「うどん食べたから、元気いっぱいだね、はは。 目指すは、五台山ですけど、タワー見えてます。」
「あっ、東京タワーじゃないけど、そっくりなヤツね。 竹林寺を作った、行基さんもまさか、電波塔が立つとは思っても見なかったよね。」
「はは、そりゃ、一千年以上前ですからね、はは。 それにしても、札所に鉄塔?。
情緒ありませんよ、なんでここに建てること許しちゃったの?。」 「知恵の文殊菩薩だからじゃない?。」
「ひょっとして、文殊菩薩さんのお知恵が、電波にのって飛んでるの?。 まさかねー、はは。」 「今は、五重塔から飛んでるんじゃない?。」
「はー、まさかね?。」
南国土佐の31番竹林寺。 五台山にはテレビ局塔の鉄塔がたっていました。
お寺には不釣り合いなものがなんで、ここに立ったんでしょうかね。 だけど、あの地デジに移行で、アナログ放送用だった2本の鉄塔はお役ご免でした。
民法のテレビ塔を取り壊し、NHKの鉄塔は、FMラジオ用に残っているそうです。
○勝手に解釈
お寺の塔=お釈迦様のお墓。 仏舎利が納められ、とおくからも拝めるようになっていると、聞いたことがあります。
拝んでいると言うことは、塔からありがたい功徳が降り注いでいると考えて、
ここの電波塔を通じて、文殊菩薩の知恵が飛んで、お遍路さんに届いていたのかもしれません。 ○五重塔
・境内 解説板より 当山には古くは三重塔がありましたが明治32年の台風により倒壊、爾来、塔再建を悲願としてきましたが、昭和55年12月に 全国より多くの般若心経写経奉納の浄業を得、五重塔として復興することができました。
鎌倉時代初期様式、総高31.20メートル、間口4.80メートル、総ヒノキ造り、使用木材 1320石、使用瓦2800枚、宮大工延べ人数5400人。京都宇治の工匠 岩上政雄氏がその施行にあたりました。
塔内には、インド・ブッタガヤより勧請されました仏舎利を納め、また、初層内陣には大日如来を奉安しています。
・台風に備えて?。
山の山頂付近にあるので、強風にも耐えられるように意図的に、10cm程度傾かせてあるそうです。 高知のピザの斜塔?。
国宝(2005/10)
文化庁HPより 藩主祈願寺としての格式を備える書院建築(近世以前/住宅)
竹林寺書院1棟
高知県高知市 宗教法人竹林寺 竹林寺は高知市街東方に所在する真言宗寺院で四国霊場の札所として知られる。
江戸時代には土佐藩主山内家の祈願寺として興隆した。
書院は文化13年(1816)の建築で,6室を配した主体部の南面と西面に広縁を廻した形式とし,東面に玄関が取り付く。
内部は背面西側の上段の間に床、棚たな、付書院を構え,背面中室では側方に床を設えて後方の庭園を臨む座敷とする点に特色がある。
竹林寺書院は,建立年代が明らかで四国地方に希少な近世の書院建築として貴重である。
土佐地方に特徴的な細部意匠を持つ上段の間を構え,庭園鑑賞を意図した開放的な裏座敷を持つなど,
藩主祈願寺としての特質や地方的特色も併せ持ち,高い価値が認められる。
○指定基準=歴史的価値の高いもの,流派的又は地方的特色において顕著なもの
〇夢窓疎石2.浦戸港に来た人びと
(1)夢窓疎石と吸江十景 日本を代表する高僧の夢窓疎石は、 文保
2年(1318)に、鎌倉幕府執権北条高時の母覚海の招待をさけて 土佐に来国し、五台山の西ふもとに草庵を設けて住みつき、 この草庵を
吸江庵と称した。 疎石は、草庵の眼前に広がる浦戸湾の風景を中国の西江に見立てて吸江と名付けている。 その湾内の風景のなかで
「見国嶺」 「独鈷水」 「粋適庵」 「磨甎堂」 「潮香洞」 「雨華巌」
「白鷺州」 「玄夫島」 「泊船岸」 「呑海亭」
という十箇所をえらんで「吸江十景」と名付けている。
そして、
「心あらん人に見せばや吸江の岸のむかひのゆふべあけぼの」
という歌を詠じている。
疎石が吸江の風景を大いに好んでいたことが理解できる。 疎石は
2年余りで吸江庵を離れたが、これまた日本的な高僧である義堂周信、絶海中津らが継ぎ、海南の名刹として天下に鳴り響き、
室町幕府の手厚い保護のもとでその地位が 高められている。 堂内には、足利尊氏の守り本尊と伝えられる「勝軍地蔵」(国の重要文化
財)が安置されている。 さらに、疎石自筆の「西来堂」、室町幕府四代将軍・足利義政書の 「吸江庵」、絶海書の「磨甎」などの扁額が掲示されている。
吸江寺文書二巻も保存されている。 さらに、戦国時代には長宗我部氏の手厚い保護をうけており、慶長 6年(1601)に
山内一豊が入国したのにともない、 義子の湘南和尚によって中興されて吸江寺と改められた。
なお、伊達騒動で有名な伊達兵部や幡随院長兵衞と張り合った旗本の加賀爪甲斐らの墓は寺山にあり、位牌は寺内に置かれている。
「高知港(浦戸)の「みなと文化」 」より webより収集
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