おつとめ、おつとめで、次が本尊のご真言。
ここに書いてあるやつを見ながら3回、読めばいいのね。
それでは、一回目。
「不動明王」のご真言は
なうまく さんまんだばざらだん せんだまかろしゃだ そはたや うん たらた かんまん
「観世音菩薩」のご真言は
おん あろりきゃ そわか
「阿弥陀如来」のご真言は
おん あみりたていぜい から うん
「薬師如来」のご真言は
おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
「地蔵菩薩」のご真言は
おん かかか びさんまえい そわか
そして二回目。
「不動明王」のご真言は
なうまく さんまんだばざらだん せんだまかろしゃだ そはたや うん たらた かんまん
「観世音菩薩」のご真言は
おん あろりきゃ そわか
「阿弥陀如来」のご真言は
おん あみりたていぜい から うん
「薬師如来」のご真言は
おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
「地蔵菩薩」のご真言は
おん かかか びさんまえい そわか
これで終わり。
「不動明王」のご真言は
なうまく さんまんだばざらだん せんだまかろしゃだ そはたや うん たらた かんまん
「観世音菩薩」のご真言は
おん あろりきゃ そわか
「阿弥陀如来」のご真言は
おん あみりたていぜい から うん
「薬師如来」のご真言は
おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
「地蔵菩薩」のご真言は
おん かかか びさんまえい そわか
あわわ、最後のほうは、ろれつがまわらないよー。
土佐の37番岩本寺、ここのご本尊が5体あるので、
おつとめのときに、ご真言を5体分を3回唱えます。
勢いで唱えると、ろれつがまわらなくなります。
ご真言を書いてある板が見えたらいいけど、みえなかったら唱えきれません。
勝手におもっているんですが、この5つのご真言で、
次の長い長い道中のパワーをもらえるのがいいな。
ちなみに、メインのご本尊は、なんでしょうか。
本尊が見えないのでわかりませんが、
納経所でいただいたお姿の真ん中にいるのは、「阿弥陀如来」でした。
○五社大明神
天長三年に弘法大師が、五社五ヵ寺(五仏)を建立し、行基が建立した七ヵ寺と併せて、仁井田五社十二福寺
とした。
仁井田五社は,現在は高岡神社と呼ばれている。
|
神社 |
神様 |
本地仏 |
| 一の宮 |
東大宮 |
大日本根子彦太邇尊
(三島大明神) |
おおやまとねこひこふとにのみこと |
不動明王 |
| 二の宮 |
今大神宮 |
磯城細姫尊 |
しきくわしひめのみこと |
(清浄)観世音菩薩 |
| 三の宮 |
中の宮 |
大山祇尊
吉備津彦狭島尊 |
おおやまづみのみこと
きびつひこさしまのみこと |
阿弥陀如来 |
| 四の宮 |
今宮(西今宮) |
伊豫二名州小千尊 |
いよのふたなのしまおちのみこと |
薬師如来 |
| 五の宮 |
森の宮(聖宮) |
伊豫天狭貫尊 |
いよのあめのさぬきのみこと |
(将軍)地蔵菩薩 |
○高岡神社(五社)の由来記(看板より)
伊予國豪族の河野氏の子孫が一族の争いから逃れ、仁井田郷(今の窪川町)に来往し、土豪の井仁の翁と共に一帯の土地を開き、安住の地とした。
そして、祖神を祀ったのが仁井田大明神で、仁井田郷の総鎮守の神社とした。
天長3年(826)弘法大師が四国霊場の札所として、境内に福円満寺を創建し、五つの社に分け、一の宮に不動明王、二の宮に観世音菩薩、三の宮に阿弥陀如来、四の宮に薬師如来、五の宮に地蔵菩薩を祀り、神仏習合の五社大明神と改められた。
江戸期に入ると、山内忠義土佐藩主は、社殿改築や金幣を奉納するなど、武運長久を祈念し崇敬神とした。
社宝として、豪勇中西権七の所持したと伝えられる長刀や、井溝発掘中に出土した弥生期の古代銅鉾のほか、伝世品としては四国で一番古いという古瀬戸瓶子が納められている。
〇岩本寺の歴史・由来(霊場会HPより)
清流四万十川が流れ、標高が300m程の高南台地が広がる四万十町に、五尊の本尊を祀る岩本寺は建立されている。 歴史は天平の世まで遡る。
寺伝によれば、聖武天皇の勅を奉じた行基菩薩が、七難即滅、七福即生を祈念して、現在地より北西約3㎞の付近にある仁井田明神の傍に建立したと伝えられる末寺七ヶ寺をもつ福圓満寺が前身とされる。
仁井田明神の別当職(別当寺)であったことから、仁井田寺とも呼ばれていた。
弘法大師がこの寺を訪ねたのは弘仁年間。大師は一社に祀られていた仁井田明神のご神体を五つの社に別け、それぞれの社に不動明王像、観音菩薩像、阿弥陀如来像、薬師如来像、地蔵菩薩像を本地仏として安置した。
大師は、さらに末寺五ヶ寺を建立された。 このことから、福圓満寺等は七ヶ寺と合わせて十二福寺、また仁井田明神は仁井田五社と呼ばれていた。
天正時代に兵火等で寺社共に一時衰退してしまう。
再建の際に、この地域の全ての神社を管掌下においていた岩本寺(当時は岩本坊)に、寺の法灯並びに別当職は遷され、継承される。
戦国・江戸時代には武将や藩主等から寺領等の寄進を受け、神仏習合の札所として隆盛を誇っていた。
明治になると神仏分離の政策で仁井田五社と分離され、五尊の本地仏と札所が岩本寺に統一され、それに伴う廃仏毀釈の法難に遭い、寺領地の大半を失ってしまう。
再建には苦難の道が続いたのであるが、少しずつ伽藍を整備し現在に至っている。 ○元札所
福円満寺 仁井田大明神が札所で,その神宮寺の福円満寺が納経をしていた。 いまは福円満寺(碑のみ)は、現中の宮にありました。
河川の氾濫時 仁井田大明神の前に流れる河川が,氾濫したら遍路が渡れない。
いろいろな方が来ているから,渡れないと,いろいろなことが起こるからさっさと納経をすませて, 次へ行ってもらいたいために,川の手前に納経所(寺?)があった。
岩本院 足摺岬にある金剛福寺の荘園がここにあった関係で,金剛福寺が経営していた宿坊が, 福円満寺にかわり,納経をしていた。
○時系列と登場人物
・大和時代(6世紀頃) 伊予國豪族の河野氏の子孫が一族の争いから逃れ、 仁井田郷(今の窪川町)に来往し、土豪の井仁の翁と共に一帯の土地を開き、安住の地とした。
そして、祖神を祀ったのが仁井田大明神で、仁井田郷の総鎮守の神社とした。 ・文武天皇大宝初年(在位期間697年8月22日 - 707年7月18日)
(天武天皇白鳳年中 在位期間673年3月20日 - 686年10月1日)
役小角が,五(降)在所山(金上野(きんじょの)村)に来た,
山頂に堂を造り,地蔵菩薩を造り祀った。 この像はのちに矢負地蔵と呼ばれ東光寺に安置されていたが,そして今は岩本寺に移った。 ・天平年間(729~749)
行基が聖武天皇の勅願によって開創 仁王経の「七難即滅、七福即生」の文にもとづいて祈念、
仁井田明神のかたわらに、天の七星をかたちどって、七ヵ寺を建てて、
仁井田七福寺(福円満寺、宝福寺、長福寺)と称した 。
・年号不明
修験者が鎮護国家を祈念し,五色の御幣を投げたら,五羽の鳥となり,藤の花にとまった。 だから,この山を藤居山とした。
五鳥とは,
孔雀,白鷲, 雉子(きじ)鳩鴒(セキレイ)鳫(カリ)・・・・・・ここの鳥が不明 金鳥 ・弘仁年間(810~824)
弘法大師が、星供曼荼羅を自ら書写し、三国相承(インド ・中国 ・日本)の星供秘法を修行して、 五社五ヵ寺を建てた。
他説として,上記の鳥の話から,五社五ヵ寺を建てた。
五社
|
五社 |
五仏、本地仏 |
六神 |
| 一の宮 |
不動明王 |
大日本根子彦太邇尊 |
| 二の宮 |
観世音菩薩 |
磯城細姫尊 |
| 三の宮 |
阿弥陀如来 |
大山祇尊 |
| 吉備津彦狭島尊 |
| 四の宮 |
薬師如来 |
伊豫二名州小千尊 |
| 五の宮 |
地蔵菩薩 |
伊豫天狭貫尊 |
五ヵ寺
| 五寺 |
仏様 |
所在地 |
| 宝福寺 |
阿弥陀如来 |
西川角村 |
| 満福寺 |
薬師如来 |
新在家村(土居) |
| 長福寺 |
観世音菩薩 |
西松村(本在家) |
| 重福寺 |
不動明王 |
秋丸村(下秋丸) |
| 万福寺 |
観音菩薩 |
神有村 |
〇北斗七星
行基と空海に共通しているのが,北斗七星。
○星祭
日本最初の星祭を行った道場とも伝えられている
〇お寺と神社は何か所あったの
行基の七寺と空海の五寺で,十二寺 空海の五社。
○七難即滅、七福即生
七難即滅、七福即生。形で見たいから神様になって登場、七福神。へリンク
〇矢負地蔵
観世音菩薩は、昔貧しい狩人の願いを聞き入れ長者にさせたことから「福観音」と呼ばれ、
その時狩人の身代わりになった地蔵菩薩を「矢負いの地蔵」と呼んで信仰されている。
民俗学者の解釈として
個人に起こった出来事と民衆に起こった出来事がある。
この場合は,柳田邦夫の「日本の伝説」にあったけど,「信心深い,その人に不思議なことが起こった」だけ,
みんなにおこってはいない。
〇一二寺(窪川町史より。これへの出典は,長曾我部検地による)
七福寺
|
仁井田七福寺 |
仏様 |
所在地 |
| 善福寺 |
釈迦如来 |
川井村(平串) |
|
長福寺 |
薬師如来 |
若井川村 |
|
西福寺 |
地蔵菩薩 |
中越村 |
| 福蔵寺 |
地蔵菩薩 |
親我内村 |
| 福円寺 |
薬師如来 |
穴谷村(西原) |
| 長福寺 |
観音菩薩 |
平野村 |
| 善福寺 |
釈迦如来 |
平野村 *検地情報なし |
五ヵ寺
| 五寺 |
仏様 |
所在地 |
| 宝福寺 |
阿弥陀如来 |
西川角村 |
| 満福寺 |
薬師如来 |
新在家村(土居) |
| 長福寺 |
観世音菩薩 |
西松村(本在家) |
| 重福寺 |
不動明王 |
秋丸村(下秋丸) |
| 万福寺 |
観音菩薩 |
神有村 |
○高岡神社(五社)の由来記(看板より)これを見やすく分けたら
伊予國豪族の河野氏の子孫が一族の争いから逃れ、仁井田郷(今の窪川町)に来往し、土豪の井仁の翁と共に一帯の土地を開き、安住の地とした。
そして、祖神を祀ったのが仁井田大明神で、仁井田郷の総鎮守の神社とした。 天長3年(826) 弘法大師が 四国霊場の札所として、 境内に福円満寺を創建し、 五つの社に分け、 一の宮に不動明王、二の宮に観世音菩薩、三の宮に阿弥陀如来、四の宮に薬師如来、五の宮に地蔵菩薩を祀り、 神仏習合の五社大明神と改められた。 江戸期に入ると、山内忠義土佐藩主は、社殿改築や金幣を奉納するなど、武運長久を祈念し崇敬神とした。
社宝として、豪勇中西権七の所持したと伝えられる長刀や、井溝発掘中に出土した弥生期の古代銅鉾のほか、伝世品としては四国で一番古いという古瀬戸瓶子が納められている。
〇岩本寺の歴史・由来(霊場会HPより)これを見やすく分けたら
清流四万十川が流れ、標高が300m程の高南台地が広がる四万十町に、五尊の本尊を祀る岩本寺は建立されている。 歴史は天平の世まで遡る。
寺伝によれば、聖武天皇の勅を奉じた 行基菩薩が、
七難即滅、七福即生を祈念して、現在地より北西約3㎞の付近にある仁井田明神の傍に建立したと伝えられる末寺七ヶ寺をもつ福圓満寺が前身とされる。
仁井田明神の別当職(別当寺)であったことから、仁井田寺とも呼ばれていた。 弘法大師が
この寺を訪ねたのは弘仁年間。
大師は一社に祀られていた仁井田明神のご神体を五つの社に別け、
それぞれの社に不動明王像、観音菩薩像、阿弥陀如来像、薬師如来像、地蔵菩薩像を本地仏として安置した。
大師は、さらに末寺五ヶ寺を建立された。
このことから、福圓満寺等は七ヶ寺と合わせて十二福寺、また仁井田明神は仁井田五社と呼ばれていた。
天正時代に兵火等で寺社共に一時衰退してしまう。
再建の際に、この地域の全ての神社を管掌下においていた岩本寺(当時は岩本坊)に、寺の法灯並びに別当職は遷され、継承される。
戦国・江戸時代には武将や藩主等から寺領等の寄進を受け、神仏習合の札所として隆盛を誇っていた。
明治になると神仏分離の政策で仁井田五社と分離され、五尊の本地仏と札所が岩本寺に統一され、それに伴う廃仏毀釈の法難に遭い、寺領地の大半を失ってしまう。
再建には苦難の道が続いたのであるが、少しずつ伽藍を整備し現在に至っている。
○疑問 いろいろな記録より。
・伊予からの越知氏と地元神「仁井の翁」が六神を仁井田大明神一社に祀っていた
・.弘法大師が六神を五社に分祭、五社大明神と改称し、五社五寺(本地仏五体を分祭)。
| 一社(総称?) |
六神 |
五社 |
五寺(五仏、本地仏) |
| 仁井田大明神 |
大日本根子彦太邇尊 |
一の宮 |
不動明王 |
| 磯城細姫尊 |
二の宮 |
観世音菩薩 |
| 大山祇尊 |
三の宮 |
阿弥陀如来 |
| 吉備津彦狭島尊 |
| 伊豫二名州小千尊 |
四の宮 |
薬師如来 |
| 伊豫天狭貫尊 |
五の宮 |
地蔵菩薩 |
勝手に解釈 〇行基の北斗七星から
仁井田大明神の別当寺として福円満寺を創建。 福円満寺の末寺が,7寺
福円満寺と六神にも、別当寺を六つ創建して,一寺と六寺で七寺になり、仁井田七福寺。
| 七神 |
七社 |
七福寺 |
|
| 仁井田大明神 |
? |
福円満寺 |
|
| 大日本根子彦太邇尊 |
? |
|
宝福寺 長福寺 |
| 磯城細姫尊 |
? |
|
| 大山祇尊 |
? |
|
| 吉備津彦狭島尊 |
? |
|
| 伊豫二名州小千尊 |
? |
|
| 伊豫天狭貫尊 |
? |
|
〇星供養の星曼荼羅から数を考えたら,
空海が描いた星曼荼羅が,どのようなものかわからないが,真言宗系だと, 数字のキーワードが,1,5,7,12となる。 曼荼羅の配置図から,
中心(1)に釈迦如来 北斗七星(7)から七寺 水星・金星・土星・太陽・月(5)から五寺 星座から12
〇ご詠歌から
「六つのちり 五つの柱 あらわして 深き仁井田の 神のたのしみ」 空海が、六つのちり 五つの柱→六神を五社に整理統合?した。 *六の塵(色塵、声塵、香塵、味塵、触塵、 法塵)
〇「七つ」キーワード
・大山祇尊の本地仏は、過去七仏の一人「大通知勝仏」。 ・七難即滅・七福即生の七つ。 ・天の七星をかたどって、七ヵ寺を建てた。
〇大山祇尊
本地仏は、大通知勝仏じゃないの?
〇家族?
| 方位 |
六神 |
誰 |
| 東 |
大日本根子彦太邇尊 |
孝霊天皇(こうれいてんのう) |
| |
磯城細姫尊 |
孝霊天皇の皇后 |
| |
大山祇尊 |
孝霊天皇の祖先 |
| |
吉備津彦狭島尊 |
孝霊天皇の妃(倭国香媛(やまとのくにかひめ))との子供 |
| |
伊豫二名州小千尊 |
孝霊天皇の孫 |
| 西 |
伊豫天狭貫尊 |
伊豫二名州小千尊の子供 |
越智氏の始祖は、孝霊天皇の第三皇子「伊豫皇子」?。 〇伊豫皇子の三人の子ども
末子が、伊予国小千(越智)郡大濱に住み着いて、小千御子を名乗る。
次男が、吉備の児島に行き三宅氏を名乗る。
長男が、駿河国清見崎(後の伊豆国、三島神社付近か)に着き、大宅氏をを名乗る。
〇伊豫二名州小千尊
古事記、日本書紀の国生み神話に出てくる「伊豫二名洲(四国)」 大山祇神の子孫・小千命(乎千命、おちのみこと)が大三島に勧請した 大山祇神社を祀った最初の人物
「日本の神々 2 山陽・四国」高岡神社(高木啓夫)
伊予の小千氏二十三代の小千守興は欽明天皇の御代に兵乱の援兵を請われて入唐(三韓とも)した。
三年後、唐土で産んだ子に形見の太刀を授けて帰朝したが、成長したこの子は父の祖国を慕って伊予三津浜に着き、父子対面し、氏を河野、姓を越智と名乗り、小千氏二十四代となった。
一方、伊予生まれの子玉澄は嗣子となることができず心穏やかでなかった。
そのとき、小千氏の祖神彦狭尊の神霊が現れて土佐国に行くように告げ、玉澄は雉に導かれて(白鷺とも)土佐の海辺に着いた。
だから当社の氏子は雉を食べないという。また漁夫が畳を返して迎えたので、その地を御畳瀬と称する(高知市御畳瀬の地といわれる)。
祖神を祭る土地を探しているとき、鍬を担いだ老翁に出会い、その鍬で拓いた祭地が仁井田五社大明神すなわち当社であるという。
社地の南に役小角が修法をなしたという御在所山があり、山伏がこの山から五色の御幣を投げると、それは五羽の鳥となって、
五社大明神の藤の花にとまった。修業にさしかかった弘法大師はこの五鳥の故事によって、五社に分けておのおのに本地仏を祀ったという。
五社の現在の祭神とその本地仏は次の通りである。
一の宮・東大宮
祭神は大日本根子彦大邇尊(孝霊天皇)、本地仏は空海作不動明王。
東庄司氏が司る。鍬を納めてあるという。
二の宮・今大神宮
磯城細姫命と空海作清浄観音。 西庄司氏が司る。
三の宮・中宮
大山祇神・吉備彦狭島命と空海作阿弥陀。 窪川氏が司る。
四の宮・西今宮
伊予二名州小千命と空海作薬師。 西原氏が司る。
五の宮・聖宮
伊予天狭貫命と空海作将軍地蔵。 志和氏が司る。
「南路志」巻二十七 (闔国第九ノ七 高岡郡) 子々崎村
五社大明神 祭礼九月十九日
東大宮三島大明神 神主佐竹大内蔵 禰宜(宮本筑前・宮本山城) 本地、弘法大師秘作不動明王
○公家衣冠尊像三十六躰社殿に安置 ○神鏡正躰九つ ○広矛一本 ○鰐口一 銘に曰、物部庄上岡八幡宮、右衛門尉源貞行、貞和五年十一月一日
○御輿一基 棟札曰、本願主大檀那勝賀野次郎兵衛、文禄五丙申暦九月吉辰日 ○往昔仁井田五人衆東庄司助兵衛尉越智宗澄支配也。
今大神 神主佐竹久之進 禰宜(宮本河内) 本地、弘法大師秘作清浄観音 ○公家衣冠尊像二躰社殿に安置
○神鏡正躰三つ ○往昔仁井田五人衆西庄司和泉守越智宗勝支配也 ○神輿一基
中宮伊予大明神 神主岩崎長門 禰宜(佐々木越後・宮本上総) 本地、弘法大師秘作阿弥陀
○公家衣冠尊像十八躰社殿に安置 ○神鏡正躰十六 ○広矛三本 ○金幣銘曰、于時慶安五壬辰九月吉日、従四位下侍従藤原朝臣忠義
○幡銘に曰、奉寄進、中之宮河野大明神、元禄四年、願主吉左衛門 ○往昔仁井田五人衆窪川七郎兵衛尉藤原宣秋支配也
○鰐口銘云、奉施入仁井田大明神、和仁口、嘉暦三年戊辰卯月二十一日、願主四村藤馬尉 ○神輿一基
西今宮 神主佐竹助太夫 禰宜(佐々木大和・宮本能登) 本地、弘法大師秘作薬師
○公家衣冠尊像二躰社殿に安置 ○神鏡正躰二十 ○神輿一基 ○往昔仁井田五人衆西原紀伊守藤原貞清支配也。
聖宮(俗曰森宮) 神主佐竹逸城 禰宜(宮本越中・岩本掃部) 本地、弘法大師秘作将軍地蔵
○公家衣冠尊像十一躰社殿に安置 ○神鏡正躰十四
○金幣一、志和村庄屋古屋九右衛門寄進 同五振、享保十九甲寅年九月吉日、窪川内子々崎村大名常八政永寄附 ○鰐口銘云、明徳八年六月四日(以下不見)
○神輿一基 ○往昔志和権之進藤原宗茂支配也。 五社神領五石 別当窪川村岩本寺
「和漢三才図会」巻七十九 四国遍路八十八箇寺(土佐) 四国遍路八十八箇寺
第一番より二十三番迄阿波、其次当国[土佐]に十六箇寺有り
仁井田(三十七) 在同郡[高岡郡]明知村 東向
五仏 阿弥陀
右 薬師 地蔵 弘法作 左 観音 不動 秘仏
下記資料,Webより収集 【地名の由来】
仁井田の地名は現在の行政区の「仁井田」地区とは違い、窪川台地全域をさす地名であるので、先ずは窪川開拓の祖といえる玉澄こと新田橘四郎小千玉澄の由来と幡多の仁井田庄の説明が必要となる。
窪川町史(p97)に『伊予生まれの(小千24代玉興の)異母弟新田橘四郎玉澄は、かねてから越智家を継承する約束であったが父・兄と仲たがいし「しばらくここを去って徳を修めよ」との神霊のお告げがあり土佐に入ることになった』という。
また、町史には伊予河野氏系図として「玉澄は665年ごろ生まれ700年ごろに仁井田大明神を祭り、越智25代を継ぐ」と書かれていることから、長宗我部以前の仁井田五人衆の時代より、千年近く前の話となる。
白村江の戦い(663年)に敗れた西国分大軍武者伊予家(小千)23代守興は越の国生まれの婦人と子に小千家代々伝わる太刀を形見に残し日本に帰る。と、その子長じて父を訪ね伊予道後に来たのが24代を継ぐ玉興で”この水の可なること、予が里よりす”と言ったことから水と可で”河”、予と里で”野”を組み合わせ河野を称したという。母が越人(石川・富山・新潟の区域)であったことから小千を異字同音の越智氏に改めたという。伊予家、小千家、河野家、越智家と家名がいろいろあることから分かりにくいが、中世の窪川の記録として残るのは玉澄であり、河野家の末裔であろう。
諏訪将人『志和物語p15』には、そのいきさつが詳しく述べられる。諏訪氏は「玉澄は高原地に落着いた。玉澄はここを永住の地ときめた。玉澄はその地を新田と称した。後の仁井田である。之は玉澄の名が新田橘四郎小千玉澄といったのに因る」と述べ、玉澄の名が仁井田の由来と」している。
仁井田五人衆のうち玉澄の後裔である3人のうち東氏、西氏はともに新田庄司といわれたがニ家に分かれて東新居庄、西新居庄司といった(これは東新居田庄司、西新居田庄司を略したものである。3人のうちもう一人は志和氏である。)。
※「庄司」とは、中世の荘園を管理するため荘園領主から現地の管理を委ねられた役人の総称。「荘官」に同じ。下司、公文など
町史では「異母弟新田橘四郎玉澄」と、24代玉興の母違いの弟としているが、志和物語では「守興の嫡男新田橘四郎小千玉澄(p16)」としている。異母弟玉澄より嫡男玉澄が正しい書き方のように思える。それにしても、越人の側室の子である玉興がどうして越智家を継承したのか、律令国家の始まりで嫡男・嫡子の考え方が厳格でなかったのかもしれない。
『高知県神社明細帳』の高岡神社の段には、伊予から土佐に来た玉澄が「高キ岡山ノ端ニ佳キ宮所アルベシ」の神勅により「海浜ノ石ヲ二個投ゲ石ノ止マル所ニ宮地」を探し進み「白髪ノ老翁」に会う。「予ハ仁井ト云モノナリ(中略)相伴ヒテ此仕出原山」に鎮奉しよう。この仁井翁、仁井の墾田から、「仁井田」となり。この玉澄、勧請の神社を仁井田大明神と言われるようになったとある。
また、「仁井田」の由来については、浦戸湾に浮かぶツヅキ島に仁井田神社があり、由緒書きには次のように書かれてある。
伊予の小千(後の越智)氏の祖、小千玉澄公が訳あって、土佐に来た際、現在の御畳瀬付近に上陸。その後神託を得て窪川に移住し、先祖神六柱を五社に祀り、仁井田五社明神と称したという。この縁から三年に一度、御神輿を船に乗せ浦戸湾まで”船渡御(ふなとぎょ)”が行われた。この御神幸は波静かな灘晴れが続くときに行われるため、”おなバレ”と土佐では言われる。この時の高知での御旅所が三里(現在の仁井田)の仁井田神社であるといわれる。窪川の仁井田五社から勧請されたのが高知の仁井田神社であると伝えられている。
ツヅキ島の仁井田神社は横浜地区の総鎮守で地元では”ツヅキ様”と呼ばれる。
窪川台地の大規模な開墾はこの仁井田大明神(現、高岡神社)周辺から始まり、仁井田大明神の崇敬とともに、仁井田庄七郷に開田が進んだといえる。仁井田は窪川台地の別称と言えるのではないか。
四万十川第1支川に床鍋を源流にし、根々崎で四万十川合流する仁井田川がある。四万十川の河川名称が有名になる以前は、渡川(漁師には大川か)と呼ばれていたが、大正(旧田野々)から上流の本川が仁井田川であった。瀬里轟に架かるJR予土線鉄橋の名称は「新井田川橋梁」である。仁井田米のブランド名称と同じように窪川台地で作付けされる米、それを育む水そのものが「仁井田」であったのだろう。
中世のころ、窪川の地は幡多一条氏が支配する荘園で仁井田庄七郷とよばれた。七郷は、新在家、本在家、井細川、窪川、久礼、志和、神田の七郷である。
慶長8年(1603)山内一豊公御巡国のときから仁井田郷と呼ばれるようになった。長宗我部地検帳の表紙にも仁井田郷地検帳とある。仁井田庄と仁井田郷の明確な区分はなかった。(詳しくは甲把瑞益著「仁井田郷談」参照) |