お気楽、お四国巡り お四国の仏様

お薬師さん、それってメスですか。七仏薬師如来。赤字は調査中

 

「ここの駐車場、わかりにくいね。
境内へ止めれたことないよ、はは。
ナビが案内しないんだよね。」
「どっちも方向音痴だからでしょ。」
「ど、どっちって、どっち。」
「わかってるでしょ、ふふ。」
「おっ、今日は本堂が開いてますよ。」
「あっ、ほんとだ、めずらしいね。」
「おまもりでもゲットしちゃおうかな、ふふ。」
「そのまえにおつとめだね、はは。」

・・・・・・数十分後。

「何にしようかな、なに?。」
「それより、ここの仏様、いったい何体いるの?。」
「七体でしょ。」
「えっ、薬師如来が7体?。
なんで、なんでー、分身したの?。」
「・・・・・・・、薬師さんの浄瑠璃世界まで、6つの世界があるみたいよ。」
「えー、7つめに薬師さんがいるんだね、遠いよ。」
「・・・・・・・、見たこと無いからわかりません、ふふ。」
「・・・・・・、小さいヤツもいるよ。
うう、何体?。
薬師如来がメインだから、小さいヤツはおまけだね。」
「おまけじゃないでしょ、薬師さんの家来でしょ。」
「あっ、十二神?、それと見た目からしたら、四天王かな?。」
「家来のオンパレード、そろい踏み。」
「えっ、ちょっと待って、あれなに、なに?。」
「はー、何か変なもの、また見つけちゃった?。」
「あれあれ、薬師さんって、いつも持ってるの、薬壺とかホラ貝じゃないの?。
なんで、剣もってるの?。」
「・・・・・、薬師さん、お医者さんだから、あれで執刀するんじゃない。」
「えー、メ、メス?。
で、でかすぎない?。
な、何切るの?。」
「あんたの、二枚舌でしょ。」
「えー、ウソ付いてませんよ。」
「いつも道が違いますよ。」
「それは、方向音痴だからだよ。」

阿波の17番井戸寺。
ここは薬師如来がお迎えです。
だけど、普通の薬師さんとは違います。
なんと、6変化?7変化?しています。
正確には、7体の薬師さんでした。
薬師如来の分身または別仏が6体と言うことでしょうか。
その中で、一番びっくりしたのが,利剣を右手にもっている薬師さんでした。
この時点で,利剣というものをしらなかったからでした。

○七仏薬師(しちぶつやくし)

この札所のお薬師さんは、元禄年間(1688-1704)ころのもの。
真ん中に一体、両脇に三体の配置しています。

○焼け残った。

昭和43年に本堂が全焼したとき、
唯一焼け残った、向かって一番右側にあったものを、中心にしたそうです。

解説書によって記載が違う

・NHKの書籍によると

金色の無憂最勝吉祥王如来を中心にしているそうです。

・へんろ(伊予鉄発行)によると

薬師瑠璃光如来のみ助かったのを中心にしているそうです。

○手に持っているもの

薬師如来の基本中の基本は、右手に薬壺(やっこ)を持っています。
7体ともそれぞれの手に,何かしらのものをもっていますが,
見た時の記憶でメモしておきます。

向かって
左右の手に
向かって左 真ん中 向かって右
真ん中 真ん中
本堂 花? 薬壺 利剣 薬壺 諸手を
あげている
手を
あげる
薬壺 薬壺 両手に
仏舎利?*1
両手で
薬壺*2
白黒お姿 真ん中 真ん中 真ん中
諸手を
あげている
薬壺 手を水平 両手で
薬壺
薬壺 利剣 薬壺
カラーお姿 真ん中 真ん中 真ん中
両手で
薬壺

*1 形が違う,仏舎利なのか?
*2 形が違う? 宝塔 弥勒菩薩が持っているものと同じ?
お姿は白黒,カラーがありますが,不鮮明なためよくわからず

〇諸宗仏像図彙(ぶつぞうずい) 著者 土佐秀信(紀秀信)より

七仏 薬師如来を調べていたら,すごく近い。
本堂と同じ並びにしてみたのが,これ(PIN形式で開きます 2MB)です

    向かって左 向かって右
善名称吉祥王如来 手をあげる 薬壺
宝月智厳光音自在王如来 手をあげて,薬壺が載っている 宝珠
金色宝光妙行成就王如来 宝珠
無憂最勝吉祥王如来 手をあげて,薬壺が載っている 手をあげる
法海雲雷音如来 利剣 薬壺
法海勝慧遊戯神通如来 手を水平にし手の上に,薬壺を載せている 手を水平にし横に出す
薬師瑠璃光如来 両手で宝珠ほ持つ

○縁起

「四国遍礼霊場記」寂本より
 
 此寺又は井戸寺といふ、里の名によるときこへたり。大師の御建立或は聖徳太子、行基ぼさつともいふ、むかしの事なればさだかならず。むかしの本尊は長八九尺なりけるが、風光野霧にをかされ、身分そこねさせたまひて、漸くみぐしばかりぞ残りてあり。いまの本尊大師の御作、坐像五尺なり。両脇士日・月光及び四天王あり。
 鎮守八幡幷に楠明神の社ならべり。此寺むかし盛し時は三町四方の境内也。いまに坊舎の跡十二三所あり。今の門外池中には弁財天祠あり、相つゞき塔やしきあり、同所に若宮あり、今も境内壱町余かこめり。修行千竿の一旧区なり。

○よく見かける薬師如来

薬師如来の光背に、六つの薬師如来の化物、別仏、分身を配置するのが普通です。

○脇侍、眷属

脇侍・・・日光菩薩(向かって左)、月光菩薩(向かって右)。
周囲・・・十二神将、四天王。


○疑問

・なぜ七佛なのか?。

ここで薬師如来が必要とされた理由、そしてなぜ七体の薬師如来の状態で奉ったのかわかりません。

・造形

如来の造形は何を元に描かれているのか?。
また、お姿と実物が違うのはなぜ?。

・この札所には、他の七仏(阿弥陀如来)があった?

薬師如来の光背に、七仏を配置するものがあるように、
阿弥陀如来の光背に、七仏を配置するものもあります。
(阿弥陀と七仏だと、六観音+阿弥陀如来=七仏?。


○十二大願

1 光明普照 自らの光で三千世界を照らし、あまねく衆生を悟りに導く。
2 随意成弁 仏教七宝の一つである瑠璃の光を通じて仏性を目覚めさせる。
3 施無尽仏 仏性を持つ者たちが悟りを得るために欲する、あらゆる物品を施す。
4 安心大乗 世の外道を正し、衆生を仏道へと導く。
5 具戒清浄 戒律を破ってしまった者をも戒律を守れるよう援ける。
6 諸根具足 生まれつきの障碍・病気・身体的苦痛を癒す。
7 除病安楽 困窮や苦悩を除き払えるよう援ける。
8 転女得仏 成仏するために男性への転生を望む女性を援ける。
9 安心正見 一切の精神的苦痛や煩悩を浄化できるよう援ける。
10 苦悩解脱 重圧に苦しむ衆生が解き放たれるべく援ける。
11 飲食安楽 著しい餓えと渇きに晒された衆生の苦しみを取り除く。
12 美衣満足 困窮して寒さや虫刺されに悩まされる衆生に衣類を施す。

○七難即滅、七福即生

七難即滅、七福即生。形で見たいから神様になって登場、七福神。  へリンク


○天台宗?

天台密教では、息災や安産を祈願するために、
七仏の薬師如来を使った、修法があります。
お経は、七仏本願功徳経(七仏薬師法)だそうですが、
もっぱら、仏画を使用したそうです。

○出典

薬師瑠璃光如来の浄土(東方浄琉璃国土)に至まで、6つの浄土(国土)あり。
本願・・・・・「薬師瑠璃光七仏本願功徳経(七仏薬師経)二巻」義浄訳(景竜元年(707))
尊容・・・・・「薬師瑠璃光七仏本願功徳経念誦儀軌二巻」沙?巴訳
中心になる仏様は、釈迦如来になります。

番目 浄土(仏国土) 教主 大願
光勝国土 こうしょう 善名称吉祥王如来 ぜんみょうしょうきちじょうおう 身黄 無威
妙宝国土 みょうほう 宝月智厳光音自在王如来 ほうがつちごんこうおんじざいおう 施妙
円満香積国土 えんまんこうしゃく 金色宝光妙行成就王如来 こんじきほうこうみょうぎょうじょうじゅおう 説法
無憂国土 むう 無憂最勝吉祥王如来 むゆうさいしょうきつしょうおう 三昧
法幢国土 ほうどう 法海雲雷音如来 ほうかいうんらいおん 説法
善住宝海国土 ぜんじゅうほっかい 法海勝慧遊戯神通如来 ほうかいしょうえゆげじんつう 説法
浄琉璃国土 じょうるり 薬師瑠璃光如来 やくしるりこう 十二 施妙

*赤字が下記にあげている、「北斗七星延命経」と違うのは、なぜ?。
六観音の区別と同じように、天台密教系と真言密教系での解釈の仕方が違うのか?。


○天台密教と北斗七星?。

天台密教と七があれば、北斗七星かなと思っていたら、
「北斗七星延命経」には、北斗七星の本地は七仏薬師として配置したそうです。

⑦-⑥-⑤-④       ①
          \    /
           ③-②

①南無貪狼星。是東方最勝世界運意通證如來佛
②南無巨門星。是東方妙寶世界光音自在如來佛
③南無祿存星。是東方圓滿世界金色成就如來佛
④南無文曲星。是東方無憂世界最勝吉祥如來佛
⑤南無廉貞星。是東方淨住世界廣達智辨如來佛
⑥南無武曲星。是東方法意世界法海遊戲如來佛
⑦南無破軍星。是東方琉璃世界藥師琉璃光如來佛

○天台密教と北極星と井戸寺

「瑠璃山 真福院 井戸寺」
聖徳太子作、七仏薬師如来坐像
弘法大師作、十一面観音像立像(右手に錫杖、左手に蓮華を挿した水瓶)
から関連づけたら、

北極星=妙見菩薩(北辰菩薩)=十一面観音
聖徳太子=北斗七星剣

なんですけどね。


◎七仏薬師法が、文献?に登場するもの。

○平家物語(Webより収集)

平家物語巻第三 三御産巻

 二人は鬼界が島を出て、成経殿の父・教盛殿の領地である肥前国鹿瀬庄に到着した。
教盛殿は京から人を送っており年内は波風も激しく、道中も不安なので、春になってから帰洛するようにと連絡があったので、成経殿は鹿瀬庄で年を越した。
 同・治承二年十一月十二日の寅の刻より、中宮が産気づかれたので、京中も六波羅も騒ぎになった。
御産室は平頼盛邸である六波羅の池殿なので、後白河法皇も御幸した。
 関白殿をはじめ太政大臣以下の公卿や殿上人など、世に認められ、昇進を望み、官職に就いている人の中に、参上しない人は一人もなかった。
 先例でも、女御・后の御産の際には大赦があった。
 大治二年九月十一日、待賢門院の御産のときも大赦が行われた。
 今回もその例同様に特別の大赦が行われ、重罪の者たちが多く許されていた中で、俊寛僧都だけが一人赦免にならなかったのだからひどいものである。
 御産が無事に終わり、皇子がご誕生になると、石清水八幡宮、平野神社、大原野神社などへ中宮が御礼参りなさろうと、願をかけられた。
 延暦寺の仙源法印が願書を承り、これを謹んで読まれた。
神社は伊勢神宮をはじめ二十余か所、仏寺は東大寺、興福寺、その他十六か所で御誦経があった。
 御誦経の使者は、中宮に仕える侍の中から官位を持った者が選ばれ、これを勤めた。
 美しい平文の狩衣に剣を帯びた者たちが、さまざまな御誦経物や御剣御衣を持って続き、東の対屋から南庭を渡って西の中門に出た。
見事な行列であった。
 重盛殿は例のごとく善悪について騒がれる人ではないので、しばらく経ってから、嫡子・権亮少将維盛以下公達の車を並べさせ、色とりどりの御衣を四十着と銀の剣を七振りを広蓋に置かせ、御馬十二頭を引かせておいでになった。
 これは寛弘年間、上東門院・藤原彰子御産の折、藤原道長殿が御馬を贈られた例にならったものであるという。
重盛殿は中宮の兄上であり父代わりでもいらっしゃるので、御馬を贈られたのも道理である。
また五条大納言・藤原国綱卿も御馬二頭を献上した。
忠誠心が深いのか、金が余っているのかと人々は言った。
また伊勢神宮から始めて安芸の厳島に至るまで、七十余か所へ神馬を奉納した。
内裏にも寮の御馬に御幣紙を付けて数十頭献上した。
仁和寺御室・守覚法親王は孔雀経の法、天台座主・覚快法親王は七仏薬師の法、三井寺の長吏・円慶法親王は金剛童子の法、そのほか五大虚空蔵、六観音、一字金輪五壇の法、六字加輪、八字文殊、普賢延命に至るまで余すところなく修法が行われた。
護摩の煙は御所中に満ち、鈴の音は雲を響かせる修法の声には身の毛もよだち、いかなる物の怪であろうとも立ち向えない雰囲気であった。
また仏前の法印に命じ、中宮等身大の七仏薬師と五大尊像を作り始められた。
それでも、中宮は絶え間ない陣痛に苦しまれ、御産も始まらない。
清盛入道と中宮の母・時子殿は胸を手で覆い「ああどうしよう、どうしよう」とうろたえておられた。
誰かが何かを話かけても、ただ「ともかくも、よいように」と言われるばかりである「ああ、わしは、合戦の陣ならば、こんなに臆したりしないのに」と後に言われた。
御験者は房覚・性運の両僧正、春尭法印、豪禅・実専の両僧都がそれぞれ僧伽の句などを読みあげ、本寺・本山の仏や、普段所持している本尊たちに何度も熱心に祈られた
「さすがに効験があるだろう」と尊く思われていた頃、ちょうど後白河法皇は新熊野へ御幸することになっており、精進のついでであったので、中宮の錦帳のそばに座られ、千手経をお読みになると、様子が一変し、物の怪に憑かれてあれほど踊り狂っていた神子たちが、にわかに静まり返った
「法皇は」たとえいかなる物の怪だろうと、この老法師がいる限り、近づくことはできまい「中でも今現れている怨霊は、皆我が朝恩を受けて一人前になった者だ」たとえ感謝の心を持っておらずとも、どうして邪魔などできようか「すみやかに退くがよい」と仰せられ「女人が出産で苦しんでいる時につけこんで邪魔が入り、苦しみは耐え難かろうとも、心を込めて大悲呪を唱えれば、鬼神も退散して、安産となろう」と千手教を読まれ、皆水晶の数珠を押し揉まれると、安産となったばかりでなく、お生まれになったのも皇子であられた当時まだ中宮亮でいらした本三位中将重衡卿が御簾の内よりさっと出て「安産でした、皇子のご誕生です」と高らかに告げられると、法皇をはじめ、関白松殿・藤原基房、清盛入道以下、公卿や殿上人、各助修の僧、陰陽寮長官、数人の御験者、また屋敷内外の者まで一同にわっと上げられた歓声は門外まで響き、しばらく静まることもなかった。
清盛入道は嬉しさのあまりに声をあげて泣かれた「嬉し泣きとはこのことを言うべきか」重盛殿は急いで中宮のそばへ寄り、金銭九十九文を皇子の枕元に置かれて「天をもって父とし、地をもって母とされよ」御命は仙人や漢の東方朔ほどの長寿を保ち、御心には天照大神が入れ替わられますようにと桑の弓と蓬の矢で天地四方を射られた。

○太平記(Webより収集)

太平記 巻第一

中宮ご出産の祈祷に関して、俊基の偽篭居のこと

元亨二年(1322年)の春頃より、中宮、禧子の御懐妊を願って祈祷が行われ、諸寺、諸山の貴僧や高僧に命じて、様々な大法、秘法と言われる修法が実施されました。
その中でも、法勝寺の円観上人と小野文観僧正の二人は特別に天皇より命を受け、皇居内に修法を行う壇を設け、中宮のそば近くで懸命に祈りを続けられました。
それらの修法は、仏眼、金輪、五壇の法、一宿五反孔雀経、七仏薬師熾盛光、烏蒭沙摩、変性男子の法、五大虚空蔵、六観音、六字訶臨、訶利帝母、八字文殊、普賢延命、金剛童子の法などであり、焚かれる護摩木の煙は室内に充満し、打ち振る金剛鈴の音は、周りの御殿に響き渡り、これではいかなる悪魔、怨霊と言えども、邪魔をすることなど出来ないと思われました。
このように修法を続け、日を重ねて祈祷に力を注いで来ましたが、三年が過ぎても懐妊の兆しは見られませんでした。
後になって、事情を聞いてみると、あれは関東鎌倉政権を倒すのが目的であり、中宮の出産祈祷に名を借りて秘法、修法を行ったと言う事でした。
これほどの重大事を企画したからには、諸臣に意見を聞こうとしましたが、あまり多くの者に事情を知られては、かえって武家に気づかれる危険もあろうかと、ためらっていたので、物事を深く考え、また知恵も持ち合わせた老臣や、そば近く仕えている人達にも、相談される事はありませんでした。
ただ日野中納言資朝、蔵人右少弁日野俊基、四条中納言隆資、尹大納言師賢、平宰相成輔らだけにはひそかに相談され、それ相応の兵を集めようとしました。
それに対し、錦織の判官代、足助次郎重成それと南都(主に興福寺)、北嶺(延暦寺)の僧兵らの一部が朝廷の命に応じました。
相談を受けた、蔵人右少弁俊基は、代々朝廷における儒学担当の家系を継ぎ、その学業も優秀であるから、官職もそれなりの地位を勤めて太政官まで上り、職務に励んでいました。
そのため仕事が忙しくて、とても相談を受けた策略を考える時間などありませんから、ここは何としてもしばらくは家にこもり、謀反の計画を立てようと思っていました。その頃、延暦寺横川の衆徒らが、訴訟の趣旨を書いた書状を持って、皇居に訴え出ると言う事件がありました。
俊基はその書状を開いて読みましたが、間違えて読んだ振りをして楞厳院(りょうごんいん)を慢厳院(まんごんいん)と読みました。
その場に居た諸卿らはこれを聞き、目を合わせ、「それだったら、相の字は偏に使っても、旁に使っても”もく”と読まなければ」と、手を叩いて笑われたのでした。俊基は大いに恥を掻いた様子で、顔を赤らめて部屋を出て行きました。
それ以来、あのような恥辱に逢い、篭居したいと皆に申し出ると、半年ばかり出勤せず、山伏の姿に身を変えて、大和、河内などに行き、城郭に適した場所を調査した上、その後東国、西国にまで足を伸ばし、それぞれの国の風俗、習慣と、支配する人や住む人の財力、知力などの程度を調べあげました。