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「似ているよね、似てる。
うーん、似ていると言うより、「さんずい」がついているか、
ついていないかだよね、なんでかね?。」
「うーん、35番の清瀧寺と36番青龍寺でしょ。」
「なんでかね、偶然じゃない。」
「そうかな、うーん、わかんねーよ。」
・・・・・・、数年後。
「あれれ、れ。
35番の清瀧寺のご本尊、薬師如来だけど、
ここの札所を守っているが、清瀧権現って、女性の龍みたいよ。」
「へー、清瀧権現だから、清瀧寺か、納得なんだけど、
なに、ほかにも、あるの。」
「この清瀧権現をひもといてみたら、なにやら、中国から来たみたいなんだよ。」
「へー、中国産?。」
「・・・・・・、空海が連れてきたみたいよ。」
「へー、お大師さんがね、へー。」
「それでね、この清瀧権現。
昔の名前、漢字が、青龍だって、
さらに、善女龍王って言われてたらしいよ。
この龍が、あの青龍寺に来て、空海と知り合いになったみたいなんだよ。」
「へー、それでそれで?。」
「善女龍王=清瀧権現=青龍権現だって。」
「おー、さんずいがついてる、ついてない、ほー。」
「このさんずい、海を渡ったから、清瀧権現なんだって。」
「うっそー、それ、ほんと。」
お遍路ネタじゃありませんが、南国土佐の札所によく似た漢字の札所があります。
35番の清瀧寺(きよたきじ)と36番青龍寺(せいりゅうじ)。
「さんずい」が付いているか付いていないかです。
調べてみたら、中国の聖獣。
「
東の青竜(せいりゅう)
南の朱雀(すざく)
西の白虎(びゃっこ)
北の玄武(げんぶ)」
この字をみたら、青い龍です。
そして、空海がいた、青龍寺。
唐から帰る船中で、密教を守護することを誓った、青龍。
そして、海を渡ったから、さんずいがついて、清瀧。
またまた、36番青龍寺は、中国の青龍寺です。
36番のご本尊は、不動明王。
唐から帰るときに、空海を守護しています。
不動明王は、倶利伽羅竜王、これまた龍です。
なんとなく、ひもとけそうな気になり始めた、
今日、このごろです。
○清瀧権現
八大龍王の沙掲羅龍王の第三(四)王女である善女(善如)龍王。
ヒマラヤから中国の青龍寺に飛来して、同寺の鎮守(守護神)「清龍」となった。
空海が青龍寺で修行中に、三昧耶戒を授けてほしいと懇請したけれど、許されなかった。
しかし、空海が帰国する際に、船中に現れて密教を守護することを誓ったため、京都洛西の高雄山麓に勧請された。
この時、海を渡ったので龍の字に「さんずい」を加えて、日本では「清瀧権現」と敬称するようになった。
○青、緑?。
調べていたら、色の話しがありました。 東の色は、青、さらに緑。 龍=へびのイメージがうりしたが、へびの形に似ているうなぎ。 このうなぎは、黒のイメージがありますが、青、緑のウナギもいます。 天然物は、特に青とか緑です。 これ如何に?。
○空海と善如龍王
請雨経法(しょううきょうほう)
弘法大師が、呼応2年(1240)、京都の神泉苑にて修した。 「今昔物語」 第14巻 41話 弘法大師
請雨経法を修して雨を降らせたる事。
弘法大師、修請雨経法降雨語(じやううきやうのほふをしゆしてあめをふらせたること) 第四一
今は昔、※※天皇の御代に、天下旱魃して、万の物皆焼畢て枯れ盡たるに、
天皇、此れを歎き給ふ。大臣以下の人民に至まで、此を不歎ずと云ふ事无し。
其の時に、弘法大師と申す人在ます。
僧都にて在しける時、天皇、大師を召て仰せ給て云く、
「何にしてか此の旱魃を止て、雨を降して世を可助き」と。
大師申て云く、「我が法の中に雨を降す法有り」と。
天皇、「速に、其の法を可修し」とて、
大師、言ばに随て、神泉にして請雨経の法を令修め給ふ。
七日の法を修する間、壇の右の上に五尺許の蛇出来たり。
見れば、五寸許の蛇の金の色したるを戴けり。暫許有て、蛇、只寄りに寄来て池に入ぬ。
而るに、廾人の伴僧、皆、居並たりと云へども、其の中に止事无き伴僧四人ぞ此の蛇を見ける。
僧都はたら更也、此れを見給ふに、一人止事无き伴僧有て、僧都に申して云く、
「此の蛇の現ぜるは何なる相ぞ」と。
僧都、荅えて宣はく、「汝ぢ不知ずや。此は天竺に阿※達智池と云ふ池有り。
其の池に住すむ善如龍王、此の池に通ひ給ふ。然れば、此の法の験し有らむとて現ぜる也」と。
而る間、俄に空陰て戌亥の方より黒き雲出来て、雨降る事、世界に皆普し。此に依て、旱※止ぬ。
此より後、天下旱※の時には、此の大師の流を受て、此の法を傳へる人を以て、神泉にして此の法を被行る丶也。
而るに、必ず雨降る。其の時に、阿闍梨に勧賞を被給る事、定れる例也。
于今不絶ずとなむ語傳へたるとや。
○医王山清滝寺鏡智院
「四国遍礼霊場記」寂本より
此寺の本尊薬師如来、日・月光も十二神行基ぼさつの作、秘仏とす。本堂の左に鎮守社、右に大師の御影堂、此傍に真如親王の墓といふあり、五輪塔長五尺許なるを立。これは彼親王入唐あそばしける時、難風により、しばらく此州にあがらせ給ひ、民家をしつらひ、憩はせ玉ふにより、此所をいまに御所の内と名づく。さて此寺にいらせ給ひて、唐・天竺遠遊の事などおぼしあはせ、御心ぼそくやありけん。此所にかねての御墓をつかせてのこし玉ふといひ伝ふ。果して羅越国にて遷化し玉ひけり。此親王は平城帝の第三の子也、高岳の親王と号す。嵯峨の天皇立て皇太子とす。沙門となり、東大寺に居三論を習ひ、性聡敏にして、士気宏邁なり。学内外に渉る。真言教を我大師に受、上表して入唐し、西域にゆかんとして流砂を過、逆旅に遷化し玉ふ。日本より入唐するもの、千百を以て数ふ。天竺に跛つるもの唯此親王壱人なり。其いさめる事古人なを喟歎せり。今の御墓を聞も尚あはれ也。
○鎮守?(石碑より)
琴平神社本殿=高知県有形文化財(建造物)平成八年四月三十日指定
南路忠によれば、寛文八年(1668)清滝寺本堂が全焼する火災があった。
琴平神社の創建は、火防及び一宇繁栄を祈念して、その後に金毘羅を勧請したと伝えられ、その時期は今から320余年前と推定される。
神社本殿は、「奉再建山神宮」とある天保二年(1831)の棟札により、構造や風化などからも、この時代のものと推定される。
本殿は一間社入母屋造り平入りの杮葺(こけらぶき)で、正面に一間の向排を付けている。
高知県近世社寺建築の中でも数少ない形式であり、小社ではあるが、この地域の当時の建築技術を示すものとして注目される。
全体の形から細部の彫刻に至る意匠も美しく優秀であり、学術的、歴史的にも価値あるものと判定された。
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