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5 生きることと文化

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 嵯峨の土倉、角倉了以が、慶長11年(1606)に保津川に高瀬舟を運航できるようにして丹波国の物資を京都へ運べるようにしたり、それにひきつづいて慶長19年(1614)、鴨川の西に高瀬川を開削して、伏見・京都間の物資の流通と人の往来を簡便にしたことは、その遺跡が今なお残っていることから、京都の人にとっても親しみのあるできごとといえるでしょう。さらにその子与一(素庵)が、嵯峨本(光悦本)といわれる日本の古典の出版事業を行ったことも比較的よく知られています。むかしの豪商は、たんなる金儲けではなく、社会貢献の意義を考えた規模の大きいプロジェクトをした、ということでしょうか。

高瀬川一の船入り

 嵯峨本は、当時の有名な絵師俵屋宗達筆と伝承される花鳥文様を雲母(きらら)刷りにした料紙に、これまた流麗な本阿弥光悦筆という字体を木活字にした豪華本として知られてます。しかしそれ以上に、この出版の意義は、それまで墨と筆による写本によって、なかば相伝のようにしてしか伝えられてこなかった古典が、正確な底本と学識のある校訂者の手を経て、出版という形で多くの人に提供されるようになった、ということにあるでしょう。

 たしかにその読者は、京都の一部の富裕な商工業民に限られたかも知れませんが、その与えた影響はとても大きなものがあったと思います。というのは、扇や硯箱、着物や陶器に代表されるような工芸品に関わる仕事に従事していた彼ら都市の人々は、古典の知識を前提にしてデザインし、美意識を高めて、質の高い作品を作り、それを売ったからです。それは、もともと古典の知識に精通した公家衆、それに彼らと交流する上層の都市民が顧客だったからで、鑑賞者の眼が肥えれば、製作者の感性もさらに研ぎ澄まされる、といった相乗効果がより洗練された作品を生み出すことになったのです。

 たとえば、本阿弥光悦作に「舟橋蒔絵硯箱」(現東京国立博物館蔵)という有名な作品があります。こたつのようにこんもりとした形の独特の意匠をした金蒔絵の硯箱で、川に浮かんだ数艘の蒔絵の船を横切るように鉛の板が橋に見立てて延べられています。そしてそのうえから『後撰和歌集』の「東路の佐野の舟橋かけてのみ 思ひわたるを人ぞ知る」の歌が蒔絵にのせられています。この和歌は恋の歌で、「東路・・・・舟橋」まではいわゆる序詞で、「かけてのみ」を引き出すための意味のない文句ですが、その東路の牧歌的なイメージが恋の歌に長閑なイメージを与えているのです。その意味のない序詞の舟橋の方を、光悦は実際に硯箱に造形してしまいました。そして『後撰和歌集』の和歌を上にのせることで、恋のロマンティックな感覚を与えることに成功したのです。た。つまり和歌の序詞の修辞法の逆手をいったというわけです。

このように、町衆の作る工芸品の背景にはたえず王朝の和歌の美意識があります。ですから、嵯峨本の出版は、かなり戦略的で、かつ社会的な衝撃も大きかったはずです。その衝撃度は、情報慣れした現在の状況とはまったく違います。つまりそれだけ京都の都市民は、知識に飢えていたわけですが、それはひとつには古典の知識と美意識をもつことが、すなわちそのまま生活の糧になったという時代背景もありました。※

 

 ※現在では、観光や情報はお金になるからたいせつになってしまっています。それは順序が違います。あくまで人間の価値観が基礎になって、そのうえに観光や情報は意味をもちます。反対に観光の仕掛けと情報の操作が人を動かしている嫌いさえあります。

 もう一度、個人の経験の価値を逆転させて復活させる必要があります。真にひとりひとりの自覚をもった個人の価値を復活させてください。観光産業と情報に使われるのではなく、使う立場の自分を回復しましょう。

 言葉はかんたんですが、それはなかなか難しいことです。多くの無駄な経験を重ねないと自分は確立しません。先にわたしは、少しマイナーな仏像の名前をあげて好きだと言えるようになるのが、オシャレだといいましたが、わたしなら醍醐寺にある平安時代の閻魔天像を挙げます。とくに、わたしはその閻魔天が乗っている牛が好きです。閻魔天像の後ろに一緒にこっそりと乗ってみたい衝動に駆られるぐらいです。知っている人は少ないのですが、そのあと言われてこの像を見た人はだいたい納得してくれます。それは閻魔天像の美しさを表明しているのですが、同時にわたし自身の個性を表明したことになります。個性は最初からあって好き嫌いが決まるのではなく、実は反対で、好きなものができて、自分らしさというものができるのです。知識と見聞の経験を、自分との関係で体系化することが、生き方を決めるということにつながります。ひとつひとつ自分の好きなものをたくさん発見することで、自分を確立するのです。

 歴史と文化を探求することで、自分を発見し、これからどのように生きていくのかを考えるきっかけにしてください。

 

 

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