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仁王様こんにちわ、わ?。
ありゃ、お留守ですか、はは。
赤カメさんも、こんにちわ。
こもれびが、気持ちいいね。
「南無大師遍照金剛」・・・・。
さてと、納経所へ行くとするか?。
あれ、ここにも池があったの?。
鯉がゆらゆら、泳いでますね。
「あれ、ここにもカメ?がいるよ。」
「あー、あの陶器のやつね。」
「ちがう、ちがう、あそこ、あそこ。
池の真ん中に、巨大な赤いカメがいるでしょ。」
「おっ、ほんとだ。
この池がひょっとして、竜宮の入り口。」
「なに、それ?。」
土佐の39番延光寺のカメ伝説は有名で、
仁王門を入ってすぐに右手に、伝説のカメをオブジェ化したものが、たたずんでいます。
だけど、最近まで、全然気がつかなかったんですが、もとリアルな赤いカメを発見。
本堂から右手の納経所へ、「眼洗いの井戸」、そして次に池があります。
この池の真ん中をご覧ください。
巨大な赤カメが池の真ん中に居ます。
とけ込んでいますが、巨大な赤カメです。
ひょっとして、この池が竜宮の入り口なのでしょうか。
うーん、赤カメ参上です。
池の側にある陶器製のものではありません、色が違います。
○梵鐘の公開?2014年
いつも納経所に写真パネルがあったけど、実物が公開されていましたが、
壁際だったので、360度の角度からは見れませんでした。
「空海の足音 四国へんろ展」高知 2014年8月23日[土]→9月23日[火・祝]会場:高知県立美術館
弥勒寺鐘(Webより 宿毛市立宿毛歴史館)
寺山延光寺にある銅鐘には、次のような銘があり、形こそ小さいが、土佐最古の銅鐘で、延喜11年(911)のものであることがわかる。
昭和16年国の重要文化財に指定されている。
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| 延 喜 十 一 年 | | 歳 次 辛 未 正 | | 月 九 日 甲 午 |
| 鋳 弥 勒 寺 鐘 | -----------------------
この寺宝の銅鐘は、高さ43センチ、底の直径23センチ、厚さ1.5センチ、縦帯と縦帯との間の池の間に右の銘があり、中帯下帯にも撞座はない。
乳は3段で、竜頭の高さ6.5センチ、重さ約7.5キログラムである。
なお、この鐘の由来について次のような伝承がある。その昔、1匹の赤亀が小さな鐘を背負って海中からこの寺山にはい上がって来た。
そのときの鐘がこの弥勒寺鐘であると伝えられ、寺山延光寺の山号を赤亀山というのはこれに由来するといわれている。
○異界とつながっている。
この札所は、海からかなり離れたところにありますので、海から来たと言うよりも、池からだと思います。
池は、異界との出入り口にと言われていますので、この池が竜宮城という異界との出入り口だったのかもしれません。
それとも、平安時代は近くまで海がきてたのかな?。
○縁起
・「霊場HPより」
土佐路の西南端、「修行の道場」最後の霊場である。
現在の山号、寺名の由来にかかわる竜宮城の縁起からひも解こう。
時代は平安中期、延喜11年(911)のころ、竜宮に棲んでいた赤亀が背中に銅の梵鐘を背負ってきたという。
僧たちは早速これを寺に奉納して、これまでの山号、寺名を「赤亀山延光寺」に改めた。
この梵鐘には、「延喜十一年正月…」の銘が刻まれ、総高33.6cm、口径23cmの小柄な鐘で、明治のはじめ高知県議会の開会と閉会の合図に打ち鳴らされていたともいわれ、国の重要文化財に指定されている。
縁起を寺の起源にもどそう。神亀元年に行基菩薩が聖武天皇(在位724〜49)の勅命を受けて、安産、厄除けを祈願して薬師如来像を彫造、これを本尊として本坊のほか十二坊を建立したのが開創とされている。当時は、薬師如来の瑞相にちなんで亀鶴山と称し、院号は施薬院、寺名を宝光寺と呼び、また、本尊の胎内には行基菩薩が感得したという仏舎利を秘蔵したと伝えられている。
弘法大師がこの寺を訪ねたのは延暦年間(782〜805)で、桓武天皇(在位781〜806)の勅願所として再興、日光・月光菩薩像を安置して、七堂伽藍を整えた。このとき大師が錫杖で地面を突いて湧き出た霊水が、今日に伝わる「眼洗い井戸」である。
・「四国遍礼霊場記」より
赤木山寺山院延光寺
此寺本尊薬師如来大師乃御作也。大師御影堂鎮守五社拝殿あり。
十町ばかり行て奥乃院といふあり。瀧もありて幽邃絶塵なり。
此寺かくのことく霊地にてむかし乃事寥としてきく事なし実に痛絶すへし。
凡此州乃霊場はミな大守より脩補せらるとなり。
○笑不動は、イケメンだった。
お大師さんの伝説じゃないけど、このお寺にあるみたいです。
2014年の四国霊場開創1200年で、「高知 8月23日[土]→9月23日[火・祝]会期中無休 会場:高知県立美術館」で、270年ぶりに拝観できるようになっていました。
実際見たら、眼がクリッとしてイケメンでした。
(Webより)
明治前期の廃仏毀釈(きしゃく)で寺は一時廃れ、掛け軸も行方不明となっていたが、
明治後期に京都で見つかり、戦後、寺に納められたと、1962年の高知新聞の取材に当時の増田亮雲住職(84年死去)が答えている。
収納の桐(きり)の箱には「寛保3(1743)年、山内家から金十両を拝領して京都で補修された」とあり、同じ内容が近世土佐の史料集「南路志」にもある。
発見当時から全体がひび割れし、「広げるのも危険」と長らく一般公開を控えていたが、2、3年前に寺が京都の専門業者に修復を頼み、往時の姿を取り戻した。
(Webより 宿毛市立宿毛歴史館)
笑不動
清和天皇の貞観17年(875)京都御所の右近の橘、左近の桜が枯れそうになった。
これを心配された天皇は名僧たちにこの木をよみがえらすよう命じ、祈祷させたが効果がない。
足摺蹉陀山の金剛福寺住職忠義和尚(坂本の生まれで南仏上人と称す)と、寺山の延光寺住職明俊僧正にも詔勅があったので、2人は同行して参内した。
そして、宮廷の宝庫より巨勢金岡筆の不動明王の画像を出して祈願した。 7日後の満願の日の明け方、橘と桜はよみがえった。
その時、それまで難しい顔をしていた不動明王は、橘と桜がよみがえったのでにっこりと微笑した。 それからこの画像を笑不動というようになった。
天皇は非常に喜ぱれて、何かほうびに欲しいものはないかと言った。
2人の僧は、不動の画像を頂きたいといって、延光寺の明俊僧正は笑不動を、金剛福寺の忠義和尚は赤白不動の画像を頂き、持ち帰つて寺宝とした。(笑不動縁起)
寺山の笑不動は藩政時代は、土佐の宝として藩から保護されていた。
明治維新の廃寺の時から行方不明となっていたが、現在では、延光寺に保存されている。
昭和38年宿毛市の文化財に指定。箱書きの銘に「笑不動」「御再興料金拾両拝領予時寛保三亥年霜月廿八日表具成就処延光寺中興恵巌京都表具師山本市兵衛」とある。
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