お気楽、お四国巡り お四国の仏様

近くのお地蔵さんに頼めば、えっ、専門外?。 25番 津照寺。

「なんやねん、この石は?。
ここにも、巨石文明?。」
「ちがうよ、それは、一木権兵衛伝説だね。」
「はー、なにそれ。」
「札所の前に港があるでしょ。
それを江戸時代に改修工事した人だよ。
難工事だったから、神様にお願いして、やっと、改修できたんだって。」
「へー、そうなの、なんで、ここのお寺のお地蔵さんにお願いしなかったの。」
「う、たぶん、お地蔵さんの専門外だからじゃない。はは。」

南国土佐の25番 津照寺。
門をくぐった、左手にそれはあります。
デカイ石が鎮座しています。
港に、この札所があったのに、
ここのご本尊にお願いできなかったのでしょうか、疑問です。
そしたら、命まで捧げる必要はなかったんじゃないかな?。
お地蔵様がそんなことするわけないよね。
それと、何かの文献に、24番金剛頂寺にお願いしたともありました。(記憶違いかも?)

○「一木神社」伝説

ここに、この方がまつられています。
寛文年間に、一木権兵衛が、港の改修工事をしていましたが、
港の入り口を塞いでいた「お釜岩」が邪魔をして、非常に難関だったので、
一木権兵衛が、「お釜岩」を粉砕するため、神様(海神)に命を捧げますと、祈願したら完成。
そののちに、約束を守るために、自刃しました。

○縁起(霊場HPより)

室津港を見下ろす小山の上にたたずむ「津照寺」(しんしょうじ)は、通称「津寺」(つでら)と呼ばれています。弘法大師空海上人が四国御修行の砌、山の形が地蔵菩薩の持つ宝珠(ほうしゅ)に似ているところから霊地とし地蔵菩薩を自ら刻まれ本尊とし、宝珠山真言院津照寺と号されました。 
はじめ長曽我部氏の庇護をうけ津寺村と称して七町余の地高を有しその後、山内氏が国主として入国してより更に一町五反余の田地を寄附され寺院の運営も全て藩営とされ中老格をもって遇され隆盛を極めておりましたが、明治の改革に遭い地領は一旦政府に没収亦は小作農民に払い下げとなり寺は廃寺とされました。 
荒廃にまかすこと約十数年明治十六年ようやく寺名復興を許され今日に至ったのでありますが寺域は極度に狭められ昔日のおもかげはなく、只本堂が地蔵堂としてのこり御殿と申された庫裏の一角が当時小学校として残っておりました。現在、小学校は移転され、大師堂は昭和38年、本堂は昭和50年に新築されたものです。

【楫取地蔵の由来】御本尊延命地蔵を楫取地蔵(かじとりじぞう)という由来を申しますと、慶長七年秋の頃山内家初代一豊公が室戸の沖で暴風雨に遭い困難いたされた時、何処からともなく大僧が現れ船の楫を取って御船は無事室津の港に入港する事が出来た。ほっとした所で先程の大僧の姿が見えないがともあれ探して津寺へ参詣してみると本尊地蔵菩薩の御体が濡れており、大僧が本尊地蔵菩薩であった事がわかった、之より本尊が楫取地蔵と申し伝えられるようになりました。この霊験記は、旧記南路史に明記されて居ります。 
また今昔物語には「地蔵菩薩火難ニ値ヒ自ラ堂ヲ出ルヲ語ル」第六として津寺の本堂が火難に遭った時、本尊地蔵菩薩が僧に身を変えて村人に知らせ、火難を逃れたという物語が出ており古くは火事取りの意味でも、かじとりじぞうと呼ばれております。


○室津港と一木権兵衛(web収集、昔話より)

その昔より室津港は、数次にわたる改修がなされて参りましたが、最も本格的な工事は、一木権兵衛が二度目の普請奉行を務めた、延宝五年の改修でございました。
 大変な難工事で、港口の 斧岩、鮫岩、鬼牙岩の三岩が、人力を全く寄せ付けませんでした。
工事の遅れに切羽詰った権兵衛は、海神に向かって「此役成に至候は、我命則牲と成て君に捧げん」と誓った。
 するとふしぎなことに、岩は砕け散り、辺り一帯は血の海となりました。
 翌日報告のため高知に向かった権兵衛が、浮津の浜まで参りますと、急にからだがしびれ、一歩も進めません。
室津へ帰ると、不思議なことにしびれはなおるのでありました。
 あくる日同じことを繰り返した権兵衛は、海神に命を捧げるときがきたことを悟り、翌日港の上の石登崎において、自らの命を絶ったのでございます。

○「今昔物語」第十七巻

地蔵菩薩値火難自出堂語 第六

 今昔、土佐の国に室戸津と云ふ所有り。其の所に一の草堂有り。津寺と云ふ。
其の堂ののきの木尻皆焦れたり。其の所は海の岸にして、人里に去て通ひ難し。
 而るに、其の津に住む年老たる人、此の堂ののきの木尻の焦れたる本縁を語て云く
「先年に、野火出来て、山野悉く焼けるに、一人の小さき僧忽に出来て、
此の津の人の家毎に走り行きつゝ叫びて云く『津寺、只今、焼け失なむとす。速に里の人皆出て、火を可消し』と。
津の辺の人、皆、此れを聞て走り集り来て津寺を観るに、堂の四面の辺りの草木、皆、焼け掃へり。
堂は、のきの木尻焦れたりと云へども焼けず。而るに、堂の前の庭の中に、
等身の地蔵菩薩、毘沙門天、各、本の堂を出でゝ立ち給へり。
但し、地蔵は蓮花座に不立給ず、毘沙門は鬼の形を不踏給ず。
 其の時に、津の人、皆、此れを見て、涙を流して泣き悲しむで云く
『此の火を消つ事は天王の所為也、人を催し集むる事は地蔵の方便也』と云て、
此の小さき僧を尋ぬるに、其の辺に本より然る小さき僧無し。
 然れば、此れを見聞く人『奇異の事也』と悲び貴ぶ事限り無し。
其より後、其の津を通り過る船の人、心ある道俗・男女、此の寺に詣でゝ、
其の地蔵菩薩、毘沙門天に結縁し不奉ずと云ふ事無し。」
 此れを思ふに、仏菩薩の利生不思議其、其の員有と云へども、
正く、此れは、火難に値て、堂を出でゝ庭に立給ひ、或は小さき僧と現じて人を催て火を令消むとす。此れ、皆、有難き事也。
 人専に地蔵菩薩に仕るべしとなむ語り伝へたるとや。