浄土へ行きたいとみんな願っていた。 だから、極楽浄土の主である阿弥陀如来が信じられていた。
阿弥陀如来から、南無阿弥陀仏です。
・末法思想(まっぽうしそう)
釈迦が説いた、正しい教えが、世で行われ修行して悟る人がいる時代(正法=千年or五百年)
教えが行われても、外見だけが、修行者に似るだけで悟る人がいない時代(像法=千年)
人も世も最悪となり正法が、まったく行われない時代(末法=一万年)
・末法元年
1052年(永承7年)が末法元年とされて、人々に恐れられた。
・流れ
794年平安京の時代に活躍したお大師さんより、時代が下った
1192年鎌倉幕府の時代に、極楽往生への「南無阿弥陀仏」が、庶民化してきてそうです。 政権を担ってきた貴族たちで有名なのは、藤原
道長(ふじわらのみちなが、康保3年(966年)-万寿4年12月(1028年1月))。 宇治の平等院の阿弥陀如来でしようか。
○「南無阿弥陀仏」と六字名号
札所でこれが確認できるのは、讃岐の71番弥谷寺の本堂横に比丘尼谷の磨崖仏(まがいぶつ)の向かって右側?にある壁面に、
この六字名号が掘り込まれています。
○本尊
本尊 薬師如来 脇侍 阿弥陀如来 脇侍 十一面観音菩薩
これ普通に考えたらありえない組み合わせ。 本尊が薬師如来だったら、脇侍は日光菩薩、月光菩薩。
本尊が阿弥陀如来だったら、聖観音菩薩、勢至菩薩。 江戸時代の遍路日記には、すでに本尊が薬師如来となっているので、
明治維新の廃仏毀釈の影響じゃないですね、なんだろう。 ちなみに、ここの奥の院「臨海山 福寿密寺 龍光院」のご本尊は、十一面観音菩薩。
○怖いご本尊?。
昔は海岸の近くにお寺があった(お寺の近くが海だった)。また、寺の名前から十一面観音がご本尊だったのか?。
このご本尊、なんでも、観自在寺の前を通る時に、拝まないと祟りがあるといわれて、村人に恐れられていたそうです。
だから、ご本尊がチェンジさせられた?。 うーん、ひょっとして、長谷寺とか、志度寺の霊木と同じで、たたりをなしてきたヤツじゃないの?。
・昔話で抜けている部分、
十一面観音を奉つらなければ、ならなくなった理由はなに?。
日本の信仰から、祟る神様仏様は、奉ったら奉るほどご利益があるのに、なぜ奉るのを拒否したのか?。
これが抜けているから変な、恐ろしい昔話になったんじゃないの?。
・目隠しの松(昔話より)
観自在寺は今は海岸からかなり離れてますが、昔は山門の近くに海岸がありました。
今の御本尊は薬師瑠璃光如来様ですが、当時は十一面観音菩薩様で、大変力の有る仏様として人々から恐れられてました。
寺の前を通るときは必ず本堂の十一面観音菩薩様に礼拝しなければ祟りがあり大変な事になると言われていました。
ですから、観自在寺の沖を通る船も、通るたびにわざわざ岸に船を着けて十一面観音菩薩様に礼拝しなければならなかったのです。
また、山門の近くの道を馬や馬車に乗ったまま通ろうとすると、馬が動かなく成ってしまい通れなかったのでした。
勿論、馬や馬車から降りて礼拝すればそれで良いのですが急ぐ場合や、沖を通る船は通るたびに礼拝の為に時間が掛かるので人々は何とか成らないだろかと考えました。
そこで、本堂の十一面観音菩薩様から、道を通る人々や沖を通る船が見えなければ礼拝しなくても祟りは無いだろうということで、山門の前に成長した松の木を植えました。
十一面観音菩薩様の目から見えないといぅことで(目隠しの松)と呼ばれ松の木のお陰で通るたびに礼拝しなくても祟りは無く、
人々は都合の良い時に礼拝すれば良いように成ったそうです。
○縁起がおかしい。
昔の人はこれで納得していたのか?。
平城天皇と空海、嵯峨天皇と空海、平城天皇と嵯峨天皇。 この関係を知っていたら、ここの縁起が成り立たないのは明白です。
それからすると、40番観自在寺が札所に入っているのが、不思議です。 札所を破壊した長宗我部元親の33番雪渓寺と同じじゃない?。
・延暦25年(806年)
桓武天皇が崩御して平城天皇が即位
・大同2年(807年)伊予親王の変
謀反の疑いで、伊予親王は、母(藤原吉子)とともに川原寺(弘福寺)に幽閉され、絶食した(させられた)後に、毒を飲んで自害(殺害)した。
異母兄の平城天皇側近であった藤原仲成に操られた藤原宗成に失脚させられた。
・大同4年(809年)4月
平城天皇は発病する。 病の原因は、早良親王や伊予親王の祟りと思い込んだ。 譲位を決意した。
・大同4年(809年)4月13日
嵯峨天皇が即位 次期天皇になる皇太子には、平城天皇の三男「高岳親王」とした。
・大同4年12月(810年1月または2月)、
平城上皇は祟りから逃れるために平城京へ逃げた。
嵯峨天皇(平安京)と平城上皇(平城京)に政治体制が分離。
・大同5年10月 薬子の変
藤原仲成と妹の薬子(妃の母である藤原薬子)が暗躍した。
*伊予親王の祟りは、嵯峨天皇にも及んだそうです。 |