8,祇園会「山鉾風流」の成立



目次

A,山鉾風流のはじまり

B,祭礼料の負担の変遷

C,山鉾風流を支えた人々

狂言『鬮罪人』にみる町と風流

 


 

 京都の三大祭りの中でももっとも華やかなのはなんといっても祇園祭であろう。葵祭が朝廷の祭礼、時代祭が明治にできた時代行列、といった感がするのに対して、祇園祭は何といっても京都の町人の祭礼である(もっともその地域はすでに述べたように中京区下京区の一部に限られるが)。そしてその花形が山鉾である。七月十六日の宵山とそれにつづく十七日の山鉾巡行が何といっても祭のハイライトになる。祭礼の端緒であり中核であったはずの神輿の渡御・還幸は、現在も行われるものの、山鉾の影になってあまり目立たなくなってしまった。
 しかし、この「山鉾風流」(現在の山鉾巡行中心の祭礼をこのように通称する)は、室町時代になって、当初からあった神輿渡御を中心とする神事に新たに追加されて興された行事であった。その成立の背景には、京都の商工業に従事する都市民の成熟とその支持のあったことが指摘されている。それはたとえば、天文二年(1533)の祇園会の時、延暦寺の横槍によって祇園会の神輿の渡御(神幸祭)が中止になったとき、「神事これなくとも山鉾渡したし」と下京六十六町の月行事(がちぎょうじ)たちが、山鉾の巡行だけは行いたい、と訴え出たことからも想像できる。
 ここでは、祇園会の山鉾風流がいつはじめられたのかをまず確認し、さらに実際にどのような組織と財政基盤で祭礼が維持されようとしたかを考えることによって、祭を支持してきた勢力がどのへんにあったかを推測してみたい。



A,山鉾風流のはじまり


 山路興造氏によると、祇園会の鉾風流の初見は『花園天皇宸記』(はなぞのてんのうしんき)元亨元年(1321)七月二十四日条の、伏見殿負態(まけわざ)の風流(賭事で負けた方が芸能をして見せる)として、参議以下が御霊会の儀を模して「桙衆」として舞曲を施した、というものである。これは祇園会の記事そのものではないが、すでに当時の祇園会には「桙(ほこ)」と称される風流が行われていたことがわかる。山路氏も指摘するように、この桙は後によく行われた傘鉾のようなものではなく、まして現行の車の付いた大型の鉾に発展するまでにはまだかなりの時間を要するのであるが、それでも鎌倉時代末期のこのころ、すでに山鉾風流の端緒はあったことが確認できる。
 また一条兼良(140281)の撰と伝える往来物の『尺素往来』(せきそおうらい)には祇園会の風流について[史料35のように記した個所がある。
 室町初期には、ここにみえるように京都の西南に位置する山崎の油座商人を基盤とした「山崎之定鉾」や、のちの西陣につながる織物商人の大舎人座(おおとねりざ)を基盤とする「大舎人之鵲鉾」をはじめとして、「処々跳鉾」「家々笠車」、それに「在地之所役」といわれる地域を地盤とした風流が行われていたことを知る。おそらくはこの「在地之所役」こそが、「町人」の調進するのちの山鉾風流につながるのであろう。
 ところで、先に述べた天文二年(1533)の祇園会の延引の時、都市民は「神事」すなわち神輿の渡御がないにもかかわらず、自分たちの経営する山鉾風流の実施を求めた、というふうに理解できるが、こうした山鉾単独経営はこのときが最初ではなかった。[表1]を見ていただきたい。
 一見してわかることは、鎌倉末期から室町前期に至るこの時期、延暦寺の訴訟により、その末社である祇園社の祭礼としての祇園会は、たびたび延引、もしくは中止されたという事実である。山鉾風流の発達は、こうした祇園会の頻繁な中止延引の時期と重なっているのである。さらに、神輿渡御と山鉾巡行の関係についてみてみると、神輿の渡御が行われていない場合(すなわち神事がない場合)でも、山鉾の巡行のみが行われた場合がかなりあることがわかる。
 もう少し詳細に検討してみると、神輿渡御のあったときの山鉾の遂行状況はどちらかというと簡略化され(表では○■の関係)、反対に神輿が延引もしくは中止されたときに限って山鉾は盛大に巡行がなされている(表では×□の関係)という事実に気がつく。いくつか例をあげるなら、貞治六年(1367)の祇園会は、神輿迎えは例の如くあったが、「鉾」は「冷然」(冷ややかなさま)で「作山以下」はなかったといい、反対に永和四年(1378)の場合は、造替がなく神輿はなかったが「しかれども鉾は之を結構」し、将軍義満が桟敷で見物したという。この傾向ははたしてたんなる偶然であろうか。
 祇園会は、山鉾が祭列に加わる以前の、神輿を中核とする祭礼の時期から、常に京都の都市民の主導によって執り行われ、発達していたが、そうした都市民にとっては、延暦寺の訴訟による祭礼の抑留は横暴に映ったであろう。公的な祭礼の延引や中絶が、私的な風流をもって、自分たちだけでも祭をしようという気概を都市民に作らせたのではないか、と考えるのはそれほど的外れではないだろう。もう少し踏み込んでいうなら、都市民が負担する祭礼料を、神輿渡御のないときに限って奉斎の山鉾風流に充てたことは、きわめて自然であろう。
 しかし都市民だけの力で、延暦寺のような寺院勢力に対抗して、神輿の渡御なしにかくも盛大な山鉾風流を興すことは難しかったであろう。そこにはおそらく室町幕府の保護と介入があったのではないか。室町幕府の将軍は、早くから祇園会に際しては、七日の神幸、十四日の還幸ともに、大名が構える下京の桟敷に渡御して山鉾を見物することを恒例としていた。あるいは風流のひとつである舞車が室町殿に参上するということもあった。しかし幕府と祇園会の関係はこうした表面的な親密さだけではない。後醍醐天皇が神器を奉じて近江坂本へ行幸、入れ替わって足利尊氏が入京し、南北朝対立が決定的となった建武三年(1336)、その影響で祇園会は十一月になって行われた。このとき尊氏は、おそらく南朝を支持する延暦寺に対抗する意図であろう、祇園会の神輿渡御神事の重要な部分を占める下居神供(下居神供神人の供えるべき御供)の料足三貫文を下行して、これを保護している。また、貞治三年(1364)の祇園会は、延暦寺の訴訟にも関わらず、幕府の介入によって神輿の旅所への神幸が強行された。この時、三基の神輿のうち少将井神輿が渡御する途中で、宮主(みやじ)法師(祇園社に属して雑役を奉仕する法師)が武家小舎人によって殺害されるという事件が起こった。神人は神輿を振り捨てて退散してしまったので、所司代が被官をもってこれを旅所へ舁き入れたという。また還幸時にも喧嘩が起こり、死者が出たのであるが、けっきょく「侍所所司代土倉勢」が甲冑を帯し、若党が神輿を舁いている。幕府はやがて、明徳四年(1393)には「洛中辺土散在土倉并酒屋役条々」を発令して、京中の酒屋土倉(さかや・どそう)に対する支配を完成することになるのはよく知られているが、この祇園会の神輿渡御を護衛した「土倉」は、幕府の配下にあった土倉たちということになるだろう。たとえ臨時的なものであっても、神輿を舁く勢力として、この時土倉が動員されたことは注目してよいと思う。



B,祭礼料の負担の変遷


 少し後のことであるが、永正八年(1511)の祇園会は、日吉祭の遅延によりこの年の十二月になってようやく行われることになった(祇園会は日吉祭のあとに行われるのが先例であった)。その際、下京の地下人が、年末に山鉾を調進することは難儀である旨を嘆いたので、幕府はその「失墜料」(風流が行えないことに対する詫び料)を祇園社に納めることを、奉行人奉書をもって「祇園会敷地地下人」に命じた。あるいはこれより少し前の文亀元年(1501)には、近年神事を奉仕する馬上役の中絶により、その再興についてこの役料を「当社敷地に相懸け」たという。
 この「失墜料」を命じられた「祇園会敷地地下人」という場合の「敷地」や、馬上役の不沙汰を補填して「当社敷地に相懸け」たという場合の「敷地」は、祭礼や馬上役に関連した文脈から考えて、先に述べた(5.京都の祭礼)京都における祭礼方式である「敷地役」のことを指していると考えられる。敷地役とは、勢力交替などによって祭礼を奉仕していた神人の経済力が衰えたあと、祭礼を維持するために、京中を各神社の祭礼奉斎区域に分割して当て、神事の奉斎者である旅所神主に、それぞれの定められた奉斎区域内から、富裕の都市民を馬上頭役に差定させて、祭礼料を負担させる、という方式である。その後、この馬上頭役はそれぞれの祭礼においてさらに他の祭礼徴収システムに替えられたと考えられるが、基本的に先の祭礼奉斎区域から祭礼料が集められた。そこでこれを「敷地役」という。
 そしてこの祇園会の山鉾「失墜料」や馬上役の補填は、具体的には山鉾の風流を調進する「町人」に対して課されたものにほかならなかったから(すなわち「祇園会敷地地下人」とは「町人」そのものであるから)、十六世紀はじめの「町人」の山鉾を調進するシステムこそ、祇園会における敷地役そのものであったことがわかる。
 稲荷祭の場合、この敷地役は馬上頭役町別制地口銭制というように変化していった(8,「町人」と町の成立、E「町」の成立)。そしてこの馬上頭役が最初に破綻したのは永仁七年(1299)で、地口銭が恒常的に実施されるようになったのは、永徳元年(1381)をそれほど遡らない時期であった。ところが祇園会の場合、馬上頭役が断絶した元亨三年(1323)以後、稲荷祭と同じような町別や地口銭が行われたという徴証がない。そして神輿渡御を中心とする神事の方は、応永三十二年(1426)を初見として、土倉の連合体である土倉方一衆が祭礼料を負担することによって維持されることになる。これが「馬上功程銭(こうていせん)」である。すなわち祇園会では、本来、神輿を中心とする祭礼行事(いわゆる神事)のための祭料徴収システムであったはずの敷地役は、奉賛的な風流にすぎなかった山鉾風流を維持するためのシステムに取って代わり、神輿の祭礼行事の方は新たに創設された土倉方一衆による馬上功程銭によって維持される、という二重方式になったのである。あるいは祇園会の場合では、敷地役が、馬上頭役制の後、山鉾風流の費用を捻出する「町」システムと、神輿渡御の費用を負担する馬上功程銭との二つに分化した、といい替えることもできる。この変遷をまとめると次のようになる。


【敷地役の変遷】

         稲荷祭  馬上頭役制町別制地口銭制
         祇園会  馬上頭役制「町」敷地システム(山鉾風流)
                    └→ 馬上功程銭(神輿渡御)

C,山鉾風流を支えた人々


 祇園会の山鉾風流を調進する主体はいわゆる「町人」であった。たとえば先に下京六十六町の月行事が「神事これなくとも山鉾を渡したし」と訴えたという天文二年の祇園会では、けっきょく「町人」の主張どおりに、山鉾巡行は神輿を中心とした神事なしに、単独で強行されたらしいが、八月になって正式に神事が行われた際、「下京町人等」は再度山鉾を調進することは困難である由、言上したという。これに対して幕府は、「山鉾なくてはしかるべからざるの条」(原漢文、以下同じ)と述べて、重ねて彼らに調進を命じたのであった。また、これより先、祇園会は応仁の乱によって三十年以上の中断を余儀なくされていたが、明応九年(1500)ようやく神輿の代わりに榊をもって神幸が行われ、山鉾風流も再興された。この時、山鉾の次第、すなわち山鉾巡行の順番について「町人」たちが争い、けっきょく侍所開闔(かいこう)の松田頼亮邸で鬮を取り、順番を決めたという。
 さらに、文亀元年(1501)の、馬上役の不足を山鉾等の費用でもって当てることが決められたという際、このとき出されたと推測される開闔の松田頼亮の書状によると、松田が、当てるべき「山之要脚員数之儀」(充当すべき風流山の数)については「町人」の希望に任せるよう、祇園執行に申し聞かせている。いずれの史料も、とくに十六世紀以降の山鉾風流は、「町人」たちによって自主的に調進されるものであったことを示している。
 この「町人」による山鉾風流は『尺素往来』の「在地之所役」に該当するものであることは、以前に述べたとおりである。しかしここでいう「町人」がのちの、たとえば江戸時代でいうような、町組組織をもった地縁的共同体の住民である、とするまではいかないだろう。
 たとえば少し時代はさかのぼるが、永享九年(1437)正月のこと、幕府の命によって「町人」による女松囃子(おんなまつばやし)の風流が行われた。『看聞御記』によると、この「町人」は、「三条町人」とか「六角町」と記されるように、一見すると地縁で結ばれているようにみえる。しかし実際は「六座寄合」とか「五方寄合」との注記があって、商業座の座人で組織されたものであった。『東寺執行日記』では、より具体的にこの座職業を列挙している。[史料36
 すなわちその座とは糸座・紺座・生魚座などの商業座であった。つまり「町人」とは具体的には商業座の構成員であって、都市民はいまだ地縁的な結合よりも、身分的な「町人」同士の結びつきの方が強かったことを示している。
 この女松囃子を興行した地域が、祇園御霊会の山鉾風流を出している地域と一致していることを考え合わせるなら、山鉾を経営した「町人」もまた松囃子の主体である「町人」と同様、商業座の構成員と考えてよいであろう。『尺素往来』に「在地之所役」とともにあげられた「山崎之定鉾」や「大舎人之鵲鉾」が、油座や織物座を基盤とする風流であったことは先に指摘したとおりである。しかし「町人」の主催する山鉾の風流も、実際は「在地之所役」といわれるような地域の賦課をとりまとめることがあったにしても、程度の差はあれ商業座をおおきな基盤としていた、という意味では同じ性質をもっていたのである。



狂言『鬮罪人』にみる町と風流


 祇園会風流を出す室町時代後期の、京都の町の実際を示すものとしてよく知られたものに、狂言の『鬮罪人』(くじざいにん)がある。京都の下京に住むある者(主)が、当年の祇園会の頭(とう・当番)になったので町の人々をよび、山の風流の趣向を相談する。主や寄合の衆がいろいろ案を出すたびに、主の従者である太郎冠者が、それは「毎年定まって出る町」があるとか、去年あったが調子が揃わずに洛中洛外の笑いものになったとかいうので、いっこうに決まらない。そこで今度は太郎冠者が、賽(さい)の河原で鬼が罪人を山へ責め上り責め下すところ、という風流を提案して、それに決まってしまう。さて皆で役割を鬮で決めることになったが、ひとつ余ったので太郎冠者にも引かせることにする。ところが太郎冠者が鬼の役を引き、主が罪人の役を引いてしまった。そこで鬼になった太郎冠者はここぞとばかり、日頃の鬱憤を晴らして罪人の主を打ちのめす、という筋である。無能にもかかわらず日頃威張っている主人と、有能な従者とが、その地位を逆転してしまう、という風刺のきいた狂言である。
 その『鬮罪人』の中で、太郎冠者は主に命じられて、寄合の衆を呼びにまわるのであるが、現行の狂言のもとになっている大蔵虎寛本(寛政四年)の本文によると、誰の所から参ろうと思案した太郎冠者は、「イヤ、下の町の誰殿が近い。是へ参ろう」と言い、まず「下の町」へ参っている。本文によると主の家は「上の町」にあったらしいから(「下の町」は、同じ下京でも祇園祭のいわゆる先の祭−神幸祭の六月七日に巡行する山鉾の祭−の風流を出す町々、「上の町」は同じく後の祭−還幸祭の六月十四日巡行する山鉾の祭−を出す町々と考えられる)、この寄合の構成員は、現在の山鉾町のように両側町の同じ住人ではなく、下京中に散在して住んでいたことになる。つまり、山鉾風流が同業者集団である座から調進されていた痕跡を示すのではないか。狂言というあくまで演劇上の話なので慎重でなければならないと思うが、あながち虚構だとはいい切れない。



 

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